28日(水)の長崎県は朝から風雨が強かったのですが、午前10時頃には雨が止み風も弱まって、夕方には日が届いたりと変わりやすい天気でした。
長野県町村会の先進地視察は、最初に長崎県波佐見町へ行く予定でしたが、秋雨前線の影響で九州北部地方は各地で断続的な大雨となり、長崎県北部では、1時間に推定約110~120ミリの猛烈な雨が降り、長崎県に大雨特別警報が発表され、波佐見町には大雨洪水警報と土砂災害警戒情報が発令され、土砂災害が発生する危険が非常に高くなっているため、波佐見町全域に 「(警戒レベル4」避難勧告)」 が出されたので、急遽一瀬町長さんに電話をし、視察は遠慮させていただきました。
そして、平成17年11月に開館しました、長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い建設しました「長崎歴史文化博物館」に視察に行きました。
南蛮貿易とキリスト教の関わりを「南蛮屏風」や朱印船貿易家たちの遺品などが多く展示されていました。
対馬藩を介して展開された日本と朝鮮の外交・貿易や唐船・オランダ船で行き交った長崎貿易が紹介してありました。
「長崎惣町絵図」「長崎くんち」を中心に、長崎の町を紹介してあり、長崎の賑わいと町の仕組みを説明していただきました。
近世長崎の海外交流史をテーマとする長崎歴史文化博物館のシンボル的な存在として、長崎奉行所立山役所の一部を復元整備してありました。
長崎奉行所の成立や変遷を、絵図面や出土品などを通して長崎奉行所立山役所のあらましや、127代を数える歴代長崎奉行を紹介し、遠山景晋(遠山の金さんの父)をはじめ、歴史に名を残した奉行の業績なども紹介されていました。
当時の絵図面や、発掘された玉砂利などから長崎奉行所立山役所の御白洲の情景を復元整備した所や、長崎奉行が藩主などの応接に使った書院の雰囲気を体験できるようになっていました。
長崎歴史文化博物館の視察では、長崎の歴史・文化等について多くのことを学ぶことができ、特にオランダ、中国、朝鮮との交流・貿易を通しての文化等の勉強になりました。
午後は、平成27年7月5日に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました、三菱長崎造船所第三船渠,三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーンなどを視察しながら、端島炭坑の軍艦島に向かいました。
小さな端島炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになったとのことです。
軍艦島は、最盛期の昭和35年年には5,000人以上の人が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度に達し、島内には小中学校や病院など生活は全て島内で賄えるようになり、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もあったとのことでした。
端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化を支えましたが、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより昭和49年に閉山、島は無人となりました。
午前中は上陸できませんでしたが、我々午後の船は運が良く上陸でき、主力坑だった第2竪坑跡や、端島炭坑の中枢であったレンガ造りの総合事務所、大正5年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造の7階建て30号アパートなどを視察できました。
軍艦島は、高層鉄筋コンクリートアパートが立ち並び、炭鉱での労働は過酷なものでしたが、1950年代後半でテレビの普及率はほぼ100%であったことなど、人々の暮らしはとても裕福であり、日本の近代化を支えた多くの人々の暮らしや生き様を感じられ、有意義な視察ができました。
▽ 朝の写真は上生坂方面の風景です。
その他生坂村では、保育園で体験保育、小学校6年生がセイジオザワ松本フェスティバル、中学校で集金日・1年生が校外活動結団式、公民館で歴史探訪教室、健康管理センターで集団検診などが行われました。
長野県町村会の先進地視察は、最初に長崎県波佐見町へ行く予定でしたが、秋雨前線の影響で九州北部地方は各地で断続的な大雨となり、長崎県北部では、1時間に推定約110~120ミリの猛烈な雨が降り、長崎県に大雨特別警報が発表され、波佐見町には大雨洪水警報と土砂災害警戒情報が発令され、土砂災害が発生する危険が非常に高くなっているため、波佐見町全域に 「(警戒レベル4」避難勧告)」 が出されたので、急遽一瀬町長さんに電話をし、視察は遠慮させていただきました。
そして、平成17年11月に開館しました、長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い建設しました「長崎歴史文化博物館」に視察に行きました。
南蛮貿易とキリスト教の関わりを「南蛮屏風」や朱印船貿易家たちの遺品などが多く展示されていました。
対馬藩を介して展開された日本と朝鮮の外交・貿易や唐船・オランダ船で行き交った長崎貿易が紹介してありました。
「長崎惣町絵図」「長崎くんち」を中心に、長崎の町を紹介してあり、長崎の賑わいと町の仕組みを説明していただきました。
近世長崎の海外交流史をテーマとする長崎歴史文化博物館のシンボル的な存在として、長崎奉行所立山役所の一部を復元整備してありました。
長崎奉行所の成立や変遷を、絵図面や出土品などを通して長崎奉行所立山役所のあらましや、127代を数える歴代長崎奉行を紹介し、遠山景晋(遠山の金さんの父)をはじめ、歴史に名を残した奉行の業績なども紹介されていました。
当時の絵図面や、発掘された玉砂利などから長崎奉行所立山役所の御白洲の情景を復元整備した所や、長崎奉行が藩主などの応接に使った書院の雰囲気を体験できるようになっていました。
長崎歴史文化博物館の視察では、長崎の歴史・文化等について多くのことを学ぶことができ、特にオランダ、中国、朝鮮との交流・貿易を通しての文化等の勉強になりました。
午後は、平成27年7月5日に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました、三菱長崎造船所第三船渠,三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーンなどを視察しながら、端島炭坑の軍艦島に向かいました。
小さな端島炭坑の島は、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになったとのことです。
軍艦島は、最盛期の昭和35年年には5,000人以上の人が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度に達し、島内には小中学校や病院など生活は全て島内で賄えるようになり、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もあったとのことでした。
端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化を支えましたが、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより昭和49年に閉山、島は無人となりました。
午前中は上陸できませんでしたが、我々午後の船は運が良く上陸でき、主力坑だった第2竪坑跡や、端島炭坑の中枢であったレンガ造りの総合事務所、大正5年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造の7階建て30号アパートなどを視察できました。
軍艦島は、高層鉄筋コンクリートアパートが立ち並び、炭鉱での労働は過酷なものでしたが、1950年代後半でテレビの普及率はほぼ100%であったことなど、人々の暮らしはとても裕福であり、日本の近代化を支えた多くの人々の暮らしや生き様を感じられ、有意義な視察ができました。
▽ 朝の写真は上生坂方面の風景です。
その他生坂村では、保育園で体験保育、小学校6年生がセイジオザワ松本フェスティバル、中学校で集金日・1年生が校外活動結団式、公民館で歴史探訪教室、健康管理センターで集団検診などが行われました。