はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

叔母の悲しみ 清和君の話

2023年05月23日 | 日々の出来事
2023/05/23


ここ数日間は京都行きもあり
いろいろなことがあり
慌ただしく過ごしていました。

書きたいことが、いくつもありますが
まず、昨日のことから書いておきたいと思います。


浜松の叔母から新茶が届きました。

叔母の実家の茶園で作ったもので
毎年送ってくれます。




早速お礼の電話をしましたが
電話に出ません。

もう89歳ですから
足が衰えてきているので
電話に出ないのも珍しくありません。

しばらくすると叔母からかかってきました。

いつもはハキハキした人なのですが
その電話の声がなんだか暗いのです。

私はいつものとおりの調子で
近況など訊いたり、話していると
「悲しいことがあった」と突然言いました。

訊いてみると
「清和が亡くなった」というのです。

清和君というのは叔母の長男
つまり私にとっては少し年下の従兄弟です。

ゴールデンウィークの前に亡くなり
ごく内輪で葬儀を済ませたのだそうです。


「どうして知らせてくれなかったの」
というと
「悲しすぎて言えなかった」
「誰にも言いたくなかった」



清和君は
結婚8年目にやっと授かった子でしたが
出産時、難産で鉗子分娩になったことから
脳に障害が残ってしまったのです。

医療事故ということですが
訴えたところで
清和君が元に戻るわけでもなく
訴えることはありませんでした。

脳性マヒとしては重度ではないけれど
不随意運動があり、歩き方、話し方も
不自由でした。

清和君は養護学校へ通い
高校からは親元を離れた学校に通っていました。

高校卒業後は近くの工場の軽作業の職に就いて
お見合いで障碍者同士の結婚をし
男の子にも恵まれました。

清和君夫婦は少し離れた町内に家を建てて
住んでいました。

叔父(清和君の父親)が2011年に亡くなり
その年、清和君は脊椎の手術をして
背骨にボルトを入れました。

その後少しづつ体が衰えてきて
歩くことが難しくなってきたようでした。


最近のようすは私から尋ねることもせず
叔母も話すことはありませんでした。






清和君は4月下旬に自宅の風呂で溺れて
亡くなったのです。

布団の上で安らかに逝くのではなく
誰にも見取られずに逝ったことが悲しすぎると
叔母は言います。

司法解剖のため1週間も
遺体が戻って来なかったことも悲しみを深めました。


叔母にとって清和君は
生涯つらい思いをさせた子であり
申し訳なさは生涯変わらなかったのだと
思います。


「悲しくて悲しくてたまらない」
「つらすぎて何もやる気がおきない」
と叔母は言いました。


でも、私はこうして叔母が
その気持ちを話せていることが
ある意味、救いだと思いました。

私も泣かないつもりでしたが
ついもらい泣きをしてしまいました。


私が泣いて押し黙ったので
「悲しい話をしてごめんね」と叔母は
かえってそう言って電話を切りました。


その後も私はしばらく悲しみについて
考えていました。


わが子を先に見送るほど
悲しいことはありません。

産まれてからずっと
そんなにも気にかけていた子を
自分の眼の黒いうちに見送ったのは
よかったのではないかと私は思ったのです。

叔母がそう思うとは限らないので
言いませんでしたが。

人の悲しみは当事者以外
誰にもわからないものです。



早くその悲しみが癒えてくれるといいと
願っています。

ここにこうして名前を出して書いておくのも
清和君という人がいたことの
証になるのではと思って書きました。








コメント (2)
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