顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

東国三社…二等辺三角形の位置に

2024年08月22日 | 歴史散歩
「東国三社」と呼ばれる三つの神社は、茨城県南部と千葉県にまたがる地域にあり、江戸時代には関東以北の人が伊勢神宮の参拝を終え帰る途中に「お伊勢まいりの禊の三社参り」として参拝するという風習があったそうです。



この三社、鹿島神宮と香取神宮は約2600年、息栖神社は約1600年の歴史があり、鎮座するこの一帯は、当時霞ケ浦、印旛沼、手賀沼を含んだ香取海(かとりのうみ)と呼ばれる内海が広がっており、水上交通の盛んな古代の要衝でした。


古代遺跡のレイライン(ley line)という説もあるようですので、水路に面したと思われるこの三社の位置をgoogle map上で結ぶと確かにほぼ二等辺三角形になりました。この三角形の中では不思議な現象が起こるという伝承もあるようですが検証はなされていないようです。


香取海の大雑把な想定図を入れてみました。古代には水上交通の要所に大和朝廷が蝦夷に対する武神を置き、また氏神として崇敬した藤原氏や、さらには中世の武家の世に移ってもその神威は続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬されてきました。
なお、この香取海は江戸時代に入ると利根川の東遷や海退、川の運ぶ土砂の堆積などにより淡水化して現在の霞ケ浦、印旛沼、手賀沼などの姿になりました。



鹿島神宮
常陸国一ノ宮の鹿島神宮…主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で古くから武神として東国の武士に信仰されてきました。全国に約600社ある鹿島神社の総本社でもあります。

まずは神宮の周辺にある東西南北4つの一之鳥居のひとつ、「西の一之鳥居」は海上鳥居としては日本最大級の高さ18.5m、幅22.5mで、神宮から南へ約2kmの北浦の出口、鰐川に建っています。


大鳥居は東日本大震災で従来の笠間の御影石製のものが倒壊、その跡に神宮の森から切り出した杉の巨木4本で再建されました。高さ10.2m、幅14.6mの圧倒的な大きさです。


境内の広さは約70ha、そのうち約60%は鹿島神宮樹叢として茨城県の天然記念物に指定されてます。鬱蒼とした大木に囲まれた約300mの奥参道は、5月の御田植祭の後に行われる流鏑馬の舞台になるため、砂が敷かれています。


楼門は、寛永11年(1634)水戸藩初代藩主徳川頼房公が奉納し「日本三大楼門」の一つといわれます(国指定重要文化財)。「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元師の直筆です。


社殿(本殿・拝殿・幣殿・石の間)は元和5年(1619)、徳川秀忠公の奉納で、すべて国の重要文化財に指定されています。白木のままで彩色無しの拝殿は、かえって清く厳かな感じが漂います。
江戸時代初期の建物のため、常に大修理が各所で行われていますので、今回の写真は以前撮影のものです。拝殿幕には神紋の左三つ巴と五三の桐が付いています。


本殿は、漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。社殿の背後にある杉の巨木は根廻り12m、樹齢1,200年と推定されるご神木です。
社殿は征討する蝦夷地の方向、北を向いていますが、本殿内の神坐の位置は東向きで参拝者は祭神と正対できない造りになっているそうです。


奥宮は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきました。(国指定重要文化財)



香取神宮

香取神宮は下総国の一宮、日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、「国譲り神話」において、鹿島神宮に祀られる武甕槌大神とともに日本に遣わされた神様です。


長い表参道は大きな石灯篭の並ぶ坂道で、暑い日の参拝だったのでこたえました。


やっとの思いで着いたと思ったら、石段の先はまだ総門でした。


権現造りの拝殿は、重要文化財の本殿に釣り合った意匠で昭和11年(1636)内務省神社局の直轄による大修築の際造営されました。檜皮葺きの拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されています。


本殿は元禄13年(1700)徳川幕府によって桃山様式を受け継いで造営されたものです。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、現在屋根は檜皮葺きですが、もとは柿葺でした。国指定重要文化財です。


国指定重要文化財の楼門は、本殿同様元禄13年の幕府造営のものです。三間一戸で、様式的には純和様で構築され丹塗り(朱塗り)が施されています。屋根は入母屋造銅板葺ですが、当初はとち葺でした。8月初めに訪れた時には工事中でシートに覆われていましたので、写真は神社ホームページから借用いたしました。扁額は鹿島神宮と同様に東郷平八郎元師の直筆です



息栖神社

一の鳥居は常陸利根川に面して建っていて、鳥居の右側に「男瓶」左側に「女瓶」あり、忍潮井(おしおい)という泉が湧き出しています。


忍潮井は1000年以上もの間、汽水の中の両瓶から清水を湧き出し続け、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられています。「女瓶」の鳥居は「男瓶」より小さくなっていました。


享保7年(1722年)に造営された社殿は昭和35年(1960)に焼失し、3年後に再建されています。鉄筋コンクリート造りで本殿、幣殿、拝殿からなります。


神門は弘化4年(1847)に造営時のもので、焼失を免れています。


息栖神社の主祭神の久那戸神(くなどのかみ)は水上交通の神とされ、国譲り神話「葦原中国の平定」で鹿島神宮と香取神宮の神の東国への先導にあたったとされています。


かつて香取海に面していた鹿島地方の丘陵地南端のこの地は、沖洲が陸続きとなり幾つかの集落ができ、このような中州に鎮座された祠を、大同2年(807)に平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。


いま東国三社巡りで検索すると、いろんな旅行サイトのツアー情報が出ています。都内から日帰りで話題のパワースポット三社を巡り、一万円未満の料金とあって結構人気があるようです。

湧き出る泉がご神体?…泉神社(日立市)

2024年08月15日 | 歴史散歩
暑い夏は、日陰と水辺を探して…ということでパワースポットとして最近テレビでも取り上げられたという日立市水木町の泉神社に出かけました、近くに居ながら初めての訪問です。


紀元前42年に祀られたとされ祭神は「天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)」、あまり知られていない神様で天棚機姫命という機織りの神様の娘と伝わります。社記に「上古霊玉此地に天降り霊水湧騰して泉をなす号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とあり、祭神名の「速玉」とは清く澄んだ泉を意味することから、「密筑(ミズキ)の大井」が神格化されたものであるとされています。

1300年前の奈良時代に編纂された常陸国風土記にも「密筑の大井」として夏は冷たく冬は暖かい泉に人々が集まり、特に暑い日には近隣の村々から男女が酒や肴を持ち寄ってこの泉に集うという、ここより約68キロ南西にある筑波山の嬥歌(かがい)のような男女出会いの場の記述があるそうです。そのためか特に「縁結びのパワースポット」として人気が高く、平日なのに他県ナンバーの車が多く見かけました。


幟が並んだ参道は結界の雰囲気が充分に感じられます。神社というと大きな杉の林をイメージしますが、海まで700mというこの社は、海浜の樹叢類が多いような気がします。


参道奥の拝殿、神幕には水戸徳川家の葵紋が付いています。
この地を領した佐竹義篤が享禄3年(1530)社殿を修造したという棟札があり、また水戸徳川家からも厚い庇護を受けました。


水に因んだ龍の彫刻は、祭神が女神のためか親子の龍でした。そういえば辰年の今年の元朝参りはすごい混雑だったという話を聞きました。


本殿は、千木が女神の内削ぎ、鰹木は男神の奇数(三本)でした。


さてご神体の泉は本堂北側を下った池の中に湧き出していました。

池の真ん中には、境内社の厳島神社弁天堂があります。一時は参拝者が行列したようですが、それでも途切れることなく若い人が手を合わせていました。



右手の深さ1.5mくらいの池の中からエメラルドグリーンの清水が湧いています。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、水底から青白い砂を舞い上げながら噴き出しているこの画面を携帯の待ち受けにすると素敵な出会いがあるといわれています。


湧水の水温は年間通して約15℃、湧水量は1分間に1500リットルで2008年に環境省が選定した「平成の名水百選」にも選ばれています。


硬貨を投げ入れないでくださいという大きな看板が掲示されていました。トレビの泉の硬貨投入額は年間1億6000万!…信仰風習も歴史も違うのでぜひ守っていただきたいと思います。


本堂横に眼洗いの泉があります。この泉で目を洗うと眼病が直ったと伝わっていますが…? 


まるで龍の頭そっくり…境内を見回っていた神職の方がこの倒木を発見、泉龍木(せんりゅうぼく)と名付け境内の名所の一つになっています。


ところでこの泉の周辺と神域の深遠な森の織り成す一帯は、泉が森とよばれて古くから親しまれてきました。

隣接するイトヨの里では、きれいな湧き水でしか生息できない「イトヨ(糸魚)」が生息し観察できると案内版には書かれています。


目を凝らしても見つけられませんでした。確かに「密筑の大井」から流れ出る小川は、手で掬って飲めそうな透きとおった水でしたが…

仁王像…睨み顔いろいろ ➀

2024年08月09日 | 歴史散歩
仁王像(金剛力士像)を主に撮ったわけではありませんが、歴史散歩で訪れた寺社仏閣で撮った写真の中から仁王像をまとめてみました。

寺院の前で睨みをきかせる仁王像は、平安時代末期の源平の戦いで多くの寺院が戦火に遭ったため、鎌倉時代に入ると寺を仏敵から守る守護神として多く造られたといわれています。


代表的な仁王門といえば、鎌倉時代初め建仁3年(1203)に作られ奈良東大寺南大門金剛力士像で、運慶、快慶という仏師たちによってわずか69日間で造られたと伝わる高さ8mを超える檜の寄木造りで国宝に指定されています。(出典:東大寺ウェブページ)

金剛杵(こんごうしょ)を手に持ち上半身は裸で筋骨隆々、腰に裳(も)という布をまとうだけで、右に口を開けた「阿形(あぎょう)」、左に閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的ですが、左右逆や独鈷杵を持つもの、あるいは年月を経て欠落したものなどいろんな仁王像が残っています。



薬王院(水戸市)の仁王像は、室町時代前半の作と伝わり、約600年を経た木目の凹凸がくっきりと浮き出て、連子窓の間から撮ってもすごい迫力です。


仁王門は、芽葺きの八脚門で、桁行6.8m、梁間約6.4m、貞享年間(1684~1688)に建立されたものとされます。


平安初期に桓武天皇の勅願寺として建立されたと伝わる吉田山神宮寺薬王院は天台宗の寺院で、常陸三の宮の吉田神社の神宮寺として、この地方を治めた常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏、そして水戸徳川家の帰依と保護を受けてきました。本堂は享禄2年(1529)に江戸氏により再建されたもので、貞享3年(1686)に光圀公が大修理した芽葺型銅版葺入母屋造で室町時代の建築手法を現代に伝えており、国指定の重要文化財です。



桂岸寺(水戸市)の赤い漆で塗られた仁王像は、憤怒の表情ながら民衆の身近な存在として親しまれてきた一端を見るようです。仁王門は火災のあと大正11年(1922)の再建とされますので、その頃の作でしょうか。


大悲山保和院桂岸寺は通称谷中の二十三夜尊(三夜さん)で親しまれている真言宗豊山派の寺院で、当初は香華院という名でしたが、元禄7年(1694)徳川光圀公の命により、保和院と改めました。隣接して公が愛した保和苑があり、100種6000株のアジサイが咲く観光スポットになっています。




佛性寺(水戸市)の山門前に建つ仁王像は石造り、細部表現が難しいのでかえって素朴で滑稽な感じさえ漂っています。高さは約1.4mで、右の阿形像の背部には元禄7年(1694)の刻銘があります。日本全国にある石造仁王像は約673か所、1369体、そのうちの約8割は九州の国東半島にあるそうです。


佛性寺は涌石山大日院と号する、水戸藩2代藩主光圀公所縁の天台宗の寺院で、山門の屋根などに水戸徳川家の葵紋が付いています。


国の重要文化財に指定されている本堂は、県内には類例のない八角堂で、堂内の墨書から天正13年(1585)の建築年代などが確認されています。




天徳寺(水戸市)の仁王像は、金網越しのせいかより迫力ある顔に撮れました。


岱宗山天徳寺は曹洞宗の寺院で、重厚な楼門様式の仁王門の前には、「不許葷酒入山門」の石柱が建っています。
佐竹氏建立の曹洞宗の寺院で、歴史に翻弄され数度の移転の歴史を持ちますが、五本骨扇と月丸の佐竹紋がいたるところに付いていました。



西光院(大洗町)の仁王像は寄木造りで、独鈷杵を持って口を開いた阿形像、口を閉じ金剛杵を持った吽形像と、形式通りの両仏が迫力いっぱいの睨みを利かしています。


楼門形式の立派な仁王門です。
応永5年(1398)宥祖上人の開山で寺号を大内山西光院と称する高野山真言宗の寺院で、京都醍醐寺無量寿院末と伝わっています。建築年代は不明ですが、仁王像ともども近代の製作と思われます。



村松山虚空蔵尊(東海村)の朱塗りの仁王像、「正和4年(1315)謹刻、文禄3年(1594)塗りかへ」などの墨書があるそうです。平安初期の大同2年(807)に平城天皇の勅額により、弘法大師の創建と伝わる真言宗の寺院で、神仏混交の時代には隣接する大神宮の神宮寺でした。


仁王門は昭和45年(1970)の再建です。平安末期よりこの地を400有余年治めた佐竹氏の保護を受け、江戸時代には徳川家康公より朱印五十石を寄進され、また水戸徳川家の光圀公の庇護のもと栄えてきました。現在は伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊とともに「日本三大虚空蔵」といわれています。

仁王像は解放的な場所に安置されているので風雨の影響を受けやすく、埃の積もった堂内も多く見受けられました。格子や細かい網などで覆われているのもあり、その間からカメラを向けると、いずれも長い間地元の信仰を集めてきた独特の表情をしていて親しみを感じました。

涼しい杉木立…神仏習合の御岩神社(日立市)

2024年07月27日 | 歴史散歩
猛暑続きの毎日、ブログ取材は日向を避けて…ということで山深い幽遠な場所を探し、近年パワースポットとしても人気の高い御岩神社(おいわじんじゃ)を訪ねました。


創建時期は不明ですが、縄文後期の祭祀の遺跡や常陸国風土記(721)に「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」があり、古くから信仰の聖地だったようです。江戸時代には水戸藩初代徳川頼房公が出羽三山を勧請し水戸藩の国峰と位置づけ、2代光圀公ほか歴代藩主の参拝を常例とする祈願所でした。 


当時から神仏混淆による祭祀で境内に21の神社寺院がありましたが、明治の廃仏毀釈では寺院関連の建物は取り払われました。しかし他所に移して難をのがれた当時の仏像が残り、現在では神仏習合を標榜し、「神仏を祀る唯一の社として、他の神社、寺院に見られない独自の信仰」を伝えていると神社のホームページには載っています。いま全山の総祭神は神仏合わせて188柱になるそうです。


鬱蒼とした杉林の境内は下界より気温は相当低いような気がします。


大きな石灯篭の先には仁王門が見えます。


神社なのに仁王門? 明治の廃仏毀釈で建物は破壊されましたが平成3年に再建されました。


保管されていた江戸時代作の仁王像は、無事に平成の仁王門内に収まっています。


御神木の天然記念物「御岩山の三本杉」です。樹高39m、目通り幹囲8.4m、樹齢500年以上と案内板に書かれています。


水戸葵紋幕の斎神社…祭神は天御中主神などの5柱ですが、室町時代後期の作とされる木像阿弥陀如来座像も祀られている神仏習合の社です。参拝の仕方に迷いますが、ほとんどの方が神式でお詣りしていました。


斎神社の天井画は大きな竜が迫力いっぱいに描かれています。


前に来たときは小さな社でしたが、新しい大日堂が建っていました。室町後期作の木像大日如来坐像が祀られています。大日如来は真言密教の教主で根本仏とされています。


神橋を渡ると御岩神社です。


手水場は沢の水でしょうか、手を入れておけないほどの冷たさでした。


苔むした狛犬に護られた御岩神社の拝殿です。御祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)他の25柱ですので、ここは迷わず神式でお詣りできます。




いたるところに置かれた石仏が迎えてくれます。寛政8年(1796)の日付の入った如意輪観音です。


句碑が三つ建っていました。この神社の奥の峰の名に因んだ「かびれ」という俳誌の創設者大竹孤悠とその門人の句でした。調べてみると、創刊93年になる地元の俳誌で、結構名が知られた俳人の方々でした。


   
残り葉の人のけはいに散りかかる 大竹孤悠



大竹孤悠に師事し、師の亡きあと「かびれ」を主宰したと書かれています。

月の夜の石に還へりし道祖神 小松崎爽青


 大正11年大竹孤悠を師と仰ぎ「生活即俳道」の道に勤しむと書かれています。

春深し杉の何処に念佛鳥  久保紫雲郷 



陽のあまり射さない境内には、やっとタマアジサイが咲き始めていました。


ギボウシの色も一段と濃く感じました。

熱中症警戒情報の出ている平日の昼でしたが、参拝の方の多さに驚きました。

ここは188柱の神々が宿るとされる霊山、御岩山の強い生気にあふれているとされ、近年パワースポットとして都内からの日帰りバスツワーも企画されています。
宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めた時に、強い光が見える場所があるので調べてみたら御岩神社だった! と云う話しが広まったこともありました、真偽は分かりませんが…。

山中薬師…廃寺に残った朱塗りの堂宇

2024年07月09日 | 歴史散歩

小美玉市西郷地の廃寺跡にある山中薬師本堂です。


ここには山中山東光院広諦(こうたい)寺という天台宗の寺院があり、旧水戸街道約1キロ北にある天台宗法円寺(茨城町)の末寺として隆盛を極めていました。開基の詳細は不明ですが享禄時代(1530年頃)とも伝わります。明治の廃仏毀釈により明治2年(1869)に無住のため廃寺となりました。


明治10年(1877)に広諦寺本堂(間口12間半22.5m・奥行6間10.8m)を校舎として西郷地小学校が開校、当時の児童数は32名で約10年間使用されています。明治末期には火災により本堂、仁王門が消失し、残ったのは薬師堂だけになってしまいました。


かっての広諦寺本堂は、水戸の天台宗薬王院と同じ形だったという話が残っていますので、規模は少し違いますが室町時代建築とされる水戸の天台宗薬王院本堂の写真です。


仁王門にあった江戸末期の作と伝わる仁王像は、持ち出して焼失を免れたので薬師堂に安置されています。格子と網の間から拝ませていただきました。阿形像183㎝、吽形像190㎝で、頭部、胸部の平面的な形が特徴の桧寄木造りです。


菊のご紋の付いた厨子の中にある薬師如来ご本尊は盗難にあったとされ、光背と連華台のみが残されているそうです。


当初、屋根は茅葦の寄棟造でしたが、昭和23年に瓦葺、平成3年には銅板葺に改修しています。覗いた内部は格天丼となっていました。


建築年代不詳ですが、桁行3間、梁間3間、円柱12本の方形造りで、内陣も円柱、組み物を乗せた造りになっています。


左手にある池は、心という字に掘られたと伝えられ、古来より目の病にご利益があるとされ平癒を祈願して「め」と書かれた布などが奉納されていたそうです。


薬師本堂の南側にある高さ約2.5mの塚は皇諦寺開山初代の高僧の墓と伝わります。石仏類が残っていました。




この山中薬師本堂があった広諦寺の本山は、水戸街道千住宿から17番目の小幡宿の中心にある天台宗の古刹、神明山等覚院法円寺です。


寺伝では天安元年(857)慈覚大師圓仁の開基にして大師の法孫惠海この地に一宇を建立したとされます。

この小幡宿は水戸藩領で陣、脇本陣は置かれず、問屋場(といやば)1軒だけの小規模宿場でした。ただこの法円寺が水戸藩の定宿として使われ、山門や本堂には水戸葵紋が付いています。
※問屋場とは宿場の人馬の継ぎ立てや宿泊に関する業務をしました。


山門や本堂大棟には水戸葵紋の他に菊の紋が見えましたのでアップしてみたのがこの写真です。

調べてみると天台宗は天帝のいる紫微星を支える三つの星の真下にある天台山で開かれたといい、日本国を表す16菊の中央に三ツ星(三諦章・さんたいしょう)を配したのが天台宗の宗紋で、16菊の使用は許されているそうです。


この山中薬師堂は150年前の廃寺ですが、最近でも無住寺や廃寺跡を見かけることがあります。いま全国には77,000くらいの寺院がある中で、そのうち住職のいない無住寺は約17,000になるという数字があります。

若い人のお寺離れによる檀家の減少や葬儀や法事の簡素化による収入減、そして寺院後継者の不足など時代の変化に伴う諸要因が押し寄せているようです。
地域の歴史と密接に結びついている寺社の消滅は寂しいことです。地域との結びつきを強め、いろんなアイディアで親しめる環境つくりに努力している若い住職さんたちにエールを送りたいと思います。