乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

映画『来る』2018年 & 映画『この子は邪悪 』2024年 

2024-08-26 | 映画
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   映画『来る』      2018年  

   映画『この子は邪悪 』 2024年 



 映画『この子は邪悪 』を8/21に見た後に 映画『来る』 を教えていただき、 その日に見る。

 映画『この子は邪悪 』も面白かった(怖かった)が、映画『来る』も大変面白かった。



 映画『来る』は映像の面白さをスピード感に乗せ、迫力があり、映画本来の大きさを感じさせる映像と話の展開であった。

 対して映画『この子は邪悪 』も見ごたえはあったが、その感覚は大きく違う。

 映画『来る』は上にも書いたが、映像が生かされた映画であり、『この子は邪悪 』は、映画と舞台の中間的存在であるように感じた。

 そこには役者たちの演じ方が大きく異なり、どちらも甲乙つけがたく、興味深く拝見させていただいた。



 一方は、多くの技術を駆使し工夫したアップテンポの面白みは心中の炎を燃え上がらせる。

 そして一方は、役者の血の流れにそくした作品つくりは、怖いながらもどこか懐かしさを感じる邦画であるように感じた。


 私の拙い見方では、間違っているのかもしれません。

 とりあえず見たという記録のみにて、今回も失礼いたします。





 最後に、映画『来る』を教えて下さいました御方に御礼申し上げます。


        ありがとうございました。

 
 
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説経節 5     劇中歌「ほうやれほう」舞台さんせう太夫より

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等
  説経節 5  


劇中歌「ほうやれほう」舞台さんせう太夫より







詞章とその変遷

  詞章は全体に因果律を説く霊験物が多いが、浄瑠璃の影響を強く受ける以前と以後では、形式・内容ともに大きな変化がある。



古説経の詞章

 本地語りと古説経特有の語り口 明暦以前の、いわゆる「古説経」冒頭には、 国を申さば丹後国、金焼地蔵(かなやきじぞう)の御本地(ごほんじ)を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度(ひとたび)は人間にておわします。

 … — 明暦2年刊、佐渡七太夫正本『せつきやうさんせう太夫』  というような本地語りがある。

 ここでは、神仏が神仏になる以前の姿、いわば神仏の本源(本地)である人間について語られる。

 そして、この詞章をみると、七五調あるいはその変形を単位として語られており、たとえば、丹後を信濃に、金焼地蔵を親子地蔵に入れ替えると『苅萱』の本地語りに、あるいは国を美濃、神仏を正八幡の荒人神とすれば『をぐり(小栗判官)』の本地語りになる。




説経与七郎正本『さんせう太夫』(寛永16年頃)

  人買いによって船で丹後に運ばれる安寿姫と厨子王丸。 このような定型的な文句は、他にも随所にみられ、

   「あらいたはしや○○」

   「○○これを御覧じて」

   「○○げにもと思ぼしめし」

の空欄部分に登場人物の名を挿入すると、さまざまな作品の詞章となり得る。



 古説経では、他の語りものにはみられない卑俗な日常語や方言、訛言がふんだんに用いられ、また、敬語の過剰な多用や道行における独特のスタイルなどにきわだった特徴がある。


 さらに、古説経特有の語り口として注目されるものに

   「旅装束をなされてに
 
   「かっぱと起きさせ給いてに

などにおける、おもに助詞の「て」につく間投詞の「に」の存在がある


 これは、4種の古説経の正本いずれにも共通してみられ、三都の太夫が別々に語っておりながら語り口における見事な統一性が確認できるのである。


 これについては、元来伊勢方言ではないかという説(高野辰之)、さらに加えて、説経者のなかで有力なグループ(伊勢のささら説経)が他に支配的な影響をおよぼしたのではないかとする説(室木弥太郎)などがある。



 本地語りなどにみられるこのような定型的な文句について、現在おこなわれている瞽女唄イタコの祭文などの語り方と比較すると、その詞章の特徴は、口承文芸として長く語りつがれてきた結果ではないかと推測できる


 というのも、語り手は、暗記した詞章をそのまま逐語的に語るのではなくて、多くの決まり文句をみずから蓄えていて、聴き手を前にして随時これら常套句を取捨選択し、組み合わせながら、その場で自由に物語をつむぎ出していったのであり、口演の一回ごとにオリジナルな演出をほどこしていたのである。


 20世紀アメリカ合衆国の叙事詩学者ミルマン・パリーと弟子のアルバート.B.ロードは、古代ギリシアのホメロスの叙事詩や現代ユーゴスラヴィアの口誦詩人の研究等を通じて、無文字社会における口承文芸は、このような韻律に合う決まり文句を容易に入れ替えて語られることを解明し、これを「オーラル・コンポジション」と命名した。



 古説経の詞章はおそらく、この方法で記憶され、再現され、伝承されたものと考えられる。




道行文と地名

 本地語りは、限られた日常的な時間・空間から聴衆を解き放ち、非日常的な、未知な領域へ引き入れていくという効果もあったと思われる。

 しかし、これは遠国の霊地や霊仏を実見し、それにまつわる霊験譚や因縁話を熟知していなければ語り出せない性質のものでもあった。


 それと同様に、説経節に特徴的な詞章として道行(旅)の過程を述べた「道行文」がある。


『平家物語』や『太平記』にも名所案内も兼ねた道行の場面があらわれるが、代表的な説経節といわれる『かるかや』『さんせう太夫』『をぐり』『しんとく丸』『あいごの若』もまた、いずれも道行文を含んでいる。



 また、地名については、作品の内容そのものに直接の関係が全くないにもかかわらず、具体的な特定の地名をはっきりと述べていることが注目される。


『土佐日記』『伊勢物語』以降の上古・中古の文学にあっては、歌も物語も、場所と内容とが互いに分かちがたく結びついており、能楽や軍記物における道行の下りは、たえず土地の歴史をふりかえる素材となり、また、土地情報の圧縮版のような意味合いがあった


 これは、説経節においても同様であり、人びとは地名を聴くだけで過去の出来事や歌・物語・人物などを想起し、しばしばこの部分だけの語りを演者に求めることさえあったようである。



 なお、室木弥太郎は、それが実際に語られた場所に応じて、地名を入れ替え、庶民が当該地において篤く信仰した神仏を引き合いに出すことによって、その物語のリアリティを保証する意味もあったのではないかと推定している。




 一方、道行の詞章には正本による限り、季節の描写が確認できない


 これは、説経の者たちがどの季節に語っても、聴衆にそのときどきの季節として想像してもらうためであろうと考えられる。




 浄瑠璃の影響 万治以降の正本になると、新たに古浄瑠璃の影響を受けた序があらわれ、文字によって描かれた作品に近づいていく。


 それつらつらおもんみるに、人倫の法義を本(ほん)として、君を敬い、民をあわれみ、政事(まつりごと)内には五戒を保ち… — 万治4年刊『あいごの若』 




『あいこの若』二段目(寛文10年頃刊行)

 人形劇となった影響で合戦シーンも登場している。

 こうした重々しい教訓的な言葉によって演者の威厳を示すようになり、一方、かつて野外芸能だったものが劇場芸能となったことから旅の必要がなくなり、地方の寺社や神仏が、しだいに都市の聴衆に無縁のものになっていったことから、従来の「本地物」形式はすがたを消失していく。


 また、従来は段に分かれていなかった説経が浄瑠璃同様、全体が6段に分けられるようになったが、室木弥太郎はこの変化を万治元年(1658年)以降のことと推定している。


 そして、それぞれの段末には「上下万民おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ」という古浄瑠璃特有の形式句が付加されるようになり、さらに、各段のあいだには余興を入れて聴衆を飽きさせないような工夫をほどこしている。



 そのほか、操り人形が活躍するハイライト・シーンとして合戦の場面を設けるなどの工夫を加え、言葉遣いも古説経風の方言や俗語を捨てて、より標準的で洗練されたものになってくる


 これらは、いずれも劇場進出に向けた一連の改革ととらえることも可能である。



 しかしながら、このような変化は一方で、泥臭くとも庶民のための口承文芸として生きつづけてきた古説経独特の生命力やその独特な味わいを喪失していく過程でもあった


 なお、旧作品の改作や新作が急速に進み、浄瑠璃の改作がおこなわれるようになったのも万治以降のことである。



音曲的特色と聴衆 「クドキ」

  録音機器のない時代の芸能については、音声資料を欠くことから、その音曲的特色を説明するのは容易ではないが、江戸中期の儒学者太宰春台の著作『独語(ひとりごと)』には、説経節について、 其の声も只悲しきの声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にはあらず。



 三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつやうなれども、甚だしき淫声にはあらず。

 言はば哀みて傷(やぶ)ると言ふ声なり




太宰春台『独語』  という記述がある。

 太宰春台『独語』  という記述がある。

 太宰春台 著書『独語』において、説経節の音声を「哀みて傷る」と表現した。

 春台の説くところによれば、浄瑠璃が「淫声」(「みだらな声」または「人の意表を突くような歌い方」)であるのに対し、説経節の語りは、三味線をともなってからは多少「うきたつ」ところが生じたものの、哀しみのあまり傷つき、破れてしまったかのような哀切の声(「只悲しきの声」)であるという。




 尾州家本『歌舞伎絵巻』でも、これを裏づけるかのように、説経節の聴き手のうちの何人かは顔をおおって泣いている


 古説経の節譜としては、

    コトバ(詞) フシ(節) クドキ(口説) フシクドキ ツメ(詰) フシツメ
の6種が確認されており、そのうち、
    「フシ」「フシクドキ」「フシツメ」
は歌謡的要素を含むと考えられる。



 基本的には、「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い、あっさりとした語り方であったろうと考えられるのに対し、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと思われる。


「クドキ」「ツメ」以下はわずかしかあらわれないが、「クドキ」はおそらく沈んだ調子で悲しみの感情を込め、くどく語り、「ツメ」は拷問など緊迫した場面での語りであったろうと考えられる[27]。「フシクドキ」「フシツメ」はそれに節を付けたものであろう。


 上の6種以外に、
    「キリ」「三重」「ワキ」
という符号が付される例がまれにあるが、「ワキ」が太夫の補佐役がワキから入り、太夫と合わせ語りをしただろうと考えられるほかは、詳細がよくわかっていない。



 説経節の正本には「いたはしや」「あらいたはしや」という言葉が何度も登場するが、与七郎正本『さんせう太夫』を例にとると、フシは20カ所中14カ所、フシクドキは1カ所中1カ所、クドキは1カ所中1カ所、それぞれ「いたはしや」または「あらいたはしや」のフレーズで始まっており、ここに顕著な符合がみられる。



 他の正本では、この関係がそれほど明瞭でなかったり、
     「あはれなるかな」「流涕(りゅうてい)焦がれ泣きにける」
のような語が使われる場合もあるにはあったが、
     「いたはしや」「あらいたはしや」
の語を哀感を込めて歌い語るところに説経節の語り口における顕著な特色があったと考えられる。



 文政13年(1830年)の喜多村節信『嬉遊笑覧』は宝暦10年(1760年)刊行の『風俗陀羅尼』から「いたはしや 浮世のすみに天満節」という冠付(雑俳の一種)の句を引用し、宝永元年(1704年)頃に江戸の天満八太夫が没した後、天満節はかつての隆盛が嘘のように衰えてしまったことを詠んでいるが、ここでは「いたはしや」の語が説経の語り口をあらわすことも同時に詠み込んでいるのである。


 説経節という芸能の淵源は仏教における唱導や説経であったところから、本来的にはきわめて宗教性の強いものであったろうと考えられるが、それは決して理路整然とした仏教教義を説くようなものではなく、中世の民衆がいだいていた救済や転生などの強い願いに直接うったえかける情念的なものであった。


 中世日本における民衆生活は、商行為としての人身売買が存在しており、また、たび重なる戦乱や一揆のなかで抑圧され、蔓延する疫病や頻発する災害に打ちひしがれる悲惨なものだったのであり、人びとが現世に希望をもてないことも多かったと考えられる。

 したがって、説経節の語り手のみならず、それに耳を傾ける聴衆もまた、社会的に底辺に近い人びとが多く、主人公の悲惨な境遇や果敢な行動に共感し、身につまされては泣き、あるいは、過激なまでの復讐に溜飲を下げ、そこから自らの魂を解放させていたと考えられるのである。



(ウィキペディア)
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説経節 4   演目と正本  古説経  「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等


    説経節 4   演目と正本  古説経  「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称



演目と正本 古説経


『せつきやうかるかや』(寛永8年(1631年))刊行)

 加藤繁氏は妻子を捨てて出家し、苅萱道心を名乗る。

 現存する説経の正本は、古い順に、

   『せつきやうかるかや』太夫未詳、寛永8年(1631年)4月刊、

   じやうるり や喜衛門板 『さんせう太夫』説経与七郎、寛永16年(1639年)頃刊、

   さうしや長兵衛板? 『せつきやうしんとく丸』天下無双佐渡七太夫、正保5年(1648年)3月刊、

   九兵衛板 『せつきやうさんせう太夫』天下一説経佐渡七太夫、明暦2年(1656年)6月刊、さうしや九兵衛板


があり、以下、
   万治元年(1658年)10月刊『熊野之権現記こすいてん』、

   万治4年(1661年)正月刊『あいごの若』

などと続くが、荒木繁(国文学)は、明暦2年の『せつきやうさんせう太夫』までが「説経節が本来の語り物としての説経節らしい用語と語り口を保っていた時代」として、これらに「古説経」の名を与えている。



 初期の説経正本においては『せつきやうかるかや』のように、わざわざ「せつきやう」を付して並行芸能である浄瑠璃ではないということを明示している例が多い。


 この時期には、演者も「説経与七郎」などというふうに説経の語り手であることを示すことがある。

万治以降、時代を経るにともない、説経節は浄瑠璃の影響をいっそう強く受けるようになり、「説経浄瑠璃」と称されるような変質を遂げる。


 特に冒頭部分の「本地語り」が失われ、浄瑠璃色の濃い序があらわれるのが顕著な例である(詳細後述)。




五説経とその他の演目


 赤木文庫所蔵『あいこの若(愛護若)』(寛文10年(1670年)頃刊行) 江戸の天満八太夫の正本と推定される。

 説経節の代表作5作を総称して「五説経」という呼び方は既に寛文年間(1661年-1673年)にみられるが、当時具体的に何を指していたかは不明である。


 東京堂出版『藝能辞典』(1953年刊)「説経節」の項(執筆担当:郡司正勝)には、古くは

     『苅萱』
 
     『俊徳丸(しんとく丸)』

     『小栗判官』

     『山椒大夫』

     『梵天国』

を称したが、享保のころになると

     『苅萱』

     『山椒大夫』

     『愛護若』

     『信田妻(葛の葉)』

     『梅若』

を称するようになったと説明されている。



 また、国文学者で小説家の水谷不倒の説によれば、

     『苅萱』

     『山椒大夫』

     『小栗判官』

     『俊徳丸』

     『法蔵比丘(阿弥陀之本地)』
の5種が「五説経」である。



 説経操りの衰退した安永3年(1774年)序の「浄瑠璃通鑑」(『済生堂五部雑録』所収)には

   「其五説教とは信田妻、隅田川、愛護、津志王、石塔丸なり」と記録されており(『隅田川』は『梅若』、『津志王』は『山椒大夫』、『石塔丸』は『苅萱』をそれぞれさしている)、


 いずれにしても、「五説経」は、時代によって多少の異同をともなう呼称であった。


 他の演目としては、


『五翠殿(熊野之御本地)』『松浦長者』『釈迦の御本地』『熊谷先陣問答』『越前国永平寺開山記』『尾州成海 笠寺観音之本地』『大福弁財天御本地』『目蓮記』『百合若大臣』『王昭君』『兵庫の築島』『石山記』『鎌田兵衛正清』『志田の小太郎』『阿弥陀胸割』『崙山上人之由来』『毘沙門之本地』『天智天皇』『伍太刀菩薩』『弘知上人』『小敦盛』『中将姫御本地』(以上、横山重『説経正本集』収載)、また、『日蓮尊者』『伏見常磐』『善光寺開帳』『曇鸞記』『吹上秀衡入』


などがある。



 これらのうち、『熊野之権現記ごすいでん(熊野之御本地)』や『目蓮記』『梵天国』などは、古体をのこしていると考えられるが、『愛護若』『松浦長者』は少なくとも正本のうえからは「説経浄瑠璃」の名がふさわしい作品となっている。



 また、『伏見常磐』『志田の小太郎』『百合若大臣』『兵庫の築島』などは元は曲舞に取材していると思われる。



 前掲の謡曲『自然居士』『逢坂物狂』には人身売買の話が出てきたが、説経節の『山椒大夫』『小栗判官』『松浦長者』『梅若』などでも人買いは重要なモチーフとなっている。



『松浦長者』のさよ姫は、父の十三年の孝養のために我が身を人買いに売る設定となっており、『自然居士』の筋ときわめて高い相似性をもつことが注目される。



 説経浄瑠璃は、仏の徳をたたえるものが多く、古浄瑠璃(竹本義太夫以前の浄瑠璃)から影響を受けたものもあるが、逆に『摂州合邦辻』など説経節から浄瑠璃に素材をあたえたという例も少なくない



 内容は、本地縁起物についての語りに加え、劇的効果をねらって、継子(ままこ)いじめ、お家騒動などの背景を添えたものが多い。
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傘が、怖い。

2024-08-26 | 乱鳥徒然 Rancho's room.
傘が、怖い。



 傘が怖いといっても、年齢の話ではない。

 私が傘寿に達するまでには、相当な期間がある。

 ちなみにだが、おさらいしておくと
    
     傘寿(さんじゅ)…満79歳(数え年で80歳)
     米寿(べいじゅ)…満87歳(数え年で88歳)
     白寿(はくじゅ)…満98歳(数え年で99歳)

のお祝いらしい。

 

 話を戻そう。



 傘が怖い。


 折りたたんだ傘をリズムを付けて、振り回す阿呆。

 また、同じく折りたたんが傘を、真後ろに矢印のように手荷物輩。
 ちょうど、子供の視線の高さの場合もある。


 折りたたんだ傘を同じく横方向に餅、急Uターンや急に向きを変える馬鹿ども。
 これが原因で、私の手に軽く傘の先が刺さりましたのよ、おバカ様。




 また、傘を差し、目に入るたかたで突進してくる多くの皆さま。
 危ないですわよ。

 話に夢中になり遊ばして、周りの危険には目もくれず、あれで傘の細かい突部分が目にでも廃炉いものなら、
 そんな輩は、一目散で逃げるのでしょう、、、

 

 怖いわ!ほんと、傘が、怖い!


 


 




 
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説経節 3  操り興行の盛衰 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけ

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等
説経節 3  操り興行の盛衰 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけ




説経節

操り興行の盛衰


 近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。

 戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。

 浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永8年(1631年)より少し前を想定している。


 また、『さんせう太夫』など正本にのこる演目は、一話を語るにも相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした。


 とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない。

説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社(上述)の配下となり、その口宣を受けた。


大坂 畠山其山撰『色道大鏡』(1678年)巻八 (左側2行)「説経の操は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」の文が確認できる。


 延宝6年(1678年)成立の『色道大鏡』巻八に「説経の操(あやつり)は、大坂与七郎といふ者よりはじまる」とあって、寛永16年の正本『さんせう太夫』冒頭に記された「摂州東成郡生玉庄大坂、天下一説経与七郎」と同一人物と思われる。

 これによれば、寛永年間(1624年-1644年)、大坂天王寺の生國魂神社(生玉神社)境内で操り説経を興行したと伝え、『諸国遊里好色由来揃』の説にしたがえば与七郎はもと伊勢国出身のささら説経の徒であったという。

 この「説経与七郎」の名代は幕末まで続いている。



『色道大鏡』はまた、明暦(1655年-1657年)から寛文(1661年-1673年)にかけて、説経七太夫も興行を行ったと伝えており、この七太夫が江戸の佐渡七太夫(後述)の前身ではなかったかとの推定もある。



 ほかに、大坂二郎兵衛という説経者の存在も確認されているが、その系統や所属は不明である。



 京都 京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から日暮八太夫や日暮小太夫があらわれ、寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている。

 正本の刊行などから推定して寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による寛文4年(1664年)の説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている[1]。なお、「日暮小太夫」の名跡は宝暦(1751年-1764年)の頃まで続いたと推定されている。



  説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され、江戸にくらべて早い段階で衰退してしまった。


 浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわったのである。




  名古屋 上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。

『尾張戯場事始』によれば、寛文5年(1665年)、京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行している。

 そのときの演目は
「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」
と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい。




 衰退期の様相は不明ながら、三都と軌を一にしているものと思われる。

 しかし、幕末期の名古屋においては、新内節の岡本美根太夫があらわれ、説経祭文と新内節とを融合させて新曲を創始しているが、これは「説経源氏節」(または単に「源氏節」)と称されている。


 江戸・東国 江戸は三都のなかでも説経座が最もさかんであった。


 正保(1644年-1648年)の頃から佐渡七太夫が堺町(現在の日本橋人形町)で、万治(1658年-1661年)頃には初代天満八太夫が禰宜町(現在の日本橋堀留町)で興行をおこなった。

 佐渡七太夫の「佐渡」の名は、興行的に成功を収めた地の名に由来するものではないかという説がある。

 近世初頭にあって、佐渡金山を擁する佐渡島は多数の鉱山労働者が押し寄せ、娯楽の一環としての説経節には興行に対する高い需要があったと推察されるからである。




 また、天満八太夫は寛文元年(1661年)に受領して「石見掾藤原重信」を名乗っている。


 佐渡七太夫の方は、2代目が天和(1681年-1684年)の頃に活躍し、3代目の佐渡七太夫豊孝という説経語りは正徳・享保(1711年-1736年)の頃、説経の伝統を守ろうと努めて正本を盛んに刊行した。



 元禄(1688年-1704年)の頃、江戸では天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営み、江戸における人形操りの最盛期の様相を呈しており、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫の名が知られる。


 

 18世紀初頭をすぎると江戸の人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消した。

 佐渡七太夫豊孝の時代はすでに説経節は衰微しており、彼が刊行した正本には説経の古典とも呼ぶべき演目が多くふくまれる。




 有銭堂清霞の『東都一流江戸節根元集』によれば、延享(1744年-1748年)年間、説経節は江戸や地方の祭礼などでまれにみられる程度となってしまったと記されている。


 江戸ではその後、寛政(1789年-1801年)の頃、小松大けう・三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文がおこり、享和(1801年-1804年)の頃には、本所の米穀店の米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させた。

 この系統から薩摩若太夫が出たものの、説経芝居はやがて衰えてしまった


 ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった。



 江戸時代後期以降、説経は大都会を離れ、主として農村地域における屋外芸能に回帰して、その芸能としての余命を保った。説経は、零落した牢人によってになわれることもあり、かれらは江戸で「乞胸(ごうむね)」という組織をつくって他者による口演を嫌ったが、一方、香具師もまた売薬の方便から説経浄瑠璃を語ったところから、乞胸と香具師の利害はしばしば衝突した




 現在、説経節は、板橋や八王子、秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけとなってしまっている。
 (聴きたい)


 八王子や西多摩地方の八王子車人形や写し絵などとともに行われる薩摩派の薩摩若太夫(13代目)、板橋を中心に活動する若松派の2世若松若太夫(1919年-1999年)・3世若松若太夫(1964年- )、天満派の天満八太夫の活躍が新しい。


 なお、明治維新ののち、薩摩派の太夫が福島県会津地方に門付に入ったところ、旧会津藩の人びとが宿敵薩摩を称する者だとして太夫を迫害したため「若松」を名乗ったという逸話も今日に伝わっている。
(ウィキペディア)
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説経節 2   説経節の歴史の続き(前回の内容も有り)

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等

 説経節 2   説経節の歴史の続き (前回の内容も有り)


 
前回の説経節の歴史 1

説経の歴史
説経節の源流
唱導(説経)文学

 鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。

とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている。

 これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している。




虎関師錬『元亨釈書』(1322年)巻二十九(一部)
 
「経師」(説経師)について記されている。

 ところが「説経」も「唱導」も本来は、仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった。

 しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである。

 それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称している。


「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた。


「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった。

 その内容は、寺社の縁起、高僧伝、神仏の霊験譚、インド・中国起源のものもふくめた仏教説話など多岐にわたるが、かれらがその信仰を民衆の心底深く伝えるためには、地方の民衆のなかにあった固有の信仰・口碑を取り入れ、それと習合していく必要があった。


 南北朝時代、安居院流の唱道者(安居院唱導教団)の手によって成立したとみられる『神道集』は、こうした唱導のテキストを集成したものと考えられる。

 なお、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有していると指摘される。




ささら乞食

 説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた。

 ささらとは、楽器というより本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである。



 0現存する説経正本(テキスト)で最古のものは寛永8年(1631年)の「かるかや(苅萱)」、太夫(座元・演者)の名が記されている最古は寛永16年(1639年)頃の説経与七郎を太夫とする『さんせう太夫(山荘太夫、山椒大夫)』であり、いずれも江戸期に入ってからのものである。

 そのため、中世における説経がどのような芸能であったかについては不明な点も多いが、唱導者による「語り」は、それをいっそう効果的なものにするため、音曲、さらには舞踊をともなうものとなり、しだいに芸能化していったものと思われる。

 

 観阿弥作と伝わる謡曲『自然居士』(じねんこじ)に登場する自然居士は、鎌倉時代末期に実在する説経者であるが、この作品では、かれは説法のさい聴衆の眠りを覚ますべく高座の上で舞い、また、両親の供養のために我が身を売った娘を、人買いの手から取り戻すために舞を舞い、ささらを摺り、さらに鞨鼓を打ってみせている。


 能楽の『自然居士』には脚色が含まれている可能性があるものの、芸能化した唱導者(説経者)のあり様の一端を今日に伝えてる。


『自然居士』ではまた、ささらの起源として、「扇の上に木の葉のかかりしを、持たる数珠にてされされと払ひし」ことより始まったと記している。


 なお、自然居士は、その当時から乞食と称されていたようであり、また、自然居士を主人公とする能楽には他に『華自然居士』『聟入自然居士』がある。


 さらに、同類の説経者を主人公にすえたものに『東岸居士』『西岸居士』がある。




蝉丸神社(滋賀県大津市)

 中世芸能の徒にとって自らの祖神と仰いだ盲目の僧、蝉丸法師を祭っている。

 近世にあっても、街頭や寺院の境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。


 永仁4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻』には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄』にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。

 上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂』という曲があり、そこには「蝉丸」という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。


 近江国逢坂山の蝉丸神社に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。

 蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。



 現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。

 たとえば、イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本大文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。



八坂神社所蔵『洛中洛外図』(元和年間)にみえる屋外での説経節

 土佐派絵師の手になるものといわれる。

 大傘をかざし、むしろの上でささらを摺って説経語りをしている。

 ひしゃくで投げ銭を集めている人物、聴衆の泣き伏しているすがたなどが確認、群がった乞食をさす言葉であったといわれている。







説経節の歴史 2


『人倫訓蒙図彙』(元禄年間)にみえる門説経 ささら、胡弓、三味線の3人組による門付芸として描かれている。大傘はなく、演者は菅笠をかぶっている。

『北野社家日記』の慶長4年(1599年)1月24日の記事に、説経者が京都北野の経王堂(現大報恩寺)の脇で説経語りをおこないたい旨、北野天満宮に申し入れたことが記され、あるいは、元和年間(1615年-1624年)制作の『洛中洛外図』(八坂神社本)や江戸時代初頭の絵巻物『采女歌舞伎草紙』(徳川美術館蔵)にはむしろの上に立って、長い柄の大傘(おおからかさ)をかざし、月代を剃り、羽織を着た人物がささら説経を語るようすが、『洛中洛外図』(西村家本)や元禄年間の『人倫訓蒙図彙』には門付する説経者(「門説経」)のようすが描かれている。

 このことから、説経節がもともと野外芸能(大道芸・門付芸)として発展したことがわかる。

 大傘とむしろ(茣蓙)は、大道芸としての説経芸を成り立たせる大道具であり、むしろをもって舞台となし、長柄の大傘をもって非日常的な演劇空間を創出したのではないかとも考えられる。




 いっぽう、大傘については、営業中のしるしであった。

 大傘を、田楽を専門に踊る田楽法師が傘をもった伝統にちなむとし、傘のかたちをした松を「神様松」と称する地域もあることから、神の依り代であることを表象するものとの見解もある。


『人倫訓蒙図彙』では、「門説経」と掲げた図に「物もらいに種なきとはいへども、小弓引(こきゅうひき)、編木摺(ささらすり)はわきて下品(げぼん)の一属なり」との説明が付されており、ささら説経の徒は乞食のなかでも最下層のものと見なされていたこと、説経を語るときの伴奏に胡弓が使用されるようになり、ささらと胡弓が説経には欠かせないものであったことを示している。


 なお、この図では、一人がささら、一人が三味線、一人が胡弓をもった三人組が、屋敷の門口に立つ光景が描かれている。



元禄5年(1692年)の『諸国遊里好色由来揃』などでは「伊勢乞食」がささらを摺りながら語り歩いたものが「門説経」であると伝えており、『人倫訓蒙図彙』もまた説経の出所を伊勢国としている。

「伊勢乞食」の語は、のちに伊勢商人の吝嗇を非難する語となったが、元来は伊勢神宮に参宮した人びとを目あてとして群がった乞食をさす言葉であったといわれている。



 北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂(『洛中洛外図』)といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たしていたのであり、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間だったのである。

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チケットの整理     京都市交響楽団 693回定期演奏会    

2024-08-26 | 舞台・音楽 雑感メモ
  京都市交響楽団 693回定期演奏会




【『反田恭平2024』 夏のチケット】を記録したときに、9月の【京都市交響楽団 693回定期演奏会】を書きさすれていたので、追加しておいた。

【京都市交響楽団 693回定期演奏会】のチケットは手元にはなく当日会場で受け取るので、書き忘れていた^^

 これで9月の舞台鑑賞は今のところ、下記のようになる。

 新歌舞伎『あらしの夜に』
 反田恭平2024
 京都市交響楽団 693回定期演奏会



 これからの予定としては、


 8月の舞台 これからの舞台
 説経節 『山椒太夫』 これから

 9月
 新歌舞伎『あらしの夜に』
 反田恭平2024
 京都市交響楽団 693回定期演奏会

 10月
 歌舞伎(襲名披露) 昼夜チケット購入予定
 コスパ招待券(8~10月末)
 能楽 二曲(祭)

 11月
 バレエ『白鳥の湖』
 バレエ『くるみ割り人形』
 文楽『仮名手本忠臣蔵』昼夜(二日)チケット購入予定


 12月
 能楽 二曲(祭)
 歌舞伎顔見世 昼夜(二日)チケット購入予定



 上の舞台予定に加えて単発の講演、講義を複数申し込んでいる。

 また9月からはほど 【6コマ/4,5日】ほどのの講義が始まり、予定が多すぎて頭の中がこんがらがっている。

 ここでしっかりと整理しておきたい。

 こう書いている間にも、某【能楽 二曲(祭)】を思い出して書き加えた。

 メモがごちゃごちゃ、チケットホルダーがバンバンで、仕方がなく財布に入れているが、みっともない。

 100均でチケットの入りそうなファイルか何かを見てこようと思う。

 
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説経節(せっきょうぶし)とは

2024-08-26 | 説経節、幸若舞、舞の本等


説経節(せっきょうぶし)とは


 説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸。

 仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。

 
 近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった。


 単に「説経(せっきょう)」でこの芸能をさすこともある。

 古くは「せつきやう」と仮名書きする場合が多く、「説経」「説教」両方の字があてられるが、現代では「説経」と表記するのが一般的である。

 
 説経(説教)はまた、これを演ずる芸能者をさすこともあり、その意味では「説経の者」、「説教者」(蝉丸神社文書)や「説経説き」(『日葡辞書』)のことばがある。


 説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり、哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する。

 また、近世以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある。


 徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な5曲をまとめて「五説経」と称する場合がある(詳細後述)



説経の歴史
説経節の源流
唱導(説経)文学

 鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。

とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている。

 これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している。




虎関師錬『元亨釈書』(1322年)巻二十九(一部)
 
「経師」(説経師)について記されている。

 ところが「説経」も「唱導」も本来は、仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった。

 しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである。

 それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称している。


「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた。


「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった。

 その内容は、寺社の縁起、高僧伝、神仏の霊験譚、インド・中国起源のものもふくめた仏教説話など多岐にわたるが、かれらがその信仰を民衆の心底深く伝えるためには、地方の民衆のなかにあった固有の信仰・口碑を取り入れ、それと習合していく必要があった。


 南北朝時代、安居院流の唱道者(安居院唱導教団)の手によって成立したとみられる『神道集』は、こうした唱導のテキストを集成したものと考えられる。

 なお、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有していると指摘される。




ささら乞食

 説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた。

 ささらとは、楽器というより本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである。



 0現存する説経正本(テキスト)で最古のものは寛永8年(1631年)の「かるかや(苅萱)」、太夫(座元・演者)の名が記されている最古は寛永16年(1639年)頃の説経与七郎を太夫とする『さんせう太夫(山荘太夫、山椒大夫)』であり、いずれも江戸期に入ってからのものである。

 そのため、中世における説経がどのような芸能であったかについては不明な点も多いが、唱導者による「語り」は、それをいっそう効果的なものにするため、音曲、さらには舞踊をともなうものとなり、しだいに芸能化していったものと思われる。

 

 観阿弥作と伝わる謡曲『自然居士』(じねんこじ)に登場する自然居士は、鎌倉時代末期に実在する説経者であるが、この作品では、かれは説法のさい聴衆の眠りを覚ますべく高座の上で舞い、また、両親の供養のために我が身を売った娘を、人買いの手から取り戻すために舞を舞い、ささらを摺り、さらに鞨鼓を打ってみせている。


 0能楽の『自然居士』には脚色が含まれている可能性があるものの、芸能化した唱導者(説経者)のあり様の一端を今日に伝えてる。


『自然居士』ではまた、ささらの起源として、「扇の上に木の葉のかかりしを、持たる数珠にてされされと払ひし」ことより始まったと記している。


 なお、自然居士は、その当時から乞食と称されていたようであり、また、自然居士を主人公とする能楽には他に『華自然居士』『聟入自然居士』がある。


 さらに、同類の説経者を主人公にすえたものに『東岸居士』『西岸居士』がある。




蝉丸神社(滋賀県大津市)

 中世芸能の徒にとって自らの祖神と仰いだ盲目の僧、蝉丸法師を祭っている。

 近世にあっても、街頭や寺院の境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。


 永仁4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻』には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄』にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。

 上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂』という曲があり、そこには「蝉丸」という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。


 近江国逢坂山の蝉丸神社に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。

 蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。



 現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。

 たとえば、イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本大文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。



八坂神社所蔵『洛中洛外図』(元和年間)にみえる屋外での説経節

 土佐派絵師の手になるものといわれる。

 大傘をかざし、むしろの上でささらを摺って説経語りをしている。

 ひしゃくで投げ銭を集めている人物、聴衆の泣き伏しているすがたなどが確認、群がった乞食をさす言葉であったといわれている。
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