自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

隣の砂留

2012-02-18 16:12:08 | Weblog
堂々川の日本最大の石ずみ砂留
この脇にある石碑の歌の読み方をまだ調べている。
良い意味では研究熱心
悪く言えばしつこい
どちらでもよいがまだ真面目に調べています。
そして多くの方にご意見をいただいております。ありがとうございました。


堂々川の最大の砂留


碑にある歌の「彌砂」は何か調べていると
「西中条村詩」の中にヒントがあり中条公民館を訪ねた。
主事さんよると彌谷には大きな砂留があり、ここは現在整備中との話を聞いて早速出かけた。
堂々川以外の地であり地理に不案内なため地図を調べた。


神辺町西中条深水地区


先ほどの村詩の著者「金尾直樹」の邸宅


今は別の人の邸宅


江戸・明治・大正の大富豪の面影が残っている。
「潼々谷餘滴」の裁判記録にも出てくる人だ。
さて、この家のすぐ北側に
深水古砂留がある



今この地区の町内会あげて整備に取組まれておられるようだ


堂々川の砂留とは少し作りが違う。
作られた年代は江戸時代の半ば?この地に砂留を作り始めた最初のころと思う。
深水川沿いで中条小学校へ向かう道の脇だから散策するには最高だ。
さて問題の彌谷だがここからもう一つ上にある砂留「深水砂留」の上手を東にとる。


深水砂留


彌谷に入り、平成元年コンクリートで作った砂留の上を超えて
彌谷川を右手に山の曽根を左に見て約7分上流へ歩いての登る。
戦国時代の山城「菖蒲山城跡(別名真瀬城)」が頂上付近にあったと言う。



彌谷砂留


この砂留の規模は堂々川で比較すると3、4番目ぐらいの規模
つまりヒガンバナで有名にしょうとしている5番砂留程度と理解してほしい。
まだ整備が始まったばかりだが草木、笹が生い茂り大変な作業である。
堂々川ではこのあたりになると西隣の砂留だからお手伝いをしょうかとも思うが
こちらも忙しい(人が滅ぶ文字)から要請がないと行きずらい。
このブログを見る人がいたらこの冬3月までにあらかたの整備を進めることを薦める。
これだけ谷が深いと何が出てくるかわからない。
(だからここあたりを深水と言うのかも)
この彌谷が堂々川の歌の中に出ているのは間違いないと確信した。
しかも出典の作者の家の上流。
この家の田地は此処あたりではNO1の地主。
自分の土地を守るための砂留であることも垣間見ることが出来た。
彌谷砂留のすぐ下にも小さな砂留を見つけた。


名前はわからない


多分この砂留も江戸時代に造られたものだろう。
家に帰る途中
高屋川(明冶時代は神辺川と呼んでいたようだ)の堤防に
数十羽の鴨が陸で食事をしていたが我がカメラを見て
一斉に水に向かって飛びこむ。
残されたヌートリア



飛び込もうかそのまま陸に残ろうか迷っている。
農作物を荒らす害獣のくせに案外弱虫なんだなー!
かくして、約2時間の謎を解く旅は終わりになった。
近々読み方の結論が出そうである。