広島県庄原市西本町の倉田家墓所にも建立されている「倉田百三のお墓」です。
※百三は、東京・大森の自宅で亡くなりましたので、東京府中の多摩霊園に墓があります。
庄原市教育委員会の説明板が設置されています。
『・・・・大正6年26歳の時不朽の名作「出家とその弟子」を岩波書店から出版しベストセラーとなりました。
「愛と認識の出発」、「青春の息の痕、「光り合ういのち」など数多くの作品を残し、昭和18年2月12日東京大森の自宅で52年の生涯を閉じました。
百三の墓は、東京都府中市の多磨霊園にあり、分骨されてここ倉田家の墓地にも建立されました。「戚々西行水楽居士」と彫られた墓石がそれで、戒名を付け墓石の戒名を揮毫したのは一灯園・西田天香です。 』
この倉田百三の墓所は、息子もナビに入力していて、迷うことなく墓地につきました。
ただ、倉田家の墓地ですので、いろいろ墓石が建立されていました。
かすかに倉田百三、不鮮明でしたが歿年が書かれている木柱がありましたので、これだなと撮影しました。戒名で間違いないことを確認しました。
(裕編集の)倉田百三の墓 (庄原市)
※百三は、東京・大森の自宅で亡くなりましたので、東京府中の多摩霊園に墓があります。
庄原市教育委員会の説明板が設置されています。
『・・・・大正6年26歳の時不朽の名作「出家とその弟子」を岩波書店から出版しベストセラーとなりました。
「愛と認識の出発」、「青春の息の痕、「光り合ういのち」など数多くの作品を残し、昭和18年2月12日東京大森の自宅で52年の生涯を閉じました。
百三の墓は、東京都府中市の多磨霊園にあり、分骨されてここ倉田家の墓地にも建立されました。「戚々西行水楽居士」と彫られた墓石がそれで、戒名を付け墓石の戒名を揮毫したのは一灯園・西田天香です。 』
この倉田百三の墓所は、息子もナビに入力していて、迷うことなく墓地につきました。
ただ、倉田家の墓地ですので、いろいろ墓石が建立されていました。
かすかに倉田百三、不鮮明でしたが歿年が書かれている木柱がありましたので、これだなと撮影しました。戒名で間違いないことを確認しました。
(裕編集の)倉田百三の墓 (庄原市)
9月23日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(小雨模様)
25.1℃、69%。
倉田百三の作品は若い頃「愛と認識の出発」を読んだことがあります。
(内容はあまり覚えていませんが(^_^;))
しかし、広島県のご出身とは知りませんでした。
妹・艶子の碑文には
『百三は倉田家の只一人の男児として生まれた 兄の生涯の自由奔放な生
活法はこの温床から始まる 精神的暴君の性格は兄の個性の強さと父
母の犠牲を惜しまぬ愛の深さに依る「出家とその弟子」は生家に於て執筆
された・・・・』と刻まれていたそうですが、まったく意外でした。
もっと繊細で優しい方かと思っていました。
2004年に(広島市)南区に建立されている倉田百三文学碑で、
http://masuda901.web.fc2.com/page5ahx18.htm
「出家とその弟子」をロマンローランが絶賛したということを知り、倉田百三を知ったのです。
白樺派に属していたそうですから人道主義、個性主義、理想主義の考えを持っていたのだろうとは思いますが。