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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

天狗党の乱で消失の水戸藩遺跡…反射炉と夤賓閣 ②

2024年09月24日 | 歴史散歩
幕末水戸藩の元治甲子の乱(天狗の乱)で焼失した反射炉と夤賓閣(ひたちなか市那珂湊)、②は夤賓閣のご紹介です。

夤賓閣(いひんかく)は、水戸藩第2代藩主徳川光圀公が、太平洋に面した日和(ひより)山と呼ばれる台地に元禄11年(1698年)に建設した藩の別邸で、湊御殿、浜御殿、別館ともよばれていました。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日出・(つつしんで日の出をみちびく)」という文から採り、接待所や迎賓館という意味を持つそうです。


もともと那珂湊には、天正18年(1590)以降、水戸領主になった佐竹氏の湊御殿が台地北側の山下にあって水戸藩成立後も使用され、光圀公も何度かこの御殿を訪れてこの地方の寺院整備や蝦夷地探検の快風丸の製造などを指揮したといわれています。隠居後にその集大成として機能を拡大した夤賓閣が建設されました。

夤賓閣の当時を伝えるものはあまり現存せず、彰考館所蔵のものを模写した「湊御殿敷地図」(原図は水戸空襲で焼失)、平成18年に古書店で見つかった「夤賓閣図」、それに天保10年(1839)水戸藩に招聘された農政学者長島尉信が訪れた記録が主なものですが、それをもとに夤賓閣復元研究会で作った想像図が現地案内板に載っています。

建坪は約300坪(約1000㎡)、一部は地形を利用した2重構造だったと推定されています。20畳敷きの御座の間や御寝所のほか御小姓部屋や御医師部屋など大小30以上の部屋で構成されています。
東側と南側は礫岩が露出する岸壁の上の高台に築山式枯山水庭園が造られ、築山と石組みが配置され見事な黒松が植えられた大名庭園の趣を伝えていたといわれています。


また、台地の東側の突端には異国船番所があり、海防の備えの役目も担っていました。いまは東屋が立っている先の崖上あたりでしょうか。


その後、定府制の水戸藩藩主の帰国の際にはこの湊御殿が別荘として使われることもあり、また貴賓の接待や家臣への慰労などにも使用されました。光圀公が御殿入りの際には、近隣の華蔵院、願入寺、六地蔵寺、久昌寺などの住職が招かれ、酒宴や詩歌の会が催されたと伝わっています。

この夤賓閣は幕末の水戸藩の内乱、天狗党の乱ともいわれる元治甲子の乱(1864)でこの一帯が激戦地になりすべて破壊消失されてしまいました。


跡地は「湊公園」として整備され、当時の松が12株、庭石などとともに残っています。


この松は光圀公が源氏物語でも知られる須磨明石(兵庫県)から苗木を取り寄せたといわれる樹齢約350年以上の見事な黒松です。


永い歴史を生き抜いた黒松、激動のいろんな場面を見てきた太い幹は何も語ってはくれません。


御殿のあった辺りには湊公園ふれあい館が建っています。ここの2階で私が当番の時に句会を開いたのは7年前の9月…、その句会もコロナ禍を期に解散となって、当時のメンバーもお二人が他界された今ここを訪れると、季節の移ろいの早さが身に染みました。
天狗党の乱では、現在は海門橋が架かっている那珂川を挟んだ両岸から、大砲や銃撃戦が行われました。


標高21mの日和山と、西側に砲台のような台地が、南側の那珂川を見下ろしています。天狗党の乱ではここを砲台として対岸との激しい戦闘が行われました。しかし幕府の軍艦による砲撃は正確に威力を発揮するのに、水戸藩で作った大砲は敵までとどかなかったという話も残っています。


日和山から見た南側には、那珂川と合流する涸沼川 その向こうに筑波山が見えます。夤賓閣建設から約320年、反射炉からは約170年…今も滔滔と流れる那珂川河口に面した二つの遺跡周辺では、夏の喧騒も過ぎ静かな季節に入っています。文明は大きく進歩しましたが、約14km北にある東海第二原発が再稼働問題で揺れている現在を、先人たちは雲の上から見ているでしょうか。


300年以上生き抜いてきた黒松の下にはツルボ(蔓穂)の花があざやかな色を見せていました。


天狗党の乱で消失の水戸藩遺跡…反射炉と夤賓閣 ①

2024年09月17日 | 歴史散歩

幕末水戸藩の元治甲子の乱(天狗党の乱)で焼失した反射炉と夤賓(いひん)閣(ひたちなか市那珂湊)…、①は反射炉のご紹介です。昭和12年(1937)に復元されています。


今から約200年前の幕末の水戸藩では、外敵の脅威が現実になってきたため9代藩主の徳川斉昭公が寺院の梵鐘などを供出させて(そのために幕府より謹慎処分を受けました)造ったのは銅製臼砲で、射程距離が短く威力に乏しいため、高性能の鉄製の大砲を鋳造する反射炉の必要性に迫られていました。

嘉永6年(1853)斉昭公の腹心藤田東湖が旧知の三春藩士熊田嘉門に相談したところ、南部藩の大島総左衛門が反射炉に詳しいということで、藤田が模型を作らせると大島は薩摩藩の竹下正右衛門の協力で完成、早速斉昭公は3人それぞれの藩主に水戸藩への出向許可を取ります。

製作の元締めとなった水戸藩の佐久間貞介は建設地を湊村の吾妻台と決め、反射炉の先進地薩摩藩へ技術習得に派遣した地元の飛田与七が反射炉製作の棟梁となりました。


建設地の約1キロの北西の地、中丸川が那珂川に合流する右岸には、中丸川の水力を利用して反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け、仕上げを行う水車場も造られました。



跡地に建つ水車場の案内版には水力で砲身に穴をあける仕組みが描かれています。


安政2年(1855年)に飛田与七の設計により着工し、翌年に完成しましたが、元治甲子の乱(1864年)で焼失してしまいました。水車場跡地には案内版と石碑が建っているだけです。


また耐火煉瓦の土は水戸藩領の下野小砂(馬頭)の土が最適として敷地内に耐火煉瓦の製造所も建て、薩摩の竹下が連れてきた煉瓦焼成の名人福井仙吉が担当しました。

復元された煉瓦焼成窯です。


安政元年(1854)水戸藩は反射炉建設資金として幕府より1万両の借り入れをして地鎮祭を行います。安政3年(1856)鋳造が始まりますが完成品に至らず、台風被害などで反射炉での大砲鋳造は滞り、藩の軍事訓練場である那珂川畔の神勢館に設置された大砲製造所で銅製大砲の鋳造を続けざるを得ませんでした。

反射炉の仕組みが市のパンフレットと現地案内板に出ていました。



燃料(木炭、石炭、コークスなど)は鉄材と離して燃焼部に置き、燃焼すると熱風と燃焼ガスがドーム状の壁に反射して高温となり鉄材を溶かします。解けた鉄は炉内の斜面を下り湯口から落ちて大砲の鋳型に流し込まれます。

安政6年(1859)やっとモルチール砲、カノン砲の製造が順調になった祝いの酒宴の席に斉昭公が国元永蟄居になった報せが届きました。反射炉は操業停止になり再開の見込みもないまま、元締めの佐久間貞介は失意の中で自刃、出向してきた3人もそれぞれ各藩に戻りました。

※砲の写真は名古屋刀剣ワールドのウェブページよりお借りしました。

翌安政6年には斉昭公も逝去し柱を失った水戸藩では藩内抗争が激化していきます。文久2年(1863)飛田与七が中心となって反射炉の稼働が再開しますが、翌年の元治元年(1864)に天狗党の乱が起こると那珂川を挟んだこの一帯が2か月に及ぶ攻防の激戦地となり、反射炉と夤賓(いひん)閣は跡形もなく消失破壊されてしまいました。



結局ここで造られた大砲は約20数門ということですが、先行していた佐賀藩や薩摩藩には、量的にも質的にも遠く及ばず、特に外国製のアームストロング砲などとの性能の差は歴然で、その後の戊辰戦争で証明されてしまいました。

しかし盛岡藩の大島高任がこの反射炉の銑鉄を得るため藩内の釜石に築いた大橋様式香炉は日本の近代製鉄の原点とされ、やがて技術者を派遣した八幡製鉄へと進化し、大島は「日本近代製鉄の父」とよばれました。このことから水戸藩の反射炉は我が国の製鉄業の発展に大きく寄与したという評価もされています。


なおこの反射炉は、那珂湊出身の弁護士・深作貞治氏が、陸軍省から土地を購入し、私財を投じて昭和12年(1937)に使われていた煉瓦も再利用して実物大で復元したものです。


反射炉の煙突の間にある建立趣旨の碑には、東郷平八郎元帥の絶筆という「護国」の字が刻まれています。平八郎の甥である東郷吉太郎が反射炉研究家であったことが縁となって実現したそうです。


この反射炉で作られていたカノン砲の複製が置かれています。


反射炉に上る石段の上には水戸藩小石川上屋敷にあった山上門が、反射炉を再建した深作貞治氏により昭和11年に移築されて市に寄贈されました。

もと上屋敷の正門右側にあり、勅使奉迎のために設けられたもので、幕末には、佐久間象山、西郷隆盛、橋本左内などが、この門を出入りしたといわれています。門は、後に小石川邸の山上に移されたので山上門と言われるようになりました。


薬医門形式のこの門は 東京空襲で焼失した水戸藩上屋敷の唯一残った建築物として貴重な門になっています。

また、反射炉に使う煉瓦の原料を採取した下野小砂村では、その後大金彦三郎が自ら現地に陶窯を築きました。

現在では小砂(こいさご)焼として知られ、金色を帯びた黄色の金結晶や桃色がかった辰砂など、素朴な中にも上品な色合いの陶器を数軒の窯元が世に出しています。(写真は小砂焼きのウェブページよりお借りしました)




復元された耐火煉瓦の焼成窯から見る南西方向には、水車場のあった那珂川と遠くに筑波山が見え、手前には令和の平和な街の暮らしが広がっていました。


東国三社…二等辺三角形の位置に

2024年08月22日 | 歴史散歩
「東国三社」と呼ばれる三つの神社は、茨城県南部と千葉県にまたがる地域にあり、江戸時代には関東以北の人が伊勢神宮の参拝を終え帰る途中に「お伊勢まいりの禊の三社参り」として参拝するという風習があったそうです。



この三社、鹿島神宮と香取神宮は約2600年、息栖神社は約1600年の歴史があり、鎮座するこの一帯は、当時霞ケ浦、印旛沼、手賀沼を含んだ香取海(かとりのうみ)と呼ばれる内海が広がっており、水上交通の盛んな古代の要衝でした。


古代遺跡のレイライン(ley line)という説もあるようですので、水路に面したと思われるこの三社の位置をgoogle map上で結ぶと確かにほぼ二等辺三角形になりました。この三角形の中では不思議な現象が起こるという伝承もあるようですが検証はなされていないようです。


香取海の大雑把な想定図を入れてみました。古代には水上交通の要所に大和朝廷が蝦夷に対する武神を置き、また氏神として崇敬した藤原氏や、さらには中世の武家の世に移ってもその神威は続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬されてきました。
なお、この香取海は江戸時代に入ると利根川の東遷や海退、川の運ぶ土砂の堆積などにより淡水化して現在の霞ケ浦、印旛沼、手賀沼などの姿になりました。



鹿島神宮
常陸国一ノ宮の鹿島神宮…主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で古くから武神として東国の武士に信仰されてきました。全国に約600社ある鹿島神社の総本社でもあります。

まずは神宮の周辺にある東西南北4つの一之鳥居のひとつ、「西の一之鳥居」は海上鳥居としては日本最大級の高さ18.5m、幅22.5mで、神宮から南へ約2kmの北浦の出口、鰐川に建っています。


大鳥居は東日本大震災で従来の笠間の御影石製のものが倒壊、その跡に神宮の森から切り出した杉の巨木4本で再建されました。高さ10.2m、幅14.6mの圧倒的な大きさです。


境内の広さは約70ha、そのうち約60%は鹿島神宮樹叢として茨城県の天然記念物に指定されてます。鬱蒼とした大木に囲まれた約300mの奥参道は、5月の御田植祭の後に行われる流鏑馬の舞台になるため、砂が敷かれています。


楼門は、寛永11年(1634)水戸藩初代藩主徳川頼房公が奉納し「日本三大楼門」の一つといわれます(国指定重要文化財)。「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元師の直筆です。


社殿(本殿・拝殿・幣殿・石の間)は元和5年(1619)、徳川秀忠公の奉納で、すべて国の重要文化財に指定されています。白木のままで彩色無しの拝殿は、かえって清く厳かな感じが漂います。
江戸時代初期の建物のため、常に大修理が各所で行われていますので、今回の写真は以前撮影のものです。拝殿幕には神紋の左三つ巴と五三の桐が付いています。


本殿は、漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。社殿の背後にある杉の巨木は根廻り12m、樹齢1,200年と推定されるご神木です。
社殿は征討する蝦夷地の方向、北を向いていますが、本殿内の神坐の位置は東向きで参拝者は祭神と正対できない造りになっているそうです。


奥宮は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきました。(国指定重要文化財)



香取神宮

香取神宮は下総国の一宮、日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、「国譲り神話」において、鹿島神宮に祀られる武甕槌大神とともに日本に遣わされた神様です。


長い表参道は大きな石灯篭の並ぶ坂道で、暑い日の参拝だったのでこたえました。


やっとの思いで着いたと思ったら、石段の先はまだ総門でした。


権現造りの拝殿は、重要文化財の本殿に釣り合った意匠で昭和11年(1636)内務省神社局の直轄による大修築の際造営されました。檜皮葺きの拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されています。


本殿は元禄13年(1700)徳川幕府によって桃山様式を受け継いで造営されたものです。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、現在屋根は檜皮葺きですが、もとは柿葺でした。国指定重要文化財です。


国指定重要文化財の楼門は、本殿同様元禄13年の幕府造営のものです。三間一戸で、様式的には純和様で構築され丹塗り(朱塗り)が施されています。屋根は入母屋造銅板葺ですが、当初はとち葺でした。8月初めに訪れた時には工事中でシートに覆われていましたので、写真は神社ホームページから借用いたしました。扁額は鹿島神宮と同様に東郷平八郎元師の直筆です



息栖神社

一の鳥居は常陸利根川に面して建っていて、鳥居の右側に「男瓶」左側に「女瓶」あり、忍潮井(おしおい)という泉が湧き出しています。


忍潮井は1000年以上もの間、汽水の中の両瓶から清水を湧き出し続け、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられています。「女瓶」の鳥居は「男瓶」より小さくなっていました。


享保7年(1722年)に造営された社殿は昭和35年(1960)に焼失し、3年後に再建されています。鉄筋コンクリート造りで本殿、幣殿、拝殿からなります。


神門は弘化4年(1847)に造営時のもので、焼失を免れています。


息栖神社の主祭神の久那戸神(くなどのかみ)は水上交通の神とされ、国譲り神話「葦原中国の平定」で鹿島神宮と香取神宮の神の東国への先導にあたったとされています。


かつて香取海に面していた鹿島地方の丘陵地南端のこの地は、沖洲が陸続きとなり幾つかの集落ができ、このような中州に鎮座された祠を、大同2年(807)に平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。


いま東国三社巡りで検索すると、いろんな旅行サイトのツアー情報が出ています。都内から日帰りで話題のパワースポット三社を巡り、一万円未満の料金とあって結構人気があるようです。

湧き出る泉がご神体?…泉神社(日立市)

2024年08月15日 | 歴史散歩
暑い夏は、日陰と水辺を探して…ということでパワースポットとして最近テレビでも取り上げられたという日立市水木町の泉神社に出かけました、近くに居ながら初めての訪問です。


紀元前42年に祀られたとされ祭神は「天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)」、あまり知られていない神様で天棚機姫命という機織りの神様の娘と伝わります。社記に「上古霊玉此地に天降り霊水湧騰して泉をなす号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とあり、祭神名の「速玉」とは清く澄んだ泉を意味することから、「密筑(ミズキ)の大井」が神格化されたものであるとされています。

1300年前の奈良時代に編纂された常陸国風土記にも「密筑の大井」として夏は冷たく冬は暖かい泉に人々が集まり、特に暑い日には近隣の村々から男女が酒や肴を持ち寄ってこの泉に集うという、ここより約68キロ南西にある筑波山の嬥歌(かがい)のような男女出会いの場の記述があるそうです。そのためか特に「縁結びのパワースポット」として人気が高く、平日なのに他県ナンバーの車が多く見かけました。


幟が並んだ参道は結界の雰囲気が充分に感じられます。神社というと大きな杉の林をイメージしますが、海まで700mというこの社は、海浜の樹叢類が多いような気がします。


参道奥の拝殿、神幕には水戸徳川家の葵紋が付いています。
この地を領した佐竹義篤が享禄3年(1530)社殿を修造したという棟札があり、また水戸徳川家からも厚い庇護を受けました。


水に因んだ龍の彫刻は、祭神が女神のためか親子の龍でした。そういえば辰年の今年の元朝参りはすごい混雑だったという話を聞きました。


本殿は、千木が女神の内削ぎ、鰹木は男神の奇数(三本)でした。


さてご神体の泉は本堂北側を下った池の中に湧き出していました。

池の真ん中には、境内社の厳島神社弁天堂があります。一時は参拝者が行列したようですが、それでも途切れることなく若い人が手を合わせていました。



右手の深さ1.5mくらいの池の中からエメラルドグリーンの清水が湧いています。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、水底から青白い砂を舞い上げながら噴き出しているこの画面を携帯の待ち受けにすると素敵な出会いがあるといわれています。


湧水の水温は年間通して約15℃、湧水量は1分間に1500リットルで2008年に環境省が選定した「平成の名水百選」にも選ばれています。


硬貨を投げ入れないでくださいという大きな看板が掲示されていました。トレビの泉の硬貨投入額は年間1億6000万!…信仰風習も歴史も違うのでぜひ守っていただきたいと思います。


本堂横に眼洗いの泉があります。この泉で目を洗うと眼病が直ったと伝わっていますが…? 


まるで龍の頭そっくり…境内を見回っていた神職の方がこの倒木を発見、泉龍木(せんりゅうぼく)と名付け境内の名所の一つになっています。


ところでこの泉の周辺と神域の深遠な森の織り成す一帯は、泉が森とよばれて古くから親しまれてきました。

隣接するイトヨの里では、きれいな湧き水でしか生息できない「イトヨ(糸魚)」が生息し観察できると案内版には書かれています。


目を凝らしても見つけられませんでした。確かに「密筑の大井」から流れ出る小川は、手で掬って飲めそうな透きとおった水でしたが…

仁王像…睨み顔いろいろ ➀

2024年08月09日 | 歴史散歩
仁王像(金剛力士像)を主に撮ったわけではありませんが、歴史散歩で訪れた寺社仏閣で撮った写真の中から仁王像をまとめてみました。

寺院の前で睨みをきかせる仁王像は、平安時代末期の源平の戦いで多くの寺院が戦火に遭ったため、鎌倉時代に入ると寺を仏敵から守る守護神として多く造られたといわれています。


代表的な仁王門といえば、鎌倉時代初め建仁3年(1203)に作られ奈良東大寺南大門金剛力士像で、運慶、快慶という仏師たちによってわずか69日間で造られたと伝わる高さ8mを超える檜の寄木造りで国宝に指定されています。(出典:東大寺ウェブページ)

金剛杵(こんごうしょ)を手に持ち上半身は裸で筋骨隆々、腰に裳(も)という布をまとうだけで、右に口を開けた「阿形(あぎょう)」、左に閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的ですが、左右逆や独鈷杵を持つもの、あるいは年月を経て欠落したものなどいろんな仁王像が残っています。



薬王院(水戸市)の仁王像は、室町時代前半の作と伝わり、約600年を経た木目の凹凸がくっきりと浮き出て、連子窓の間から撮ってもすごい迫力です。


仁王門は、芽葺きの八脚門で、桁行6.8m、梁間約6.4m、貞享年間(1684~1688)に建立されたものとされます。


平安初期に桓武天皇の勅願寺として建立されたと伝わる吉田山神宮寺薬王院は天台宗の寺院で、常陸三の宮の吉田神社の神宮寺として、この地方を治めた常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏、そして水戸徳川家の帰依と保護を受けてきました。本堂は享禄2年(1529)に江戸氏により再建されたもので、貞享3年(1686)に光圀公が大修理した芽葺型銅版葺入母屋造で室町時代の建築手法を現代に伝えており、国指定の重要文化財です。



桂岸寺(水戸市)の赤い漆で塗られた仁王像は、憤怒の表情ながら民衆の身近な存在として親しまれてきた一端を見るようです。仁王門は火災のあと大正11年(1922)の再建とされますので、その頃の作でしょうか。


大悲山保和院桂岸寺は通称谷中の二十三夜尊(三夜さん)で親しまれている真言宗豊山派の寺院で、当初は香華院という名でしたが、元禄7年(1694)徳川光圀公の命により、保和院と改めました。隣接して公が愛した保和苑があり、100種6000株のアジサイが咲く観光スポットになっています。




佛性寺(水戸市)の山門前に建つ仁王像は石造り、細部表現が難しいのでかえって素朴で滑稽な感じさえ漂っています。高さは約1.4mで、右の阿形像の背部には元禄7年(1694)の刻銘があります。日本全国にある石造仁王像は約673か所、1369体、そのうちの約8割は九州の国東半島にあるそうです。


佛性寺は涌石山大日院と号する、水戸藩2代藩主光圀公所縁の天台宗の寺院で、山門の屋根などに水戸徳川家の葵紋が付いています。


国の重要文化財に指定されている本堂は、県内には類例のない八角堂で、堂内の墨書から天正13年(1585)の建築年代などが確認されています。




天徳寺(水戸市)の仁王像は、金網越しのせいかより迫力ある顔に撮れました。


岱宗山天徳寺は曹洞宗の寺院で、重厚な楼門様式の仁王門の前には、「不許葷酒入山門」の石柱が建っています。
佐竹氏建立の曹洞宗の寺院で、歴史に翻弄され数度の移転の歴史を持ちますが、五本骨扇と月丸の佐竹紋がいたるところに付いていました。



西光院(大洗町)の仁王像は寄木造りで、独鈷杵を持って口を開いた阿形像、口を閉じ金剛杵を持った吽形像と、形式通りの両仏が迫力いっぱいの睨みを利かしています。


楼門形式の立派な仁王門です。
応永5年(1398)宥祖上人の開山で寺号を大内山西光院と称する高野山真言宗の寺院で、京都醍醐寺無量寿院末と伝わっています。建築年代は不明ですが、仁王像ともども近代の製作と思われます。



村松山虚空蔵尊(東海村)の朱塗りの仁王像、「正和4年(1315)謹刻、文禄3年(1594)塗りかへ」などの墨書があるそうです。平安初期の大同2年(807)に平城天皇の勅額により、弘法大師の創建と伝わる真言宗の寺院で、神仏混交の時代には隣接する大神宮の神宮寺でした。


仁王門は昭和45年(1970)の再建です。平安末期よりこの地を400有余年治めた佐竹氏の保護を受け、江戸時代には徳川家康公より朱印五十石を寄進され、また水戸徳川家の光圀公の庇護のもと栄えてきました。現在は伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊とともに「日本三大虚空蔵」といわれています。

仁王像は解放的な場所に安置されているので風雨の影響を受けやすく、埃の積もった堂内も多く見受けられました。格子や細かい網などで覆われているのもあり、その間からカメラを向けると、いずれも長い間地元の信仰を集めてきた独特の表情をしていて親しみを感じました。