
▲ 上の6枚の写真は阿形の仁王様
▲ こちらは吽形の仁王様
先日、仁王様を無性に見たくなり、子と二人で法隆寺に行く。
法隆寺中門の前に立つと、凛々しい仁王像。
そのお姿は仁王様というより、金剛力士像という名が似合う。
先日、親切なS様に教えていただいたように、阿形の金剛力士像は目をカッと見開き、口を開け、手は力強く握りしめておられる。
力強い男前の像であった。
S様、ありがとうございました。
御礼申し上げます^^
塑像金剛力士像 奈良時代 重要文化財について
中門には二体の仁王像(金剛力士像)があります。仁王像は寺の守護神です。写真左が吽形(うんぎょう)、写真右が阿形(あぎょう)。お寺の仁王像は南大門にあるという印象が強いのですが、これは時代によって重視する門が変わったためで、それは伽藍配置の変化に起因しているようです。飛鳥時代の伽藍配置は寺にとって大切な金堂と塔を回廊が囲み、中門がその出入り口となるため、中門を南大門よりも重要な門として、そこに仁王像を配置しています。奈良時代の伽藍配置では回廊の外に塔を造り、それにあわせて守護神である仁王像の位置を南大門に変え、中門には四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)のうちの2人の神を配置するようになったそうです。
『法隆寺ハンドブック』より
【金剛力士像としてしまう分類】にずっと
不審を抱いています。
経典伝播の旅には
【武器を使わない少林寺拳法】を
【身体防御ツール】としてい〼。
中国でも仏教電波に武器は無用の史。
また
生駒郡斑鳩町の法隆寺という住所
▼【一帯に鴟尾をつけた建造物】は
▼【1つも存在しません】
____
鴟尾は、3〜5世紀中国で変化とされ
後漢→唐と移行する間に
インド空想の魚へ変化して
日本伝来とよく書かれてはい〼が
▼【鴟尾発祥の建築物は中国の
どこにもない】
▼プロセスにおいても
▼【インド・中国にその建造物はどこ
にもない】
_____
仏教とは無関係に
“火除け雨乞いの呪い”説が出され
▼【起源決定する証明は未だない】と
転結され〼。
_____
寧ろ
延焼しなければ500年代の建築物!
世界初と呼べる
【完璧な耐震技術が開発され使われて
いた五重の塔。
*法隆寺を【寺】とし
*塑像二体を【金剛力士像】とし
*向かって左の塑像の【顔面が壊れて
しまい、修復したにも関わらず
*【阿/吽形】としている美術史=歴史
に首を傾げ続けてい〼。
______
紀元前から栄えたポンペイでは
【屋根の上へ聖者が立つ】人物像が
存在します。
また古来より、その“おさ”は
・疫病を治せる医学的知識をもつ者
(早くから秘密に解剖する者の存在)
・都造りができる図面引きと建築的
技術をもつ者(側近に置くケースも)
等が信任を得て就いた事実。
これらの条件の上に
【日の昇る時間】を科学的に既知
とし
【太陽を背後にして立つ】パフォー
マンスをやり、大衆から絶対的信任
を得たと考察してい〼。
寧ろ
無知!技術を持たぬ者!が「おさ」
に就き【嘘八百の呪術を施行して
大衆を閉塞的に統制した】と考え〼。
感謝申し上げます。