母は完全に紙パンツ。(現在は「尿取りパット併用」が機能中)
オシッコを吸収したパットを取り替えたり、時にははずしたパットがとんでもないところに置いてあったり、紙パンツをしているにもかかわらず漏れたり…。
この間は、パットを取り替えている時に母が突然「出るー」と叫んだその瞬間にポタポタ……「待ってー」と慌てて紙パンツをあげてトイレに直行したことも(/--)/
排泄の始末は楽しいものではないけど、それを淡々こなす自分がいて、むしろ、排泄の始末より、物がなくされたり、玄関の出入りをされるほうが100倍くらいイライラしてたまらないのデス。
同じ排泄関連で言うなら、汚れたパットを丸めてビニル袋に入れる作業より、ムシリ取ったパットのポロポロを掃除するほうがイライラする。
単純に比較すると、排泄のほうが人としてイヤな作業な気がするんだけど、なぜか、イライラはしない。
とにかく淡々と片づける自分がいる。
この「淡々さ」はどこからくるんだろ?
やることは決まっている。「汚れたものは捨て、新しいものを母にあてがい、汚れた所は掃除する」…分かり切っているから淡々とこなせるの?
比べて、いろんなコトに手を出されたり物がなくなるのは、いつ、どういう形で、何がどうなるのか予想がつかない。
紙パンツの処理はすぐに終わる。だけど、玄関の出入りや徘徊はいつ終わるかワカラナイ。
だからイライラするのかしらん?
幸い、母が紙パンツを簡単に受入てくれて、取り換えるのも、私がパットなどを点検することも拒否しないのも大きい要因かも。
タップリ吸収した紙パンツを取り換えてくれない……なんてことになっていればやはりイライラのタネだろうから。
排泄問題が出る前は「その時」をとても恐れていたけど、実際は違っていた。
みんなはどうなんだろ?
排泄のアレコレと、その他の問題行動。今の段階での私は、精神的に紙パンツの処理のほうがずっと楽です。
オシッコを吸収したパットを取り替えたり、時にははずしたパットがとんでもないところに置いてあったり、紙パンツをしているにもかかわらず漏れたり…。
この間は、パットを取り替えている時に母が突然「出るー」と叫んだその瞬間にポタポタ……「待ってー」と慌てて紙パンツをあげてトイレに直行したことも(/--)/
排泄の始末は楽しいものではないけど、それを淡々こなす自分がいて、むしろ、排泄の始末より、物がなくされたり、玄関の出入りをされるほうが100倍くらいイライラしてたまらないのデス。
同じ排泄関連で言うなら、汚れたパットを丸めてビニル袋に入れる作業より、ムシリ取ったパットのポロポロを掃除するほうがイライラする。
単純に比較すると、排泄のほうが人としてイヤな作業な気がするんだけど、なぜか、イライラはしない。
とにかく淡々と片づける自分がいる。
この「淡々さ」はどこからくるんだろ?
やることは決まっている。「汚れたものは捨て、新しいものを母にあてがい、汚れた所は掃除する」…分かり切っているから淡々とこなせるの?
比べて、いろんなコトに手を出されたり物がなくなるのは、いつ、どういう形で、何がどうなるのか予想がつかない。
紙パンツの処理はすぐに終わる。だけど、玄関の出入りや徘徊はいつ終わるかワカラナイ。
だからイライラするのかしらん?
幸い、母が紙パンツを簡単に受入てくれて、取り換えるのも、私がパットなどを点検することも拒否しないのも大きい要因かも。
タップリ吸収した紙パンツを取り換えてくれない……なんてことになっていればやはりイライラのタネだろうから。
排泄問題が出る前は「その時」をとても恐れていたけど、実際は違っていた。
みんなはどうなんだろ?
排泄のアレコレと、その他の問題行動。今の段階での私は、精神的に紙パンツの処理のほうがずっと楽です。
同じ事を何回も言うと怒るし、オムツをする時も怒るし、色々怒ってばっかりですよ。
母もストレス溜まってるかも・・・
いらいらする局面としては、たとえば出かけるよ~って時に
ぜんぜん関係ない片付け物に手をつけようとしたり
着替えを促しても、他のことをしてから・・みたいなことを言うときがあって
私は内心確かにイラついてるけど
それを表面に出したら、トラママは拗ねるから
てこでも動かなくなったりするんだよね。
だから、淡々です。
さらにトイレ関連で淡々になりがちなのは
本来とても恥ずかしい部分のサポートであるから、
それを母たちが感じていようがいまいが、私たちサイドにはそういう意識があって
だから、あまりその方面のサポートって感情を表さないように、淡々と処理・・・って風になってるのかもしれないな
なんて思います。
皆さんはどう思われます?
ちなみに、舅の入院に付随して、下関連のお世話というのもアリかもしんないんだけど
ちょうど今日それもついさっき、旦那に
「私、お義父さんの下関連、お世話する自信ないよ、実父母のそれはやった実績があるから、同じようにやるだろうと思われてるかもしれないけど、そこは違うよ。実父母のそれだって、好きでやってるわけじゃないんだし・・・」
一応宣言した。
トド(うちの旦那)は、「それじゃ自分が・・」
とは言わず、「看護婦さんがやってくれるんだよね?」
って言ってた。
思えば実父のときは、実父は認知症じゃなかったから、下の世話をされる恥ずかしさはあって
それをお互いに感じないためにも、淡々と処理をしていた・・・とえるなぁ・・
などと、思いますです。
「ディの迎えが来るから。」と言っても、「今日は、来ない!!」と言い切ってゆっくりご飯を食べていたり、逆に「今日は、迎えが来ないよ!!」と言っても、
「そんなわけはない!!」と仕度して、「迎えに来ない!来ない!」と怒っている母と接しているほうが、遥にストレス感じます。
淡々とできたらいいなぁ~
まだ割り切れてなく必ずイラつくのが、こうして欲しくない!と言う私だけの「こだわり」。イヤだという説明もして母も分かったと言う。でも、言った先からそれをされるとキィーーーっと。私って、無理なこと無駄なことをしてるよなと頭では分かってるんだけど、同居して1年経っても相変わらず続いてる。
「こだわり」がいくつかあってさ。。書いたら笑われそうなことです。
せん妄とか明らかに変なことを言われたときとかの方が優しく接してあげることが出来てる見たい。
こっちが精神的にタフな時はスルー出来ることも、凹み気味の時はまったくダメだもん。
ただ、私の場合、そういう時も紙パンツのアレコレは出来ちゃうんですよね~フシギですワ。
私もこれを言ったら母が不機嫌になると分かっていても、出しちゃうんだよね~~
2回、3回…ガマンしても、四回目には………。
排泄は淡々…このメカニズムはなんだ?!
トラパパの場合を思えば、やはり、自分で始末したいポイントなのに出来ない…人としてツライのが分かるからこそ、淡々と……というのは確かに○な気がする。
母達の場合は健常者ほどそういう意識はないだろうけど、本能的にはイヤなことだろうから、こちらはそこをおもんばかって淡々となるのかしらん?
ワカラン…そこまで思う余裕が私にあるのか?
でも、母はときおり、情けない…とか言うし~
介護って言ったときに、着替え、食事、排泄…それらが出来なくなって介助する…というイメージは簡単に湧く。
でも、認知症です…と言われても、日常の細々したあんなことやこんなことは想像が付かなかった。
今でも、新しい困ったコトが生まれて「何よ、これ」って思う。
その辺の違いもあるのかな?
屁理屈ともいえるようなことをあれこれ言われてし反発されるのって、イライラのもと。
……反発…これが一つキーかもね。
排泄の失敗は私たちへの反発じゃないもんね。出来ないんだから仕方ない…って思えるのかも?
でも、問題行動は、介護者に向かってくるものがあるし、生活していく上には、今、これをしてもらわないと困る、逆に今これをされては困るってのがあるもんね。
するとイライラが募る…
排泄だって困ることなんだけど…何かが違うのかな。
私のこだわりも、くだらないものだわ。
「これはここに置く」みたいな。
それをあっちこっちにもってかれるとイライラする。
頭の中では、これをやめちゃえばいいんだよーって思う。(と言ってやめてたら、殺伐とした家の中になりそうだ。玄関マットもラグも花瓶も何もない家)
母が固執した場合は潔く。
でも、譲りたくないモノは譲らない。
こんなことしてるからイライラするんだけど、意地でも譲らないモノが私もあります。
イライラするけど、これも一つの私のエネルギーの証明かな。