これは例え話です。
わかりやすくするため、ドラえもんの登場人物の名前を拝借してますが
キャラクターは全く別物と考えてくださいませ。
***************************
あるクラスで
体が大きくて、頭もよいのですが
何かあるとすぐに声を荒げて暴言を言ったり、
実際に暴力を振るったりして自分の意思を通そうとする「ジャイアン」がいました。
ほかの子どもたちは
何もなければ、一緒に楽しそうに遊んではいましたが、
心の奥底では「ジャイアン」のことを怖く感じ、恐れおののいていました。
タイプに分けると、
その「ジャイアン」にすり寄る「スネ夫」タイプや
陰でこそこそしてるけど彼にばれるとすぐに暴言や暴力で押さえつけられてしまう「のび太」タイプ、
堂々と正論で「ジャイアン」に立ち向かう「デキスギ」タイプや「しずか」タイプです。
先生は子どもたちの力関係に関しては子どもにまかせっきり。
「ジャイアン」も先生の前では言いつけをある程度守るので、
そんなに問題視もされてはいません。
何回かの子ども同士のトラベルを経て、
「ジャイアン」を含めたクラス全員で、
『トラブル解決に「暴言」「暴力」を使うのはやめよう』
ということを約束することができました。
ある日、
みんなでかくれんぼをしようと公園に集まったのですが
のび太が「鬼ごっこにしようよ」と提案したところ、
みんなに却下されてしまいました。
のび太は不満そうにぶつくさ文句を言ってましたが
みんなは軽く聞き流して、かくれんぼを始めようとしました。
そこへ、ジャイアンがやってきて言いました。
『みんなで鬼ごっこをしようぜ』
「ええ~、今からかくれんぼしようって決まったから、遊ぶんなら一緒にかくれんぼしようよ。」
『なにおっ!それは俺がいない間に勝手に決めたことじゃねえかっ!俺には意見を言う権利もねえのかっ!』
と、怒り出してしまったので
渋々鬼ごっこに変更になってしまいました。
みんな平等のはずの
このクラスでは、
力関係の影響力を考えれば、
まだまだ「ジャイアン」こそが実質的な「最高権力者」だったのでした。
***************************
このお話は、ボクが考えた架空のお話なんですが
現実でもよくありそうなシチュエーションですよね。
さて、ここでは
下線部のセリフをどうとらえるのかというところを少しかんがえてみようと思っています。
『それは俺がいない間に勝手に決めたことじゃねえかっ!俺には意見を言う権利もねえのかっ!』
文面的には
誰でも持っているはずの「意見表明の自由」を主張しているだけで
何も問題はないですよね。
ちょっと声を荒げた状態のようですけど「暴言」と判断されるほどではないような気もします。
でも、のび太の意見は簡単に却下され
ジャイアンの意見は採用されました。
平等であるはずの意見の重さに違いが表れています。
どこかに何か大事な問題が隠されているのです。
一体何がここで起きたのでしょうか?
ボクの考えでは
「ここでは何も起きてはいなかった」と考えます。
ただ、これ以前まで少しずつ起きたことの積み重ねが表面に現れたのだということだけです。
もっと言うと、
これまでの生活の中でみんなの心の中に蓄積されていた『力関係』が表出されただけだということなのです。
ほかのみんなはジャイアンのことが怖かったものですから、
ジャイアンが自分の意見を主張しただけなのに
トラブル回避のために、みんなが自分の意見を曲げてしまい
結局、ジャイアンが自分の意見を押し付けたような形になってしまったのです。
実は、このことは
ほかのどんな場面でも起こり得るのです。
ちょうど「権力者」と「言論の自由」について国会で論戦があったようです。
安倍さんがTV番組に出演した時、
その番組の「街頭インタビューの意見」のかたよりについて
「おかしいじゃないですか。平等な報道を求める。」というような内容の発言があったとして、
国会でその真意を質問されたところ、
安倍総理は「私の考えをそこで述べるのは言論の自由だ」「そんなことで委縮するなんて極めて情けない。」と答弁し、
菅官房長官も「総理大臣においても表現の自由は守られるべきだ。問題視することのほうがおかしい。」と述べています。
もちろん、言論や表現だけでなく、どんな自由でもそうですが、
この自由を束縛することはできないと考えますので、
この二人の主張は間違ってはいません。
間違ってはいないのですが
公人、権力者においては「公的な配慮や義務」が必要になってくるのです。
法律的に「権力を与えられている者」は
その権力をほかの者の自由を守るために使うべきなのです。
だからこそ、その強大な権力が与えられているといっても過言ではありません。
「個人的な自由」のほうを押し通したければ
今持っている「権力」を放棄して、「個人的な自由」を主張すべきなのです。
この二人の意見が問題になっているのは
公的な権力を他者の自由を守ることに使っていないのではないか、という懸念からなのです。
例えば、
政府のやり方に批判的な番組制作も当然ありですよね。
個人への誹謗中傷でなければ、それが報道機関の役割でもあるわけですから。
それなのに、そこを抑えようとするのは
権力者としてその権力を他者のみんなのために使っているとは言えないと思います。
「権力に委縮するのは極めて情けない」という意見も問題です。
ご自分が持っている「権力」について、そうとうな認識不足があるからです。
「権力」に委縮するのは決して情けなくはありません。
みんなが委縮することこそが「権力」なのです。
委縮しない権力は「権力」ではありえません。
すべてのひとは「権力」の前では萎縮しなくちゃいけないのです。
そのことを「権力者」はしっかりと理解して権力を行使しなければ
本当に正しく権力を行使することはできません。
権力とはどういうことかを理解していないからこそ、
前述した「ジャイアン」のようにまちがって行使されてしまうのですよ。
「ジャイアン」自身は「権力」を持っているなんて思ってもいません。
逆に「自由を阻害」されているとさえ感じているのです。
このことと、
今回の安倍さんって、なんだかよく似てるような気がしませんか?
わかりやすくするため、ドラえもんの登場人物の名前を拝借してますが
キャラクターは全く別物と考えてくださいませ。
***************************
あるクラスで
体が大きくて、頭もよいのですが
何かあるとすぐに声を荒げて暴言を言ったり、
実際に暴力を振るったりして自分の意思を通そうとする「ジャイアン」がいました。
ほかの子どもたちは
何もなければ、一緒に楽しそうに遊んではいましたが、
心の奥底では「ジャイアン」のことを怖く感じ、恐れおののいていました。
タイプに分けると、
その「ジャイアン」にすり寄る「スネ夫」タイプや
陰でこそこそしてるけど彼にばれるとすぐに暴言や暴力で押さえつけられてしまう「のび太」タイプ、
堂々と正論で「ジャイアン」に立ち向かう「デキスギ」タイプや「しずか」タイプです。
先生は子どもたちの力関係に関しては子どもにまかせっきり。
「ジャイアン」も先生の前では言いつけをある程度守るので、
そんなに問題視もされてはいません。
何回かの子ども同士のトラベルを経て、
「ジャイアン」を含めたクラス全員で、
『トラブル解決に「暴言」「暴力」を使うのはやめよう』
ということを約束することができました。
ある日、
みんなでかくれんぼをしようと公園に集まったのですが
のび太が「鬼ごっこにしようよ」と提案したところ、
みんなに却下されてしまいました。
のび太は不満そうにぶつくさ文句を言ってましたが
みんなは軽く聞き流して、かくれんぼを始めようとしました。
そこへ、ジャイアンがやってきて言いました。
『みんなで鬼ごっこをしようぜ』
「ええ~、今からかくれんぼしようって決まったから、遊ぶんなら一緒にかくれんぼしようよ。」
『なにおっ!それは俺がいない間に勝手に決めたことじゃねえかっ!俺には意見を言う権利もねえのかっ!』
と、怒り出してしまったので
渋々鬼ごっこに変更になってしまいました。
みんな平等のはずの
このクラスでは、
力関係の影響力を考えれば、
まだまだ「ジャイアン」こそが実質的な「最高権力者」だったのでした。
***************************
このお話は、ボクが考えた架空のお話なんですが
現実でもよくありそうなシチュエーションですよね。
さて、ここでは
下線部のセリフをどうとらえるのかというところを少しかんがえてみようと思っています。
『それは俺がいない間に勝手に決めたことじゃねえかっ!俺には意見を言う権利もねえのかっ!』
文面的には
誰でも持っているはずの「意見表明の自由」を主張しているだけで
何も問題はないですよね。
ちょっと声を荒げた状態のようですけど「暴言」と判断されるほどではないような気もします。
でも、のび太の意見は簡単に却下され
ジャイアンの意見は採用されました。
平等であるはずの意見の重さに違いが表れています。
どこかに何か大事な問題が隠されているのです。
一体何がここで起きたのでしょうか?
ボクの考えでは
「ここでは何も起きてはいなかった」と考えます。
ただ、これ以前まで少しずつ起きたことの積み重ねが表面に現れたのだということだけです。
もっと言うと、
これまでの生活の中でみんなの心の中に蓄積されていた『力関係』が表出されただけだということなのです。
ほかのみんなはジャイアンのことが怖かったものですから、
ジャイアンが自分の意見を主張しただけなのに
トラブル回避のために、みんなが自分の意見を曲げてしまい
結局、ジャイアンが自分の意見を押し付けたような形になってしまったのです。
実は、このことは
ほかのどんな場面でも起こり得るのです。
ちょうど「権力者」と「言論の自由」について国会で論戦があったようです。
安倍さんがTV番組に出演した時、
その番組の「街頭インタビューの意見」のかたよりについて
「おかしいじゃないですか。平等な報道を求める。」というような内容の発言があったとして、
国会でその真意を質問されたところ、
安倍総理は「私の考えをそこで述べるのは言論の自由だ」「そんなことで委縮するなんて極めて情けない。」と答弁し、
菅官房長官も「総理大臣においても表現の自由は守られるべきだ。問題視することのほうがおかしい。」と述べています。
もちろん、言論や表現だけでなく、どんな自由でもそうですが、
この自由を束縛することはできないと考えますので、
この二人の主張は間違ってはいません。
間違ってはいないのですが
公人、権力者においては「公的な配慮や義務」が必要になってくるのです。
法律的に「権力を与えられている者」は
その権力をほかの者の自由を守るために使うべきなのです。
だからこそ、その強大な権力が与えられているといっても過言ではありません。
「個人的な自由」のほうを押し通したければ
今持っている「権力」を放棄して、「個人的な自由」を主張すべきなのです。
この二人の意見が問題になっているのは
公的な権力を他者の自由を守ることに使っていないのではないか、という懸念からなのです。
例えば、
政府のやり方に批判的な番組制作も当然ありですよね。
個人への誹謗中傷でなければ、それが報道機関の役割でもあるわけですから。
それなのに、そこを抑えようとするのは
権力者としてその権力を他者のみんなのために使っているとは言えないと思います。
「権力に委縮するのは極めて情けない」という意見も問題です。
ご自分が持っている「権力」について、そうとうな認識不足があるからです。
「権力」に委縮するのは決して情けなくはありません。
みんなが委縮することこそが「権力」なのです。
委縮しない権力は「権力」ではありえません。
すべてのひとは「権力」の前では萎縮しなくちゃいけないのです。
そのことを「権力者」はしっかりと理解して権力を行使しなければ
本当に正しく権力を行使することはできません。
権力とはどういうことかを理解していないからこそ、
前述した「ジャイアン」のようにまちがって行使されてしまうのですよ。
「ジャイアン」自身は「権力」を持っているなんて思ってもいません。
逆に「自由を阻害」されているとさえ感じているのです。
このことと、
今回の安倍さんって、なんだかよく似てるような気がしませんか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます