顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館の曝書…現存する数少ない藩校

2020年10月21日 | 水戸の観光

弘道館は天保12年(1841)に水戸藩9代藩主徳川斉昭公が開設した水戸藩の藩校で、文館、武館などのほかに医学館、天文台などもある全国一の規模をもつ総合大学のような教育施設でした。

曝書とは、 書籍を湿度の少ない晴れの日に虫干しする保存作業のことです。
藩校当時にも行われていたこの曝書が先日、弘道館の至善堂二の間と三の間で行われました。

今回は特に、水戸藩剣術の正式教科である神道無念流の道場に張り出された道場訓「神道無念流壁書」を藤田東湖が揮毫した拓本と版木が展示されました。神道無念流は文政年間(1818~1829)に、藤田東湖も師事した宮本佐一郎が水戸で指南を始め、弘道館開設に伴い佐一郎から印可を受けた長尾景英が武館で師範を務めました。
上段に版木、中段に巻物になった拓本、下段に読み下し文が展示されています。

「天下のために文武を用ゆるは治乱に備ふる也」から始まる道場訓は、神道無念流宗家二代目戸賀崎暉芳の作と言われ、江戸詰になった藤田東湖は、暉芳の弟子の岡田十松の開いた撃剣館に通って一級の実力を持っていたといわれ、この壁書を流れるような筆致で書き上げました。
神道無念流の起源から修行や心の持ち方までを説いた道場訓は、現在でも相通ずるものがあるといわれています。

藩校当時の弘道館には6000冊以上の蔵書が所蔵されていましたが、明治元年(1868)の弘道館戦争で被災、教授などからの献納や新規購入で同数に近く補充されるも昭和20年(1945)の水戸大空襲でも被害を受け、現在弘道館が所蔵している藩校当時からの書籍は54冊だそうです。

弘道館の古い図面には編集方や彫刻場、帳とじ場などが描かれてあり、書籍や出版の事業が行われていたのがわかります。焼失を免れた版木が現在117枚保存されています。
版木は材質が堅く、強靭で、繊細な表現もできる、浮世絵にも使われた山桜の木を使っているそうです。
展示場所の至善堂に敷かれた畳の縁には葵の紋が入っています。

木版印刷や拓本に見られる書の繊細さに眼を奪われますが、他所と比べても腕のいい彫師の仕事だと学芸員の方は話していました。
また、水戸には「水戸拓」という伝統の拓本技術が残っています。文政年間に水戸の薬問屋だった岩田健文が長崎で中国人から拓本の技術を学び持ち帰ったものを、弘道館内で本の出版を手がけていた北澤家に受け継がれ、現在は4代目の奥さんが守っています。(弘道館敷地内 北澤売店)

曝書展示の至善堂は、藩主来館の折の休息所と諸公子の勉学所で、斉昭公の七男で最後の将軍となった徳川慶喜公(七郎磨)も幼少期にここで学びました。
大政奉還後の明治元年(1868)には、慶喜公はこの部屋で、静岡に移るまでの約4ヶ月間謹慎したことでも知られています。

斉昭公の原案をもとに、藤田東湖が起草した「弘道館記」の建学の精神に象徴されるここでの学問は水戸学とよばれ、全国の幕末の志士たちに大きな影響を与えたといわれています。(正庁・正席の間)

二度の戦災で施設のほとんどが焼失してしまいましたが、学校御殿と言われる正庁、至善堂と正門が奇跡的に残り、国の重要文化財に指定されています。(正面玄関・式台)

藤田東湖が安政大地震で亡くなってからまだ165年、世の中の変化はだんだん加速しているような気がしてなりません。(十間畳廊下)