顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

酒列磯前神社…逆さに列なる岩礁

2025年01月07日 | 歴史散歩


酒列磯前(さかつらいそざき)神社は太平洋に面した初詣の隠れた名所、その変わった名前の由来は…。神社の東に面した太平洋の海岸は、8000万年前の中生代白亜紀の砂岩、泥岩、礫岩からなる太古の地層が褶曲隆起して、柔かい部分は波に侵食され、硬い部分が残って鋸の刃のようになり、奇妙にもほとんどが南に約45度傾いて列なっています。


この海岸岩礁は古来より神磯とよばれる神聖な場所とされ、その一部が反対の北に傾いていることから、「逆(さか)さに列(つら)なる磯(いそ)の前(さき)にある神社」となり、後に酒の神様を祀ることから「逆」が「酒」となったとされます(異説あり)。


白亜紀層とよばれるこの磯は、潮が引いたときに小魚やヤドカリなどが捕れるので、娘や孫の小さいときには遊ばせるのに絶好のポイントでした。またアンモナイトなどの化石ハンターと出会ったこともありました。


神社は太平洋に面し、東側が白亜紀層の岩礁地帯、北側は緩やかな入り江状になって磯崎港、阿字ヶ浦海水浴場、常陸那珂港、東海村原子力研究所などが並んでいます。


大鳥居をくぐると樹齢300年を越えるツバキ、タブノキ、スダジイなどが鬱蒼と覆うトンネル状の参道が300mも続きます。


参道と神社周りのこの広葉樹林は茨城県の天然記念物に指定されています。


社伝では、斉衡3年(856)常陸国鹿島郡大洗の海岸に御祭神大名持命・少彦名命が御降臨になり、「私は大名持命(おおなもちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)である。日本の国を造り終えてから東の海に去ったが、いま再び民衆を救うために帰ってきた。」と託宣され、少彦名命が主祭神の「酒列磯前神社」がここに創建され、また同時期に南隣の大洗町には大名持命が主祭神の「大洗磯前神社」が創建されました。


創建翌年には官社に列せられ、更に「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。また延喜の制では名神大社に、明治18年には国幣中社に大洗磯前神社と共に列されました。本殿の後ろにも巨木が覆っています。


海の見える鳥居としての撮影スポットが樹叢トンネルの途中にあります。


神楽殿にはさすが酒の神さまなので、地元の酒蔵の奉納酒樽が神輿と一緒に飾られています。主祭神の少彦名命は医薬、醸造の神でもあり、百薬の長である酒の神として特に崇敬を集めています。


境内社と斉昭公腰掛石、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、境内で行われたヤンサマチという競馬祭を見物する際に腰をかけたと伝わっています。


幸運の亀といわれるこの石像は、頭をなでると宝くじのご利益があると評判です。というのは近くの超大型ホームセンターの宝くじ売り場で年末ジャンボに合わせた当選祈願祭をここの神職が施行しており、その高額当選者がお礼に奉納した亀石像だそうです。


北側の高台には、水戸藩6代藩主治保公が、当時白砂青松の海岸と西に阿武隈の山を望む風光明媚なこの地を賞賛し、寛政2年(1791)に比観亭と名付けた「お日除け」(東屋)を建てさせたという碑があります。この比観亭に掲げられた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり桜の板に彫刻したもので、隣地の酒列磯前神社に保管されているそうです。


比観亭跡から見える常陸那珂港は、北関東の新たな国際流通拠点として整備され、高速道路と直結した日本で唯一の港湾です。火力発電所の煙突が見えます。


下に見える小さな漁港、磯崎港は、仙人が釣りに夢中の頃に通った気に入りのポイントで、岩場に型のいいアイナメが潜んでいました。


青森県が北限のヤブツバキ(藪椿)は、この辺では海沿いに多く自生していますが、背が高い木が多いので、参道でも落ちているのを見て初めて気が付きます。

昭和38年奈良の平城宮跡の発掘調査で出土した多量の木簡の中に「常陸国那珂郡酒烈埼所生若海菜」と記された墨書文字が発見されました。今から約1300年前の昔、酒列磯前神社に奉納したこの地方のわかめを天平文化の栄えた奈良の平城宮まで頒納されていたのです(神社ウエブページ)。



神話の中で国づくりに力を合わせた兄弟を祀る古社、大洗磯前神社と酒列磯前神社は、太平洋に面した清冽な地に位置し、歴史も場所も初詣にはピッタリの神社と感じました。
※大洗磯前神社は弊ブログ「大洗磯前神社…海沿いに4つの鳥居」 2021.7. 18 で紹介したことがあります。

謹賀新年 2025

2025年01月01日 | 水戸の観光

明けましておめでとうございます

どうぞ今年も健康でお過ごしになられますように…  2025年 元旦




さて、春に先駆けて咲く梅の花ですが、偕楽園ではまだ早咲きや早とちりの梅が数輪咲いているだけですので、園内100種といわれる梅の中で特に姿、色、香りが優れたとして選定された「水戸の六名木」といわれる梅を以前の写真からご紹介いたします。


まずは、天保13年(1842)偕楽園を創設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公の諡号(しごう・おくりな)の付いた「烈公梅」です。野梅系の一重、薄紅色の花弁が重ならずに凛と咲く様子は、激動の幕末を駆け抜けた公の生きざまを見るようです。さすがに花果兼用種なので、立派な実が生ります。


東京梅の会と水戸博物学会が「六名木」を選定した昭和6年に、弘道館脇で見つけた今までにない老木の花を「水戸公の名を祈念せんがために斯く命名せり(松崎睦生著「水戸の梅と弘道館」)」といわれます。



月影」は命名された方の感性が感じられます。青軸性という種類で青白い花弁が端正に開き、花弁基部には淡緑色の萼片の色が浮かび上がる…いかにも名前通りのイメージとして人気の品種です。野梅系で良果結実します。



江南所無(こうなんしょむ)」 杏性の八重大輪で雄しべは退化しているため結実しません。中国渡来の古い品種で、園内では最も遅く咲く梅です。よく言われる命名の由来は、三国時代の中国で、陸凱という人が、江南から北の長安の親友に一枝の梅を送り、後に長安に赴いたときに贈った詩の一節「江南無所有,聊贈一枝春(江南には何も贈る物がないので、とりあえず梅の一枝で春をお届けします)」から付けたとされています。



白難波」 やや早咲きの難波性八重で少量結実種、雄しべが花弁に変わる旗弁がよく見られます。



柳川枝垂」 枝垂れ系薄紅色一重の梅で偕楽園の貴重品種、あまり結実しない品種です。



虎の尾」  難波性八重でやや早咲き、少量結実します。虎の尾という名前の由来は蕊の曲がり具合、枝の模様や枝振りなどいろんな説がありますが不明です。


天保13年、斉昭公が偕楽園を開設したときに、梅を植えたことについて述べた「種梅記」の石碑が弘道館公園に建っています。



その文中に、梅は「雪を冒し春に先たちて風騒の友となり、実は則ち酸を含み渇を止めて軍旅の用となる。ああ備えあるものは患なし。(天下の魁として咲く梅の花は、花を愛でるばかりではなく、いざというときには軍旅の備えにもなる)」と書かれています。※風騒:詩文をつくり楽しむこと

ということは、開設当初に植えた梅は実をとる「実梅」で、種子繁殖された原種の白い野梅がほとんどだったのではないでしょうか。
その後時代が変わり、花を愛でる品種で実が生らない「花梅」がどんどん作出され、偕楽園でも現在では約40%が花梅といわれています。


※写真は青梅市で作出された実梅の「玉英」、青梅市に縁のある日本画家の川合堂と小説家の吉川治から名付けられました。

さて、今年で129回目を迎える水戸の梅まつりは、2月11日(火)から3月20日(木)まで行われます。梅は開花期間が長く、しかも種類の多さから早咲き、遅咲きなど次々に咲き続けますので、約1か月のまつり期間が設定されています。
100種とされる偕楽園の梅も最近では新しい品種も増えて、苗畑でデビューを待つものも入れれば200種を超えているかもしれません。満開のいろんな梅の中から「水戸の六名木」を探してみるのも観梅の楽しみ方のひとつになるでしょう。


またひとつ年を重ねるということは、恐怖以外の何ものでもありませんが、とにかく平穏無事に新年を迎えられました。

             去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの   高浜虚子

今年も細々とブログ更新をしてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

間もなく除夜の鐘…お寺と鐘楼

2024年12月26日 | 歴史散歩
大晦日は、古い年を除く日という意味から「除日(じょじつ)」ともいわれていました。この除日の夜、つまり除夜に撞く「除夜の鐘」は、108ある人間の煩悩を消し去り新しい年を迎えるために、その数だけ撞くとされています。



この梵鐘を吊るした建物は鐘楼とよばれますが、楼門と一緒になった鐘楼門や下層が袴腰になっているものなどいろんな形があり、歴史散歩でお訪ねした寺院で撮った鐘楼を並べてみました。(なお紹介したお寺では、除夜の鐘を撞かないところもあります)

源頼朝の創建と伝わる臨済宗妙心寺派の長勝寺(潮来市)の鐘楼は、下層が袴の裾のように広がっている袴腰付きです。

元徳2年(1330)の銘のある梵鐘は、鎌倉幕府14代執権の北条高時が頼朝の菩提のために寄進したもので重要文化財に指定されています。



善光寺(長野市)の鐘楼は江戸時代後期建立の入母屋造檜皮葺き、切石積基壇上に南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。

小江戸といわれる川越市の天台宗喜多院、下層が門になっている袴腰付鐘楼門です。

梵鐘の銘にある元禄15年(1702)に建てられた鐘楼ともども重要文化財に指定されています。


雨引山楽法寺(桜川市)は、アジサイと雨引観音の名で知られる真言宗のお寺です。

ここでは鐘楼堂とよばれる華麗な建物は、建長6年(1254)に宗尊親王により建立され、その後二度再建された文政13年(1830)のもので、屋根だけは瓦葺きに葺き替えられています。

真言宗の華蔵院(ひたちなか市)の梵鐘(※上記タイトル下のイメージ写真)には幸運な歴史が残っています。

江戸時代後期、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が大砲鋳造のため、領内の梵鐘を集めましたが、暦応2年(1339)の銘のある浄因寺(現、満福寺(常陸大宮市))の鐘は、幸いに鋳つぶされることを免れ、後にこの華蔵院に据えられたと伝わっています。

鐘楼門で知られる阿弥陀寺(那珂市)は、土塁や堀の残る中世の額田城の一画にある浄土真宗のお寺です。水戸藩2代藩主徳川光圀公御手植えと伝わる樹齢320年の枝垂れ桜が咲く春には桜まつりで賑わいます。

親鸞聖人が建保4年(1214)那珂西郡大山(城里町)に開いた念仏の道場、大山禅房阿弥陀寺を明徳3年(1392)額田城主小野崎氏が額田城内に移し守護寺としました。


臨済宗の江畔寺(常陸大宮市)は、佐竹氏の一族小瀬義春が康永3年(1344)、小瀬城の大手門前に菩提寺として建立しました。



西光院(大洗町)は応永5年(1398)宥祖上人の開山で、寺号を古内山宝性寺西光院と称し京都醍醐寺無量寿院末の真言宗のお寺です。

西蓮寺(行方市)は奈良時代の延暦元年(782)に桓武天皇の勅願により最澄の弟子である最仙によって創建されたと伝えられる天台宗の古刹です。

最仙上人お手植えと伝わる銀杏の巨樹2株の黄葉が彩る境内に建つ重層の鐘楼には、直線的な袴腰が付いています。


「親鸞聖人法難の地」として知られる浄土真宗の大覚寺(石岡市)、京都の天竜寺庭園を模したとされる「裏見無しの庭」が名所になっています。


浄土真宗の大山寺(城里町)の境内では、意匠を凝らした木組みと流線的な袴腰が美しい鐘楼がひときわ目を惹きました。


茅葺き、袴腰付の小じんまりとした鐘楼は、浄土真宗の無量寿寺(鉾田市)にあり享保12年(1727)の棟札が残っているそうです。本堂も茅葺きでしたが2021年火災により焼失、鐘楼は免れましたが本堂はいま再建工事中です。


宝金剛院(常陸太田市)は真言宗のお寺で、久慈川流域を支配した久自国造舟瀬足尼(すくね)の墳墓と伝えられる全長は160mの前方後円墳、梵天山古墳の南麓にあります。


神社に鐘楼?……東金砂神社(常陸太田市)にある鐘楼は、神仏混合時代の遺産で、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった別当寺・東清寺の名残だそうです。


真言宗の仏国寺(城里町)の鐘楼に吊るされた梵鐘には貞享元年(1864)の銘があり、明治の廃仏稀釈で建物は破壊されましたが境内の外れにあったため難をのがれたと伝わります。

最後は柴又帝釈天(東京都葛飾区)、正式な名は経栄山題経寺という寛永6年(1629)開山の日蓮宗の寺院です。

ここは松竹映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんで有名になり、この大鐘楼も今は亡き佐藤蛾次郎演ずる源ちゃんが時を知らせる鐘を鳴らす場面に出てきました。


この一年拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。

暗い話題の方が多かった年でした…せめて五輪や大谷君の活躍で暫し気を晴らせていただきましたが、新しい年には世界各地の紛争が終息し平和な地球になることを切に願いたいと思います。

どうぞよいお年をお迎えください。

年の暮れ2024…まだ頑張っている花たち

2024年12月19日 | 季節の花
2024年もあと2週間弱、すっかり色彩の少なくなった身の回りで、寒さに耐えながら咲いている花を探してみました。


ホトケノザ(仏の座)シソ科オドリコソウ属で、花期は3月から6月とされてはいますがとんでもない、今は1年中見られます。春の七草のホトケノザはキク科の別種です。


日本古来のタンポポ(蒲公英)は春に咲きますが、繁殖力が強く生態系で優位になっているセイヨウタンポポ(西洋蒲公英)は、この時期でも咲いているのを見かけます。


林の中で元気に咲いているアザミを見つけました。googleレンズで調べると、ノハラアザミ(野原薊)のようです。


大洗港の先端緑地公園で咲いていたキミガヨラン(君が代蘭)は、5~6月と10~11月の年2回咲くリュウゼツラン科の耐寒性常緑低木でユッカともよばれます。海沿いは2,3度暖かいといわれますし、北米~中南米原産でも耐寒性は強いようです。学名の種小名「gloriosa (栄誉ある)」から和名が付けられたといわれます。


いま満開なのはサザンカ(山茶花)、古刹の生け垣に咲いていた三種の配置には、植木職人の感性が感じられました。


我が庭のフユイチゴ(冬苺)…樹の下に生えていますが今年は野鳥にすぐ見つかってしまいました。


ヒイラギ(柊)はキンモクセイの仲間、甘い芳香で知られますが嗅覚の衰えた仙人の鼻では無臭です。「鰯の頭も信心から」という風習も最近では見られなくなりました。


縁起のいい名前のキチジョウソウ(吉祥草)も、木陰に植えた我が庭では増えすぎて困っています。


垣根のバラが赤い実と一緒に咲いていました。このように初冬に咲く返り花のバラのことを「冬薔薇(ふゆそうび/ふゆばら)」といい、よく詠まれる初冬の季語です。

               冬薔薇いよいよ年の空深く  高澤良一



ススキ(芒)もこの時期になるといちだんと侘しさを感じます。

               折れてなほ日に華やげり冬芒  岡田日郎


樹の下が霜よけになったようで、無傷のムラサキカタバミ(紫片喰)を見つけました。


いつもと同じ12月10日前後の強霜により黒くなった皇帝ダリア、亜熱帯の中米原産で我が家に来てから約20年、今年もよく頑張り1か月の間冬空を華やかにしてくれました。根茎部分は地中に残りますので、枯草などを被せておくと来年もまた元気に芽を出します。



まだ散りかねている紅葉をバックに、コブシ(辛夷)の蕾が大きくなっていました、来る年の希望を象徴するように…。とはいえ、世界各地で収まらない争乱、不安定な国内情勢や物価高騰など明るい話題があまりないのが気にかかりますが。

最後の紅葉…歴史ある3寺社(水戸市)

2024年12月12日 | 水戸の観光

2,3日強い風が吹き、枝にしがみついていた紅葉もほとんど散ってしまいました。なんとか間に合って撮った最後の紅葉の写真です。


水戸八幡宮は樹齢800年という国の天然記念物指定の大銀杏で知られています。


訪ねた時には大銀杏は散り始めていましたが、樹高42mの大樹が鳥居のはるか上の空に屹立していました。


幹周り9mもある樹の下は黄色い絨毯です。稀に葉から実が出るので「お葉付け銀杏」とよばれています。仙人が数年前に撮って社務所でお墨付きをいただいた写真を〇囲みで入れました。


この八幡宮は、文禄元年(1592)水戸城を手に入れた佐竹義宣公が常陸太田から居城を移す際に水府総鎮守として鎮斎し、文禄3年(1594)八幡小路(いまの北見町)に本殿を創建しました。水戸徳川家の治世になり一時城外に移されましたが、宝永6年(1709)この地に再び遷座され、代々の水戸藩主からも崇敬されました。


本殿は国の重要文化財に指定されています。
ご本尊の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は神格化された応神天皇なので、山門、拝殿などには菊のご紋が付いています。


標高差約20mの水戸台地上にある八幡宮の北東の崖上に烈公御涼所があります。水戸藩9代藩主、徳川斉昭公(烈公)がここを訪れて眼下に望む那珂川の涼風を楽しまれたといわれています。大きな欅の木が色付いていました。


祇園寺は明の心越禅師の開山、水戸藩2代徳川光圀公の開基による曹洞宗の寺院です。

心越は廷宝5年(1677)に来日し、天和元年(1681)光圀公の招請でこの場所にあった天徳寺に居住し、元禄8年(1695)の死去までこの寺で過ごしました。


正徳2年(1712)四世大寂界仙のとき、いままでの岱宗山天徳寺を河和田村に移し、そのあと壽昌山祇園寺と改め、心越禅師をもって開山とし曹洞宗寿昌派の本山となりました。
本堂前の実の付いた大木は、センダン(栴檀)です。


光圀公が心越禅師に心服したのは、禅宗の高僧であると同時に、篆刻、絵画、書、詩文、琴(七弦琴)など一流の中国文化を伝える技術を持っていたからといわれます。特に篆刻については、「日本篆刻の祖」といわれ、その作品が各地に残っています。


祇園寺開山の約200年後の幕末、水戸藩は門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)による激しい藩内抗争により多数の犠牲者を出しました。水戸市内では天狗党の慰霊碑が多く、明治以降は逆賊の立場に置かれた諸生党ですが、昭和10年(1935)に殉難者525柱の名を記した、この「恩光無辺の碑」が建てられました。


祇園寺の墓地には諸生党のリーダー市川三左衛門、朝比奈弥太郎や洋画家の中村彝、詩人の山村暮鳥などが眠っています。


光圀公開基のため薬医門形式の山門には、水戸葵紋がしっかりと付いています。


桂岸寺は、正式には「大悲山保和院桂岸寺」ですが、地元では「谷中の二十三夜尊」という名前で呼ばれています。

天和2年(1682)檀海和尚が開山し市内の全隈町にあった普門寺を、水戸藩立藩の際家康より付けられた附家老2代中山信正の供養のため子の信治が譲り受け現在の地に開基しました。


元禄7年(1694)、光圀公の命令により保和院と改称、さらに宝暦5年(1755)に現寺号を称し、京都御室仁和寺末となりました。門跡寺院の仁和寺なので菊の紋が付いています。


延命地蔵やピンコロ地蔵などの置かれた一帯も鮮やかに彩られていました。


愛染堂と朱雀門…門は旧水戸城二の丸に在った水戸徳川家霊廟の門と伝えられています。


隣接して光圀公が名を付けて愛した保和苑があり、60種5000本のアジサイなど四季の花々が植えられています。この明星が池は水戸城の東の水堀の役目をした池の名をとりましたが、光圀公がその池を浚って魚を採ろうとしたときに家老の中山信正が堀の水を抜くとは…と諫めた話が残っています。


この中山信正はご意見番で知られ、その墓は真北に光圀公の眠る瑞竜山を向いた場所にあり、家紋の「枡形に月」をかたどった墓石に光圀公から贈られた諡号「恭子(きょうし)」が刻まれています。


社会派、前衛派の俳人として知られる金子兜太が旧制水戸高校在学中に詠んだ「白梅や老子無心の旅に住む」の句碑が置かれています。

水戸市街地から北西に少し離れた歴史あるこの一画は、いまの時期人影も少なく紅葉の穴場でした。