『阿波人形浄瑠璃』人形浄瑠璃と、文楽との比較 東大寺公演 2024年
始めて人形浄瑠璃を見た。
民俗学の開設の多くに、人形浄瑠璃は文楽に比べて土着てき要素が強いと記されていたが、まさにそういった場面に出くわした。
東大寺といった近代的なホールで開催された阿波の人形浄瑠璃であったが、
徳島の地元民に根強く密着した味わいを肌で感じた。
まず、真正面の前方から三列は関係者席で、その関係者が満員であった。
人々は親しげに、口々にあいさつを交わされていた。
村で行われているときなどは、酒など交わされていらっしゃるのだろうかと勝手に想像し、ほほえましく感じた。
またわたくしの横にお座りになられた90歳手前のご婦人は、毎年この『阿波人形浄瑠璃』を楽しみにされていらっしゃるという。
「傾城阿波の鳴門 十郎兵衛住家の段」の筋書きを事細かに教えて下さったり、お芝居や阿波踊りの時には、目をしばしばとさせておられた。
徳島のどこそこ(忘れました)でお生まれになり、大阪で40年暮らし、今は奈良に住んでいらっしゃるという。
90歳前のご婦人はお元気で、『阿波人形浄瑠璃』や阿波踊りについていろいろと教えて下さった。
「『阿波踊り』っていうのは、昔子供の頃は、あんな良い恰好をしておられなかったのよ。昔は女の人の長襦袢(着物の下に着る下着の着物)を着て、鉢巻きまいて踊ってられたのよ。(要約)」
なるほど、そうなんだと、納得した。
人形浄瑠璃は土着性が強いと上に書いたが、『阿波人形浄瑠璃』と文楽の違いでも、色々と感じたことがあるので、記録しておきたい。
『阿波人形浄瑠璃』の「傾城阿波の鳴門 十郎兵衛住家の段」は、阿波の方なら知っておられる方も多いのではないか?と感じた。
筋書きは歌舞伎のように単純で、実娘と母が再開するが、父親は分かれた実娘と同じくらいの年齢の娘にたかり、偶然だが、殺してしまう。
この父親の心理状態が、私には理解できないが、阿波の方はまた違った感想を持たれるのであろう、、、
『阿波人形浄瑠璃』は文楽に比べて、土着的だが芝居性が高い。
見得を切る場面や形を作る場面は、歌舞伎さながらで、芝居的に考えるならば、文楽よりもデフォルメが強く、見慣れている。
ただし、こういった山場でさえも、人形浄瑠璃の場合は大向こうはおろか、手をたたく人は一人もいない。
この点にお家、私の考えていた人形浄瑠璃は、期待を裏切ることとなる。
皆が静かにのめりこんで聞いているか、或いは大きな鼾(鼾)をかいて眠っておられた。
不思議なので幕間に、90歳のご婦人に聞いてみた。
「そうやね、手はたたかへんねぇ。お芝居が可哀そうだから。(要約)」
そうなのだ!浄瑠璃は文楽とは違って、山場でも手はたたかないのだ。
そのくせ、あちこちで、カメラや携帯カメラの音が激しい。
歌舞伎が好きな私は山場で高揚した行動をとらない浄瑠璃は、能楽とは違って、物足りない感じがしたというのが本当のところ。
おそらくもう見ることはない浄瑠璃だが、文楽との違いも感じ取ることができ、有意義であった。
一月新春、大阪の国立文楽劇場で文楽が開催されるが、行ってもいいかな、、、と、心が動き始めた。
また、最後に阿波踊りを披露されたが、隣のご婦人は懐かしさに、目をしばしばなさっておられた。
阿波踊りは二度ばかり言ったが、もう一度行きたいなと感じた。
2024年12月7日(土)
「寿二人三番叟」
「傾城阿波の鳴門 十郎兵衛住家の段」
「大仏連」の阿波おどり
太夫/竹本友和嘉
三味線/鶴澤友勇
人形座/青年座・とくしま座
佐藤憲治 徳島県立阿波十郎兵衛屋敷館長