自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

今日の堂々川

2012-02-21 20:29:07 | Weblog
風のないの日の堂々川
池の水鏡は大変綺麗だから今日もこっそりのぞきに来た。


淀ケ池東砂留の水鏡
江戸時代の姿が上下で見えるようになった


実は明治時代の裁判でこの池の中央部から半分半分に分割された。

裁判記録を見ると当時それぞれの村は合併して
下御領村は御野村に、西中条村は中條村になった。
そしてどこでどうなったか、何年も続いた反論証拠提出が
大きな御野村になったら急に反論をやめてしまった。
この時点で御野村側は敗訴したことになる。
この内容に疑惑が湧き、いまだに金の力で負けたと長老が言っていたのである。
さて、帰属を争った場所の一つ鳶ケ迫谷



この上流の曽根の部分から西南は彌田谷(中条)へ、東南は堂々川(下御領)へ流れる。
改めて同好会の会員Iさんと彌田谷を訪ねた。
公民館で教えてもらった「彌田谷」の読みは「いやだに」
作業をしている人に聞いたら「やだに」と言われた。
この「やだ」ねったら「やだ」ねの「やだ」が今調べている歌の読み方に影響する。


小さな砂留


苔むして貫禄があり江戸時代の築造らしい。
砂留からしみ出た水の中に生き物が


確定はできないが
日本赤蛙?とアブの幼虫?


明治時代のあぶない関係はこのあたりから発祥したのだろうか・・・
Iさんと別れた後、思いだしたカスミサンショウウオの確認をしに再度堂々川へ。
此処へ来た形跡はない。



ホタルの幼虫を思わぬところで発見
その横ではニホンアカガエルの卵も





まだ歌の読み方を探す動きを続けている。



福山カントリークラブゴルフ場の中の
昔、大倉地区から小学校へ通った道の脇にある村境石。
ここを下れば先ほどの砂留の上を通り深水地区をぬける。
東中条村、松井・・、西中条村、金尾直樹と名前が彫ってある。
読みにくいが明治18年らしい。
ここは山の頂上が村境。
でも、下御領村とは川や池の真ん中。
推理はだんだん深水(ふかみ)にはまって行く。

Iさんから貰った古い時代の地図。備後地方之図。


吉備穴国


この地図には安那郡が書いてある。時代は古墳時代か?
又わからなくなったからネットで「日本書記」を調べてみた。
穴の国の穴がいつの間にか安那(あな)の字に変わってきている。
つまりこの頃は漢字は適当にあてはめられていたらしい。
あな=穴→安那
かなり判明してきた。
今日は収穫があったが
こんなことをして何になるのか自問自答をして見た。
興味のある人だけはすごいと言うかもしれないが
ほとんどの人は時間がもったいない!それがどうしたの!
ようやるは!
と言うことだそうだ。
「やだね」「いやだね」