自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

潼々谷餘滴

2012-02-24 20:19:54 | Weblog
謎が謎呼ぶ短歌の詠み方
時間をかけて周囲を探し、日本書紀までさかのぼり
多くの人の教えにより本日一つの結論にたどり着きました。
堂々川日本一の石積砂防の砂留、その砂留が崩落の危機に!
昨日の雨で又、砂留の内部の砂が流れ出し川は濁り、砂留を構成する石が落下している。


石が落ちて穴が開く

亀裂は数日前の5倍にも


早い時期に修理の対応がなされているから「あーだ、こうだと言うことなしに」
素直に「潼々谷餘滴」の解決問題に入ることが出来る。


この碑とある人の詠んだ歌について

裁判記録


「潼々谷餘滴」とは
明治26年に結審したこの地域の村々の境界を決めた裁判記録である。
その裁判記録では東の端がちょうどこの部分であると言う。
つまり堂々川の流れの中央部が境で結審している。
さて、歌の詠み方と歌の意味からこの場にあるのが妥当かを以下に検証する。
上の句
「安那の海は 彌砂の海と なりにけり
          川とは見えず 埋る砂留」

この歌の出展は「西中條村誌」 作者「金尾直樹」で確定して良いと思う。
但し、歌の作者は90%「金尾直樹」と推定しているが
本人がある人と書いているから確定はできない。
推定した資料
①「安那の海は島とたヽへし シトミやま なみかせたヽぬ 月をみるかな」
 金尾先生歌集の「福山八景」の中の一首が上記であり非常によく似ている。
②「西中條村誌」にも歌は多く挿入されているが他人の名前の場合はっきり記載されている。
 どう見ても金尾先生作と思えるものはある人、誰か等と記載されている。

歌は普通『575 77』で作られる。
金尾先生の歌は初句はすべて 5文字であるから「安那」を「やすな」とは読めない。
しかも中の句も
「いやすなのうみと」の8文字も気になる。
「彌砂」を「いやすな」と読むか「やすな」と読むか
今でもある人は「いやすな」 地元のお年寄りは「やすな」と言われる。
字余りもありだが、この方の文章から見て
8文字ではなく7文字を選ぶ人だと思っている。
いつものようにこの歌に関する証拠写真を見てみよう。
彌砂砂留


彌田谷にある小さな砂留
当然上流は埋まっている


彌田谷から深水川に合流する地点


深水砂留が作る川原

深水古砂留が作る川原


歌の作者と推定している人の邸宅はここから100mほど下流
そして1kmを下らない平地の田圃はほとんど自分のもの。
こうして見ると歌の情景はまさしくここと思える。


現在も残る金尾邸の石崖


よしんば、堂々川がその対象とすると


5番砂留川原


五番砂留がそうだが二山も超えたこの場が明治時代の歌にはなりずらい。
又場面が変わって
23日御野小学校で学習発表会があり招待を受けた。
全校約350人の生徒が各学年にわかれてオペレッタや構成劇を披露した。


歌は広島県でもトップレベルで毎年表彰をされる。


6年生の構成劇の一幕には「堂々川今昔」が組み込まれ
砂留


潼々谷餘滴の歌を詠みあげた


堂々川で子供達がゴミ拾い、水質調査、勉強会等に参加したのが
受賞の大きな項目と新聞紙上では書かれているが
校長先生、学年の担任の先生他、ご父兄の皆さま(東京まで同行されたお母さん)
堂々川以外の多くの地元の人の支援があったからこそだが


文部科学大臣賞受賞


すばらしい功績を収めた。
改めて「おめでとうございます」申し述べます。

謎解きの答えであるが

「あなのみは やすなのうみに なりにけり かわとはみえず うもるすなどめ」

めでたく「575 77」で収まり明治時代の歴史がそのまま当てはまっている。

この読み方で「堂々川今昔構成劇」では詠んで貰うようお願いした。

この読み方については反対の方もあると思う。

ちなみにある冊子では
「やすなのうみは いやすなのうみに なりにけり かわとはみえず うもるすなどめ」
と振り仮名がうってあった。

それがどうした文句があるかと強引には言いません。反対の方、意見交換ををしたいです。