はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

エスタブリッシュメントの方々

2024年07月25日 | 社会問題
2024/07/25


この記事は内田樹氏のブログ
『近代市民社会の再興のために』
という記事を参考にしています。


今まで気がつかなかった事実を示されて
政治というか
世間はそうなっているのかと
私は今更ながら頷いたのでした。

特にここでは
「エスタブリッシュメント」の人々
について書こうと思います。

少し固い話になるのですが
ご容赦ください。

「エスタブリッシュメント」というのは
支配階級のことです。
権力も地位もお金も持っている方々。

日本でエスタブリッシュメントといえば
政治家、高級官僚、大手企業の経営者
大手メディアなどかしら。



部分的に引用させていただきます。

内田 自民党の世襲議員たちは縁故がらみの部族を形成して、国民から供託された公権力を私利のために用い、公金を私物化しています。でも、そんな無法ができるのは、エスタブリッシュメントのメンバーたちがお互いに融通を図り、連携を密にして、相互扶助ネットワークを形成しているからです。

 一方、貧しい国民は「自己責任」を求められ、分断し孤立しています。奇妙な話ですが、豊かな人たちはしっかり相互扶助の仕組みを作り、その恩恵を享受しているのに対して、貧しい大衆は苛烈な競争に投じられ、お互いの足を引っ張り合い、公共財の分配に与ることができず、政治的に無力な状態に釘付けにされている。〉


私が驚いたのは
「エスタブリッシュメントのメンバーたちが
お互いに融通を図り、連携を密にして、
相互扶助ネットワークを形成している」
ということ。

いったん支配階級に入れば、あるいは
支配階級のグループ構成員だと認められれば
お互いに助け合って自分たちの
権利を守り合っているのです。

「自分たちは特別な存在だから
仲よくしようね」という共通認識があること。

自民党の裏金、政治資金規正法など
まさしくその典型じゃありませんか。


〈エスタブリッシュメントはしっかり相互扶助ネットワークを形成して、メンバーの政治的・経済的リスクをカバーしている。そのおかげで法を犯しても処罰されず、裏金を懐に入れても課税されない、どれほど失政をしてもメディアは報道しない・・・という仕方で特権を享受している。

それに対して、貧しく無力な大衆たちには「勝った者が総取りして、負けたものは自己責任で路頭で野垂れ死にするしかない」という新自由主義イデオロギーが選択的にアナウンスされている。〉

〈エスタブリッシュメントの方々は職業選択の自由も移動の自由も言論の自由も断念して、部族に忠誠を誓い、部族から命じられた役割を忠実に演じ、その代償として権力と富の分配に与っている。彼らは自分たちだけの「小さな公共」をとても大切にしている。(中略)ブルジョワジーは連帯し、プロレタリアは孤立させられている。〉

〈今の日本のように国民の多数が貧しく、政治的に無力な状態に置かれると、たしかに統治コストは安く上がります。支配層が公共財を私物化しても、公権力を私事に利用しても、異議を申し立てる人がいない。
「エスタブリッシュメント」にしてみたら、まことに暮らしやすい社会です。でも、そんな社会からはもう「新しいもの」は何も生まれてきません。どんどん国力が減退してゆくだけです。今の支配体制が続けば、日本の国際社会におけるプレゼンスは底なしに低下してゆくでしょう。〉

〈まだ日本にはいくらでも「売れるもの」がある。土地も売れるし、観光資源も売れるし、水も売れるし、社会的インフラも売れる。それを外資に売り払って私財に付け替えていれば、日本が沈む時に、自分たちだけはハワイでもシンガポールでもカナダでも逃げ出して、日本を売った代価で孫の代くらいまでなら優雅に暮らせる。〉

私は、日本を逃げだすとしたら
行き先はハワイ、シンガポール、カナダかと
そこだけは印象深く記憶したのでした。


どうあがいてもエスタブリッシュメントではなく
その他大勢の貧しい国民でしかない私は
お互いに協力すればなんとかなる
という知恵もなく分断されたまま
生きてきました。

でも内田氏の言うとおりに
違いないと思ったのでした。

政治家がなぜいつまでも権力の座に
こだわりつづけるのか・・・。

兵庫県知事はどうして辞職しないのか。
きっとおいしいことがあるに違いありません。

小池都知事はきっと最初から
エスタブリッシュメントだったのでしょうが
お仲間たちのグループにどっぷり浸かって
お互いの利益のために連携しています。

東京2020のオリンピックの時に
急にトーンダウンをして無言を貫いた姿勢に
「おやっ?」と感じた私ですが
今回も知事に再選されて
大手企業が関わっている神宮外苑の開発も
素知らぬ顔で推進していくつもりなんでしょう。

今になって思えば
エスタブリッシュメントの方々が
蓮舫さんを望むわけがなかったのです。

〈追記〉
エスタブリッシュの人々は
少し前から言われるようになった
「上級国民」だったと気がつきました。



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昨日の続き~ 電車のホームで おまけのミニトマト

2024年07月24日 | 雑感
2024/07/24


昨日の目の不自由な人の話の続きです。

駅のホームで電車を待っていたときのこと。
白杖を持った女性が立っていました。

電車が到着してドアが開いたとき
女性はすぐに乗らないで
白杖で電車の乗り口付近の床を
何回もトントンと叩いて
位置や距離を確認しているようでした。

私にはそれが戸惑っているように見えて
「お手伝いしましょうか」
と声をかけました。

すると、女性はムッと怒ったような表情になり
無言で電車に乗り込みました。

私は「ああ、余計なことをしてしまった」
と、心がチクリとしました。

もっと正直に言えば
声をかけて恥をかいた、と思ったのです。

手助けが必要でなかったとしても
「いいえ、けっこうです」とか
「ありがとうございます」の返事が
返ってくると思っていたのです。

私も続いて電車に乗ると
女性はドアのすぐ前に立っていました。
降りるときには、すぐに降りられる場所です。

今までの経験から、目の不自由な人が
困っているようだったら
手助けしようと思っていました。

でも
女性にとってはきっと乗り慣れた電車で
勝手はわかっていたのでしょう。

ホームと電車の距離を杖で何度も確認して
まさに乗り込もうとしたときに声をかけられた。

全神経を集中していたのに余計なことを
と思ったのかもしれません。


伊藤亜紗さんの
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
にも書いてありましたが
目の見える人が何かしてあげるというのは
目の見える人のほうが上位にいる
という考えがあってのこと。

「健常者が障害のある人に接するときに、何かしてあげなければいけない、特にいろいろな情報を与えてあげなければいけないと構えてしまう」(p.37)

目の見える人のほうが多数だから
見える人に都合よく作った世界です。

だから見えない人は困っていると
考えるのは正しくないのかもしれない。

少なくともそれがすべてに当てはまる
わけではない。

電車の人が何を感じていたのか
わかりませんが
これは私にはちょっとしたショックな
出来事でした。

しかし、だからといって
目の不自由なすべての人に
助けがいらないとは限らない。

これからもまわりを観察しながら
必要があると感じたら
お手伝いしようと思っている気持ちは
変りません。





・・・・・・おまけ・・・・・・・

ベランダのミニトマトが完熟したので
収穫しました。



触っただけでポロっと取れました。



小ぶりながら味が濃かったです。
完熟っておいしいなと思いました。

まだたくさん実がついているので
これからも楽しみ。



コメント (4)
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白杖を持った方に声をかけたら‥

2024年07月23日 | 雑感
2024/07/23

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
を読んでいることを、先日書きましたが

私が目の不自由な方と出会うことは
めったにありませんが
僅かながら関わりを持った時のことを
書いてみたいと思います。


昔のブログから引用します。
(多少長くなります)

2013年のこと。

中央図書館に行ったときのこと。
本やCDを借りて、5階から降りるエレベーターに乗りました。
乗ったのは私一人でしたが、ドアを閉めようとしたとき、ちょっと離れた場所から、ガツンと何かに当たるような音がして、「ああ!」という声が聴こえました。

まだ閉まっていないエレベーターの中から顔を出して見ると、女性が廊下に置かれた看板にぶつかって声をあげたのだとわかりました。

(あんな大きな看板にぶつかるなんて不注意な人だなあ)と思いました。
あの人もこのエレベーターに乗るのだろうかと「開」のボタンを押して待っていました。

その人はなかなかエレベーターのところに来ませんでした。もう一度顔を出して見ると、そのときに白杖を持っているということがわかりました。

その人がエレベーターの近くまで来たので、「乗られますか?」と尋ねると、
顔がぱっとうれしそうになって、「はい」と、杖で確認しながらエレベーターに乗り込んできました。馴れた様子でした。

私は(あんなに大きな看板に)と思ったけれど、白杖で看板を知ることはできず、目の見える人には何でもなくても、通路の1/3ほどを占める看板にぶつかってしまったのだなあと思いました。

図書館の廊下には、視覚障害者用の凸凹のラインがありますが、通路の一部に看板を置くとは、目の見える人の考えることだと思ったのです。

その人は降りる階のボタンを押していなかったので、「1階でいいですか」と聞くと「はい」。
二人でエレベーターに乗っていると「今日は雨が降るんでしょうか」と聞かれました。「今日はかなりいい天気で、日が照っています。」と答えながら、(お天気はわかりにくいのだろうな)と思いました。

1階に着くまでの短い間、話をして、1階でドアが開いてもその人はじっと立っていて降りませんでした。
(あ、音声もなく、ドアも無音で開いて、どうやって1階に着いたことを知ることができるのだろうか)と、私も気がついて、「1階に着きましたよ。」と声をかけると、その人は降りていきました。

エレベーターが何階で止まったのか、音声がないと目の見えない人には何も情報がないということも、そのとき気づきました。



数年後に経験したこと。

仕事に行く途中
自転車で坂道を下っていたら
道で「わからなくなっちゃった」
と大きな声でひとりごとを言って
うろうろしている女性がいました。

白杖を持っていたので
「どうしたんですか?」と声をかけると
図書館に行きたいのだが
(前とは別の図書館)
目印のポールがわからなくなってしまった
とのこと。

ポールとは標識のポールのことです。

その人の歩いてきた道から左に曲がる
目印になるポールだったのです。

「ポールならここにありますよ」
と手を引いて、触らせると
最初はちょっと疑っているような
様子でしたが
「前に駐車場はありますか?」
「ありますよ」と答えると
やっと安心したような様子を見せました。

「これがわかれば、あとは一人で行けます」
と言ったので
私も仕事に行く途中だったので
そこで別れたのでした。


そんな経験があったので
目の不自由な方が困っている様子だったら
声をかけようと思っていました。

最近ですが、電車に乗る時に
目の不自由な方と遭遇したことがありました。
そのとき、意外な反応をされたのです。

その時のことはまた次回に書きますね。


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熱波の毎日ですが

2024年07月22日 | 日々の出来事
2024/07/22


先週から猛暑が続いています。
今週はずっと35℃以上が続く予報ですね😱 


くらくらするような暑さですが
冷蔵庫で冷やしたネッククーラーをつけて
せっせと外出しています。

昨日は家の近くで
月1回のフラダンスの練習でした。

この土日は池袋でフラフェスタが
開催されましたが
教えてくださる先生も出演されてました。

あいにくどこの会場か知らずにいて
生で見ることはできませんでしたが
先生が踊っている動画をみせて
いただきました。


「フキラウソング」、「小さな竹の橋」
「月の夜は」、「プアマナ」など4曲を練習して
ほどよい運動量でした。


さて今日は
「ドラムサークル」を見学、体験してきました。

「大人のリトミック」と同じ会場で
先月知ったばかりのサークルです。

5月から始まったサークルですが
打楽器を叩くのが大好きなので
どんなものなのか
一度見学したかったのです。

今日は欠席の方がいたので
空いているドラムで一緒に叩かせて
いただきました。

とても楽しい、自由に叩けるやり方。

サークルに入りたいと思ったけれど
もう定員いっぱいだとのこと。

ですが見学はできるとので
次回も見学させていただくことに
なりました。


こんな感じのドラムでした。



好きなようにどんどん叩いて
全身を使って、すごいストレス解消!



実はうちにもジェンベがあるのです。
ジェンベが欲しくてだいぶ前に買ったものです。




楽器店ではなく
エスニック民芸品店で買ったので
半分インテリア用らしいのですが
皮もちゃんと張ってあり
それらしい音が出ます。


今まで出番のなかったジェンベですが
ここに来てがぜん出番がきました。



さて、コロナがまた10週連続で
感染拡大しているとのニュース。
第11波かといわれています。

今回の流行はまた別の型(変異株KP.3)
で感染力が強いのだそうです。

もうマスクをしている人は少ないし
クーラーがきいた室内で
過ごすことの多い昨今です。

熱中症もコロナの脅威もあるとは…

皆さまもお気をつけください😷 




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伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

2024年07月21日 | 
2024/07/21


伊藤亜紗さんの本は今まで
私が思ってもいなかった着眼点を
与えてくれます。

22年に伊藤亜紗さんの
『手の倫理』(2020年出版)の感想を
このブログに書いたことがあります。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は
それ以前の2015年に出版された本で
最近になって読みました。


 

これも私の知らなかった世界の解釈の仕方で
新しい視点をもらいました。

まだ読んでいる途中なのですが
一部分をここに書きとめて
おきたいと思います。


・・・・・・・・・・・・・・


「第1章 空間」には 
「見える人は2次元 見えない人は3次元」 
という表題があります。

目が見える、見えないで
空間のとらえ方が平面的であるか
立体的であるかということです。

見える人は空間を平面的にとらえ
見えない人は空間を立体として
とらえているのだそうです。

そんなことを考えたこともなかったので
興味深いなあと感じます。


例えとして
見える人の富士山のイメージは
上がかけた三角形で八の字の末広がり(平面的)。

見えない人は上がちょっと欠けた円錐形として
イメージしている(立体的)。


そういわれてみると
私が富士山を想像するときは
奥行きのことはほとんど考えません。

絵や写真で見るような
ぺたっとした三角形の山を想像します。

円錐形のイメージを持つとしたら
飛行機の中から見るような
上空から見た富士山かしら。

実際の富士山は円錐形に近いですね。


3次元を2次元化するのは
視覚の大きな特徴のひとつだそうです。
奥行きのあるものを平面化する傾向が
あるのです。



また、こんな経験が記されていました。

伊藤亜紗さんの勤務先、東京工業大学は
大岡山駅の近くにあります。

駅からキャンパスの建物までの
15mほどの緩やかな坂道を
伊藤さんと一緒に歩いた
視覚障害者の木下路徳さんの言葉。

「大岡山はやっぱり山で、今その斜面をおりているんですね」

その言葉に驚き
道の概念の違いに気づかされたといいます。

伊藤さんにとって
その坂道は駅と研究室をつなぐ道順の
一部でしかなかったが
木下さんはもっと俯瞰的で
空間全体を捉えるイメージでした。

お椀を伏せたような地形を
イメージしていたのでしょうか。



同じ道を歩くにしても
目の見える人、見えない人で
こんなにも道に感じるイメージが
異なっています。

「道は人が進むべき方向を示すもの」であり
通行人として通るべき場所として
定められた方向性を持つ。

〈人の行動を示す「道」とは、「こっちに来なさい、こっちに来てこうしなさい」と、行為を次々と導いていく環境の中に引かれた導線です〉(p.55)

道は行為を導いていくのだというのが
なるほどと思います。


いっぽう木下さんにとっての道は
まるでスキーヤーのように広い平面の上に
自分で線を引くイメージ。

たくさんの視覚情報がないせいで
空間をより開放的で自由に感じることが
できるのかもしれません。

「視野を持たないがゆえに視野が広がる」
と書かれています。

〈人は物理的な空間を歩きながら
脳内に作り上げたイメージの中を歩いている〉

私は思ったのですが
目の見える人は歩いていくうちに
今まで見えなかった所が現れてくるので
移動に従って新しい情報が与えられます。

だから先の空間(奥行)を推測する必要が
あまりないんじゃないでしょうか。


〈見える人は、まわりの風景とか、空が青いだとか、スカイツリーが見えるだとか、そういうので忙しい。〉

〈都市で生活していると、大型スクリーンに映し出されるアイドルの顔、新商品を宣伝する看板、電車の中吊り広告‥見られるためにしつらえられたもの、本当は自分にあまり関係のない=意味を持たないものに満たされている。
あるトリガーから別のトリガーへと目まぐるしく注意を奪われながら、人は環境の中を動かされていく〉(p.51)


幼い子どもたちは目につくものは
何にでも手を出して触ろうとしますね。

ボタンがあるから押したくなる。

〈環境に埋め込まれたさまざまなスィッチがトリガーになって、子どもたちの行動が誘発されていく〉
〈視覚的な刺激によって人々の中に欲望が作られていく〉(p.55)

情報が自分を動かしているとも言えます。

目の見える人は視覚によって
いらない情報も取り込んで
脳の中がいっぱいになっている。

木下さんが言う
「脳の中のスペースがほとんどない」状態。

 〈見えない世界というのはすごく情報が少ないんです。コンビニに入っても、見えた頃はいろいろおいしそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも、見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになる〉
  
目の見える私、あるいは私たちは
知らず知らずに周りの環境に影響されて
行動していることを考えさせられました。


別の部屋に何かを取りに行って
そのことはすっかり忘れて
他のことをしてしまい
(はて、自分は何しにここへ来たんだっけ)
と思うことがあります。

誰でも1回くらいはあるかもしれません。

あれは忘れっぽいというより
移動する時に別の視覚情報を得て
そこから連想するものに注意を向けて
しまったせいではないかと
私は思ったのです。


現代は視覚過多の時代で
目で見えてしまうから
それに踊らされている、というのは
ありますね。 


まとまらない感想になりましたが
この本はさらに興味深いことがあるので
また次回に書いてみようと思います。



以前に読んだ『手の倫理」の感想はこちら




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