Blessings of conversationとは、会話の祝福と解釈すれば良いらしいです。人と人との出会いをつなぐものが、料理なのだと。料理というのは、会話の媒介であって、会話、つまり人間。仲のよい気のおけない友人と楽しむのが、料理。おいしければ、なお良い。楽しいな、一緒にいてよかったな、そう思える相手と食事をすることが、「本当においしい」ということなのだと教えてくれます。Convivialite`,フランス語で会食という意味で、この会食の楽しみを共に分かちあうことこそ、まことに人生の至福であると考えられています。日本語なら一期一会。
ふぐの味が一番するところは・・・。 一般に食べられている「とらふぐ皮」はとらふぐの本皮と内皮をボイルして、細切りにしたものです。通の中には刺身よりもむしろ皮の方を好まれる方もいるそうです。 本皮は透明感があってコリコリとした歯ごたえのある皮で、一般にふぐ皮というとこちらを思い浮かべる方が多いかと思います。
“とうとうみ”とは、ふぐの身と本皮の間にあるゼラチン質の部分の皮下組織のことを言います。皮といっしょに湯引いた後、冷水でサッと冷やし細切りにして刺し身にして食べることが多いです。また、皮とともに細かく切って煮込み、味を付けたものを冷やして凝固させた煮こごりは、 ふぐのフルコースで前菜として出されたりします。
とうとうみは、本皮のようなコリコリ感はありませんが、身に近い分、旨味は 遠江の方があります。 そう、身と皮の間ですね。つまり、身と皮の、隣…。
身と皮…みかわ…三河…。三河の隣は…。
遠江(とおとうみ)!!!・・・というダジャレからきているそうです。
ちなみに、遠江は旧国名で現在の静岡県の西部にあたります。
ふぐの味を、一番色濃く味わう事ができるのがこの、とうとうみです。 私はこの「とうとうみ」を太め斜めに切り徳島の酢立と柚子酢を同割りでこしらえたポン酢で食べるのが大好きです。
“とうとうみ”とは、ふぐの身と本皮の間にあるゼラチン質の部分の皮下組織のことを言います。皮といっしょに湯引いた後、冷水でサッと冷やし細切りにして刺し身にして食べることが多いです。また、皮とともに細かく切って煮込み、味を付けたものを冷やして凝固させた煮こごりは、 ふぐのフルコースで前菜として出されたりします。
とうとうみは、本皮のようなコリコリ感はありませんが、身に近い分、旨味は 遠江の方があります。 そう、身と皮の間ですね。つまり、身と皮の、隣…。
身と皮…みかわ…三河…。三河の隣は…。
遠江(とおとうみ)!!!・・・というダジャレからきているそうです。
ちなみに、遠江は旧国名で現在の静岡県の西部にあたります。
ふぐの味を、一番色濃く味わう事ができるのがこの、とうとうみです。 私はこの「とうとうみ」を太め斜めに切り徳島の酢立と柚子酢を同割りでこしらえたポン酢で食べるのが大好きです。
年をとると、素材の味がようわかるようになった、とおっしゃる方が結構いてはります。 これ、恐らくは、ものを食べる速度が遅くなるせいやと思います。食べものの口中滞在時間が長くなる。若い時分のように一気にものをお腹の中までほうり込まなくなる、というよりも出来なくなる。食べものがいつまでも口の中にあるから食べながらいろいろな事を考えるようになる。このうまさは何やろ、このものの、どこを私はうまいと感じるのだろう、等々。
そやけどこの味がようわかるようになるというのは、一体なんなのでしょうか。
書店には、料理や食べものに関する本やガイドブックが氾濫しています。そやけど、どんな本を読んでも、つまりは書いている人がなにかを食べたその時に、おいしかったと思った、あるいは感じたというだけの話で、それ以上の何ものでもありません。食べものに託して上手に表現してはいるけれど、ひるがえって、その食べものがほんとうにおいしいかどうかという問題については、つっこんだことは何一つ書かれていません。
何で書かないのか、それはその時においしいと思ったということは、動かしがたい事実なんであって、他の人がそれに対してどうこう言ったところで始まる話ではないからなのです。
すぐれた絵は料理に似ていると申します。味わうことは出来ても、説明することはできないからなのです。あくまで、料理のおいしい、まずいというのは、その人がその時に感じたという主観的な話にしかなりません。
かの有名なブリヤ=サバランがその『味覚の生理学』の中でこう説き明かしてくれています。
ものを食べたりする時に、香りをかいで、そして口に入れた時に味を感じます。それは直接感覚とも呼ばれるべきものです。その次に今度は呑み込もうとする時に、口の中のものが鼻腔の真下にくると、初めて一つの食べものの生じさせる感覚が完成されます。ここで完全感覚というものが呼び起こされる。で、今度は呑み込んでしまってから初めて、その今感じたことを判断して、これはうまいんだと、反省感覚がここで起こる。つまり、これはどんな人でもよく味わって食べる以上は、これら三つの感覚が引き続いて起こり、うまいとかまずいとかいう結論に達するのであって、この後ではどんな人がどんな異論を唱えようとも、この時の感覚を是正することは絶対出来ないことなのです。
実際の話、お金がないときとか、恋人が病気とか、あるいは自分自身が体にどこか欠陥があるときなどには、山海の珍味も色あせて見えるし、それを十分に楽しんで食べることなど出来ないはずです。楽しめないということは、料理を食べるのに一番の敵なんですね。そしてやっぱり一皿の料理に心から楽しみを覚えながら、味わって食べていくことができる人が、一番幸福をかみしめているわけなんですね。
と、いうことで、年をとり素材の味がようわかるようになったというのは、人生の最大の喜びを一皿の料理に感じているということなんでしょうか。
そやけどこの味がようわかるようになるというのは、一体なんなのでしょうか。
書店には、料理や食べものに関する本やガイドブックが氾濫しています。そやけど、どんな本を読んでも、つまりは書いている人がなにかを食べたその時に、おいしかったと思った、あるいは感じたというだけの話で、それ以上の何ものでもありません。食べものに託して上手に表現してはいるけれど、ひるがえって、その食べものがほんとうにおいしいかどうかという問題については、つっこんだことは何一つ書かれていません。
何で書かないのか、それはその時においしいと思ったということは、動かしがたい事実なんであって、他の人がそれに対してどうこう言ったところで始まる話ではないからなのです。
すぐれた絵は料理に似ていると申します。味わうことは出来ても、説明することはできないからなのです。あくまで、料理のおいしい、まずいというのは、その人がその時に感じたという主観的な話にしかなりません。
かの有名なブリヤ=サバランがその『味覚の生理学』の中でこう説き明かしてくれています。
ものを食べたりする時に、香りをかいで、そして口に入れた時に味を感じます。それは直接感覚とも呼ばれるべきものです。その次に今度は呑み込もうとする時に、口の中のものが鼻腔の真下にくると、初めて一つの食べものの生じさせる感覚が完成されます。ここで完全感覚というものが呼び起こされる。で、今度は呑み込んでしまってから初めて、その今感じたことを判断して、これはうまいんだと、反省感覚がここで起こる。つまり、これはどんな人でもよく味わって食べる以上は、これら三つの感覚が引き続いて起こり、うまいとかまずいとかいう結論に達するのであって、この後ではどんな人がどんな異論を唱えようとも、この時の感覚を是正することは絶対出来ないことなのです。
実際の話、お金がないときとか、恋人が病気とか、あるいは自分自身が体にどこか欠陥があるときなどには、山海の珍味も色あせて見えるし、それを十分に楽しんで食べることなど出来ないはずです。楽しめないということは、料理を食べるのに一番の敵なんですね。そしてやっぱり一皿の料理に心から楽しみを覚えながら、味わって食べていくことができる人が、一番幸福をかみしめているわけなんですね。
と、いうことで、年をとり素材の味がようわかるようになったというのは、人生の最大の喜びを一皿の料理に感じているということなんでしょうか。
料理を教えていたころの苦労に、プレゼンテーションしやすいメニューの選択というのがあります。
つまり、生徒には興味の頭を持ち上げ、更に料理におもしろ味があって、なるほど…と感じさせる妙味のある料理ということになります。店でのメニューも同じです。すでに他店にある、よくみかける料理、もしくは料理法ではなし、オリジナリティに富んだ料理開発が必須であるという事です。 色どり、盛り方、取り合せ、材料の良否と、皆「美」と深い関連性をもって考慮されています。耳から、目から、鼻からと、様々な感覚を動員して、「美」と「味」の調和を楽しむように考えました。栄養の効果という点からも「美」は見逃せない役割を担っています。単に料理を舌先だけで味わうものではなく、また弄ぶものではないと考えます。
もちろん、美味しくて廉価でだれにでも喜ばれるというのは言うまでもありません。
YOUTH Samuel Ullman
Youth is not a time of life; it is a state of
Mind; it is not a matter of rosy cheeks, red
Lips and supple knees; it is a matter of the
Will, a quality of the imagination , a vigor of
The emotions; it is the freshness of the deep
Springs of life.
Youth means a temperamental predominance of
Courage over timidity of the appetite, for
Adventure over the love of ease. This often
Exists in a man of sixty more than a boy of
Twenty. Nobody grows old merely by a number
Of years. We grow old by deserting our ideals.
Years may wrinkle the skin, but to give up
Enthusiasm wrinkles the soul. Worry, fear,
Self-distrust bows the heart and turns the spirit
Back to dust.
Whether sixty or sixteen, there is in every
Human being’s heart the lure of wonder, the
Unfailing child-like appetite of what’s next,
And the joy of the game of living. In the
Center of your heart and my heart there is a
Wireless station; so long as it receives messages
Of beauty, hope, cheer, courage and power
From men and from the Infinite, so long are
You young.
When the aerials are down, and your spirit is
Covered with snows of cynicism and the ice
Of pessimism, then you are grown old, event at
Twenty, but as long as your aerials are up, to
Catch the waves of optimism; there is hope you
May die young at eighty. 青春の詩 サミュエル・ウルマン
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。
Youth is not a time of life; it is a state of
Mind; it is not a matter of rosy cheeks, red
Lips and supple knees; it is a matter of the
Will, a quality of the imagination , a vigor of
The emotions; it is the freshness of the deep
Springs of life.
Youth means a temperamental predominance of
Courage over timidity of the appetite, for
Adventure over the love of ease. This often
Exists in a man of sixty more than a boy of
Twenty. Nobody grows old merely by a number
Of years. We grow old by deserting our ideals.
Years may wrinkle the skin, but to give up
Enthusiasm wrinkles the soul. Worry, fear,
Self-distrust bows the heart and turns the spirit
Back to dust.
Whether sixty or sixteen, there is in every
Human being’s heart the lure of wonder, the
Unfailing child-like appetite of what’s next,
And the joy of the game of living. In the
Center of your heart and my heart there is a
Wireless station; so long as it receives messages
Of beauty, hope, cheer, courage and power
From men and from the Infinite, so long are
You young.
When the aerials are down, and your spirit is
Covered with snows of cynicism and the ice
Of pessimism, then you are grown old, event at
Twenty, but as long as your aerials are up, to
Catch the waves of optimism; there is hope you
May die young at eighty. 青春の詩 サミュエル・ウルマン
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。
石焼ラーメン 「ぶっ跳び」1500円
調理をするのに時間がかかりますが、食べて、納得です。
「ぶっ跳び」(仏跳牆)フォティオチャン
ちなみに、佛(fo,2声,「仏陀」)跳(tiao,4声,「跳ぶ」)牆(=墻,qiang,2声,「壁」)。仏さまが壁を跳び越える、という意味でしょうか?「仏さんが山を跳び越えてこのスープを食べに来る」とか「スープを煮込んでいるときのその匂いに耐えきれなくなったお坊さんが、塀を跳び越えて出て行ってしまった」とか「おいしさのあまりお坊さんがぶっとんでしまった」とか、いろいろ説明されているのですが、なぜ「仏さま」で「壁、塀、山」とは何なんでしょう。「フォティオチャン」とするサイトもあります。そこに、紹介をされています。:日本人観光客に「ぶっ跳びスープ」として注目されているのが佛跳牆という薬膳スープ。これは本来フカヒレとかアワビ、スッポン、ナマコ、金華ハム、貝柱etc・・・と、高級な素材を10~30種類ぐらい使って、何時間も蒸したりしてつくるスープらしいです。
石焼ラーメンのなかでも一番値の張るものでそんなに注文があるものではありませんが、兎に角 おいしいです。
調理をするのに時間がかかりますが、食べて、納得です。
「ぶっ跳び」(仏跳牆)フォティオチャン
ちなみに、佛(fo,2声,「仏陀」)跳(tiao,4声,「跳ぶ」)牆(=墻,qiang,2声,「壁」)。仏さまが壁を跳び越える、という意味でしょうか?「仏さんが山を跳び越えてこのスープを食べに来る」とか「スープを煮込んでいるときのその匂いに耐えきれなくなったお坊さんが、塀を跳び越えて出て行ってしまった」とか「おいしさのあまりお坊さんがぶっとんでしまった」とか、いろいろ説明されているのですが、なぜ「仏さま」で「壁、塀、山」とは何なんでしょう。「フォティオチャン」とするサイトもあります。そこに、紹介をされています。:日本人観光客に「ぶっ跳びスープ」として注目されているのが佛跳牆という薬膳スープ。これは本来フカヒレとかアワビ、スッポン、ナマコ、金華ハム、貝柱etc・・・と、高級な素材を10~30種類ぐらい使って、何時間も蒸したりしてつくるスープらしいです。
石焼ラーメンのなかでも一番値の張るものでそんなに注文があるものではありませんが、兎に角 おいしいです。
マスメディアに紹介されますと、やはりお客様はいつもより多く、且つ電話の対応も普段よりややこしくなります。この十年でやっと近所の方から信頼をされ 阿吽の呼吸で料理・接待ともにそつなくできるようになったのに・・・電話の向こうは一見さんのお客様ばかりです。一からのご説明を始めます、営業中です それだけでもう大変です。今晩も石焼ラーメンをOO日の八時に四人で四個食べたいと仰います。無理なんです、即答したいのですがそうもいきません・・結局また今度ということですが、・・絶対に来店されないでしょう。 ふうぅ- 申し訳ございません。
商売に対して貪欲であれというのであれば、それは可能です。でも他の方にも、一組一個の石焼ラーメンとして公言しているのですから、止む無きでしょうか。
商売に対して貪欲であれというのであれば、それは可能です。でも他の方にも、一組一個の石焼ラーメンとして公言しているのですから、止む無きでしょうか。
高知の料理といえば、皿鉢料理が有名ですが、実は皿鉢料理は、料理と言いながら作り方というものが有りません。というのも大皿に旬を美しく盛り込めばそれが皿鉢料理だからです。もともと皿鉢料理は、本膳の後に出される酒宴用の大皿料理がその起源となります。大きなお皿に溢れるほどいろいろな料理を盛り、後はそれを大勢で囲んで、自分の食べたいものを自由に小皿に取り、大いに酒を楽しむ料理なのです。そんな皿鉢料理にも基本となる3種類の皿鉢があります。一皿目は刺身。これも刺身の盛り合わせでも、鰹のタタキでも、活き作りでもOKです。二皿目は寿司。これにもサバやカマスの姿寿司を初めにぎりや巻物など数種類の寿司が盛られています。三皿目は組もの。これは煮物、揚げ物、和え物、焼き物から果物や羊羹といった甘いものまでが一緒に盛られたものです。皿鉢料理と聞いて最もイメージするのがこの組皿鉢かも知れません。
私の故郷は徳島県の最南端の海南町いまは海陽町、高知との県境です。幼い頃の親戚の集い、お目出度い集いなどではこの皿鉢料理に全くの変わりない料理の宴会でした。小さい子供はやはり三皿目のこのあたりがまづ一番先に手がいくようで・・・。
突然のことで本人自身もなんのことやら、明日お隣のお嬢さんのご結婚祝いの予約がありまして、献立を考えあぐねていた矢先のことで、そうだ・・これで行こう
私の故郷は徳島県の最南端の海南町いまは海陽町、高知との県境です。幼い頃の親戚の集い、お目出度い集いなどではこの皿鉢料理に全くの変わりない料理の宴会でした。小さい子供はやはり三皿目のこのあたりがまづ一番先に手がいくようで・・・。
突然のことで本人自身もなんのことやら、明日お隣のお嬢さんのご結婚祝いの予約がありまして、献立を考えあぐねていた矢先のことで、そうだ・・これで行こう
味というものは変なもので、その時々気持ちで、主観的に動かされ、変わっていく。その感じる味はそもそも当人にとっては絶対であるべきで、状況で動かされるようでは大した食通ではない。でも、中々そうはいかない。財布の具合もあるし多年の経験も必要だし味が素直に判断できるようになるには、大変なことでもある。味を覚えることは、ものの深奥を極める努力によって向上するものらしい。・・です。味や美の道には頂上は在り得ません。通人にとってある意味大変不便で不自由であると言えるがその先新発見の味感があるといえます。ただ、世の中には、語るに足る相手が稀なために、狭い世界にはいってしまう。これを三昧の境地とでもいうのでしょうか。 Chrisian Guy は料理人と食通への風刺的分類 <政党人>になぞらえて・・と いうなかで、キュルノンスキーが、その特徴を描き出しているという。その中 a,b,c,d,e,とありその d・左派 料理人のゲリラみたいなもの。ちょっとした材料さえあれば、わりにうまいものをつくってしまう人。だからおいしくさえあればオムレツ一皿でもよいし、コートレットでも、ステーキでも、白ブドー酒入りの兎のフリカッセでも、ハムやソーセージのうす切りでもかまわない人。コンセルヴ(保存しょくひん)でもよいというし、いわしのオリーブ・オイル漬けでも充分魅力があるという人。だから他所で食べる店にしても、その主人が自らつくってくれる店を探して歩くし、田舎のブドー酒や料理をやたらとほめちぎる。どちらかというと、ちょっと放浪者な点もあるので、これを称して ガストロノマードという。
例えば、すきやきをするとして、味はともかく肉がえらい少なく野菜ばっかりで、これをもって奢る側から、どや・・と・言われても返事に困るでしょう。河豚 てっちり しかり、猪鍋 蟹すき 等など、やはり肝心の「身 もの」が少ないと合点がいきませんね。 牛のモツでもやはりそうでした、一般的に、大阪 鶴橋とかそういったところで良くあるメニューで(モツ鍋)がありますが、料金的に(ナイスプライス)にしているため100パーセントは満足できません。そこで選んだ野菜と好みのモツで、好みの味で煮たところ・・これが旨い。当たり前、しかし、ここで、旨いのどうだ といったことで つまらない。要は、肝心の「身 もの」の味がすべて野菜に吸収されてしまっては、この鍋としては問題にならない。元来そういったものは、それほど「だし」の出るものではなく、補助味の役にはならないものです。だから、その(もの)の味を食おうとすれば、相当脂身のついたもの(肉)を豊富に使うべきです。鍋の中に野菜が(身)より多いようでは、だしはまず利かない。また味が利くほど煮れば、全てボロボロになってしまい「もの」の面目はなくなります。ところで今晩の(身 もの)はラム 赤身といわゆる「ヘレ」最近何回ともなくやっていますが香辛料の使い具合で中々旨いようで酒がすすむ身ものです。
鮎は容姿端麗な魚だ。
それでも産地によって多少の美醜がないでもない。
鮎は、容姿が美しく、光り輝いているものほど、
味においても上等である。
それだけに、焼き方の手際のよしあしは、
鮎食いにとって決定的な要素をもっている。
鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、
素人がこれを上手に串に刺して焼くということはできるものではない。
鮎と言えば、一般に水をきればすぐ死んでしまうという印象を与えている。だから、
非常にひ弱な魚のように思われているが、
その実、鮎は俎上にのせて頭をはねても、
ぽんぽん躍り上がるほど元気溌剌たる魚だ。
そればかりか、活きている中はぬらぬらしているから、
これを摑んで串に刺すということだけでも、
素人には容易に手際よくゆかない。
ましてこれを体裁よく焼くのは生やさしいことではない。
もちろん、バーべキュウなどで使う、やわらかい炭ではうまく焼けない。尾鰭を焦がして、真っ黒にしてしまうのなどは、
言わば絶世の美人を見るに忍びない醜婦にしてしまうことで、
余りに味気ない。
みるからにうまそう、
しかも艶やかに、鮎の姿体を完全に焼き上げることは、
鮎を味わおうとする者が、
見た目で感激し、
美味のほどを想像する第一印象の楽しみであるから、
かなり重要な仕事と考えねばならないでしょう。
だから、食するものにとっては、一流料理屋にたよる他はない。
一体、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においてはことさらに形態美を大事にすることが大切です。
それでも産地によって多少の美醜がないでもない。
鮎は、容姿が美しく、光り輝いているものほど、
味においても上等である。
それだけに、焼き方の手際のよしあしは、
鮎食いにとって決定的な要素をもっている。
鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、
素人がこれを上手に串に刺して焼くということはできるものではない。
鮎と言えば、一般に水をきればすぐ死んでしまうという印象を与えている。だから、
非常にひ弱な魚のように思われているが、
その実、鮎は俎上にのせて頭をはねても、
ぽんぽん躍り上がるほど元気溌剌たる魚だ。
そればかりか、活きている中はぬらぬらしているから、
これを摑んで串に刺すということだけでも、
素人には容易に手際よくゆかない。
ましてこれを体裁よく焼くのは生やさしいことではない。
もちろん、バーべキュウなどで使う、やわらかい炭ではうまく焼けない。尾鰭を焦がして、真っ黒にしてしまうのなどは、
言わば絶世の美人を見るに忍びない醜婦にしてしまうことで、
余りに味気ない。
みるからにうまそう、
しかも艶やかに、鮎の姿体を完全に焼き上げることは、
鮎を味わおうとする者が、
見た目で感激し、
美味のほどを想像する第一印象の楽しみであるから、
かなり重要な仕事と考えねばならないでしょう。
だから、食するものにとっては、一流料理屋にたよる他はない。
一体、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においてはことさらに形態美を大事にすることが大切です。
残肴には見るに忍びないほど傷められてかえってくるものもあるが、たくさんのお客様のある忙しい日になると、全然手のつかないものも多くなってくる。たとえ牛蒡の一片にしても、甘鯛の骨一つにしても、これを活かして、自分達の味覚研究として、試食するくらいの気転がなくてはならない。経済的にいっても、もとよりの話であるが、料理人は料理で身すぎをする人間だ。いい材料を使って、手塩にかけたものが戻ってきた場合、またもう一度これを生かす工夫に心して、試食研修してみるくらいの興味を持たなくては失格である。生かさずにはおれないという生一本の性根がほしい。好きの道だからこそ、ここが大切なのだ。心の底から料理が好きという人間なら、これくらいのことは良識、良心の両杖で実行できるものである。と・・改めて自戒自守。いささかくどいですが、例えば 甘鯛の[あら] 家に持って帰れば、家族がどんなに喜ぶか・・菜っ葉や豆腐と一緒に煮てたべるといったように、一家を楽園にする道もある。
だから、処理をするという意味合いが違うのですね。随分と前の話ですが京都で有名なお店で、デザートの柑橘の残肴でもう一度シャーベットを作っているということを「OO」を”とんこ”(夜逃げ)して来た{笑}元従業員から聞いた事がありますが、この方が残肴処理としては良いですね。
だから、処理をするという意味合いが違うのですね。随分と前の話ですが京都で有名なお店で、デザートの柑橘の残肴でもう一度シャーベットを作っているということを「OO」を”とんこ”(夜逃げ)して来た{笑}元従業員から聞いた事がありますが、この方が残肴処理としては良いですね。
料理の流れで考えないと答えはでないので頭をちょっと抓って紐解いて、サラダとはどんなものか。野菜を主にして塩味さえつければ、あとはどんなものを加えてもいいのじゃないか、イギリスでは19世紀の終りごろ、まだ塩しかかけていなかったらしい、フランスではサラダにオリーブ・オイルをかけて食べるのが早くからおこなわれていた。昔から風情のある食べ物ではなかったようで、美しい盛り付けほどおいしくなかったようだとも、つまりざっくばらんのサラダのほうが本当の味を楽しむことができるのだろうか?あまり コースの流れと関係ないか。こんなことをあれこれ思案しながら、スペインの古い諺にサラダをつくるのには四人の人間がいるということでその一人が、これを(野菜)全部かきまわす気狂い。というのがあり、これについてジャン・ジャック・ルソーは、「サラダは乙女の指でかきまわせ」つまり男ではだめだという意味だとか、気になりますね。
BRILLAT-SAVARIN (JEAN-ANTHELME )
ブリア=サヴァラン(ジャン=アンテルム)
1755~1826 司法官 美食家
教授のアフォリスム
1.生命がなければ宇宙もない.そして生きとし生けるものはみな養いをとる。
2.禽獣はくらい、人間は食べる。教養ある人にして初めて食べ方を知る。
3.国民の盛衰はその食べ方いかんによる。
4どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう。
5.造物主は人間に生きるがために食べることを強いるかわり、それを勧めるのに食欲、それに報いるのに快楽を与える。
6.グルマンディーズはわれわれの判断から生まれるので、判断があればこそわれわれは、特に味のよいものを、そういう性質を持たないものの中から選びとるのである。
7.食卓の快楽はどんな年齢、身分、生国の者にも毎日ある。他のいろいろな快楽に伴うことも出来るし、それらすべてがなくなっても最後まで残ってわれわれを慰めてくれる。
8.食卓こそは人がその初めから決して退屈しない唯一の場所である。
9.新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである。
10.胸につかえるほど食べたり酔っぱらうほど飲んだりするのは、食べ方もの味方も心得ぬやからのすることである。
11.食べ物の順序は、最も実のあるものから最も軽いものへ。
12.飲み物の順序は、最も弱いものから最も強く香りの高いものへ。
13.酒をとりかえてはいけないというのは異端である。舌はじきに飽きる.三杯目からあとは最良の酒もそれほどに感じなくなる。
14.チーズのないデザートは片目の美女である。
15.料理人にはなれても、焼肉師のほうは生まれつきである。
16.料理人に必要欠くべからざる特質は時間の正確である。これはお客さまのほうも同じく持たねばならぬ特質である。
17.来ないお客を長いこと待つのは、すでにそろっているお客さま方に対し非礼である。
18.せっかくお客をしながら食事の用意に自ら少しも気を配らないのは、お客をする資格のない人である。
19.主婦は常にコーヒーの風味に責任を持たねばならず、主人は吟味にぬかりがあってはならない。
20.だれかを食事に招くということは、その人が自分の家にいる間じゅうその幸福を引き受けるということである。
関根秀雄訳
サヴァランの文章は、軽妙、洒脱、ときにユーモラスですね。
心してオサライしてみました。
花の色はうつりにけりな・・小町ゆかりのはねず梅 [ 京都和歌紀行 ]
京都は山科、
小野小町ゆかりの随心院は三月遅咲きの梅が咲きます。
薄紅色をした「はねず梅」をはじめ、
白梅や紅梅など庭園が甘い香りに包まれます。
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身よにふる眺めせしまに
小町が眺めてため息をついたのは、桜ではなく梅でしょうか。
境内には、
小町がお化粧をしたといわれる化粧(けわい)の井戸や、
文塚があります。
春には深草の少将との悲恋をもとにして作られた
「はねず踊り」が開かれます。
山科小野は、京都の東のはて
さて、一つ先の駅は秀吉の花見で有名な醍醐寺です。