顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

風土記の丘ふるさとまつりと宝篋印塔

2016年11月14日 | 日記

水戸市大串貝塚ふれあい公園で毎年行われるこの祭りも今年で26回目を迎えました。今は海岸から4キロのこの場所も約5千年前の縄文時代には海に面しており、その時代の大串貝塚周辺を公園として整備、伝説の巨人「ダイダラボウ像」(高さ15m25cm)も建てました。

縄文のイメージを毎回打ち出しているので、今回も縄文人ファッションショーなども行われ、水戸ご当地アイドル(仮)も縄文スタイルです。今年は野菜類の出店が少なく、その分フリーマーケットがたくさん出ていて、その後ろにはダイダラボウの大きな白い背中が見えます。

公園から西に200m位の道路沿いに水戸市文化財、石造宝篋印塔の案内標識と大きな庚申石塔があり、そこから100mくらいのところに柵で囲われた石塔群がありました。

水戸市のホームページによると、この塔のある一帯は、善徳寺があった跡といわれ、多くの墓石や石塔類が残されています。中でもこの宝篋印塔は、松平壱岐守正朝の石塔であり、極めて大きく立派です。銘に「寛永廿一甲申年五月廿二日」とあり、江戸時代前期の寛永21年(1644)の建立であることがわかります。松平氏は、徳川将軍家の一族、三河十八松平氏のひとつで、愛知県大草郷に居住していました。正朝は、2代将軍秀忠に仕え、のちに徳川頼房の配下となり、水戸藩次席家老に列し、7千石を賜りました。高さ約3.2mです。

大洗あんこう祭

2016年11月13日 | 日記

大洗のマリンタワー前広場で、あんこう祭りが開かれています。土曜日は舞祭で、子どもたちによるダンスコンテスト、思い思いの衣装で踊っている姿は、まさに堂に入ったものです。大洗といえば、ガールズパンツアーのグッズの店も出ています。

目玉のあんこう汁200円には長い列、すでに完売の紙が貼られていました。子供の頃、父と平潟港まで鮟鱇を買いによく行きました。100円札で3匹くらい、とても安かったのを覚えていますが今じゃ高級魚、当時はもっぱら肝で酢味噌を作る友酢和えで食べていました。

マリンタワーに秋の雲が写っています。まるで現代アートの大きな作品、題名は「切り取られた雲」??この雲は多分、ここ大洗にピッタリのうろこ雲(鱗雲)でしょう。白色で陰影のない雲片が集まって魚のうろこや水面の波のような形状をした巻積雲です。さば雲、いわし雲と同じで、見た感じで区別していいようです。

足元にぶどうのような実が落ちています。生け垣のシャリンバイ(車輪梅)です。車輪状に出る葉と、花が梅に似ているとのことでこの名がつきました。海岸沿いによく育ち、奄美大島ではこの樹脂が特産の大島紬の染料になり、また、沖縄の芭蕉布の染料としても利用されているそうです。

老妻の火を吹く顔や鮟鱇鍋  正岡子規
うろこ雲天の方円自在なる  鷹羽狩行
鰯雲個々一切事地上にあり  中村草田男

コセンダングサ(小栴檀草)

2016年11月12日 | 季節の花

写真の不気味なインベーダーのような実は、コセンダングサというキク科の帰化植物のタネです。草むらに入るとズボンや犬の毛に付いてなかなか取れません。
子孫を残すために、種子を飛ばす植物の仕掛けは、風に乗って(風散布)、弾けて飛ばす(自動散布)、水で運ばれる(水散布)、動物が運ぶ(動物散布)とありますが、食べられて糞としての他に、人間や動物にくっついて運んでもらうとはしぶといものです。

このセンダングサは種子ばかりでなく若い実もよく引っ付きます。このような植物を「引っ付き虫」というようです。マジックテープ発案の元になったというオナモミなどいろいろあり、相手の背中などに投げあって遊んだのを思い出します。

似ている同じ仲間がタウコギ(田五加木)、シラミクサ(虱草)という名で、秋の季語として出てきます。

溝川に田五加木の花暮れにけり  麦人
虱草さわぐ女に附きやすし  入江伸以知

弘道館の葵の紋

2016年11月07日 | 水戸の観光
そもそも徳川家の三つ葉葵紋の原型は、京都の賀茂神社の神事に用いられてきた双葉葵と言われています。植物のフタバアオイは別名を加茂葵ともいい、山地に生えるツル性の多年草、山歩きで見たことはありませんが、水戸藩上屋敷跡の小石川後楽園の入り口に植えてありす。

同じ葵紋でも将軍家や御三家では少し違っていたようですが、データで保存できない時代なので、年を経るごとに違ったりして厳密に区別することは難しかったようです。

さて、1841年(天保12年)に建てられた水戸藩の藩校弘道館の葵紋を探してみました。
まず屋根瓦です。正門、番所、正庁、至善堂などの鬼瓦などに見られます。東日本大震災の復旧修理では、漆喰彫刻などの屋根瓦の伝統技術の職人を各地から集めて、見事に復元できました。創立当時の瓦も約1500枚(全体の6%)使われているということです。

正門の屋根の下、棟木を受ける板蛙股にも葵の紋が見えます。明治元年の弘道館戦争の銃痕が数多見られる正門ですが、ここまでは銃弾が届かなかったようです。

重要文化財の建物内に入ると、釘隠し(六葉のもの・星型のものもあります)と襖の引き手に見られます。傷んだものは替えているようですが、古色蒼然としたものは、創立時のものかもしれません。

主だった部屋の畳の縁にも葵紋が付いています。実際に創立時に畳に葵紋があったかどうかは疑問のようですが、来館の方には喜ばれています。

至善堂四の間にある大きな長持、一説では慶喜公が謹慎蟄居のため、江戸の寛永寺からここ弘道館へ下ってくる時に身の回り品を入れてきたとか言われています。前後二人で担ぐのはさぞ大変だったと思うような堅牢で大きな長持です。

最近展示された藩医小林元茂の羽織にも葵紋、産婦人科が専門で藩の表医師から奥医師に昇り葵紋付きの羽織着用を許され、弘道館医学館の助教も勤めました。「麻素材で黒色の草木染め、ほころびを繕いながら愛用していたのが分かります」と説明があります。

大番組控室に展示されている、藩の絵師萩谷遷喬による武装の烈公の軍扇にも葵紋がしっかと描かれています。
まだあるかもしれませんが、弘道館内で今回見つけたのは以上でした。今では家紋など気にしなくなりましたが、「この紋所がぁ~」という時代、権威の象徴としても重要な意味を持った葵の紋だったと思います。

海の恵み

2016年11月03日 | 釣り
釣り自慢の弟から、大洗の夜釣りでのおすそ分けが届きました
スズキ68センチ、黒鯛38センチ、メバル25センチ級8匹、届いたのは夜だったので、翌日、魚さばきの上手い釣り仲間を呼んで庭で調理しました。

釣り上げた魚は美味しく食べてやるのが釣り人のマナー、アラも貴重な部位なので捨てるところはあまりありません。思った以上にいっぱい出来上がり、刺し身、煮魚、塩焼き用と4軒におすそ分けが広がり、それぞれとても美味しかったという波紋が返ってきました。
なお、鱸(スズキ)は秋の季語です。

まっすぐに鱸の硬き顔が来ぬ  岡井省二
吸物も鱸さしみも鱸哉  正岡子規