顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

一気に季節が進む…身の回りの秋の気配

2024年10月11日 | 季節の花
秋の長雨が数日続き、あの殺人的な夏の残像からやっと解放された気がしました。人間は何とも我儘なもので、今朝は寒いなぁと愚痴ってしまいました。


秋を告げる清楚なシュウカイドウ(秋海棠)は、中国などに自生していた山野草で、園芸種として渡来し日本各地に定着した帰化植物です。春咲くカイドウ(海棠)に似た美しい花を咲かせるので付いた中国名をそのままに音読みにして和名にしました。


同じ株に雄花と雌花がある雌雄異花同株で、上に向かって花が開いているのが雄花、垂れ下がってまだ開いてないのが雌花です。
一緒に写っている花はアカミズヒキ(赤水引)、祝儀などに使われる紅白の飾り紐に似ているので名付けられました。


秋の花で好みのホトトギス(杜鵑草)、鳥のホトトギス(杜鵑)の胸の模様のような斑点が花についていることから名前が付き、俳句などでは油点草という名で詠まれることもあります。ホトトギスのイラストは、サントリー「日本の鳥百科」よりお借りしました


初秋に咲くヒマワリとして最近人気のシロタエヒマワリ(白妙向日葵)がまだ咲いていました。原産国のアメリカではsilverleaf sunflower、直訳して銀葉ヒマワリともよばれます。


コスモス(秋桜)も名前のように秋を代表していますが、原産地はメキシコで明治時代に渡来した外来種というのを最近知りました。


偕楽園公園に咲いていたヒヨドリバナ(鵯花)、鳥のヒヨドリ(鵯)が鳴く頃に咲くという命名説が一般的です。


こちらもヒヨドリバナ属で万葉の時代から親しまれてきた秋の七草、フジバカマ(藤袴)です。葉に桜餅を思わせるような芳香があるという情報で試してみたら微かにそのような匂いがしました。平安時代の貴族の女性は乾燥した藤袴の葉を入れた匂い袋を身に付け香りを纏ったそうです。


偕楽園公園で咲いていたノハラアザミ(野原薊)です。


アキノタムラソウ(秋の田村草)はシソ科アキギリ属、同じ属で春に咲くハルノタムラソウもありますが、どちらも命名諸説の真偽は不明のようです。


この時期山野で目にするアキギリ属の総本家、キバナアキギリ(黄花秋桐)です。アキギリ属の属名は英語ではSarvia、まさしくサルビアそっくりです。


ワレモコウ(吾亦紅)も公園の一角に毎年顔を出してくれます。地味な花ですがカラオケでよく歌った杉本真人のメロディーが浮かんできます。


北米原産のヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)は大きくなる多年草で、空き地などに繁茂しています。ブドウのような実ですが有毒で、果実や根の誤食事例が結構あるそうです。


小さな実がぶら下がっているのはスズメウリ(雀瓜)です。果実は熟すと灰白色になりますがカラスウリ(烏瓜)と比べるとスズメの名の通り直径1〜2cmの可愛い球形です。


偕楽園公園の旧桜川で見つけたアキアカネ(秋茜)、「夕焼け♪小焼け~の」と親しまれたいわゆるアカトンボですが、農薬などの影響で個体数は激減しているのが現状です。


旧桜川で見つけた鯉の昼寝でしょうか、倒木の陰の凹みに三尾揃って休んでいました。厳冬の水中でじっと動かずに春を待つ準備はできているようでした。

梅林の彼岸花…偕楽園公園

2024年10月05日 | 水戸の観光
梅で知られる偕楽園は、広さ12.7haで標高差約20mの水戸台地上にありますが、周辺の沖積層の水辺を含めた緑地は、偕楽園公園とよばれ約300haの面積を誇ります。これはニューヨークセントラルパークに次いで世界第二位の広さの都市公園といわれています。


その一画、窈窕(ようちょう)梅林の隅にヒガンバナが咲いていました。多分最近植えたと思われますが、群生を一ヵ所にまとめず散らして植えたのがいい味を出していました。


ちょうど秋彼岸頃に咲くのでヒガンバナ(彼岸花)とよばれますが、開花気温が20℃くらいのため残暑厳しい今年はどこも彼岸をはるかに過ぎての満開になっているようです。


彼岸花は別名で死人花、地獄花、墓花もいわれ、どちらかというと忌み嫌われてきました。しかし詩や歌によく使われる曼殊沙華(マンジュシャゲ)という別名は、サンスクリット語でmanjyusaka「天界に咲く花」を意味し、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくるという仏教の経典からついた名前でもあるので、最近では庭に植えられるようになり、リコリスという名前で園芸品種も販売されています。


ちょうど咲き始めのいい時期でしたが(9月30日)、よく彼岸花を撮影するのは難しいといわれるように、花全部が赤一色で、それが光の影響で強く出過ぎて、細部が良く分かりません。


我が狭庭でも咲いていたので、白い紙を下に差し込んで撮ってみたら、花が浮かび上がりました。地面から伸びた花茎には通常6個の花が咲いています。




写真ではよく分かりませんが、花を構成する6枚の花被(花びらと萼が一緒になったもの)のうち、外側の3枚は萼が花びら状になった外花被で、内側の3枚が本物の花びらの内花被です。一つの花からは6本の雄しべと1本の雌しべが長く飛び出しています。


咲いている花茎の下の地面には葉が見当たりません。これは開花期には周りの植物が葉を茂らせて光合成するので、多くの植物が枯れる秋の開花後に地面から葉を出し、太陽光をしっかりと受け栄養を球根に蓄える自然界の仕組みだそうです。



さて、本園の偕楽園にも秋の訪れが感じられるようになりました。


萩まつりは9月で終わりましたが、まだ残り花が咲いています。暑い夏の影響でしょうか、今年は花付きもあまり良くなかった気がします。


園内には、このような萩の群生が約150群あり、開設当初に仙台藩から譲り受けたという宮城野萩を中心に、山萩、丸葉萩、白萩などが混植されています。



万葉集で多く詠まれた花の一番が萩(141種)、二番目が梅(119種)…この二つの花で春と秋を彩った水戸藩9代藩主徳川斉昭公は、花を愛でるだけでなく、萩の葉は軍馬の飼料にもなり、梅の実は行軍の保存食にもなると戦いの備えとしても考えていたようです。


なお、この萩は秋の終わりに地上部を刈り取って、その枝で作った柴垣(萩垣)は園内各所で訪れる方の眼を楽しませてくれます。和風庭園の垣根として珍重される萩垣、その希少な材料がここでは豊富に調達できるからです。


天保13(1842)年の開設から182年、激動の幕末を生きた斉昭公は令和の平和な偕楽園を雲上から眺めて感慨に浸っているかもしれません。

涸沼の砂州…自然が造り出した地形

2024年09月30日 | 日記
茨城町、鉾田市、大洗町にまたがる涸沼(ひぬま)は周囲約22km、湖水面積9.35㎢に及ぶ関東唯一の汽水湖です。シジミやハゼ釣りでも知られ、また野鳥の宝庫でもあり、望遠レンズのカメラマンにも人気の自然いっぱいの湖沼です。

この涸沼には、自然が造り出した沖に突き出た地形、砂洲(さす)があり、google航空写真ではっきりと分かります。

砂洲とは、河川によって運ばれた砂礫が、風や沿岸流によって堆積してできた砂嘴(さし)が成長して、やや沖合に細長く伸びた地形です。砂州の代表的な例は「天橋立」、砂嘴の例は「三保の松原」といわれます。


涸沼の砂州は北側が「親沢公園」、南側が「網掛(あがけ)公園」になっています。



親沢公園は、涸沼に突き出した一画に松林などの林が手入れよく並ぶ景勝地になっています。最大25張りのテント設営可能なキャンプ場もあり、ロケーションの素晴らしさから人気があるそうです。

松の木の間から筑波山が、山容がよりどっしりした形で見えています。ここからは「ダイヤモンド筑波」が10月10日前後に見られると出会ったカメラマンの情報です。

ヒガンバナも咲いていました。釣りをしていた方に聞いたら、今年のハゼは水温が高いせいかぜんぜん当りがないと嘆いていました。




さて対岸の網掛公園、広々としていますが夏草の刈り取りがまだのようです。


突き出した砂洲の湾曲した部分が良く分かります、大きなボラがたくさん水面から飛んでいますが、ここでも釣り人の釣果は散々なようです。ボラは水中の酸素濃度が低下しているため酸素を取り込もうと飛ぶので、魚の活性が低下している状況になり魚は釣れないという説もあります。




こちらは涸沼の出口に近い「広浦公園」…この一帯は、以前は沖合400mくらいまで黒松の生えた細長く突き出た岬状の砂州で「常陸の天橋立」と言われたそうですが、干拓等の埋め立てにより現在は砂嘴となっています。


あんば様で知られる大杉神社の鳥居とコブハクチョウ、多分ここに住み付いている個体です。


ここは、風波と東日本大震災時の0.2mの地盤沈降により侵食が進んだことから、平成25年(2013)久慈川の河床堆積土砂2,000 ㎥を運び込みましたが、まだ浸食が続いているようで砂浜がずいぶん後退しています。


水戸藩9代藩主徳川斉昭公が選定した水戸八景「広浦の秋月」の碑です。左側には保勝碑が建っていますが、常陸太田産の寒水石(大理石)のため、風雨に晒され細かい文字はよく読めなくなっています。


ところでこの涸沼は平成27(2015)年に、スズガモ、オオセッカ、オオワシの生息・越冬地としてラムサール条約湿地に登録されました。
※ラムサール条約とは「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい1971年イランのラムサールで開催された国際会議で採択された、湿地の保全と利用、学習に関する条約です。

沿岸の自治体である鉾田市と茨城町では、ラムサール条約に関連した水鳥湿地の保護施設を今年度中に開設することになっています。


4月にオープンした鉾田市の「みのわ水鳥センター」です。観察センタ3階の屋上からは広々とした湖水を眺められ、また双眼鏡の無料貸し出しも行われています。

湖岸堤防には遊歩道があり、野鳥などの営巣地や水性植物の群落となる湿地の中には木道が敷かれて観察や散策、釣りには絶好のポイントになりました。


古墳のような高台には、お子様に人気の芝生の滑り台スロープが設置されています。


この施設のちょうど対岸には、沿岸自治体の茨城町が建設中の「涸沼水鳥湿地センター」が間もなく完成の予定です。(完成予想図は茨城町のウェブページよりお借りしました)



この一画にある「いこいの村涸沼」は、日本一の宿泊率を誇る国民宿舎「鵜の岬」の姉妹館として人気の茨城県営の宿泊施設です。夏の大プールや64ホールの林間芝生コースを完備したグラウンドゴルフ場も好評です。


また、34.5haの広大な敷地を誇る涸沼自然公園は、自然を丸ごと取り込んだ中に広場や遊戯施設が散在しており、隣接して規模の大きいテントサイト、オートキャンプ場も備えています。

海抜0mのため海の干満の影響で最大40cmくらい水位が上下する涸沼…、砂州や砂嘴ができやすくこれが葦原となり、海水と淡水が混じり合うため鳥たちの餌となる魚類やシジミなども豊富で、冬になるといろんな鳥類の群れで湖面がにぎわいます。この自然いっぱいの涸沼の豊かな生態系を後世に残そうと水質浄化や自然環境の保全に取り組む運動が行われています。

天狗党の乱で消失の水戸藩遺跡…反射炉と夤賓閣 ②

2024年09月24日 | 歴史散歩
幕末水戸藩の元治甲子の乱(天狗の乱)で焼失した反射炉と夤賓閣(ひたちなか市那珂湊)、②は夤賓閣のご紹介です。

夤賓閣(いひんかく)は、水戸藩第2代藩主徳川光圀公が、太平洋に面した日和(ひより)山と呼ばれる台地に元禄11年(1698年)に建設した藩の別邸で、湊御殿、浜御殿、別館ともよばれていました。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日出・(つつしんで日の出をみちびく)」という文から採り、接待所や迎賓館という意味を持つそうです。


もともと那珂湊には、天正18年(1590)以降、水戸領主になった佐竹氏の湊御殿が台地北側の山下にあって水戸藩成立後も使用され、光圀公も何度かこの御殿を訪れてこの地方の寺院整備や蝦夷地探検の快風丸の製造などを指揮したといわれています。隠居後にその集大成として機能を拡大した夤賓閣が建設されました。

夤賓閣の当時を伝えるものはあまり現存せず、彰考館所蔵のものを模写した「湊御殿敷地図」(原図は水戸空襲で焼失)、平成18年に古書店で見つかった「夤賓閣図」、それに天保10年(1839)水戸藩に招聘された農政学者長島尉信が訪れた記録が主なものですが、それをもとに夤賓閣復元研究会で作った想像図が現地案内板に載っています。

建坪は約300坪(約1000㎡)、一部は地形を利用した2重構造だったと推定されています。20畳敷きの御座の間や御寝所のほか御小姓部屋や御医師部屋など大小30以上の部屋で構成されています。
東側と南側は礫岩が露出する岸壁の上の高台に築山式枯山水庭園が造られ、築山と石組みが配置され見事な黒松が植えられた大名庭園の趣を伝えていたといわれています。


また、台地の東側の突端には異国船番所があり、海防の備えの役目も担っていました。いまは東屋が立っている先の崖上あたりでしょうか。


その後、定府制の水戸藩藩主の帰国の際にはこの湊御殿が別荘として使われることもあり、また貴賓の接待や家臣への慰労などにも使用されました。光圀公が御殿入りの際には、近隣の華蔵院、願入寺、六地蔵寺、久昌寺などの住職が招かれ、酒宴や詩歌の会が催されたと伝わっています。

この夤賓閣は幕末の水戸藩の内乱、天狗党の乱ともいわれる元治甲子の乱(1864)でこの一帯が激戦地になりすべて破壊消失されてしまいました。


跡地は「湊公園」として整備され、当時の松が12株、庭石などとともに残っています。


この松は光圀公が源氏物語でも知られる須磨明石(兵庫県)から苗木を取り寄せたといわれる樹齢約350年以上の見事な黒松です。


永い歴史を生き抜いた黒松、激動のいろんな場面を見てきた太い幹は何も語ってはくれません。


御殿のあった辺りには湊公園ふれあい館が建っています。ここの2階で私が当番の時に句会を開いたのは7年前の9月…、その句会もコロナ禍を期に解散となって、当時のメンバーもお二人が他界された今ここを訪れると、季節の移ろいの早さが身に染みました。
天狗党の乱では、現在は海門橋が架かっている那珂川を挟んだ両岸から、大砲や銃撃戦が行われました。


標高21mの日和山と、西側に砲台のような台地が、南側の那珂川を見下ろしています。天狗党の乱ではここを砲台として対岸との激しい戦闘が行われました。しかし幕府の軍艦による砲撃は正確に威力を発揮するのに、水戸藩で作った大砲は敵までとどかなかったという話も残っています。


日和山から見た南側には、那珂川と合流する涸沼川 その向こうに筑波山が見えます。夤賓閣建設から約320年、反射炉からは約170年…今も滔滔と流れる那珂川河口に面した二つの遺跡周辺では、夏の喧騒も過ぎ静かな季節に入っています。文明は大きく進歩しましたが、約14km北にある東海第二原発が再稼働問題で揺れている現在を、先人たちは雲の上から見ているでしょうか。


300年以上生き抜いてきた黒松の下にはツルボ(蔓穂)の花があざやかな色を見せていました。


天狗党の乱で消失の水戸藩遺跡…反射炉と夤賓閣 ①

2024年09月17日 | 歴史散歩

幕末水戸藩の元治甲子の乱(天狗党の乱)で焼失した反射炉と夤賓(いひん)閣(ひたちなか市那珂湊)…、①は反射炉のご紹介です。昭和12年(1937)に復元されています。


今から約200年前の幕末の水戸藩では、外敵の脅威が現実になってきたため9代藩主の徳川斉昭公が寺院の梵鐘などを供出させて(そのために幕府より謹慎処分を受けました)造ったのは銅製臼砲で、射程距離が短く威力に乏しいため、高性能の鉄製の大砲を鋳造する反射炉の必要性に迫られていました。

嘉永6年(1853)斉昭公の腹心藤田東湖が旧知の三春藩士熊田嘉門に相談したところ、南部藩の大島総左衛門が反射炉に詳しいということで、藤田が模型を作らせると大島は薩摩藩の竹下正右衛門の協力で完成、早速斉昭公は3人それぞれの藩主に水戸藩への出向許可を取ります。

製作の元締めとなった水戸藩の佐久間貞介は建設地を湊村の吾妻台と決め、反射炉の先進地薩摩藩へ技術習得に派遣した地元の飛田与七が反射炉製作の棟梁となりました。


建設地の約1キロの北西の地、中丸川が那珂川に合流する右岸には、中丸川の水力を利用して反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け、仕上げを行う水車場も造られました。



跡地に建つ水車場の案内版には水力で砲身に穴をあける仕組みが描かれています。


安政2年(1855年)に飛田与七の設計により着工し、翌年に完成しましたが、元治甲子の乱(1864年)で焼失してしまいました。水車場跡地には案内版と石碑が建っているだけです。


また耐火煉瓦の土は水戸藩領の下野小砂(馬頭)の土が最適として敷地内に耐火煉瓦の製造所も建て、薩摩の竹下が連れてきた煉瓦焼成の名人福井仙吉が担当しました。

復元された煉瓦焼成窯です。


安政元年(1854)水戸藩は反射炉建設資金として幕府より1万両の借り入れをして地鎮祭を行います。安政3年(1856)鋳造が始まりますが完成品に至らず、台風被害などで反射炉での大砲鋳造は滞り、藩の軍事訓練場である那珂川畔の神勢館に設置された大砲製造所で銅製大砲の鋳造を続けざるを得ませんでした。

反射炉の仕組みが市のパンフレットと現地案内板に出ていました。



燃料(木炭、石炭、コークスなど)は鉄材と離して燃焼部に置き、燃焼すると熱風と燃焼ガスがドーム状の壁に反射して高温となり鉄材を溶かします。解けた鉄は炉内の斜面を下り湯口から落ちて大砲の鋳型に流し込まれます。

安政6年(1859)やっとモルチール砲、カノン砲の製造が順調になった祝いの酒宴の席に斉昭公が国元永蟄居になった報せが届きました。反射炉は操業停止になり再開の見込みもないまま、元締めの佐久間貞介は失意の中で自刃、出向してきた3人もそれぞれ各藩に戻りました。

※砲の写真は名古屋刀剣ワールドのウェブページよりお借りしました。

翌安政6年には斉昭公も逝去し柱を失った水戸藩では藩内抗争が激化していきます。文久2年(1863)飛田与七が中心となって反射炉の稼働が再開しますが、翌年の元治元年(1864)に天狗党の乱が起こると那珂川を挟んだこの一帯が2か月に及ぶ攻防の激戦地となり、反射炉と夤賓(いひん)閣は跡形もなく消失破壊されてしまいました。



結局ここで造られた大砲は約20数門ということですが、先行していた佐賀藩や薩摩藩には、量的にも質的にも遠く及ばず、特に外国製のアームストロング砲などとの性能の差は歴然で、その後の戊辰戦争で証明されてしまいました。

しかし盛岡藩の大島高任がこの反射炉の銑鉄を得るため藩内の釜石に築いた大橋様式香炉は日本の近代製鉄の原点とされ、やがて技術者を派遣した八幡製鉄へと進化し、大島は「日本近代製鉄の父」とよばれました。このことから水戸藩の反射炉は我が国の製鉄業の発展に大きく寄与したという評価もされています。


なおこの反射炉は、那珂湊出身の弁護士・深作貞治氏が、陸軍省から土地を購入し、私財を投じて昭和12年(1937)に使われていた煉瓦も再利用して実物大で復元したものです。


反射炉の煙突の間にある建立趣旨の碑には、東郷平八郎元帥の絶筆という「護国」の字が刻まれています。平八郎の甥である東郷吉太郎が反射炉研究家であったことが縁となって実現したそうです。


この反射炉で作られていたカノン砲の複製が置かれています。


反射炉に上る石段の上には水戸藩小石川上屋敷にあった山上門が、反射炉を再建した深作貞治氏により昭和11年に移築されて市に寄贈されました。

もと上屋敷の正門右側にあり、勅使奉迎のために設けられたもので、幕末には、佐久間象山、西郷隆盛、橋本左内などが、この門を出入りしたといわれています。門は、後に小石川邸の山上に移されたので山上門と言われるようになりました。


薬医門形式のこの門は 東京空襲で焼失した水戸藩上屋敷の唯一残った建築物として貴重な門になっています。

また、反射炉に使う煉瓦の原料を採取した下野小砂村では、その後大金彦三郎が自ら現地に陶窯を築きました。

現在では小砂(こいさご)焼として知られ、金色を帯びた黄色の金結晶や桃色がかった辰砂など、素朴な中にも上品な色合いの陶器を数軒の窯元が世に出しています。(写真は小砂焼きのウェブページよりお借りしました)




復元された耐火煉瓦の焼成窯から見る南西方向には、水車場のあった那珂川と遠くに筑波山が見え、手前には令和の平和な街の暮らしが広がっていました。