海龍王寺にある日本最小の五重塔(国宝) (国宝建造物国内最小・五重塔)
先日のこと。
海龍王寺で日本最小の五重塔(国宝)を見てまいりました。
奈良時代前期の創建され、高さ4.01m あるそうです。
日本で一番小さな五重塔って、すごいですね^^
真言律宗 海龍王寺 ただいま、「十一面観音特別開帳」、「海龍王経」(聖武天皇直筆)、 弘法大師御筆 隅寺心経(般若心経) (10景)
ここからは、海龍王寺公式HPより引用。
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奈良時代前期 4.01m
創建当時から西金堂内に安置されており、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られていることから、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる上にも重要であること。
建造物としての五重塔はこれ一基しか存在していないので、これらの点からこの小塔の価値が高く、昭和26年6月9日、国宝18号として指定を受けました。
小塔は屋内で安置することを目的とした為、近くから見たり拝んだりするので、近くから見た時の工芸的な性格を非常に重視しており、小塔の外部は組物などの細部にいたるまで忠実に作られています。
このことは寸法取りにも表れており、上層部にいくにしたがって塔身が細く作られていることから上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っていることがうかがい知れます。
通常、寺院には高さが数十mの大きな五重塔があるのが一般的ですが、海龍王寺は飛鳥時代から建っていた寺院をもとに創建されたことに加え、光明皇后の住居(光明皇后宮)内という限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にありました。
この事情の中で「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられています。
海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えましたが、五重小塔および西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であり、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として重要な役割を果たしています。
H縁起絵巻上・中・下巻の書き起こし終了。
縁起絵巻上中下巻、書き起こし終了。今回は時間をかけて読み込めたような気がします。
後は意味を取り、あやふやな文字を二三調べて予測するのみ。
次回読みたい絵巻物は以前にも読んだことのある『法然上人絵伝』と、おおむね0決めております。
『法然上人絵伝』は続絵巻物大成に上中下の三巻として収められています。
一巻一巻が割合長い目の合計三巻ですので、相当な時間を要することになるかもしれません。
できればこれも、筆を使うか原稿用紙を使い書き起こして遊びたいと思っています。
いざさよ
真言律宗 海龍王寺 ただいま、「十一面観音特別開帳」、「海龍王経」(聖武天皇直筆)、 弘法大師御筆 隅寺心経(般若心経) (10景)
真言律宗 海龍王寺をお参りする。
ただいま海龍王寺では、「十一面観音特別開帳」、「海龍王経」(聖武天皇直筆)、 弘法大師御筆 隅寺心経(般若心経)を見ることができます。
十一面観音は穏やかなお顔立ちをなされておられました。
弘法大師御筆 隅寺心経(般若心経)は、「風流雲書」よりも大変な楷書で、書道のお手本のように一寸の狂いもない驚くばかりの経書でした。
そして月並みですが
これが弘法筆を選ばずか、、、
かと感心するのでした。
また、「海龍王経」(聖武天皇直筆)に感動しました。
初めて拝見する「海龍王経」が聖武天皇直筆なのかと思うと、弘法大師御筆の隅寺心経(般若心経)と同じように感動しました。
「海龍王経」もお経ですので、漢字ばかりで書かれています。
しかし、返り読みしていると意味が取れそうなとれなさそうな、いずれにせよ難しいのですが、面白そうな内容が書かれた部分も目に入り、ずいぶん楽しませていただきました。
聖武天皇直筆では嫌な話があります。
東大寺の南大門に掲げられた いかにも新しい『大華厳経』という文字を指さして
人「しってる?あの文字は聖武天皇が書かれたんや。」
私「は?そんなわけないんじゃないですか?」
人「ほんまや!聖武天皇が書かれたんや。」
私「は?あれ、新しいですよ。」
人「本間に聖武天皇が書かれたんや。」
私「は?はそんなわけないんじゃないですか?聖武天皇が書かれた文字から集字され、造られたのでしょうか?」
人「ああ、そうやった。そやけど、あの四文字の中で一文字だけ、聖武天皇の文字と違うらしい。」
私「いずれにせよ、元の資料が分からなければ、難しいですね。」
と悶々とした。
私は帰宅後調べてみた、聖武天皇が書かれたと言い伝えられているお経の文字を集字され南大門に掲げられたという。
ただ、東京国立博物館の話では、その経は聖な天皇な天皇の文字ではないことがX線などで分かっているという。
なおかつその経の紙には釈迦の舎利(骨)0が織り込まれ造られ、その紙に聖武天皇が経を書かれたと言い伝えられていたらしい。
しかし東京国立博物館はX線などを用い、科学的に釈迦の舎利はぐ組まれていないことを公表した。
後日私は喰ってかかってきた方に、この内容を穏やかに伝えた。
するとその人は、
「それはあくまでも東京国立博物館の【伝】やろやろ。そや!東京国立博物館の【伝】や!!!」
と逆切れされていたので、言葉を止めた。
周りで聞かれたいた方々は方々は肩をくすめてその肩を笑い、目配せされた。
その方は出身高校を自慢し、東大寺学園に行った連中は変わり者が多いと侮っておられたからである。
私はこの歳にもなって、どこの高校でもいいじゃん!と感じる。
その方は、ことあるごとに近寄ってきては私の詞を否定し、暴言を吐かれる。
挙句の果ては、だれが考えても正しい古文書の文字の読みまで、否定される始末だ。
また、私の出身大学○○部でないことに、大激怒される。
意味が分からない。
自分より若い女で、後から某団体に所属したのが理由なのか、後から入って古文書が少しだけ読めるのが気に食わないのか、理由はともあれ、常に喰ってかかってこられる(笑)
そうだ!私は頂けない老人にはならないように心がけたいと感じた。
私は自分中心に地球が回っていないことを知っているし、知らないことがほとんどであることを自覚している。
知らないことが大変多いので、ほかの方に何かを教えていただくと知識としてありがたく引き受け止め受け止め、そのうえで自分な内容をこなれさせていきたいと考えている。
頭ごなしに相手の意見を完全否定することはしないでおこうと感じた。
いずれにせよ、聞き苦しいお箸をお聞かせしてしまい申し訳なく感じます。0
5月1日~9日 春季特別公開(後期)開催 辰年にちなみ「海龍王経」
以下は海龍王寺公式hpより引用
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・十一面観音特別開帳 海龍王寺の本尊で、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されました。
檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけており、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞、手には臂釧・腕釧などの装身具をたくさん身にまとっておられます。
衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されており頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いています。
像は精巧入念な作で、頭・体のプロポーション、頭部の自然な俯きに優しい手の動き、腰のひねりに巧みに応ずる右足の遊ばせ方など彫刻としての基本的なデッサンは確かなものがあり、衣の文様表現では彩色よりも切金が多く、頭飾装身具では、透彫りの技巧の細かな点が注目され、大和路を代表する秀麗な十一面観音様です。
・聖武天皇御筆 海龍王経 奈良時代 この経典は四巻、二十の段落に分かれており、釈迦が海龍王をはじめとする様々な龍王や眷属たちの為に菩薩道を説いて、仏教に帰依させている様子を表したものです。(釈迦が竜宮に赴き説法をした様子や、女人成仏のことについても記されています。)
初代の住持となった玄昉が、唐から帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得、我が国に一切経五千余巻をもたらすことができたので、玄昉が起居した海龍王寺においてこの経典を唱え、遣唐使の航海の無事を祈ったことから、聖武天皇より寺号を「海龍王寺」と定められました。
江戸時代の文書によると「聖武天皇直筆」と記されており、菊の御紋の箱に収められて現在まで伝えられています。
・弘法大師御筆 隅寺心経(般若心経) 般若心経の写経で、隅寺心経として著名な心経です。
各一紙に一部書かれたものを合わせて一〇部をつなぎ、一巻の巻子装に仕立てています。
料紙には黄麻紙を用い、淡墨界を施して書写したもので本文の筆跡は各心経同一であり、体裁は首に「心経」と内題を揚げています。
鎌倉時代はじめの海龍王寺文書に《弘法大師が渡唐の無事を祈り、壱千巻の般若心経を書写・納経された》との記述があり現存する心経が「大師真筆の物である」とも合わせて書かれていることから、海龍王寺文書が書かれる以前より「弘法大師真筆の心経」として伝えられていたことがわかっています。
この心経は本文末に功徳文三行を付しており《この心経を読誦すれば、十悪(殺生など十種の悪業)、五逆(殺人など五種の罪悪)。
九十五種の邪道(釈尊在世中の九十五種の外道)を破る。もしもありとあらゆる仏を供養し、ありとあらゆる仏の恩に報謝しようと思えば、まさに「観世音菩薩の般若心」(原心経)を読誦すること百遍、千編にせよ。昼夜を問わず、常にこの心経を読誦すれば、願いの叶わないことはない》という般若心経を誦える事による功徳を表しているところがこの心経の特徴です。
令和6年 春季特別公開(後期)
「十一面観音特別開帳」
期日 5月1日(水)~9日(木)
開門・閉門時間 9時開門~17時閉門
真言律宗 海龍王寺
〒630-8001 奈良県奈良市法華寺町897
ドラマ『ホストを相続しちゃいました』3.9★/5 桜井ユキ 三浦翔平 他
A・Pで三浦翔平出演のドラマを見つけたので、『ホストを相続しちゃいました』を見たが、概ね面白かった。
こういった軽いノリのドラマも気になる役者が出ている場合には、いいものだ。
今回も見たという簡単な記録のみにて、失礼いたします。
PS
5月3日!
平常心是道。
さぁ!これから某縁起絵巻を毛筆で写して楽しみまする。
東大寺聖武祭 後宴能 『項羽』(こうう) 2024.05.02
東大寺聖武祭 後宴能で『項羽』を聞く。
『項羽』はこれまでにも何度かは楽しんだことがあったが、筋書きが好きだ。
もちろん、能楽を観るにあたっては、以前に楽しんだ場面を思い浮かべながら謡曲を読みあらかじめ予習しておいた。
昨年の秋に比べて、集中して能楽のみに楽しむことができた。
能楽はいろいろな楽しみ方があるのだろうが、写真に集中して後シテの始まる前(間狂言(あいっきょうげん))真っ只中でどたどたと帰って行かれる◎◎のような愛好家がおられることを考えると、人それぞれな楽しみ方があるのだと思う。
そういった方は春日大社の御祭りのように許可者以外は撮影禁止となっても、堂々とカメラを向けておられるが、人それぞれ。
各個人の生まれ育ったおい滝や経験値も違い、また、楽しみ方と倫理観も違うのだと感じるし、第一わたくしには無関係なことである。
私は能楽の理解を古典的芸能的立場から自分なり深め楽しんでいこうと思う。
また、天野先生のご厚誼を拝聴する機会を設けたいと痛感する。
小さな自分の楽しみ方が正しいとはいいがたい。
十人十色、それぞれの楽しみ方があっていいが、微妙なところやカケリで連射音を出して能楽を撮り続けられるのか、能楽を聞きたい者にとってはつらいものがある。
そういった意味で、お祭りや神事ではなく能楽を味わいたければ、能楽堂(例えば京都観世会館など)で見るのが良いのかもしれない。
そう思う今日この頃である。
今回撮った写真は、この三枚。
私の携帯電話では写すことができないのと能楽に集中したいので、三枚に絞って写した。
『項羽』とは
唐土烏江の草刈男は渡し舟の老人から、船賃の代わりに一本の花を求められる。老人は、その花と項羽の妃虞氏との事を語り姿を消す。男が跡を弔うと項羽と虞氏が現れ、別れの事、戦いの様を見せ、やがて失せるのだった。
聖武天皇祭が終わった後の大仏殿
聖武祭の後宴能が終わり、大仏殿に向かい。
いつもの正面からの入り口からは入ることができず、正面左から入ることとなる。
ちょうど大仏様の左方向にあたる。
聖武祭を終え、大仏様も微笑んでいらっしゃるように感じた。
聖武祭を終え、空にもお祝いの雲が走っているように感じた。
東大寺の大仏殿の桜も散り、ただいまはカキツバタ(?)が満開。
今日の後宴能の仕舞では『杜若』が舞われた。
からごろも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
東下りの段である^^
業平様ぁ~~~
聖武天皇祭/東大寺 お練り行列 聖武天皇の忌日に遺徳を讃える。
聖武天皇祭/東大寺 お練り行列 聖武天皇の忌日に遺徳を讃える。
今年も東大寺さんの聖武祭に行ってきました。
昨日は雨でしたのに、本日は晴れ。
昨年は終わるころには小雨でしたのに、本年度は青空でした。
舞楽が始まる前に、大仏殿に向かわれ、後宴能の前に行列は戻られました。
誇らしげな傘持ちの学生さんたちも、かわいらしかったです。
思えば遠くへ来たものだ。
京都豊国神社 宝物殿 京都市東山区大和大路正面茶屋町530(京都国立博物館近く)
豊国祭礼図屏風
豊国祭礼図屏風
豊国社禁制
以下は京都市公式HP
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豊臣秀吉公の遺宝・豊国神社の社宝を展示公開
豊国神社境内の奥にある桃山風造りの建物。
大正14年(1925)12月に開館。
豊臣秀吉の業績・遺徳を広く伝える為に、豊太閤ゆかりの品々が展示されている。
なかでも、桃山絵画の傑作として有名な重要文化財「豊国祭礼図屏風」は、慶長9年(1604)8月、盛大に挙行された豊国大明神臨時祭の模様を描いたもので、当時の京都の町の様子や風俗を知ることができる貴重な資料。
その他、秀吉公の遺品が収納されていた重要文化財「桐鳳凰文蒔絵唐櫃」「桐唐草文蒔絵唐櫃」や天下一辻与二郎作として有名な「鉄灯龍」なども展示されている。
King Crimson - Moonchild (Including "The Dream" And "The Illusion")
携帯電話からパソコンへ写真送付、復活^^
先日ぱったりと携帯電話からパソコンへ写真送付不可能となる。
これは携帯電話が痛んだのかと思ったが、一応ネット検索してみる。
すると、ストレ-ジがパンクしている可能性があると出た。
私は苦手な携帯電話と格闘した。
まずは、不要な大量の写真を消去し写真送付を試みたが、、、不可能。
次にLINEの受信送信のほとんどを消去。だが。不可能。
3番目に、不要なアプリを消すが、不可能。
4番目には、写真の送付の履歴をすべて消去したが駄目だった。
5番目では、電話及びLINKの受送信(電話)のほとんどを消去。
すると、これが功をしょうしたようだ。
電話及びLINKの受送信(、電話)の履歴を消去することによって、写真の送付が可能となった。
手探りで試みたので必要なものまで消去してしまったように感じるが、それに関してはいずれ復活させよう。
今日の作業により、ほとんど基本機能しか利用してない携帯電話が、すこしみじかに感じた。
しかし時間がかかった。もったいない、、、
今から博物館か興福寺の北円堂(2度目)に行くこそれともとにするか。
それとも絵巻物を写すか、それとも再読している『宇治拾遺』でも読むこととしよう、、、