顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

初詣まとめて2か所…虚空蔵尊と大神宮(東海村)

2023年02月01日 | 歴史散歩

1月半ばに日本の電子力発祥の地、東海村に並んで御座する二つの寺社へ初詣してきました。無精してのおそい参拝、しかも神仏まとめてなので御利益は期待できませんが。 

村松山虚空蔵尊は真言宗の寺院で、平安初期の大同2年(807)に平城天皇の勅額により、弘法大師の創建、かっては神仏混交の時代で、大神宮の運営を行ってきた神宮寺であったと伝わります。

平安末期よりこの地を400有余年治めた佐竹氏の保護を受け、江戸時代には徳川家康公より朱印五十石を寄進され、また水戸徳川家の光圀公の庇護のもと栄えてきました。
現在は伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊とともに「日本三大虚空蔵」といわれています。

本堂(大摩尼殿)は大正6年(1917)の再建、たびたびの戦火や火災で伽藍は消失しましたが、本尊や佐竹一族の真崎城主真崎三郎奉納の厨子は難を逃れたと伝わります。

仁王門は昭和45年(1970)の再建、仁王像には「正和4年(1315)謹刻、文禄3年(1594)塗りかへ」などと記されています。


弘法大師の作と伝わる本尊大満虚空蔵菩薩が安置されている奥の院(多宝塔)です。


平成10年(1900)再建の三重之塔、尖端に黄金色に輝く相輪が載っています。


すぐ奥にある村松大神宮は、伊勢神宮の御分霊を賜り奉祀するお宮なので伊勢神宮の「内宮」と同じ「天照皇大神」「天手力男神」「萬幡豊秋津姫神」の三柱を御祭神としています。

神社明細帳には「和銅元年(708)4月7日平磯前浦の巨巌怪光を発射しその光眞崎の浦に留る。住民畏れて占う。『伊勢の神なり』と。垂示に従って奉斎。祀職伊勢より来りて奉仕す。」と記されているそうです。拙ブログ「伊勢神宮の内宮と外宮が茨城県東海村に…2022.6.22」で紹介した、近くにある豊受皇大神宮にも同じ伝説が残っていました。


康平3年(1060)、源頼義、義家父子が奥州討伐の際に戦勝を祈願し、社殿の造営、神領の寄進がありました。その後中世の戦乱の世では、社殿も戦火を被り神領も侵犯され荒廃したときもありましたが、江戸時代には幕府より神領の寄進があり、水戸藩主徳川光圀公は、新たに神殿を造営されあらためて伊勢皇大神宮より御分霊を奉遷、毎年正月15日の春季大祭には水戸藩主の参拝を例としました。
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手水屋舎の隣に義公(光圀公)お腰掛石がありました。この地方で同じ名前の石が他でも何ヵ所か見られるのは、黄門様の人気でしょうか。

中世のこの一帯は、すぐ南に太平洋の入り江、真崎浦が入り込んでいて、現在とは様相が全く違っていたようです。

入り江の中央には半島状の地に佐竹氏の武将で水運を管理していた真崎氏の真崎城がありました。真崎氏は、秀吉の朝鮮出兵時には船奉行として佐竹軍の渡海の役目を果たした記録が残っているそうです。

ところで虚空蔵尊の三重塔の前に句碑と詩碑が建っていますが、その由来などはよく分かりません。

芭蕉の句碑。「埜越横耳馬引向よ時鳥:野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす」は、奥の細道の那須で詠んだ句です。ホトトギスの鳴いている方に馬を引き向けて聞こうではないかなどの解釈がありました。


山村暮鳥の詩碑。「おう土よ 生けるものよ その黒さに太古のかほりがただよってゐる」
晩年大洗に棲んだ山村暮鳥が、ここへきて詠んだのかもしれません。親友だった室生犀星の書です。