東区山根町の聖光寺境内に建立されている「木原松桂翁之墓」です。
聖光寺のweb siteなどを参照すると木原松桂については、
『木原松桂翁は、安永5年(現・東広島市高屋町)杵原西本に生まれるが、幼時に母親と生別し母を慕う気持ちは募るばかりであった。広島に出て医を業としながら、四国までも母を捜索するが見つからない。
47 歳の時、夢に出てきた母の言葉の「よなご」を思いだし、伯耆国弓ケ浜に尋ねる。遂に思いは通じそこで母の墓を発見する。その孝義篤行は藩の表彰するところとなる。
吉田松陰(1830-1859)はこのことに感激して松桂翁の書をもらい受け、松下村塾の壁に掲げ、常に自分の修養と塾生の訓育の拠所としたのである。』
☆書とは、木原松桂翁筆「三餘読書七生滅賊」。
(裏面に刻まれた文字は無いようです)
聖光寺のweb siteを見ると、ここで取り上げた「木原松桂翁之墓」の紹介もあったのです。
「高間壮士之碑」を撮影しようと計画していたので、広い墓苑ですが、探すことができれば「木原松桂翁之墓」も撮影しようと思っていました。
(裕編集の)木原松桂翁之墓
聖光寺のweb siteなどを参照すると木原松桂については、
『木原松桂翁は、安永5年(現・東広島市高屋町)杵原西本に生まれるが、幼時に母親と生別し母を慕う気持ちは募るばかりであった。広島に出て医を業としながら、四国までも母を捜索するが見つからない。
47 歳の時、夢に出てきた母の言葉の「よなご」を思いだし、伯耆国弓ケ浜に尋ねる。遂に思いは通じそこで母の墓を発見する。その孝義篤行は藩の表彰するところとなる。
吉田松陰(1830-1859)はこのことに感激して松桂翁の書をもらい受け、松下村塾の壁に掲げ、常に自分の修養と塾生の訓育の拠所としたのである。』
☆書とは、木原松桂翁筆「三餘読書七生滅賊」。
(裏面に刻まれた文字は無いようです)
聖光寺のweb siteを見ると、ここで取り上げた「木原松桂翁之墓」の紹介もあったのです。
「高間壮士之碑」を撮影しようと計画していたので、広い墓苑ですが、探すことができれば「木原松桂翁之墓」も撮影しようと思っていました。
(裕編集の)木原松桂翁之墓
3月17日(安芸区のわが家付近)鶯の初鳴き
天候:くもり