顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

新春2024…穏やかな世を祈念

2024年01月01日 | 日記
明けましておめでとうございます。

近辺で初日の出の名所である「大洗海岸の神磯」はわが家より約8キロ、正月用の写真を撮ろうと年末に訪れました。穏やかな日が続いていたので、狙った豪快な波しぶきにさらされる岩と鳥居の写真どころか波ひとつない写真になってしまいました。

神が降り立ったと言われるこの神磯に立つ鳥居は、この上の高台にある大洗磯前神社の鳥居の一つです。紛争の絶えない地球に、穏やかな日々が戻りますように手を合わせてきました。

いつも偕楽園の早咲きの梅の花を載せていましたが、暖冬といわれる年なのに、年末に探しましたが咲いた花が見当たりません。やっと見つけた一輪の「八重寒紅」と偕楽園好文亭が何とか収まりました。
好文亭は南側の大きな木が枯れて伐採されたのでしょうか、下の梅林からその全体が見えるようになりました。

梅の花は11月末くらいからの氷点下の最低気温で開花スイッチが入るといわれます。それに適度な湿度も開花の必要条件ですので、この二つが足りなかったのでしょうか。



いつもは咲いている水仙もまだ固いつボミ、庭の隅にやっと見つけたフクジュソウ(福寿草)の芽もまだまだ固いものでした。


蕗の薹もまだ固い萼片に包まれています。これらも梅の花と同じような開花スイッチの条件が足りなかったのかもしれません。

予定していた春の兆しの写真が撮れず、偕楽園公園で撮ったツバキの色違い3種です。



紅白が正月らしい雰囲気を出していました。

白い花には侘助の名札が付いていました。

公園のコブシの蕾も目立つようになってきました。
枯れて黒い実は拳(こぶし)の形で、これがコブシの命名由来といわれますが、蕾の形や開花する様子が拳を開いたようだという説もあります。

暖かそうな毛に包まれたツボミは、いたって希望的ですが明るい未来の予感がするような気がしました。

老人に空みえ辛夷春を待つ  和知喜八
子の進路いまだ辛夷の萼鎧ひ   田所節子
綿衣の脱ぐ日辛夷の大志かな  顎鬚仙人

出雲大社が常陸国に…樹木葬でも知られています。

2023年10月07日 | 日記

常陸国出雲大社は、平成4年(1992)に島根県出雲大社より分霊し笠間市福原に建立されました。ご祭神は、国造り、縁結びで知られている大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
※その後2014年にお守りなどの商用利用を禁じる「神社本庁」の通達を守らなかったことにより出雲大社との関係が解消されて、現在は単立の宗教法人となり名前も出雲大社常陸分社から常陸国出雲大社に変わったそうです。

この福原の地は、島根県出雲大社から、大国主大神の第二子建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)が鎮まる長野県諏訪大社を通り、常陸国(日が立ち上る国)へと直線上で結ばれているご神縁の地とホームページに出ていたので、地図で確かめてみました。


小高い山の斜面を利用して建物が散在しているので、境内は自然の中に囲まれています。


大鳥居は、石の山地として有名な地元稲田の御影石で造られた明神鳥居、高さ約11m、笠木長さ約14mという国内最大級の大きさです。急なこの石段は登らずに左手の坂を登る参拝者が多いのですが、そちらも思ったよりは急坂で息が切れました。

急坂を登ると諏訪大社本宮の脇拝殿様式を取り入れたという拝殿と大きなしめ縄が見えます。


ここは圧倒される大きさのものが多い神社です。国内最大級といわれるしめ縄は、なんと長さ16m、重さ6tonもあるそうです。


この大しめ縄に下からコインを投げ銭して藁の間に刺さると縁起が良いといわれており、たくさん刺さったコインが見えるでしょうか。神社では神様に失礼な行為としているようですが…


本殿は、日本最古の建築様式である大社造りです。切妻造の屋根が三角に見える方に入り口がある大社造りの構造が分かるように、この写真は大社のホームページよりお借りしました。


総檜による拝殿の高い天井には、奥田浩堂氏の「常陸の雲」が描かれておりますが、これもなんと42畳の大きさだそうです。


総木彫りの大国主命像も国内最大級の大きさで、出雲一刀彫藤井孝三氏の作です。右の手の上に載っているのが、大国主命と一緒に国づくりをしたという身体が小さい少名彦命(すくなひこのみこと)です。


巨木文化の最たるものは拝殿内に置かれたこの大國柱、実際には天井を支えているわけではないようですが樹齢2650年、直径は2.5mの大檜です。通常の表記は「大黒柱」でも、ここではやはり「大國柱」でした。
もっとも国を支える柱という意味の「大國柱」が転化して「大黒柱」になったという説もありますし、大言海では「大國柱」を採用しているようです。


御鎮座三十周年の看板のある林彩館は、秋田の豪農畠山家の米蔵として使用していたものを譲り受け移築したギャラリースペースです。


大きさで圧倒される境内で、その割にはつつましい大きさの手水舎でした。


見晴らし台から見えるのは、燕山(701m)や加波山(709m)などの筑波連山、その先に関東の名峰筑波山(877m)があります。


さて、最近ここがよく話題になるのは、神社の後ろに平がる山の一部を樹木葬霊園として造成し販売していることです。

知り合いの方でもすでに利用されている方もおり、その一画を訪れてみました。ちょうど曼殊沙華が咲いていました。

林の中には墓石などの重厚なものはなく、小さな杭があるだけで、墓というイメージではありせん。遺骨は土に直接埋葬するそうですから、まさしく自然に帰るという状況そのものです。

これからの時代、核家族も増えると先祖の墓を維持するという考え方も変わってくるでしょうし、個人的にはこういう形態の墓所もいいかなと思いました。

♪ 別れの一本杉…高野公男と船村徹

2023年05月13日 | 日記
   泣けた 泣けた  こらえきれずに 泣けたっけ
   あの娘(こ)と別れた 哀しさに 山のかけすも 鳴いていた  
   一本杉の 石の地蔵さんのよ  村はずれ


わが世代から前の方々にはお馴染みの「別れの一本杉」は、昭和30年(1955)春日八郎の唄で大ヒットしました。昭和歌謡不朽の名曲とされるこの曲は、数々のヒット曲で知られる船村徹が作曲し、作詞は高野公男、この早逝した男との深い友情が後々まで語られています。


かくいう仙人も大好きな曲の一つで、酒で羞恥心を薄めてよくマイクを握ったものでした。この高野公男は仙人の棲み処から30キロくらいの笠間市出身なので、その顕彰碑や墓所を訪ねてみました。


生誕地の笠間市大郷戸は県境の地で、北西約7キロ先から栃木県益子町になります。栃木県出身の船村徹とは、訛りの残る北関東の者同士の親しさもあり意気投合したのでしょうか。


集落の10数基の墓が並ぶ一番奥に高野公男の墓がありました。


一生を簡潔に述べた高野公男(本名 吉郎)の譜です。


さて、東洋音楽学校(現 東京音楽大学)の在学中に知り合った二人は、同じ北関東出身で気が合い高野の詞に船村が曲を付けた多くの曲は採用されず、苦しい生活が何年も続きます。
たまたま、三橋美智也の「君は海鳥渡り鳥」のB面に起用された春日八郎の曲を選んでいるときに、お蔵入りの作品の中から「泣けたっけ」という曲が目にとまり、「別れの一本杉」と題名をかえて出したところ昭和30年の大ヒットになりました。
しかし喜びはつかの間、高野は結核にかかり入院してしまいます。船村は作詞高野という条件付きで仕事を受けて治療費を稼ぎ病院にも通いましたが、翌年9月8日に26年の短い生涯を閉じてしまいます。枕元に残された3冊の作詞ノートを高野の母から託された船村は、その後も二人の作品として世に出し多くの曲がレコード化されました。
7年間の短い二人の交流ですが、船村は高野を生涯の友として、毎年の命日の墓参を欠かさず、また節目の年には追悼コンサートを行ってきました。そして平成28年9月、心臓病大手術後の船村は最後の供養として高野公男没後60年祭「友情無限」コンサートを水戸で開催しますが、その5か月後には友のもとに旅立っていきました。



船村徹の筆による「友よ」と呼び掛けている哀悼の詩です。暗い墓地の中、男の友情が切々と伝わり涙を誘います。



大郷戸の集落入り口には、大きなお地蔵さんと「別れの一本杉」の歌碑があります。


船村徹の直筆でしょうか「公男の歌魂よ、とこしえに ふる里の山海にねむる」 平成十五年秋 船村徹と彫られていました。


傍らにはどなたかが置いたのか、杉の木の根元に小さな地蔵さんも置かれていました。


冒頭の写真はこの「詩人高野公男之像」です。日本三大稲荷といわれる笠間稲荷神社の西側に建っていました。「友情無限」高野公男没後50年祭記念 平成18年9月8日 船村徹建立 と記されていました。


笠間陶芸の森公園の北西にある小高い丘にも、高野公男顕彰碑が建っています。

ここ笠間は石の町で知られ、採掘される花崗岩「稲田石」は、国会議事堂などにも使われたブランド石です。その大きな花崗岩の中に直筆で書かれた「別れの一本杉」の歌詞と船村徹手書きの楽譜がはめ込まれていました。


高野公男の譜と、ここにも船村徹の「友よ…」の哀悼の詩がありました。高野公男作詞、作曲船村徹の名曲「男の友情」…その冒頭の語りの部分にこの詩が入っています。


訪ね歩いた碑の周りは二人の友情を称えるように新緑が輝き、野茨(ノイバラ)も短い花期を惜しむように花を咲かせていました。世に出た歌に感じる独特の哀愁や郷愁と同じように、その作曲家の人柄が彷彿する友情のエピソードでした。

世界にひとつ、陶の雛人形…笠間焼

2023年02月18日 | 日記



茨城県笠間市の窯元やギャラリーが陶製のひな人形を並べる「笠間のひなまつり桃宴(とうえん)」が、今年で23回目を迎え3月3日まで周辺の20店舗で開催されています。



笠間焼というと現在は「特徴がないことが特徴」とよく言われるそうです。国の伝統工芸品に指定されていますが、いつの間にか伝統や格式にこだわらない自由な風土が根付き、移住してくる若手作家も多く、現在地元の陶芸家と合わせて300人以上が活躍しています。



陶製のひな人形は今までの歴史がなかった分、その自由な発想が特に生かされた様々な作品が会場を飾っています。
同じものが二つとない世界に一つだけのひな人形、ほんの一部ですが紹介させていただきました。



ところで笠間焼は、江戸時代中期の安永年間(1772~1781)に、箱田村の久野半右衛門が、信楽の陶工長右衛門の指導で「箱田焼」として焼き物を作り始めたのが最初とされ、天保年間(1830~1840)に隣村の山口勘兵衛の作り始めた「宍戸焼」との二つが合わさって笠間焼になったといわれています。



笠間藩主の牧野家は、これらの焼き物を積極的に保護奨励し、陶土の蛙目(がいろめ)粘土の頑丈さから甕や摺り鉢などの日用雑器が作られ、幕末から明治時代にかけて一大産地として知られていました。



戦後の生活様式の変化により需要が激減する中、県立窯業指導所や窯業団地、笠間焼協同組合などが設立され、作家の個性に重きをおいた作品づくりを指導する場をつくったことで官民一体となり工芸陶器への転換を図ってきました。現在では、さまざまな作家たちが笠間に集まり、地元の作家と切磋琢磨し合いながら、多様な装飾技法を駆使した自由な作風でそれぞれの個性を表現しています。




会場のひとつ、笠間陶芸の丘では、笠間焼作家が干支や小動物を題材に手がけた約130体が並ぶ15段飾りが、会場内を華やかに彩っています。




この一画には笠間芸術の森公園として、茨城県陶芸美術館や県立陶芸大学校などの陶に関する施設が並んでいます。(マップは笠間市のホームページより)

因みに「益子焼」で知られる栃木県の益子町は、笠間市にほぼ隣接しており、江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まるとされています。鉢、水甕、土瓶など日用の道具の産地として発展していましたが、昭和の初めに柳宗悦らの民芸運動の中で芸術品の側面を持つようになり、濱田庄司、島岡達三という二人の人間国宝を輩出するまでになりました。

この隣り合った笠間と益子は、お互いに自由でおおらかな環境の中で600名を超える陶芸家が活躍しており、令和2年に「かさましこ~兄弟産地が紡ぐ‘‘焼き物語”~」というテーマで日本遺産に認定されました。

ところで、仙人が笠間焼というと思い浮かぶのがこの感じの壺と皿、東日本大震災でずいぶん割れた我が家の棚に残っているのがありました。

どちらも作家ものではありませんが、50年近く前に親しくさせていただいていた「製陶ふくだ」の作品です。

なお、益子焼の陶土も鉄分を多く含み、人間国宝の濱田庄司、島岡達三の作品も赤茶色で、笠間焼の色と似ていると思います。(写真はオークションサイトから借用しました)

ただ現在は、どちらの産地の作家たちも、他所の陶土も使って幅広い作品を作り出しているようです。

大寒波…なかなか「融けない」庭の雪

2023年01月27日 | 日記
関東平野の北端に位置する仙人の棲家は、鹿島灘まで約5キロに位置するため、あまり降雪のない地方ですが、さすがに10年ぶりという今回は例外でした。久しぶりに朝の室内気温はほぼ0℃、洗面所や風呂の窓も凍り付きました。

間違って顔を出してしまったムスカリです。




庭に積もった雪は約3cm、その日は太陽が出ても最高気温は1℃のため翌日(下の写真)もほとんど残っていました。


フクジュソウ(福寿草)の一番花の咲いていたあたりを掘り起こしてみると、雪の下で震えあがっていました。


隣地に借りている家庭菜園も雪に埋もれました。


菜花も寒そうです。


霜よけの篠の下で縮こまっているのはスナップエンドウです。

次の日は最高温度が4.9℃になったので、午後からは雪も融け始めて緑が見え始めました。



ところで雪が「とける」という漢字は、「溶ける」「解ける」「融ける」のどれ?と調べたら、いろんな説が出ていました。一番多いのは「溶ける」で、その次が「解ける」…「融ける」はあまりありません。なお、「中谷宇吉郎 雪の科学館」ホームページでは「溶ける」でした。


ワードの変換では解ける、融ける(常用外)と出ています。


日本語大辞典(講談社)では、「解ける」で「融ける」とも、となっています。

結局答えは出ませんでしたが、試験問題に出たらどれが正解になるのでしょうか。仙人は、融雪剤塩化カリウムから、「融ける」を使わせていただきました。

天気予報を見ていると、日本列島を縦に分けて太平洋側は晴天、日本海側が雪になっていますが、今回は南の九州や四国も降雪が多かったようです。そういう所の皆さんには笑われるような雪の記録でした。
今晩もまた雪の予報、春の訪れはもう少し先のようです。