タイのビルマ国境で聞きとり調査を行っている秋元由紀さんからのレポートが再び届きました。忙しい中、寝る時間も惜しんで現地の様子を届けてくださる秋元さんには本当に感謝です。
カレン民族難民のビルマへの送還問題(1)
タイのビルマ(ミャンマー)国境沿いには、前回紹介したメラ難民キャンプを始めとした公式のキャンプのほかに、非公式の避難所のようなキャンプもあります。今回の調査訪問では、そのような非公式キャンプの一つにも入って、住民から話を聞いてきました(注)。
非公式キャンプにも国際NGOなどから食糧などの援助が一応届き、学校もあります。しかし、非公式キャンプはあくまでも「一時的な避難所である」、つまり、難民をそこにいつまでも住まわせておくつもりはない、という位置づけをタイ当局がしていることもあり、援助の充実度は公式の難民キャンプよりも低く、そこでの生活も、公式の難民キャンプでのものよりさらに不安定で、それが住民の不安につながっています。
今回、私たちが非公式キャンプに入ろうとしたのには、特別の理由がありました。数週間前から、私たちが入った非公式キャンプ(現地では「ノンブア・キャンプ」と呼ばれています)では、住民が(キャンプを直接管轄する)タイ軍から、「もうこのキャンプは閉鎖する。早くビルマ側に帰れ。帰らないと入管警察を呼んで逮捕させるぞ」などと強い圧力をかけられていたからです。この圧力のかけ方は相当だったようで、私たちも難民から以下のような話を聞きました。
・「自主的にビルマ側に戻らなければ、トラックにのせて連れて行くぞ」と脅された。(タイ軍兵士が)ピストルを持ってくることもある。怖い声を出す。(キャンプ内の学校の先生、男性)
・タイ軍はいつも昼間に来るので、対応するために授業を中断しなければならない。(同上)
・タイ軍が毎日のように「帰れ」と言いにくるが、家族を支えることもできないしどうしろというのか。(昨年6月、地雷を踏んで両脚を失い、まだ傷口が完治せず、妻と5人の子どもを抱える男性、35才)
・(キャンプのある)土地の所有者が「土地を貸すのは6か月の約束だった。これ以上は貸せない、出て行ってほしいと言っている」、とタイ軍に言われた。(女性、40才)
このほか、話を聞いた人は皆、一日おきくらいにタイ軍が「帰れ」と言って回っていたと話していました。また、キャンプを閉じる意思を明確に示すためか、タイ軍は一部の家屋の取り壊しを始め、キャンプ内の学校の壁も取り払ってしまったとのこと。実際、骨組みだけになった家や、壁のない学校の建物を私も見てきました。
しかし難民はそう言われても、帰る先がない。そもそも安心して生活ができる場所に帰れる状況なのだったら、タイ軍に言われるまでもなく帰っていたでしょう。ノンブア・キャンプに住んでいる人たちは皆カレン民族で、元々は対岸のビルマ側にあった国内避難民キャンプに住んでいましたが、昨年6月にこの国内避難民キャンプが(ビルマ国軍と同盟している)民主カイン仏教徒軍(DKBA)からの砲撃を受けたため、川を渡ってタイ側に避難してきました。タイに渡って以来、ビルマ側にある元いたキャンプの周りには地雷がたくさん埋設され、毎月のように地雷による死傷者が出るようになっていました。このため、カレン民族の支援団体や国際NGOなどからタイ政府に対し、難民を無理に送還をしないよう求める声が高まっていたところでした(下記参照)。
【参考】
2010年2月2日、カレン女性機構(KWO)は、タイ政府にカレン民族難民の強制送還の中止を求める緊急要請書を発表。要請書の日本語訳はこちら。
http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=1&articleid=503
それでも「帰れ」との圧力がかかり続け、私たちがキャンプに入る直前の2月5日には、とうとう女性や子どもばかりの3家族が川を渡って「帰国」。しかし数日後にタイ側に戻ってくるという事件がありました。
私たちはこの3家族のうちの2家族に会って、ビルマ側に渡ったときの状況や、なぜタイ側に戻ってきたのか、直接聞くことができました。また、ノンブア・キャンプにも入って、キャンプの様子を見、住民から生活の様子について話を聞いてきました。<続く>
(注)ここでは詳しい理由は省きますが、厳密には、メラなどの公式キャンプも正式名称は「難民キャンプ」ではなく、「一時避難所」です。
【背景】
カレン女性機構(KWO)
1949年から活動を始めた。タイ・ビルマ国境のにいる難民と、ビルマ国内にいる避難民を支援する。また、女性の人権に対する認識を高め、女性の政治プロセスへの参加を促進するため、識字率向上や職業訓練、リーダーシップ教育も行っている。
http://www.karenwomen.org
カレン民族難民のビルマへの送還問題(2)
<前回からの続き>
ノンブア・キャンプはビルマ・タイ国境を流れる川沿いの村の一角にあります。川幅は狭いし、そんなに深くもないので、村からは対岸(ビルマ側)がすぐそばに見えます。
調査中に何度か、大きな破裂音のような爆発音のようなのも何度か聞こえてびっくりしました。初めて聞いたとき、銃声や砲撃とは異なる音なので、案内してくれた人の方を向くとすぐ、「あれは地雷が爆発する音だ」と。必ずしも誰かが踏んだわけではないのですが、あまりに音が近いのもあり、ぞっとしました。キャンプ内には、地雷による負傷者も数人いて、そのうち1人から詳しい話を聞きました。
・2009年6月の早朝、住んでいた村の近くで地雷を踏んだ。野菜を摘んでいるところだった。幸い一緒にいた友人2人が運んでくれ、その日のうちに(タイの)メーソットの病院に行けた。
・両脚を切断(右脚はひざから上、左脚はひざから下)。インタビュー時、まだ痛みとかゆみがあるとのこと。義足をもらったが、痛くてつけられないとのこと。
・入院や通院をしている間に、妻と、5人の子どもがノンブア・キャンプに入ったので、自分も4か月前に合流した。しかし自分は難民として登録されていないので、食糧など援助物資の配給が受けられない。
・ビルマに住んでいた頃、ビルマ軍に頻繁に無償で荷物運搬(ポーター)をさせられた。荷物は重く、食べ物の支給はないか、あってもとても少ない。長いときは一週間も拘束され、ビルマ軍と一緒に歩かされた。
・同い年のいとこが2009年4月に地雷を踏んで、亡くなった。
・国際社会に伝えたいこと: 今は家族を養うことができないのがつらい。子どもが学校でおやつを買うお金もやれないのが情けない。2本の脚があった頃にはできたことが今はできない。ビルマにいた頃も、今も、何かに追われてばかりいる。これが僕の人生であるようだ。
切断したところを無意識にかしきりに触りながら話をするこの男性からは、働き盛りに両脚を失った無念さと、先がまったく見えないことへの不安がとても強く伝わってきました。
さて2月5日に起きた、カレン民族難民のビルマ側への「送還」あるいは「帰国」ですが、実際に帰国した難民の話や、現地の事情に詳しい援助団体(カレン女性機構、カレン人権グループ、タイ・ビルマ国境支援協会など)の話を総合すると、次のような経緯だったようです。
それまでの数週間の間、ノンブア・キャンプに住む難民に対し、タイ軍が「ビルマ側に帰れ」と強い圧力をかけていたことは前回のレポートで詳しく書きました。2月5日には、3家族の10人あまりが車でキャンプから国境の川まで連れて行かれ、ボートで川を渡ってビルマ側に入りました。このとき、国際NGOなどが懸念していたような、暴力を振るわれたり、(力ずくでボートに乗せられたなど)物理的に強制されたという事実はなかったようです。
タイ軍は、あくまでも難民が自主的に帰国した、という演出をしたかったようです。「帰国」したうちの一人(女性、40才)はこう話しました。
・(ビルマ側には)地雷がたくさんあるので帰りたくなかった。しかしタイ軍兵士の顔が怖かった。あまりにも「帰れ」「帰れ」と言われるので耐え切れなくなった。
・ビルマ側に渡る直前、タイ軍にインタビューされ、その模様をビデオで撮影された。ビルマ側に自主的に戻るのか、と質問されて、「ちがう」と答えたら、「その答えではだめだ」と言われた。
私たちの調査では、ノンブア・キャンプに住む数百人の中からなぜこの3家族が選ばれたのか、最後までわかりませんでした。限られた情報の中で推察されるのは、全員が女性か子どもで、「ノン・ルフールマン」などの保護原則のことや、送還に反対している国際NGOの存在も知らないので、強い圧力をかけられて言い返す、圧力をはねかえす力がなかったのが要因となったかもしれないことです。
渡った先には(ビルマ国軍と同盟し、現在その地域を支配している)民主カイン仏教徒軍(DKBA)が待っていて、3家族はその後数日間、DKBAの監視下で過ごしました。4日後、今度は突然DKBAにタイ側に戻るように言われ、タイ側に戻ってきたとのことです。この一見おかしな事の運びの裏には、現地の複雑な利害関係が働いているのでしょう。
ビルマ側で過ごした数日間について、上記の女性は次のように語りました。
・(集落の)学校だった建物で寝泊りした。地雷が怖くて外を歩き回れなかった。学校の周りの家屋にDKBA兵士が2人ずつ泊まり、常に監視されていた。
・夜は、DKBA兵士に乱暴されるかもしれないと思って怖くて眠れなかった。
カレン女性機構(KWO)の発表では、「3家族はビルマ側で身の危険を感じ、タイ側に戻った」とされていましたが、実際には(当然恐怖も感じていたが)常にDKBAに監視され、タイ側に戻りたくても戻れない状態にあり、最終的には何らかの事情でDKBAにタイ側に送り返された、ということのようです。
タイ側に戻ってきた後も、生活は楽ではありません。公式記録上はノンブア・キャンプを出たことになっている(難民としての登録が抹消されている)ので、キャンプには戻れず、国際NGOなどが支給する食料などの配給が受けられないのです。タイ当局に見つかれば逮捕されるかもしれません。3家族は、キャンプの外の知人の家などに身を寄せ、タイ軍に見つからないようにしているとのことでした。
ノンブア・キャンプを訪れた後、メーソットで、現地の状況を監視するカレン女性機構(KWO)やカレン人権グループ(KHRG)にも会って話を聞きました。両団体は、「難民がビルマ側に帰りたいと思っているのではなく、タイ軍の方が、難民にキャンプを出たいと思わせるような(居心地の悪い)状況を作り出している」とし、日本政府を含む国際社会やメディアに対し、この問題への注目を続けてほしいと話していました。また、「ビルマ側への送還を行う場合には、難民本人の意見を取り入れ、国際的な基準に沿って行うことが必要」というもっともな指摘もしていました。
タイ当局が難民をビルマ側に戻そうとしている背景には、タイが既に十数万人ものビルマ難民を受け入れ、相当な負担を負っているという事情もあります。従って、タイ側の負担を減らすことも、最終的には難民への圧力を軽減することにつながるでしょう。日本は今年から、メラ難民キャンプに住む難民を受け入れることが決まっていますが、この受け入れを継続・拡大することも助けになると思います。また、状況が許すようになったらですが、ビルマ側での地雷除去を助けることも視野に入れておいてほしいと思います。
ノンブア・キャンプでの調査を通じて、力のある利害関係者の思惑に力のない難民が振り回されていることへの挫折感と、他方で、現地の状況に国際NGOが都合の良い解釈を加えて世界に発信してしまうことの怖さとを、改めて感じました。この怖さをよくふまえて、これからも、自由でない人たちの代わりに声を上げることにつながる調査・報告活動をしていきたいと思う次第です。
【参考】
カレン人権グループ(KHRG)
1992年に設立。タイ・ビルマ国境やビルマ国内で、カレン州での強制労働、農村破壊、強制移住、拷問、収奪、レイプ等の人権侵害を調査・記録する活動を行い、ウェブサイトなどを通じて世界に発信している。
http://www.khrg.org/
カレン民族難民のビルマへの送還についてのページ(難民へのインタビュー記録あり)(英語)
http://khrg.org/khrg2010/khrg10b4.html
阪口直人政治活動ホームページ
阪口直人国際協力活動ホームページ
阪口直人のつぶやき(ツイッター)
ブログ「もうひとりの阪口直人」
カレン民族難民のビルマへの送還問題(1)
タイのビルマ(ミャンマー)国境沿いには、前回紹介したメラ難民キャンプを始めとした公式のキャンプのほかに、非公式の避難所のようなキャンプもあります。今回の調査訪問では、そのような非公式キャンプの一つにも入って、住民から話を聞いてきました(注)。
非公式キャンプにも国際NGOなどから食糧などの援助が一応届き、学校もあります。しかし、非公式キャンプはあくまでも「一時的な避難所である」、つまり、難民をそこにいつまでも住まわせておくつもりはない、という位置づけをタイ当局がしていることもあり、援助の充実度は公式の難民キャンプよりも低く、そこでの生活も、公式の難民キャンプでのものよりさらに不安定で、それが住民の不安につながっています。
今回、私たちが非公式キャンプに入ろうとしたのには、特別の理由がありました。数週間前から、私たちが入った非公式キャンプ(現地では「ノンブア・キャンプ」と呼ばれています)では、住民が(キャンプを直接管轄する)タイ軍から、「もうこのキャンプは閉鎖する。早くビルマ側に帰れ。帰らないと入管警察を呼んで逮捕させるぞ」などと強い圧力をかけられていたからです。この圧力のかけ方は相当だったようで、私たちも難民から以下のような話を聞きました。
・「自主的にビルマ側に戻らなければ、トラックにのせて連れて行くぞ」と脅された。(タイ軍兵士が)ピストルを持ってくることもある。怖い声を出す。(キャンプ内の学校の先生、男性)
・タイ軍はいつも昼間に来るので、対応するために授業を中断しなければならない。(同上)
・タイ軍が毎日のように「帰れ」と言いにくるが、家族を支えることもできないしどうしろというのか。(昨年6月、地雷を踏んで両脚を失い、まだ傷口が完治せず、妻と5人の子どもを抱える男性、35才)
・(キャンプのある)土地の所有者が「土地を貸すのは6か月の約束だった。これ以上は貸せない、出て行ってほしいと言っている」、とタイ軍に言われた。(女性、40才)
このほか、話を聞いた人は皆、一日おきくらいにタイ軍が「帰れ」と言って回っていたと話していました。また、キャンプを閉じる意思を明確に示すためか、タイ軍は一部の家屋の取り壊しを始め、キャンプ内の学校の壁も取り払ってしまったとのこと。実際、骨組みだけになった家や、壁のない学校の建物を私も見てきました。
しかし難民はそう言われても、帰る先がない。そもそも安心して生活ができる場所に帰れる状況なのだったら、タイ軍に言われるまでもなく帰っていたでしょう。ノンブア・キャンプに住んでいる人たちは皆カレン民族で、元々は対岸のビルマ側にあった国内避難民キャンプに住んでいましたが、昨年6月にこの国内避難民キャンプが(ビルマ国軍と同盟している)民主カイン仏教徒軍(DKBA)からの砲撃を受けたため、川を渡ってタイ側に避難してきました。タイに渡って以来、ビルマ側にある元いたキャンプの周りには地雷がたくさん埋設され、毎月のように地雷による死傷者が出るようになっていました。このため、カレン民族の支援団体や国際NGOなどからタイ政府に対し、難民を無理に送還をしないよう求める声が高まっていたところでした(下記参照)。
【参考】
2010年2月2日、カレン女性機構(KWO)は、タイ政府にカレン民族難民の強制送還の中止を求める緊急要請書を発表。要請書の日本語訳はこちら。
http://www.burmainfo.org/article/article.php?mode=1&articleid=503
それでも「帰れ」との圧力がかかり続け、私たちがキャンプに入る直前の2月5日には、とうとう女性や子どもばかりの3家族が川を渡って「帰国」。しかし数日後にタイ側に戻ってくるという事件がありました。
私たちはこの3家族のうちの2家族に会って、ビルマ側に渡ったときの状況や、なぜタイ側に戻ってきたのか、直接聞くことができました。また、ノンブア・キャンプにも入って、キャンプの様子を見、住民から生活の様子について話を聞いてきました。<続く>
(注)ここでは詳しい理由は省きますが、厳密には、メラなどの公式キャンプも正式名称は「難民キャンプ」ではなく、「一時避難所」です。
【背景】
カレン女性機構(KWO)
1949年から活動を始めた。タイ・ビルマ国境のにいる難民と、ビルマ国内にいる避難民を支援する。また、女性の人権に対する認識を高め、女性の政治プロセスへの参加を促進するため、識字率向上や職業訓練、リーダーシップ教育も行っている。
http://www.karenwomen.org
カレン民族難民のビルマへの送還問題(2)
<前回からの続き>
ノンブア・キャンプはビルマ・タイ国境を流れる川沿いの村の一角にあります。川幅は狭いし、そんなに深くもないので、村からは対岸(ビルマ側)がすぐそばに見えます。
調査中に何度か、大きな破裂音のような爆発音のようなのも何度か聞こえてびっくりしました。初めて聞いたとき、銃声や砲撃とは異なる音なので、案内してくれた人の方を向くとすぐ、「あれは地雷が爆発する音だ」と。必ずしも誰かが踏んだわけではないのですが、あまりに音が近いのもあり、ぞっとしました。キャンプ内には、地雷による負傷者も数人いて、そのうち1人から詳しい話を聞きました。
・2009年6月の早朝、住んでいた村の近くで地雷を踏んだ。野菜を摘んでいるところだった。幸い一緒にいた友人2人が運んでくれ、その日のうちに(タイの)メーソットの病院に行けた。
・両脚を切断(右脚はひざから上、左脚はひざから下)。インタビュー時、まだ痛みとかゆみがあるとのこと。義足をもらったが、痛くてつけられないとのこと。
・入院や通院をしている間に、妻と、5人の子どもがノンブア・キャンプに入ったので、自分も4か月前に合流した。しかし自分は難民として登録されていないので、食糧など援助物資の配給が受けられない。
・ビルマに住んでいた頃、ビルマ軍に頻繁に無償で荷物運搬(ポーター)をさせられた。荷物は重く、食べ物の支給はないか、あってもとても少ない。長いときは一週間も拘束され、ビルマ軍と一緒に歩かされた。
・同い年のいとこが2009年4月に地雷を踏んで、亡くなった。
・国際社会に伝えたいこと: 今は家族を養うことができないのがつらい。子どもが学校でおやつを買うお金もやれないのが情けない。2本の脚があった頃にはできたことが今はできない。ビルマにいた頃も、今も、何かに追われてばかりいる。これが僕の人生であるようだ。
切断したところを無意識にかしきりに触りながら話をするこの男性からは、働き盛りに両脚を失った無念さと、先がまったく見えないことへの不安がとても強く伝わってきました。
さて2月5日に起きた、カレン民族難民のビルマ側への「送還」あるいは「帰国」ですが、実際に帰国した難民の話や、現地の事情に詳しい援助団体(カレン女性機構、カレン人権グループ、タイ・ビルマ国境支援協会など)の話を総合すると、次のような経緯だったようです。
それまでの数週間の間、ノンブア・キャンプに住む難民に対し、タイ軍が「ビルマ側に帰れ」と強い圧力をかけていたことは前回のレポートで詳しく書きました。2月5日には、3家族の10人あまりが車でキャンプから国境の川まで連れて行かれ、ボートで川を渡ってビルマ側に入りました。このとき、国際NGOなどが懸念していたような、暴力を振るわれたり、(力ずくでボートに乗せられたなど)物理的に強制されたという事実はなかったようです。
タイ軍は、あくまでも難民が自主的に帰国した、という演出をしたかったようです。「帰国」したうちの一人(女性、40才)はこう話しました。
・(ビルマ側には)地雷がたくさんあるので帰りたくなかった。しかしタイ軍兵士の顔が怖かった。あまりにも「帰れ」「帰れ」と言われるので耐え切れなくなった。
・ビルマ側に渡る直前、タイ軍にインタビューされ、その模様をビデオで撮影された。ビルマ側に自主的に戻るのか、と質問されて、「ちがう」と答えたら、「その答えではだめだ」と言われた。
私たちの調査では、ノンブア・キャンプに住む数百人の中からなぜこの3家族が選ばれたのか、最後までわかりませんでした。限られた情報の中で推察されるのは、全員が女性か子どもで、「ノン・ルフールマン」などの保護原則のことや、送還に反対している国際NGOの存在も知らないので、強い圧力をかけられて言い返す、圧力をはねかえす力がなかったのが要因となったかもしれないことです。
渡った先には(ビルマ国軍と同盟し、現在その地域を支配している)民主カイン仏教徒軍(DKBA)が待っていて、3家族はその後数日間、DKBAの監視下で過ごしました。4日後、今度は突然DKBAにタイ側に戻るように言われ、タイ側に戻ってきたとのことです。この一見おかしな事の運びの裏には、現地の複雑な利害関係が働いているのでしょう。
ビルマ側で過ごした数日間について、上記の女性は次のように語りました。
・(集落の)学校だった建物で寝泊りした。地雷が怖くて外を歩き回れなかった。学校の周りの家屋にDKBA兵士が2人ずつ泊まり、常に監視されていた。
・夜は、DKBA兵士に乱暴されるかもしれないと思って怖くて眠れなかった。
カレン女性機構(KWO)の発表では、「3家族はビルマ側で身の危険を感じ、タイ側に戻った」とされていましたが、実際には(当然恐怖も感じていたが)常にDKBAに監視され、タイ側に戻りたくても戻れない状態にあり、最終的には何らかの事情でDKBAにタイ側に送り返された、ということのようです。
タイ側に戻ってきた後も、生活は楽ではありません。公式記録上はノンブア・キャンプを出たことになっている(難民としての登録が抹消されている)ので、キャンプには戻れず、国際NGOなどが支給する食料などの配給が受けられないのです。タイ当局に見つかれば逮捕されるかもしれません。3家族は、キャンプの外の知人の家などに身を寄せ、タイ軍に見つからないようにしているとのことでした。
ノンブア・キャンプを訪れた後、メーソットで、現地の状況を監視するカレン女性機構(KWO)やカレン人権グループ(KHRG)にも会って話を聞きました。両団体は、「難民がビルマ側に帰りたいと思っているのではなく、タイ軍の方が、難民にキャンプを出たいと思わせるような(居心地の悪い)状況を作り出している」とし、日本政府を含む国際社会やメディアに対し、この問題への注目を続けてほしいと話していました。また、「ビルマ側への送還を行う場合には、難民本人の意見を取り入れ、国際的な基準に沿って行うことが必要」というもっともな指摘もしていました。
タイ当局が難民をビルマ側に戻そうとしている背景には、タイが既に十数万人ものビルマ難民を受け入れ、相当な負担を負っているという事情もあります。従って、タイ側の負担を減らすことも、最終的には難民への圧力を軽減することにつながるでしょう。日本は今年から、メラ難民キャンプに住む難民を受け入れることが決まっていますが、この受け入れを継続・拡大することも助けになると思います。また、状況が許すようになったらですが、ビルマ側での地雷除去を助けることも視野に入れておいてほしいと思います。
ノンブア・キャンプでの調査を通じて、力のある利害関係者の思惑に力のない難民が振り回されていることへの挫折感と、他方で、現地の状況に国際NGOが都合の良い解釈を加えて世界に発信してしまうことの怖さとを、改めて感じました。この怖さをよくふまえて、これからも、自由でない人たちの代わりに声を上げることにつながる調査・報告活動をしていきたいと思う次第です。
【参考】
カレン人権グループ(KHRG)
1992年に設立。タイ・ビルマ国境やビルマ国内で、カレン州での強制労働、農村破壊、強制移住、拷問、収奪、レイプ等の人権侵害を調査・記録する活動を行い、ウェブサイトなどを通じて世界に発信している。
http://www.khrg.org/
カレン民族難民のビルマへの送還についてのページ(難民へのインタビュー記録あり)(英語)
http://khrg.org/khrg2010/khrg10b4.html
阪口直人政治活動ホームページ
阪口直人国際協力活動ホームページ
阪口直人のつぶやき(ツイッター)
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