顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

上大羽地区の遺産群…中世宇都宮氏の歴史

2024年11月10日 | 歴史散歩

栃木県益子町の上大羽地区は、中世鎌倉時代の宇都宮氏に係わる神社仏閣などの歴史遺産が多数残されており、日本遺産「かさましこ」の構成遺産の一部をなしています。


「かさましこ」の茨城県笠間市と栃木県益子町は、東日本屈指の窯業地として同系統の文化圏にあり、また11世紀から約500年間この笠間と益子を治めた宇都宮氏は、都の貴族との接点を持ちながら宗教、文化という側面でも大きな足跡をこの地に残しました。


大羽山地蔵院は、宇都宮氏3代朝綱が長男業綱の菩提を弔うために建久3年(1192)に創建した一村山尾羽寺を前身とする寺院です。朝綱は建久5年(1194)に公田横領の罪で土佐国へ配流、2年後に許されると尾羽寺に入って「尾羽入道寂心」を名乗って隠棲し、宇都宮氏の菩提寺として境内に浄土庭園などを整備し、初代、2代の墓所を設けました。


地蔵院本堂は、室町時代中期に尾羽寺の阿弥陀堂として造営されたもので、天文11年(1542)に現在地に移築され、江戸時代の後期には尾羽寺の後継寺院となった地蔵院の本堂となりました。
室町時代の阿弥陀堂の貴重な大型建築遺構として国の重要文化財に指定されています。


室町初期の建築とされる観音堂は、昭和58年に解体修理され、その時に茅葺きの上に銅板を被せました。


大きな山門が建っています。大羽山極楽寺地蔵院、真言宗智山派のお寺です。


山門の近くで黄色い菊が咲いていました。ヤクシソウ(薬師草)は日本全国に分布し晩秋まで咲くキク科の二年草で、かっては花や花茎を乾燥させたものが腫物や凍傷に効用があるとされました。


鶴亀の池跡です。3代朝綱が隠棲して寺域整備を行ったときに造成した浄土庭園の一部が残っています。


池のそばの参道に赤い実が輝いていました。ヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)と思いましたが、調べてみるとマルバノホロシのような気がします。どちらもナス科でこの時期赤い実が山野を彩ります。



3代業綱が設けた宇都宮氏の墓所は、墓守の家臣を置き初代からの歴代当主を葬ってきました。慶長2年(1597)には22代国綱が秀吉により突然改易されても、多くの家臣が仕官せず土着し墓を守り続けたと伝わります。


初代宗円より大正時代の33代正綱まで、五輪塔29基、石碑4基が並び、最大のものは塔高172㎝…約900年の歴史の重みを感じる一画です。
国綱の子23代義綱は寛永年間に水戸藩の家臣となり高家格百人扶持となり、家督を継いだ隆綱は1,000石を賜り子孫は明治維新まで水戸藩に仕えたと伝わります。天保11年(1840)の江水御規式帳には中寄合、宇都宮権太郎朝綱800石と出ています。


宇都宮氏はこうして江戸時代になっても水戸藩重臣として存続していたので墓所も守られていたものと思われます。



綱神社は、公田横領の疑いで土佐に配流された3代朝綱が、土佐の一の宮である賀茂神社に領地に戻ることを祈願し早期釈放が叶ったため、賀茂神社を勧請して建久5年(1194)土佐明神として建立しました。朝綱に因んで綱神社と親しくよばれていたので、明治維新を期に改称したと伝わります。


本殿は、室町時代の大永年間(1521~1528)の建築で、美しい曲線の茅葺き屋根が質素な佇まいながら歴史を感じさせてくれます。国の重要文化財に指定されていますが、屋根の傷みが気になりました。


隣にあるのが、同じく国の重文指定の大倉神社、大同2年(807)近隣西方の地にある愛宕山の大倉林に創建され、社殿は大永7年(1527)の建立とされています。現在地への移転は昭和になってからのようですが、こちらも傷みが目に付きました。


境内に季節外れのスミレが、それも数多く咲いていました。


この一帯は石仏、石碑群が道路沿いに多く見られることで知られています。



大きな馬頭尊の石碑が建っていました。裏面に安政4年2月 芦沼村大石工 石井弥市と刻されていました。


鄙びた農村地帯で大きな道路の敷設や開発もなかったために、北関東の名族、宇都宮氏の歴史遺産がそのまま残っており、暫し中世の世界に浸ることができました。

シュウメイギク(秋明菊)など…秋を彩る花

2024年11月04日 | 季節の花

個人的にはもっとも秋を感じる花という印象のシュウメイギクは、菊という名前でもキク科でなくアネモネの仲間のキンポウゲ科で、中世の頃に中国から伝来したと伝わる帰化植物です。


花弁のように見えるのは萼が変化したもので、このように花弁と萼が一体になったものを花被といいます。真ん中に黄色い雄しべに囲まれた薄緑色の雌しべのかたまりがありますが、実は生らず地下茎によって繁殖するそうです。


花を裏返しして撮ってみると、確かに萼らしきものが無く、白い花弁状の物が萼と一体だということが分かります。花被は5枚かそれ以上ですが、この個体はずっと多いようです。


原種は濃いピンク色で八重咲きだとされていますが、やはり白の一重が私的には気に入っています。


ただ難点は、増えすぎてしまうことと、花も背が高く、葉も黒ずんで汚くなることですが、ネットの情報では初夏に根元まで切り戻すと、背の低い葉の青々とした株になると出ていました。試してはみませんが…。


同じく秋の花というと、ホトトギス(杜鵑草)が好きな花です。ユリ科ホトトギス属の日本固有種です。

ホトトギスも、花弁と萼が一緒になったユリ科の他の植物と同様に花被が6枚で、幅の広い外側の3枚が萼の変化した外花被、細い幅の3枚が内花被です。
紫色の斑点が、鳥のホトトギス(杜鵑、不如帰)の胸にある模様に似ていることから名前が付き、漢字名では草を付けた杜鵑草とするのが一般的なようです。


束状に立ち上がる花糸から6本の雄しべが分かれ先端に花粉を出す葯があり、その内側の3本の雌しべの柱頭は2裂しています。

花被の根元にある黄色い班点は、蜜がここにあるぞぉ~と昆虫を呼び寄せる誘導案内板の役目をしていて「蜜標」や「ハニーガイド」という魅惑的な名前が付いています。


萼片に相当する外花被3枚の下には大きな突起物があり、これが昆虫のお目当ての蜜の壺です。


この変わった花の形には自然の仕組みが濃縮されています。蜜を吸いに来た昆虫の背中に垂れ下がった葯が触れ花粉を付け、飛んで行った先の花に運び他家受粉をさせます。


公園の花壇では、秋が深まってもおなじみキク科の花が咲き残っていました。


ジニアはヒャクニチソウ(百日草)の名前の方が親しみのある世代の仙人は、夏休みの誰もいない校庭でいつまでも咲いていた景色を思い出してしまいます。


花壇といえばマリーゴールド、これも長持ちする花の代表品種です。
野菜の傍に植えると、独特の香りや根の周りの菌によって害虫を遠ざけるコンパニオンプランツとされていますが、まだ試したことはありません。


ダリアの開花時期も長く6月中旬から11月までと園芸サイトには出ています。以前ほど見かけることが少なくなったような気がしますが、今はこれから咲く皇帝ダリアがあちこちの庭で晩秋を彩ります。

雑草の花も数少なくなったこの季節、花壇の周りの草むらでカタバミ科の花が元気でした。


カタバミ(片喰)は、夜に葉が半分閉じた状態になるので名前が付きました。いまは北米原産の帰化植物オッタチカタバミ(おっ立ち片喰)がこの辺りでも勢力を伸ばしています。


すっかり雑草となって我が物顔のイモカタバミ(芋片喰)は、南米原産の帰化植物で戦後観賞用として入ってきたものがまたたく間に広がりました。芋のような塊茎から名前が付きました。


公園のモミジバフウ(紅葉葉楓)も色付き始めました。

やがて晩秋となり木々の紅葉が散ると、モノトーンの冬がやってきます。昨年は暖冬でしたが、今年の12月、1月は寒さ厳しいとの予想が出ていますので、まだ復興できてない被災地の方々の息災を願うばかりです。

武茂(むも)城址…中世300年の歴史を秘めて

2024年10月29日 | 歴史散歩

栃木県那珂川町にある武茂城は、鎌倉幕府の評定衆であった宇都宮景綱の三男泰宗が正応元年(1288)に武茂荘14郷を領し武茂氏を名乗り築きました。その後本家宇都宮家を相続するために何度か武茂氏は途絶えますが、戦国時代に再興した武茂兼綱は東隣の佐竹氏と争いを繰り返すも苦戦を重ね、永禄年間(1558~1570)には佐竹氏の傘下に入り、戦国末期の配置替えまでの約300年間この地を治めました。


武茂氏は小田原戦後に常陸国に配置換えになり、武茂城は佐竹氏家臣の太田五郎左衛門資景が城主となりましたが、関ケ原の戦い後、佐竹氏の秋田移封にともない廃城となり、江戸時代になるとこの一帯は水戸徳川家の所領となります。
なお、佐竹氏に従い秋田に移った武茂氏は、大舘城代佐竹西家の家老職を代々務めたと伝わっています。


城跡は那珂川町の中心部の那珂川と支流の武茂川を臨む河岸段丘にありますが、その尾根の両側の谷を挟み、東側尾根には武茂東城、西側尾根には武茂西城があり、東西からの敵を防ぐ出城的な役割をしたと思われます。(今回は支城の踏破はしていません)



静神社の155段の急石段が武茂本城の入り口になっています。あまり急段のため隣の女坂を登りました。


静神社は大同年間(806~809)誉田別命((ほむたわけのみこと)を祀る八幡神社として郷内にあり武茂氏の守護神として崇敬されていましたが、元禄年間に水戸藩2代藩主徳川光圀公が廃城となった武茂城の南端に静神社として遷座し、手力男命(たぢからをのみこと)を併祀しました。
当時、常陸国では光圀公による寺社改革で八幡神社が廃社改編されており、その一端として領地の武茂でもその施策を実行し、常陸二ノ宮の静神社を分祀し、名前も変えたといわれています。


さて、静神社の急坂から3段の腰曲輪を登ると三の丸、二の丸、本丸と続く連郭式山城になっています。


三の丸から二の丸へ深い堀があり土橋が架かっています。


二の丸の平地は広く、木製の台座が2基置かれていましたが休憩用でしょうか、訪れる人もいないように思いますが。


二の丸の奥に鳥居があり、一段と高いところが本丸櫓になっています。静神社の奥の院の役割をしていたのかもしれません。


本丸跡の木製標柱はほとんど文字が消えています。一段と高い約20㎡くらいのこの土壇が本丸櫓台とされます。西側の本丸とされる1画も広くないので、実際はすぐ下の二の丸が主郭のようです。


本丸奥の西側は深さ6mくらいの堀切に落ち込んでいます。


城址の斜面に咲いていた野菊、カントウヨメナ(関東嫁菜)、当時も城兵の行き来を眺めていたのでしょうか。



武茂本城の東側の谷にあるのが曹洞宗の龍澤山大渓院乾徳寺で、武茂氏中興の祖6代兼綱が建立し、武茂氏の菩提寺としました。


入り口には武茂氏初代武茂康宗の銅像が建っていました。地方豪族の銅像というのは珍しく感じましたが、康宗は父宇都宮景綱の影響を受け、鎌倉や京都歌壇との交流が深く、後拾遺和歌集などの勅撰歌集に15首の秀作が載る文化人でした。


武茂家の家紋(三巴紋)が刻された山門は、切妻、銅板葺き、一間一戸の四脚門で武茂城の大手門を移築したと伝わる安土桃山時代の建築様式で、安永2年(1773)の改修棟札が残されています。


境内には数多くの石仏が優しい顔で迎えてくれました。


明応8年(1499)耕山寺(常陸太田市)11世舜芳和尚を招き開山したのが始まりと伝えられています。
元禄2年(1689)、正徳5年(1715)改修の棟札が残っていますが、明治36年(1903)民家の火災により七堂伽藍が焼失、9年後に復興しています。


本堂奥の山腹にある武茂氏300年の歴代墓碑は、享保16年(1731)に散逸していたものをここに集めたと記された古文書が残っているそうです。それぞれの時代を反映した宝篋印塔が並んでいました。


白い山茶花の淡い紅が、陽の陰った谷間の境内でひときわ目を惹きました。


なお城域の西麓にある武茂山十輪寺馬頭院は、真言宗豊山派の寺院で、寺伝では建保5年(1217)の開山、当時の本尊は地蔵菩薩で寺名は「勝軍山地蔵院十輪寺」で武茂氏の崇敬を得て隆盛していました。

江戸時代になると、この地方は水戸藩の領地となり、元禄5年(1692)2代藩主徳川光圀公が訪れて、当山の本尊を馬頭観世音菩薩に、そして寺名も馬頭院と改めました。
その際、この地方の郷の名「武茂」も「馬頭」に改めたとされています。



小さな町ですが地方豪族の史跡がまとまって残っていて、短い時間でしたが充分に中世から江戸時代への変遷の歴史を味わうことができました。

秋の七草…万葉集で詠まれた歌

2024年10月23日 | 季節の花



秋の七草は、今から約1300年前に編纂された万葉集にある山上憶良(やまのうえのおくら)の和歌2首がもとになり、後世に知られるようになったといわれます。

    秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り 
        かき数(かぞ)ふれば 七種(ななくさ)の花
    ※指のことを古語では「および」といいました。
                  巻8の1537  山上憶良

    萩の花 尾花葛花 なでしこの花 
        女郎花また藤袴 朝貌(あさがお)の花
                  巻8の1538  山上憶良 

凄まじい夏の暑さの余韻もやっと覚めて秋真っ盛り…万葉の時代に思いを馳せて、秋の七草の写真を在庫から探し出し、万葉集で詠まれた七草の歌と一緒に並べてみました。


萩の花



萩の花は万葉集で詠まれた一番多い花で141首もあるのは、どこにでも手軽に眼にする花だったからかもしれません。マメ科の落葉低木、花と実を見ればマメ科というのが納得できます。宮城野萩、丸葉萩などいろんな種類がありますが、秋の七草で詠まれたのは「ヤマハギ(山萩)」という説が多いようです。

    我が宿の 一群萩を 思ふ子に
        見せずほとほと 散らしつるかも   大伴家持 巻8-1565

    ※私の家の一群れの萩を恋しい人に見せないうちにあやうく散らしてしまうところでした。
    ※ほとほと:もう少しで(…しそうである)

この歌は巻8-1564に載っている日置長枝娘子(へきのながえおとめ)の歌に対する大友家持(おおとものながもち)の返歌とされています。

  秋づけば 尾花が上に 置く露の
      消ぬべくも我は 思ほゆるかも   日置長枝娘子 巻8-1564

   ※秋らしくなると尾花の上の露のように、身も心も消えてしまいそうなほどあなたを思っています。

このような恋の歌のやり取りは「相聞歌」とよばれ、万葉集全体の約半数を占めています。今放映中の大河ドラマ「光の君へ」は、万葉の時代より約300年後の平安の貴族生活を描いていますが、やはり「相聞歌」が出てきました。
宮廷文化が熟したこれらの時代には、一夫多妻や通い婚が認められ、恋愛は物語や和歌の題材として頻繁に取り上げられていました。貞操観念も厳しくなく恋愛に対するおおらかな時代であったと言えるかもしれません。


尾花 



尾花はススキのことで、尻尾のような花穂の形からよばれ、茅(かや)、萱(かや)とも呼ばれ41首も載っています。

   人皆は 萩を秋と言ふ よし我は
        尾花が末を 秋とは言はむ    作者不詳 巻10-2110

   ※人は皆、萩こそ秋の花だという、いいや私は尾花の穂先こそもっとも秋らしい  といいたい。

万葉の時代にも大多数の意見に逆らって自分の意思を述べる軟骨漢がいたようです。


葛花



葛はマメ科クズ属の蔓性植物で、荒地や廃屋などすさまじい繁殖力で蔓延っているので、現在では歌のイメージには程遠いものがありますが、根は葛根湯など薬用、また葛粉(くずこ)として使われます。21首の歌が詠まれています。

    真葛延ふ 夏野の繁く かく恋ひば
        まことわが命 常ならめやも    作者未詳 巻10-1985

    ※真葛の蔓延る夏野のようにこれほど恋い焦がれたなら、本当に私の命はどうかなってしまうかもしれな

なでしこの花



七草の撫子の花は、「ヤマトナデシコ(大和撫子)」とよばれ日本女性の美しさをたたえるときに使われる「カワラナデシコ(河原撫子)」のことです。本州以西に自生するお馴染みの植物ですが、最近では自然破壊などで減少しているそうです。
万葉集掲載の「撫子の花」は26首、そのうち11首は万葉集編纂の中心人物とされる大伴家持の恋の歌です。

    朝ごとに 我が見る宿の なでしこの
          花にも君は ありこせぬかも   笠女郎 巻8-1616

     ※私が毎朝庭で見るナデシコの花があなたであったら、毎日顔を見ることができるのに…

笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌で、家持は、正妻や妾の他にも、何人かの女性との間に恋のやり取りがあり、交わした相聞歌が万葉集に多く載っています。女性にモテた平安のプレーボーイ家持に笠女郎が出した歌は29首、でも返された歌はたった2首だったと伝わります。

女郎花



14首詠まれたおみなえし(女郎花)は、昭和の野山でよく見かけましたが、最近では園芸店で購入して庭に植えている方も多くなりました。
「女郎」を意味する「オミナ」と、「圧(へ)す」という意味の「エシ」から、美人を圧倒するほど美しいという命名由来説があります。

    をみなへし 咲きたる野辺を 行き巡り
       君を思ひ出 たもとほり来ぬ  大伴宿禰池主  巻17-3944

     ※女郎花の咲いている野辺をめぐり歩きながら、あなたを思い出してはあちこちと女郎花を求めてさまよって来ました。
      ※たもとほる:廻(めぐ)って行く 行きつ戻りつする

大伴宿禰池主(おほとものすくねいけぬし)は、大伴家持の親族で越中国守として家持が赴任した地に、越中掾として在任しており互いに歌を詠みあった仲でした。この歌も着任後に催した宴の主人家持が詠んだ歌に対する返歌とされます。

藤袴



フジバカマ(藤袴)の万葉集の歌は冒頭の1首だけです。

    萩の花 尾花葛花 なでしこの花 
        女郎花また藤袴 朝貌(あさがお)の花  
                     山上憶良 巻8の1538 

フジバカマの葉には桜餅を思わせるような芳香があり、平安時代の貴族の女性は乾燥した藤袴の葉を入れた匂い袋を身に付け香りを纏ったそうです。

朝貌の花



万葉の時代には朝に咲くきれいな花を朝貌の花と詠んだようで、現在のキキョウ(桔梗)のことだとする説が有力です。5首詠まれています。

    展転(こいまろ)び 恋ひは死ぬとも いちしろく
          色には出でじ 朝貌の花  作者未詳  巻10-2274

    ※転げまわるほど苦しむ恋で死んでしまおうとも、はっきりと顔には出しません、朝顔の花のようには。
     ※展転(こいまろ)び:転げまわること  いちしろく:はっきりと(古語)

ところで万葉集の作者不詳の歌は約半分もあります。
7世紀から8世紀後半にかけて朝廷によって収集されてきた歌を、大伴家持が中心になって約4500首を20巻にまとめた万葉集には、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められているとされています。しかし当時の識字率は5%という説もあるので、恐らく作者不詳の歌は、下級の貴族や官人、僧侶など身分が低くても文字の書ける限られた階層の人たちの歌だったのではないでしょうか。
いずれにしても1300年以上前の我らが祖先の、いまよりもずっと激しい恋の歌に圧倒されてしまいます。

歴史を語り技術を伝える…一橋徳川家の美術工芸品

2024年10月17日 | 水戸の観光

いつもは9月末頃から咲き始める庭のキンモクセイ(金木犀)がやっと咲きだしました。秋の気温が高いほど開花時期が遅くなるそうですが、やっと咲いた黄金色の花に因んで、金箔をふんだんに使った美術工芸品のご紹介です。

茨城県立歴史館には、一橋徳川家の12代当主徳川宗敬氏から寄贈された総数約6,000点の美術工芸品や文書、記録類を収蔵した「一橋徳川家記念室」が併設されています。



一橋家は水戸との縁が深く、一橋家9代の慶喜は水戸藩9代徳川斉昭の7男で後に15代将軍になっています。12代当主の一橋宗敬は水戸徳川家12代徳川篤敬の次男で徳川慶喜は大叔父にあたります。宗敬夫人は慶喜の5男で鳥取池田家の池田仲博の長女幹子で、宗敬が養子縁組をした一橋家11代当主徳川達道の夫人は慶喜の三女、鐵子という深い関係があります。

寄贈された資料は歴史的、美術工芸的にも第一級の価値があり、特に一橋家のまとまった歴史資料として戦火や災害にもあわず伝えられてきたことでさらにその価値を高めています。
一橋宗敬はまた、養父の一橋家11代達道が収集した江戸時代の写本、版本約5万冊を昭和18年(1943)に東京国立博物館にも寄贈しています。


個人所有だったお宝を国のお宝にした英断のおかげで、歴史を語り技術を伝える貴重な資料が学術的研究に役立ち、我々市民もその一端を目にすることができるようになりました。



茨城県立歴史館ではこの莫大な資料の中からテーマ別に展示を行い、9月29日まで一橋家に伝わる「漆工と木竹工の品」展が開催されました。多くが国指定の重要文化財に指定されている、そのほんの一部をご紹介いたします。



朱漆福寿字蒔絵 盃 国指定重要文化財
「福寿」の文字を金、銀の薄肉高蒔絵ですべて異なる字体で入れています。宝暦10年(1760)初代宗尹が兄の9代将軍家重から拝領しました。


叢梨子地葵紋散蒔絵 膳部  国指定重要文化財
一式のうち御膳、瓶子、盃、燗鍋、湯桶…葵紋の蒔絵が散らされています。


叢梨子地梅唐草葵紋散蒔絵 盥 湯桶  国指定重要文化財
叢梨子地に梅と葵紋、唐草に唐花を蒔絵で施しています。誰の所用品かは不明です。


叢梨子浮線菱唐草葵紋散蒔絵 脇息  国指定重要文化財
5世斉位の正室永姫(賢子)の婚礼調度品、座って脇に置きひじをかけてもたれかかる道具です


濃梨子地浮線菱唐草葵紋散蒔絵 香道具  国指定重要文化財
火屋の付いた火取香炉に香壺二つと焚殻入れ、火箸と香盆…香道を楽しむ道具一式です。


叢梨子地葵紋散蒔絵 提重 国指定重要文化財
酒肴などを入れる重箱(4段)にお盆、銀の銚子(瓶子)2本、盃入れが付いた屋外レジャーの携帯重箱セットです。


櫛雛形  39点のうち一部 国指定重要文化財
目の粗いものから細かなものへと揃えられています。江戸時代の職人の技術の高さに驚かされる櫛目の細かさです。


金地彩絵松鶴、杜若図中啓  国指定重要文化財
地紙に金箔を押し、舞い降りる五羽の鶴(右)や杜若(左)が描かれています。右の松鶴図は7代慶寿が天保13年(1842)に江戸城本丸中奥で舞うために新調した中啓(能楽や狂言などの古典芸能や僧侶が儀式の際に用いる扇子)です。


叢梨子地花車蒔絵(右) 長文箱  黒漆若松舞鶴蒔絵(左) 長文箱


黒漆高坏柏葉螺鈿文字入り蒔絵 硯箱 国指定重要文化財
鳳凰に桐をあしらった高坏に柏の葉がのり、葉には螺鈿で伊勢物語第87段の一節「きみかためには」が入れてあります。


黒漆蒟醤盆 煙草箱 附属方盆
江戸時代の讃岐漆器の代表的技法蒟醤(きんま)で作られた盆で、文綺堂2代藤川蘭斎の作です。


檜扇 葵紋付き 国指定重要文化財
7代慶寿が登城の折携帯したものと伝わります。


印籠 国指定重要文化財
蒔絵、堆朱、螺鈿などの細工が施され、紐の先端に根付が付いた腰に下げる小箱で、主に印判や常備薬を入れていたものが、江戸時代には装身具になりました。大相撲ではいまも立行司と三役格行司だけが印籠を付けて土俵に上がっています。

明治維新、関東大震災、太平洋戦争で大名家などのお宝が散逸してしまったなかで、この一橋家の他にも、水戸徳川家(徳川ミュージアム)、尾張徳川家(徳川美術館)、井伊家(彦根城博物館)、前田家(成巽閣)など法人化して所有美術品を管理公開しているところもありますが経営は大変なようです。ある法人の代表の方が、どうしても手放すときには出所が後世に伝わるように高額なものから換金していると放送で話していました。
今後もどういう方策にせよ国のお宝が散逸せずに存続できるように、行政も何らかの優遇措置を設定して見守っていただきたいと思います。