乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

ただいま、岩波新古典文学大系と『近松全集 第十一巻』(影印)で 『雙生隅田川』(ふたごすみだかわ)と格闘中。(3枚)

2018-10-17 | 近松門左衛門
 『近松全集 第十一巻』より『雙生隅田川』
  部分 『近松全集 第十一巻』では、ほぼ実物大






 
 岩波新古典文学大系(緑)『近松浄瑠璃集 下』より『雙生隅田川』

 
 『近松全集 第十一巻』より『雙生隅田川』

 
 『近松全集 第十一巻』より『雙生隅田川』
  部分 実物大
 『近松全集』ではこんな文字で書かれて掘られ、刷られています。

 通し狂言 『雙生隅田川』(ふたごすみだかわ)を見るまでに浄瑠璃の 『雙生隅田川』(ふたごすみだかわ)を読もうと思い、
ただいま、岩波新古典文学大系と『近松全集 第十一巻』(影印)と格闘中です。


 
 通し狂言 『雙生隅田川』(ふたごすみだかわ) ▼松竹株式会社 歌舞伎美人よりお借りしました。

 吉田の少将行房は比良ヶ嶽の次郎坊天狗の恨みをかい、我が子の松若丸を天狗にさらわれ、自身も殺されてしまいます。
 松若丸の双子の兄梅若丸は、吉田家の横領を企む勘解由兵衛景逸たちにそそのかされ、朝廷から預かっている「鯉魚の一軸」の絵の鯉に目を描き入れたため、鯉は絵から抜け出し、梅若丸は出奔。心労が重なった少将の妻班女御前は狂乱してしまいます。
 その頃、吉田の家来だった淡路の七郎は、使いこんだ主家の金1万両を返済するために猿島惣太と名のって人買い業をしていました。残りあと10両までこぎつけたところで、売れずに帰って来た都生まれの稚児を折檻して殺してしまいます。しかし、その稚児は、実は若君の梅若丸でした。それを知った惣太は非を悔い、天井に貯めた小判が家中に降りしきる中、壮絶な最期を遂げ、その一念によって天狗となります。
 一方、我が子を求めて隅田川のほとりへさまよい来た班女御前は、惣太の女房唐糸から梅若丸の死を聞き、川に身を投げようとします。しかし、松若丸と再会し、正気を取り戻します。吉田家再興のため、七郎天狗となった惣太に送られて、班女御前と松若丸は都へ向かって宙を飛んで行くのでした。
 そして、一連の騒動に終止符を打つべく、奴軍介が「鯉魚の一軸」から抜け出した鯉の行方を捜していると…。
 “三人宙乗り”や本水の中での大立廻り“鯉つかみ”の場など、スペクタクルにあふれた趣向とともに、親子の情愛や旧臣の悲劇を描く大作です。新右團次が襲名披露狂言として、猿島惣太後に七郎天狗、奴軍介を勤めます。


 平成30年度(第73回)文化庁芸術祭参加公演
近松門左衛門 作
戸部銀作 脚本・演出
奈河彰輔 脚本・演出
市川猿翁 脚本・演出
石川耕士 補綴・演出
三代猿之助四十八撰の内

通し狂言 雙生隅田川(ふたごすみだかわ)

市川猿之助
市川右團次 宙乗り相勤め申し候
市川右 近
〈序幕〉

〈二幕目〉

〈三幕目・大詰〉
班女御前
吉田少将行房
淡路前司兼成
小布施主税
次郎坊天狗
梅若丸/松若丸
伴藤内
勘解由兵衛景逸
局長尾
大江匡房

猿島惣太後に七郎天狗
唐糸
梅若丸
県権正武国

七郎天狗/奴軍介
班女御前
小布施主税
次郎坊天狗
松若丸
伴藤内
勘解由兵衛景逸
局長尾
大江匡房

     猿之助
     門之助
     男女蔵
     米吉
     廣松
初御目見得市川右近
     弘太郎
     九團次
右之助改め齊入
     鴈治郎

右 近改め右團次
     笑也
初御目見得市川右近
     海老蔵

右 近改め右團次
     猿之助
     米吉
     廣松
初御目見得市川右近
     弘太郎
     九團次
右之助改め齊入
     鴈治郎


 おつき合いくださいまして、ありがとうございます。
コメント (2)
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乱鳥徒然  小学校高学年の頃の担任の女性教師であるES先生

2018-10-17 | 乱鳥徒然 Rancho's room.
 写真は大阪 道頓堀付近





 小学校高学年の頃の担任は女性教師のES先生でした。

 この先生はご自分のお子たちの教育にも熱心な方で、テレビは布で覆い、押し入れにしまっていると申されていました。


 ES先生は何事にもスパルタで、読書ノートをつけさせ、一週間に何冊も読ませて感想を求めました。

 記入内容は、
     題名
     作者
     出版社
     出版年
     頁数
     値段
     感想
 この読書ノートは今でも影響し、上の項目を書くことが多いですが、現在では変形もしばしば見られます。

 私は本好きで、また、負けず嫌いでしたので、読書感想ノートは2年間で相当数に上りました。


 この先生、歩き方や食べ方も口を酸っぱく指導されていました。

 足の歩く角度や手の振り方を教えていただきましたが、帰って意識してしまい、ペタペタとした歩き方が身についてしまいました。

 また、食べ方は咀嚼の回数です。

 固形物は愚か、牛乳までも、一口100回を要求され、我がクラスだけは大変な時間をかけて給食を食べていました。

 六年生の時には私は放送部でしたので、週に2回ほどは放送室に逃げ込むことができたのは幸いでした。


 ES先生は何事にも熱心で、五六粘性の2年間は我がクラスだけ「一日一膳運動」というノートをつけさせ毎日提出させました。

 みんなはそのノートを「偽善ノート」と呼んでおりましたことは、先生ご本人の耳には入ってないと信じております。

 毎日毎日、最低一つは良いと思われることを実行していたのですが、そう毎日善行ばかりを行なっていてはタネが尽きる日もございます。

 私たち生徒はとってつけたように、
【今日はプールの前の脱ぎ散らかした運動靴を揃えました。】
とクラス全員が書いたことがございましたら、先生は苦笑なっておりました。

 私たちは口々に、
「私たちが「一日一膳運動」をつけるために運動靴を揃える前に、プールに入る人たちが自分の靴を揃えるべきだ。また、そういう教育が必要なのではないか。」
という意見で一致しておりました。


「一日一膳運動」の記入を毎日求められたES先生、ある日他の女性教師と信号や歩道のない道路を歩いて渡られるのを、多くのクラスの生徒が見てしまいました。

 京都の真ん中の小学校の近くでは、歩道までは少し距離のある、車の通行が大変多い道路が、近くに多くあるのです。

 それ以来、ES先生は生徒たちには適当にあしらわれることとなったのですが、ご本人は気づくことなく、相変わらずのスパルタ気質を維持なさっておられました。
 

 私は京都の真ん中の小学校でしたせいでしょうか、しっかりとした意見を持ち、述べるが多かったです。

 なので全国的に言われている「京都人云々は…」といった内容は、当てはまらない場合があります。

 しかし、気遣いといったことも、小学生なりにございます。

 ES先生は生徒たちの多大な気遣いに気づくことなく、ご自分の熱意に酔いしれておられ教壇にお立ちになられていました。

 これぞクラスの生徒全員の善行だと、私たち生徒は口々に申していたのを覚えております。

 ♩


 道頓堀を歩き、近頃の外国人の方の少なさに驚いています。

 しかし先日は中国人の方の話しかけられることが多かったせいで、お芝居までの待ち時間を楽しく過ごすことができました。

 開演までに時間が相当ございましたので時間に余裕があり、精神的にゆとりがあっただけなのですが、シャッターを押してあげたり、道や店などを教えてあげたり、近くまで連れて行ってあげたりと言った戯れを自分でも楽しんでおりました。

 段差のある道では、車椅子の移動も微力ながらお手伝いさせていただきました。

 そしてふと思い出したのは、小学校のことに担任を持っていただいたES先生のことです。

「一日一膳運動」のノートに書くに値しないこの日のことなども小学生の頃には事細かにつけてたのですが、今になって思えば、まんざら悪い記録ノートでもなかったような気が致します。


 そして思うのです。今は、ES先生のように生徒を指導しようとする教師が必要なのではないかと。

 一例ですが、修学旅行生が道を広く占領し、通行の妨げになっていても注意しない教師の多さに閉口します。

 今や、そんな時代なのかもしれませんが、ES先生に教えを受けた私は、ES先生に懐かしさと親しみを覚える昨今です。
 

 
 見ていただきありがとうございます。
コメント (6)
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