宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「一つの八正道の解釈」

2009年02月11日 | Weblog

(画像はクリックされましたら拡大します。)


昨日一つのニュースに対するコメントを読んでいて、「今の
テレビは悪口ばっかりで、見ていれば性格が歪みそうだ」
という言葉を見つけました。

日本のテレビはもうずっと見ていないのでわかりませんが、
日本の雑誌や本なども娯楽性・大衆性の追求が最優先で、
心の勉強をする、精神を養うという方面には全く向かって
いないので、恐らくその意見は事実ではないかと思いました。
でもそうであれば、そうしたものばかりを当たり前として見て育つ
子供や学生は、一体どんなに大人になるのだろうかと、心配になります。


かなり前に十代の学生を対象にした、仏教の「八正道」の解説の一つを
こちらで書かせて頂きましたが、今回は別のものを抄掲させて頂きます。
その本はいわゆる「守護霊」というものに関連させて書かれた本なので、
その言葉が沢山出てきますが……この辺りは個人で自由に解釈を
すれば良いのだと思います。

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①まず最初は、この世の全てのものを正しく見る事からはじめる。
「正見」と呼ばれる。
これは曇りのない澄んだ目をもつ事であり、良心の目で世の中を見る事である。

そしてこの目は純粋に客観的な目だが、決して冷たくはない。
人も自分も共に幸せであれ、と願う目だからだ。
良心の目は、人が何をしたかという事を裁くのではなく、自分が何をしたかを
問うのである。

死が迫ってくると、本当に心が客観的になる人がいる。
あるアメリカの主婦は、死を目前にして、子供のような欲望のない心に返って
ふと自分の体を見ると、何千億、何兆という体の細胞の一つ一つが、この上も
なく美しく光っているのが見えた。
それはまさしく、愛情の輝きであったという。

その時、彼女はこう思ったそうだ。
「こんなに小さな細胞にも、こんなに美しい愛がある。
その愛の力が結びついて自分の体を作っていたのだ。
細胞たちよ、ありがとう。自分は幸せだった。」

もし、本当に澄んだ目で世の中を見るなら、それが愛情の法則で成り立って
いるのを見るだろう。
それこそ、私達自身の守護霊の目なのである。
私達は「正見」によって、守護霊と一体化し、自分の真の姿に気づくように
なる。


………

②次は「正思惟」である。
これは正しく考える事だ。
自分の目が「正見」した事を、正しく判断する行いが「正思惟」なのである。
そこに正しい思いが生じる。
通常私達は、「思う」事に意識的ではない。
殺したいとは思ったが、実際は殺さなかったのだ、とかいうように、
人間の思いは目まぐるしく変化する。
低い次元の欲望を切り捨て、正しい意思を持とうと決意する事だ。


………

③そして「正語」である。
「初めに言葉ありき」と聖書にもあるが、言葉はその人の心である。
正しい言葉を使っていると、心まで正しく統一される。
この場合も、自分の守護霊に聞いてもらうつもりで話そう。
何気ない言葉が人を傷つけてしまう事がある。
よくよく考えれば、自分の心に驕りがあるのだが、中々そこに気づかない。
まず汚れた言葉を使わない習慣をつけよう。

議論もなるべく避けた方がよい。
一時の勝利を得ても、誰の幸福にも役立たない議論は多い。
自分のみが正しいと思う感情的な心は、思いもよらない言い争いを招いて
しまう。
そんな事をしても、何の得にもならないではないか。

美しい言葉は、美しい心を呼びさますものだ。
言葉を選んで話せば、自然に心が調和に満たされるのがわかると思う。
そうすれば、守護霊が自然に助けてくれる。

………

④「正業」。
これは正しい行いを心がけるという意味だ。
しかし悲しい事に、正義の名の下で正当化された悪意は、数限りない。
正義という虎の威を借り、自分の傷つかない所から人を攻めるほど恥ずかしい
行為はないのだ。

本当に正しい行いは、そんなものではない。
高級霊の心は、常に相手の幸福を望む思いやりで満ちているものだ。

群集を前にして、「汝らのうち、罪無き者まず石を擲(なげう)て」と
言い放ったイエスの行為こそ、真に「正業」と言えるだろう。
正しい行いと称して、自ら人に石を擲(なげう)つ人にならないで欲しい。

人は自分が正しいと思っている時ほど、人に思いやりを欠き易く、過ちを
犯し易いものだ。
行動を起こす前に、もう一度、自分の行動が本当に自分に幸福をもたらすか
どうか確認してみよう。

………

⑤「正命」。
これは正しい生活を意味している。
ただし、あれは良くない、これは駄目だ、といった減点法の生き方ではなく、
守護霊がいるから何でも上手くいく、と楽観的に考えよう。
自分は今日一日幸福であっただろうか、自分の周囲の人々は幸福であった
だろうか、自分は自分と周囲の人々の幸福のために何を為しただろうか、
そう振り返ってみる時、心には天界の叡智が流入し、心が更に浄化されて
いくのがわかる。

………

⑥「正精進」。
正しく道に精進する事を意味している。
まさに自分の心の善を見つめ、常に心を浄化していこうとする行為を意味
しているのだ。
心の声に耳を傾けてみよう。
心はいつもおしゃべりだ。
今嬉しいと思ったら、次には恨めしいと思っている。
つかみ所がなく、頼りないものだ。
そんな時は、守護霊が自分の事をじっと暖かい目で見守ってくれている姿を
思い浮かべよう。
不思議に、心が自然に落ち着いてくる。

………

⑦「正念」。
正しく念ずる事だ。
念は、強く求める心の祈りである。
汚れのない心で自分が本当に、望むべき事を念ずれば、必ず願いは達成される
だろう。
正しい欲望は常に肯定されるし、守護霊は代償を要求しない。
目的の成功のみ念じよう。
守護霊に正しく導かれるように、再び心を闇で汚さないようにと念ずるのだ。
純粋な祈りは、過去の罪を乗り越えて神に届くと云われている。

………

⑧「正定」。
これは、移ろい易い心を安定させ、精神を統一する事である。
今までの七つの法則をちゃんと実行出来たかを確認し、最終的に自分の心を
修正していく行為が「正定」なのだ。

精神統一というと、すぐ心を無にする事だと思う人がいるが、ここでは
あくまで、自分の守護霊、目的の成就に向かって意識を統一するのである。
そして心の中が光で満たされ、調和されるよう祈るのだ。

………

これらの八つの聖なる道は、それぞれ独立しているものではない。
一つの中に他の七つを含んでいるのだ。
まず、どれか一つを徹底的に行えば、自然に他の道も開けてくるというもので
ある。

これを実行した時、あなたは最早以前のあなたではなくなっている。
世の中が、とても生き生きとして輝いて見えるだろう。
あらゆる人が自分に好意を持ち、微笑みかけてくれる。
世の中に嫌いな人はなく、誰もが幸せであればいいな、と自然に思ってしまう。
生きるって、こんなに楽しい事だったのかな、とびっくりする。

世間が変わったのではない、あなたが変わったのだ。
守護霊があなたの心を光で満たし、天界の無限の力をあなたに注ぎ込み始めた
のである。
その時、あなたは全てが好転し始めている事に気づくのだ。

だがどうして、こんなに気分が変化してしまうのだろうか?
それはとりもなおさず、あなたの心の波長が、高い霊界の出す波長と
同調したからに他ならない。

この状態に達すれば、あなたはただ心の中で思うだけで、全ての望みが
叶うようになっている。

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