顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

耳、手、痣(あざ)が治るご利益…3つの社寺

2020年06月13日 | 歴史散歩

小美玉市にある、耳、手、痣(あざ)がそれぞれ直るという珍しい三つの寺社が、6Kmくらいの間にほぼ一直線に並んでいるのを地図で発見、ひと廻り約1時間の探訪をしてきました。


耳が聞こえるようになる…耳守神社  (小美玉市栗又四ケ)

碑文によると、桓武平氏の常陸大掾平国香の庶流でこの地の領主飯塚兼忠の娘千代姫は、幼少の頃から耳が不自由なれども両親の断食祈願の甲斐あって熊野権現の神徳を得て人一倍聞こえる様になり、館の耳千代様と親まれその聴力には人々も只々感歎するばかりであった。

三十三厄年に不幸にも病に罹り病状は日毎に悪化し、自ら不治を悟り「我亡き後に一社を祀り給われかし、耳の病を守護せん」という言葉を残し世を去った。遺言通り両親は栗俣上郷の地に社を設け耳守と号し神事を行い飯塚家代々之を継承した。
約500年後の天正18年(1590)、大掾24代の清幹は佐竹義宣の大軍に敗れ府中城に滅亡し、同族の飯塚家も田木谷砦に滅び、耳守の祭礼も跡絶するが地元民により復活、神事が守り続けられた、とあります。

耳がよく通るように…と、竹筒の両端に紐を通した絵馬は、全国的に見ても非常に珍しく、今でも県内外から参拝者や見学客が訪れるそうです。なお、お札が拝殿前に置いてありましたので、お賽銭をいれていただいてきました。


手の病が治る…手接神社  (小美玉市与沢)

寛正6年(1465)頃、芹沢村領主・芹沢隠岐守俊幹が梶無川を通りかかった際、乗っていた馬の尾をカッパにつかまれるも、刀でその手を切り落として難を逃れた。手首のないカッパは屋敷にやってきて「七郎河童」と名乗り、「老いた母を養うため手を返してほしい」と泣いて懇願。母を思う気持ちに心打たれ手を返すと喜んだ河童は不思議な薬で手を元に接いでしまったと言います。お礼に河童の先祖から伝わる手接の秘法や、巻いておくと痛みに効く糸「きりすね」などを置いていき、また毎日魚2匹を届けてくれました。
ある日魚が届かず、不思議に思ったお殿様が川へ行くと、河童が魚を持ったまま死んでいたのを見つけ、ふびんに思った俊幹は梶無川のほとりに小さなほこらを建て「手接大明神」として祭った…と伝わります。

いつしか「手の病が治る」と参拝客が訪れるようになり、今でも多くの方が県内外から訪れています。
拝殿前に、お札と「きりすね」が入った箱が置いてありました。
新選組初代組長芹沢鴨はこの芹沢家の子孫といわれていますが、芹沢鴨の出自には諸説があって確かではないようです。

平成11年(1999)には氏子の手によって、境内に河童碑が完成、日本で唯一、河童を祀るとされますが、祭神は水の神、罔象女命(ミズハノメノミコト)、大巳貴命(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)となっています。
なお、千葉県旭市にも「手接神社」があり、同じ祭神を祀っているそうです。


痣や皮膚の病が良くなる…赤身地蔵尊  (小美玉市小川)

言い伝えによると、小河城主の側室に産まれた子どもの体に赤あざができ、日を追うにつれ広がっていったが、城主が、当時城内に安置されていたこの地蔵尊に願を掛けたところ、子どもから赤あざが消え、代わりに地蔵尊の身に移ったという話が残されています。
以来、痣や皮膚の病に御利益があるとされ、毎月、旧暦の24日に御開帳されているそうです。

この地蔵尊は高さ46cmの檜造りで、聖徳太子の作と伝えられていますが、実際は江戸時代の作と推定されるそうです。
中世の小川城は300mくらい西の高台にあり、宝徳2年(1450)城主の園部氏の守り本尊として地蔵尊は城内に勧請されましたが、天正18年(1590)佐竹氏に攻められ落城の際には、兵火を逃れ鶴巻の地に脱出、その後数回の移転を経てこの地に建てられたと碑文に書かれています。

遠くに筑波山を望むこの高台も城を守る拠点になったような立地です。

偕楽園公園「桜桃杏李梅」のその後

2020年06月11日 | 水戸の観光

偕楽園公園でバラ科の花が同時に見られた3月22日の拙ブログ「桜桃杏李梅」…、花のその後が気になって写真を撮ってみました。


普通見かけるはソメイヨシノ(染井吉野)、江戸時代に改良された品種でほとんど結実せず、実を探すのに苦労します。少年時代に上って食べた桜の木にはびっしり生っていましたが…。



公園などで植えられているモモ(桃)は観賞用の「花桃」で、通常食用にはならず、中には萎びたような実も生っていました。



アンズ(杏)が少し色付いてきました。酸味があるため加工品としての人気が高く、長野県の千曲市などが有名です。



スモモ(李)はソルダムなどの品種改良がすすんでいますが、この種は日本スモモでしょうか、まだ梅と同じ色ですが、果柄が長いので梅と区別できます。



ウメ(梅)の花は撮影時にはほとんど花期が終わっていたので、撮影したのは遅咲きの花梅「呉服枝垂」、ほとんど結実しない品種なので、実ウメの写真を載せました。

今年の梅の実落としは6月11、12日の2日間、ただ梅の実の販売は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止という発表がありました。毎年好評な企画だけに残念ですが…。

戸村城…新旧二つの城が接合

2020年06月09日 | 歴史散歩

戸村城は那珂川東側の比高15mほどの河岸段丘上にあり、対岸には那珂西城址があります。

(城址の案内板がD地点に建っています。)

まず12世紀、永暦元年(1160)藤原秀郷流の那珂氏3代通兼の子で戸村能通がここに居城し戸村氏を称したといわれます。建武3年(1336)、6代の戸村又五郎は宗家那珂通辰とともに南朝方として、常陸瓜連城の楠木正家に従い活動しましたが、北朝側の佐竹氏に敗北し那珂氏一族とともに自刃して戸村氏は滅亡しました。この那珂氏系の戸村氏は南城を本丸としたとされます。
(A地点から見た戸村城址、右手が文殊院、左が城址で、間には堀のような低地があります。)

その後15世紀、佐竹氏12代佐竹義人(義憲)の3男義倭(よしやす)が、寛正元年(1460)ここを修築して居城とし、戸村氏を称して佐竹氏の南方を代々守り、慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ転封なるとそれに従い、寛文12年(1672)からは横手城代として佐竹氏の重臣をつとめました。この佐竹氏系の戸村氏の築城には、城域を拡張して北城を本丸にしたようです。
(B地点、左は南城の土塁のようです。)

城址主郭部は東西400m、南北300m、外郭を含めると東西最大450m、南北700mで、その主郭部は南側にあり、その東側と北側の外郭部には、家臣の住居や城下町があったと推定されますが廃城以来400年、農地、宅地化が進み土塁や堀の一部がわずかに残るだけです。(C地点から河岸段丘の城跡を望む)

畔に咲いているのはナヨクサフジ(弱草藤)、飼料や緑肥として渡来し野生化していますが、なよなよしているどころかとても元気に繁殖しています。

南側にある文殊院は、応永21年(1414)に城里町の小松寺再興の宥尊の弟子、尊許の開山と伝わります。佐竹氏の祈願寺として崇敬されてきた真言宗の寺院で、戸村観音の名でも知られています。

弘法大師の像が建っている本堂の大棟には「五本骨扇に月丸」の佐竹氏の紋が付いています。

ここも出城的な城郭の一部ともいわれています。土塁と堀…、水路は後世に作られたそうですが…

北側に位置する曹洞宗の龍昌院は戸村氏の菩提寺でしたが、佐竹氏の秋田移封に伴い戸村氏も随行したため、龍昌院も移転して現在横手市に400年の歴史を持つ寺院として建っています。
常陸に残った龍昌院は、寛永12年(1635)に本堂を焼失し、延宝4年(1676)に檜山左衛門を中興開祖として再建されました。

佐竹氏は定紋の「扇に月」のほかに、「源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線」の七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としているので、「佐竹桐」と「笹竜胆」らしき家紋が大棟の左右に付いていました。

春には境内の数本の枝垂れ桜が咲き、花見の名所になります。本堂前の枝垂れ桜に実が付いていました。

初夏の公園…久しぶりに再開!!

2020年06月04日 | 季節の花

新コロナウイルスの影響で閉鎖されていた公園が久しぶりに開園しました。
自然を多く残した公園なので、しばらく行ってないと季節の変化により、眼に触れるものがすっかり変わっていました。ネムノキ(合歓木)の緑が鮮やかです。

ブタナ(豚菜)の名前はフランス名の「豚のサラダ」を和訳したもので、穀物飼料に混入して渡来、今では全国に蔓延ってしまいました。ここも休園の間に芝生がすっかり占領されています。

スイカズラの漢字は二つ、(吸葛)は花の付け根の蜜を吸った少年時代の体験、(忍冬)は冬でも葉が生い茂り寒さに耐えている様子から付きました。

ホタルブクロ(蛍袋)はキキョウ科の多年草、この花の袋に子供がホタルを入れて遊んだことからの命名説があります。

ウツギ(空木)の花は卯月(旧暦4月)に咲くことから卯の花とも呼ばれます。畑などの境界木として植えられてきた歴史があり、今でもよく見かけます。

ハコネウツギ(箱根空木)、箱根近辺に植栽されたものが野生化した、箱根に自生していたなどの命名説があります。開花中に白、ピンク、紅色と色素が変化し3色を同時に楽しめます。

ドクダミ…毒という名が付きますが、毒を抑えるという意味の「毒を矯(た)める」からの命名説が有力です。雑草ですが花は清楚な美しさ、別名「十薬」で整腸、利尿、解毒などの薬効で知られます。

ヘビイチゴ(蛇苺)も名前のせいで好かれてはいませんが、グラウンドカバーとして植えたり、ジャムにしたブログもありました。ただし、味はあまり美味しくはないようです。

齧った人がいるのでしょうか、苦い味がするのでニガナ(苦菜)。舌状花の数は5枚から7枚と変異が多いそうです。

ヤマグワ(山桑)の大木がありました、実が白→赤→黒紫になると食べ頃で、口を紫色にして食べた記憶が蘇ってきます。

ノイバラ(野茨)は花期を過ぎていました。日本のノバラ(野薔薇)の代表、棘が多く嫌われていますが、生命力が強いためバラの接ぎ木の台木に利用されるそうです。

日本でも100種類以上あるアザミの中で最もよく見かけるのがこのノアザミ(野薊)です。

すひかづらたまの揚羽のながくゐず  中村汀女
卯の花はむらがり咲けど何か足らぬ  加藤秋邨
どくだみや真昼の闇に白十字  川端茅舎
野茨咲き気弱き耕馬尾をふれり  飯田蛇笏
花薊蝶とまらんとして高く  高浜虚子

そば処 のざわ…地元に愛される名店

2020年06月02日 | 食べログ

国道50号笠間を過ぎて稲田のはずれにある人気の店で、お昼は駐車場もいっぱいで通り過ぎたことも何度かありましたが、時間を少しずらして入店できました。(約3か月以上前の訪問です)
どちらかというと、気取らない庶民的な地元に愛されている店というイメージでした。

頼んだのは、ざるそば660円(税別)、量が多く普通の店では大盛で通ります。
初めて気が付いたことは、上に載っている刻み海苔が邪魔だということ、料金もさることながらそばの味を楽しむのなら、もりそば600円でよかったかと…。

少し太めで存在感のある麺は、喉越しよりも歯ごたえで味わいましたが、酒のつまみになるようなメニューがいろいろ貼ってあるのを横目で眺めながら完食してしまいました。