宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「娑婆鏡」

2007年02月18日 | Weblog
先日掲載させて頂いた、死者の生前の行いを
裁く時の様子を書かれた台湾の仏教修行者の
方の「極楽」に関する描写の一部です。
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「一切是空、無欲無心の仏性から見れば、
道端の石ころも宝石も、大した差別がない。
極楽浄土では、金銭を使って物を買う必要も
なかれば、金を使う事も出来ないので、たとえ
高価なダイアモンドでも、金銭価値と交換価値が
ないために、宝石ではなくなってしまうのだ。」

「ある日、天国から迎えの列車が来て、多数の
喜ぶ人を乗せて行ったのを見た事がある。
そのまま天国に居留まる者もいれば、天国で
"再生浄化"の処理を受けて、再び娑婆に出生して
誰かに生まれ変わるのが、大多数と聞いている。
"再生浄化"の処理は娑婆と極楽浄土における
記憶と思い出を完全に洗い流す事である。」

「(仏教の)天国の役人は、過去、娑婆において、
平和と公益のために尽くした善良な人が多い。」
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一般通年では、極楽浄土は様々な宝玉より作られた
宮殿や並木が見られ、死後極楽浄土に行くならば
二度と人間に転生する事はなくなるとされていますが、
この方は「極楽浄土」と「涅槃」は全く異なる
という前提のもとに、全く正反対である、極楽浄土の
「宝玉なく転生あり」のこうした現実を「見た」と
報告しました。

この"再生浄化"に関する続文は、それまでの
その人のパーソナリティや煩悩なども必要によって
記憶と共に洗い流されて失うという解説となって
おり、浄土系仏教の説明とは全く違いますが、「転生」
というもののごく一端を示している様でもあり、
興味深く感じました。

この報告の中で仏教の根本というものが端的に書かれて
います。
「仏教とは、自分を救い、他人を救わなければならない
宗教である。」
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