法然 4 讃岐配流と晩年
建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。
享年80(満78歳没)
法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。
今週も忙しかった。
複数の講義を受け、その後は図書館に行き、先ほど帰宅。
7、8回目まで見ていたドラマ『光る君へ』を、今一度第七回から見始める。
退屈だ。
なので、ドラマをつけつつ、ブログに向かっている。
どこに行っても、まことしやかここでに、当然見ているであろうとばかりに、ドラマ『光る君へ』の話がなされる。
私はこれまで大河ドラマを一度も見たことがないことをここで暴露しておこう、、、
ドラマ『光る君へ』を一旦見なくなった理由は、清少納言の描き方があまりにも『枕草子』から受ける清少納言のイメージからかけ離れていたため。
せっかく時をかけて読んだ『枕草子』のイメージを壊したくなかったからだ。
法然 1 京博のために、法然上人を下調べしてみる。
法然 2 生い立ちと出家・授戒
法然 3 長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。
法然 4 讃岐配流と晩年
讃岐配流と晩年 (ウィキペディア)
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。
法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。
法然上人廟所 (知恩院) 承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現・箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。
翌年の建暦元年(1211年)には京に帰り、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。
建暦2年(1212年)1月25日、大谷禅房にて死去。
享年80(満78歳没)。
なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。
廟所は大谷禅房の隣(現・知恩院法然上人御廟)に建てられた。
法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。
また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子 宇都宮頼綱[注釈などがいる。
死後・嘉禄の法難 詳細は「嘉禄の法難」を参照
法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。
そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生(れんじょう、宇都宮頼綱)、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。
更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。
そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。