顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

柴又帝釈天と寅さん

2018年11月15日 | 旅行
柴又帝釈天は正式な名は経栄山題経寺という寛永6年(1629)開山の日蓮宗の寺院です。帝釈天は本来仏教の守護神である天部(インドの古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったもの)ですが、この寺の通称として有名になりました。

寺院縁起によると、宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊が長年所在不明になっていたところ、安永8年(1779)本堂の修理の際、棟木の上から発見されました。これが庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となり、江戸時代から庚申講の聖地として関東一円から信者が集まったそうです。

二天門は入母屋造瓦葺の楼門で、増長天および広目天の二天像を左右に安置しているのが名の由来です。

二天門を入った境内中央には、樹齢400年、四方に張り出した瑞龍の松を配した帝釈堂の拝殿と内殿があります。

内殿は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、彫刻ギャラリーとしてこの寺の人気スポット(有料)になっています。

法華経の代表的な説話10話を大正11年(1922)から昭和9年(1934)の長い年月をかけて、10人の名人彫刻師が横227×縦127×厚さ20センチの欅の一枚板に1面ずつ分担制作したもので、思わず見とれてしまいます。

日蓮宗寺院としての本来の本堂は何故かひっそりしています。本尊は日蓮宗の本尊、大曼荼羅です。

本堂裏の大客殿に面した池泉庭園の邃渓園(すいけいえん)は、向島の庭師永井楽山の設計で、外周を廻る回廊を通っていろんな角度から鑑賞できます。

大客殿の頂経の間にある「南天の床柱」は、滋賀県伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したという直径30センチで、日本一といわれています。

さて、帝釈天は松竹映画「男はつらいよ」で一躍有名になりました。この大鐘楼も佐藤蛾次郎演ずる源ちゃんが時を知らせる鐘を鳴らす場面に出てきました。

京成柴又駅から約200mの参道は下町情緒いっぱいの古い町並みで、名物草団子の店などが並んでいますが、映画に出てくる場面は松竹撮影所のセットで撮影したそうです。

柴又駅には等身大の寅さんの銅像が撮影スポット、左足を触ると願いが叶うとかで、左足だけが異常に輝いていました。なお昨年、寅さんの視線の先に妹さくらの銅像も加わりました。


潮来あやめまつり

2018年05月26日 | 旅行

きょう5月26日から6月24日まで開かれるあやめまつり、スタート3日前に町内の日帰り旅行で訪れました。園内に植えられた約500種、100万本といわれるアヤメ(花菖蒲)は、季節の訪れの早い今年はもう開花が始まっていました。

咲いているのはほとんど花菖蒲です。アヤメは乾いた草地などに生え網目の模様の小振りの花、ハナショウブ(花菖蒲)は湿地に生え大きい花で中心が黄色との違いがありますがアヤメ科アヤメ属なので、総称してアヤメと呼ぶことも多く、間違いとはならないようです。

1960年発売の吉田正作曲「潮来笠」の橋幸夫が銅像で建っています。
メロディーがすぐに浮かんできますが、もう58年も前のこと、17歳だった歌手も75歳になっています。

いろんな色があり模様も多様でなんとも豪華な花です。江戸時代頃からの品種改良で、絞りや覆輪の組合せにより5000種類くらいあるそうで、それぞれ夢の羽衣、浮寝鳥、淡雪桜など、雅な名前が付いています。

ここは北利根川(常陸利根川)に流れ込む前川沿いで、江戸時代には利根川を遡って江戸へ向かう船運の物資集積地として繁栄し、伊達藩や津軽藩の名の付いた河岸跡が残っています。

さて、お昼はかんぽの宿潮来です。
4階の大浴場は、北浦を見下ろす絶景のロケーション、ナトリウム塩化物泉は少し塩っぱくてしかも褐色、なんか身体に効きそうな感じがします。風呂の湯気にぼんやりと、遠くに鹿島スタジアムが見えます。

誰も居なくなったのを見計らって浴場の写真、褐色の湯の色が微かに分かるでしょうか、ふだん家庭風呂で味わえない大絶景のなかで、手足を伸ばして充分に満喫できました。

源頼朝ゆかりの三嶋大社  (静岡県三島市)

2017年10月01日 | 旅行

三嶋大社の創建時期は不明ですが、古くよりこの地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残っているそうです。中世になると武士、特に伊豆に配流された源頼朝は深く崇敬し源氏再興を祈願、神助を得て成功すると神領を寄せ、社殿を造営し、神宝を奉じました。
それ以後は、東海道の拠点として、伊豆地方の入り口の下田街道の起点に位置し、伊豆国一宮として境内約50,000㎡の大神宮となりました。

外構えにある総門は、昭和5年(1930)の北伊豆地震で破損したため昭和6年再建、台湾檜を使った神社建築の代表的建物の1つで、大注連縄は400Kgもあるそうです。なお、慶応年間再建の旧総門は修復、移築し、芸能殿として使用しています。

唐破風造りの神門は慶応3年(1867)の再建、ここから神域に入ります。

本殿・幣殿・拝殿の連なった御殿と称される建物は重要文化財に指定されています。江戸末期の寛永7年(1854)東海地震で被災しましたが、時の神主矢田部盛治が全国に勧進を行い、16,677両の巨費を投じて幕末の慌ただしい時代にも拘わらず明治元年(1868)にかけて随時落成されました。

その矢田部盛治の銅像がすっくと建っています。現在でも矢田部家の第70代、矢田部盛男さんが宮司を務めています。

舞殿は祓殿と呼ばれ神楽祈祷を行っていましたが、後には主として舞を奉納したので、舞殿と呼ばれるようになりました。慶応2年(1866)に再建されたものです。

樹齢1200年といわれる天然記念物の金木犀は、9月から10月にかけて年2回開花することで知られていますが、ちょうど過渡期で手前の若木だけが咲いていました。学名はウスギモクセイ(薄黃木犀)という品種で、確かに薄い黄色の花でした。

頼朝の妻、北条政子が勧請したと伝えられる厳島神社は、家門繁栄、商売繁盛、安産、裁縫等の守護神で知られています。

富士の見えない西伊豆の旅

2017年09月28日 | 旅行
今年の町内の旅行は、平均値で9月30日初冠雪の富士山を眺める一泊二日の旅…さりながら天気晴天なれど富士山付近には二日間とも雲が湧き出しており、初冠雪のニュースも出ず、善男善女43名の期待を見事に裏切ってしまいました。

駿河湾と富士の眺望で有名な達磨山(982m)から見下ろすと、富士山付近は積乱雲に覆われています。矢印の先に本来ならば初冠雪の富士山が見えるはずでした。

風化して黄褐色になった安山岩が、夕日を浴びて黄金色に輝く黄金崎…、ここでも富士山のシルエットがかすかに雲の間から覗いているだけでした。

一日目は諦めて、ホテルの部屋から駿河湾に沈む夕日を撮り、明日の快晴を祈りました。

翌日も晴天、1日4便の駿河湾フェリーの始発で土肥港から清水港まで、観光バスごとフェリーに乗り込んで出発です。

この区間の航路は、なんと県道223号線に指定されています。観光主体の粋な計らいで、富士山に語呂合わせの223号線、名前だけの海の上の県道表示です。

さて今回のメインイベント、65分間の航程は右側正面にドカンと富士山が居座るわけですが、なんとここだけ白い雲が湧き上がっています。

これは、駿河湾の水分を含んだ風が、長い稜線を経て高度を増して吹き上がり、急激に冷やされて雲となるので、当たり前の現象のようです。しかも富士山が全部見えた日数のデータでは、9月は24.9%、約8日ということです。
仕方ないので見える筈のところに、白い線で富士山を描いて哀れな紀行といたしました。

小石川後楽園

2017年05月30日 | 旅行

江戸時代初めの寛永6年(1629)に水戸徳川家の初代頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷)の庭として造り、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者、朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国の杭州にある西湖を模した「西湖の堤」は、その後に築造された各地の大名庭園にも大きな影響を与えました。

また、円月橋は明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋、水面に映る姿が満月のように見えるので、この名がつけられました。震災、戦災を免れた貴重な建造物の一つです。

園の中心にある蓬莱島と呼ばれる島を配した大泉水の大池は、琵琶湖を表現しており、その用水は、家康の命によって天正18年(1590)より整備された、神田上水の分流を引き入れていました。どこから写しても背景に高層ビルが写ってしまいます。

大名庭園に必須の陰陽石もありました。大名は嫡子が途絶えると御家断絶になるため、 江戸時代の大名庭園では子孫繁栄を願って陰陽石が大流行したそうです。

徳川家の家紋、三つ葉葵の原型、フタバアオイ(二葉葵)が入園口に植えてあります。京都の賀茂神社の御神紋、別名カモアオイ(賀茂葵)、毎年5月に行われる葵祭りのシンボルです。