阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

海外で犠牲になった日本人を巡るその後-後藤健二さんと中田厚仁さんが遺したもの

2015年02月14日 22時01分50秒 | 政治

 『イスラム国』に拘束され、殺害されたお二人の日本人の事件は、最近もっとも強い印象を社会に与えたニュースだったと思います。海外での日本人の殺害事件として、今回に匹敵する社会的インパクトを与えたのは、国連カンボジア暫定統治機構に国連ボランティアとして活動中に銃撃されて亡くなった中田厚仁さんの事件(1993年4月8日)だったと思います。

 中田さんの事件がきっかけでテレビ朝日の報道ステーション(当時はニュースステーション)が46日連続カンボジアをトップニュースにしたと聞きましたが、各局とも中田厚仁さんや、息子の遺志を継いで国連ボランティア名誉大使になられたお父様の価値観や生き方を何度も特集し、プノンペンでの研修中、ルームメートだった私も何度もインタビューされる機会がありました。今でも中田厚仁さんの名前を言えば大抵の人が思い出してくれるほど日本人の脳裏に鮮烈な印象を与えた事件であり、その後の展開でした。

 湾岸戦争に140億ドルを拠出したにもかかわらず、感謝されなかった(ということになってる)。ならば…と、日本中を議論に巻き込んでPKO協力法ができ、人的貢献として自衛隊を初めて海外に派遣し道路補修を実施。しかし、自らの意志で赴いた国連ボランティアが自衛隊より遥かに危険な地域で他国の平和のために活動し、命を落とした事件がどれほど衝撃的だったか。現地にいた私には痛烈に伝わってきました。

 戦後、日本は確かに豊かになった。でも、自分たちだけの豊かな生活を追い求めてもいいのか?そんな問題提起が中田さんの姿を通して人々の心に刺さり、日本人の価値観を揺さぶった気がします。メディアも中田さんの生き方を極めて肯定的に捉えていたと思います。

 日本人の新たな生き方、また職業としての国際協力という選択肢、以前はほとんどなかったポジションが確立されたのもこの流れだったと思います。そのためにどうすればいいかという方法論が次第に確立され、新しい学部や大学院が設立される大きな流れの起点があの事件でした。私自身も『国際ボランティア学科』を設立した学校に学科長および専任講師として迎えられました。2年後に阪神大震災が起こり、「困っている人を助けたい」と駆り立てられるような思いで被災地に向かった人々にも大きな影響を与えていたこと、同じく現地で活動していた私も実感しました。

 しかし、中田さんとは同い年の後藤さんの事件をきっかけに感じるのは、全く逆の流れです。危ない地域に勝手に行ったんだから殺されたのは自己責任。自分たちには関係のない国でのことなんだから対応は政府に任せていればいい。政府の対応に疑問を呈したり批判するのは非国民。そんな国民の声がネットを支配し、その流れを政権自身が巧妙に作っている。昨日、『国境なき記者団』が発表した各国の報道の自由について報道がありましたが、日本は安倍政権になってから2年連続順位を落として韓国より下の61位。果たして健全な民主主義が機能しているレベルと言えるのか、危惧を抱かざるを得ません。

 後藤さんの渡航の理由や政府の対応の是非については今後検証されなくてはなりません。しかし、紛争や貧困の中で懸命に生きている子供たちの瞳の美しさに魅せられたひとりとして、あの子たちのためにも何とかしたい、しなければと思う気持ちが現地に向かう思いを後押ししたであろうこと、痛いほどわかります。

 自己責任論のもとに思考停止状態になることで『想像する』ことを放棄してしまうのは日本人が世界に貢献できる可能性を制約してしまうと危惧します。政治が露骨に介入し、メディアが加担することによってその状況が作られ、加速しているから余計腹立たしく、危機感を感じています。後藤さんが望んだのは決してこんな状況ではなかったはずです。



屋台で商売をする家族を手伝う女の子(1992)



牛舎に乗って農作業から帰る男の子(1992)


マラリアから退院した私を花を持ってお見舞いに来てくれた女の子たち(1993)



森林伐採による洪水で水没した村で会った女の子(1995)


研修を終えて任地・コンポントムに向かう中田厚仁さんと握手(1992)


中田厚仁さんが倒れていた場所にできた学校(2013)