住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

澤地久枝氏の勇気に応えよう

2007年01月10日 19時24分25秒 | 時事問題
1月4日、朝日新聞の「私の視点」というコラムに、作家の澤地久枝氏が『憲法60年 明るい年にしていくために』と題して小論を掲載されている。今という時代を的確に分析され、私たちはいかにあるべきかと、短い分量の中にまとめられている。誠に当を得た、新年にふさわしい覚醒を促す一文である。

フィリピン戦線で戦った大岡昇平氏、ソ満国境の戦闘で生き残った五味川純平氏の二人の作家の言葉を引用されて、戦争というものについてまず述べられる。それは国、ないし私的な欲望を満たすための経済行為に過ぎないのだとその本質を見抜く。

そして、今私たちが切々と感じ取っている生活の不安について具体的に述べる。保険料が引き上げられ医療費の負担が増え、逆に年金の手取りが減る。それらの施策はひとえに暗黙の上に進められる富国強兵策の一環であると言われる。そして、今のこの状況は昭和の戦争前夜の世相に似てきていると指摘する。

人々は言いたいことをこらえ口をつぐみ、世の成り行きに従順になる。いつか来た道の袋小路に差し掛かっているのではないか、これでは歴史は繰り返されるのだと警鐘を鳴らす。すでに、教育基本法がゆがめられ、自衛隊法が変わり公然たる軍隊として戦争できる体制が選択された。昨日防衛庁が省に格上げされた。そこに国民の意志は見られない。

それはただただ同盟国アメリカの意向であると、そしてそれはただ命を差し出すばかりか私たちの財産までも差し出すほどの無気力さ、無見識、一国を預かる者としての気概のかけらもないことをさらけ出している現状に、国民誰もが本当は気づかねばならない、そう澤地氏は言われる。

そして、そのことの意味を本質を国民に明らかにせよと迫る。つまり日本国はアメリカの従属国であり、まったくその要望に従うばかりである現実。だからこそ、イラク出兵を速断しておきながら、その後イラク戦争の大儀が崩れても、その責任を取るということの道義を感じることもないのであると示唆される。

政治の空疎化がすすみ、政治に希望のかけらさえ感じられなくなった今、国民の民情悪化、疲弊、つまり凶悪事件、いじめ、自殺が耐えず、金の力で何でもできるとする風潮さえ生んでいる。そこに政治は一片の責任すら感じることもない。

そして澤地氏は、この現状に対抗するために、私たちが手にできる唯一の手段は、選挙であると言われる。希望の灯、希望のタネは市民連動によって憲法本来の国にもどろうという市民一人一人の強固な意志、決意が必要であると力説される。市民は市民で自ら考え思慮を深め、おのれ一人の思いからはじめて同じ思いの人と繋がる発信を心がけるべきだとしている。

最後に澤地氏は、『憲法を泣かせるな』を施行60年にあたる今年の合言葉にしようと呼びかけている。今という時代を冷徹に捉え、勇気を持ってその本質を説いてはいても、穏やかな筆致である。しかしその意味する内容は、痛烈に現状を批判し、人々の心に決起を促す檄文である。澤地氏の心の中の絶叫を聞く思いがする。

私たち庶民の唯一の武器は選挙における一票しかない。その一票をしがらみに取り巻かれ、いつまでも義理に流されていてはこの国の将来は危うい。様々な団体、企業による締め付けに屈することがあってはならない。

平和な世の中にしよう、自分の子供や孫たちが戦争に利用されることのない国にしよう、世の中の不平等を無くそう、おかしなお金の流れを断ち切ろう、一生懸命働く人はそれなりに報われる制度にしよう、私たちの生命に危険なものを取り締まり安全な食、環境をもたらす制度にしよう。

誰もが思う本来あるべき姿に向けて私たち自身が無関心を装うことなく本気になって考えることが必要なのであろう。澤地氏も言われるように、先の戦争で犠牲になった多くの戦没者たちの死を生かす道は私たち一人一人の思慮と決意にかかっている。年頭にこの一文を寄稿された澤地氏を私は讃歎したい。

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根源的少子化対策

2006年08月27日 18時10分15秒 | 時事問題
私の知人に30代半ばのコンピューターのプログラマーが居る。実際どんな仕事なのか畑違いで見当も付かない。確か外資系の保険会社の嘱託のような立場だということだった。数年前には別の会社から正社員の口を誘われたが、当時はまだ遊びに熱中していて年に数回海外に出るため断ってしまった。今では請負というような状態なのではないか。

その彼が結婚してもう5年になるだろうか。奥さんは派遣の仕事で、ある会社の事務仕事をしていたが残業残業でこき使われ、少々精神的にきつくなり休業中だ。親たちは早く子供をと思っても、経済的な後ろ盾もなく、また健康も害していては子供どころではない。それは例外的なケースではなく、今の日本の若い人たちの結構多くを占める世帯の実体ではないだろうか。

8月18日の朝日新聞「検証構造改革第3部経済再生」によれば、雇われている労働者の3分の一が非正社員なのだそうだ。バブル崩壊後企業は自己防衛のため人件費を削った。この影響をまともに受けた15才から24才の若年労働者の2分の一が非正社員であるという。

99年の労働者派遣法改正では一般事務も派遣の対象となったが、04年には製造業も対象になった。非正社員は厚生年金など社会保険の対象とならずすべて自前で国民年金や健康保険を負担せざるを得ない。しかしそれさえも払えずにアルバイト生活で食い凌ぐ若者も多い。

かつて終身雇用制による安定した人生設計のもとに多くの国民が中流意識をもてる国であったわが国は、今や明日の仕事に不安を抱え、結婚も、子供も、持ち家も諦めざるを得ない現実が到来していると言えよう。そればかりか親と同居しすべて依存して暮らす若者、いや30代40代も増えている。つまり自立さえできない情況をもたらしてもいる。

少し前から新聞にCEOやらCOOという聞き慣れない言葉が並ぶようになった。CEO (chief executive officer)とは、最高経営責任者のことで、米国型企業において、経営実務に責任と権限を有するトップのことだという。米国型企業では、企業の所有と経営を分けて、所有者(株主)を代理する取締役会が、経営を行う執行役員を任命する。そのトップがCEOだ。

つまりは米国式の企業収益至上主義の、社員は常に他と比較され競争に晒される単なる使い捨ての駒という組織体のことではないか。こうした企業制度が日本の風土に適しているのであろうか。8月21日の朝日新聞1面には上場企業の30代に心の病が成果主義の普及により急増しているとある。何と30代社員の61%が心の病を抱えているとある。

少子化・男女共同参画対策担当として内閣府特命担当大臣などという聞いたこともない役職を特設してまで、多くの税金を使って政府が躍起になっている少子化対策ではあるが、根本的な原因さえ分からずに小手先の対策をいくら重ねても何の役にも立たないであろう。

私たち国民が安心して将来設計の出来る社会を作ること、それに尽きる。安易な日雇い雇用制度を改め、安定した人生設計のできる雇用を回復することが先決ではないだろうか。働き口もない若者たちをニートやら引きこもりと責め立てる無責任を問いたいと思う。

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靖国問題の本質こぼれ話

2006年08月23日 09時04分09秒 | 時事問題
先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。

仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。

もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。

バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。

しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。

しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。

なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。

宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。

すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。

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靖国問題の本質

2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題
昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。

はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。

しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。

しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。

単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。

私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。

つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。

まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。

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日本核武装の現実

2005年09月19日 11時33分52秒 | 時事問題
東京の東中野に「原子力資料情報室」という研究機関がある。ここから毎月ニュースレターが送られてくる。9月号には、「日本の核武装と東アジアの核拡散」と題する論文の抄録が掲載されていた。

著者フランク・バーナビー博士は、英国オックスフォード研究グループの核問題コンサルタントで、ロンドン大学の講師や、科学と世界の問題に関するパグウォッシュ会議の事務局長、ストックホルム国際平和研究所の所長などを歴任し、現在はフリーランスの防衛問題アナリスト。

もう一人の著者ショーン・バーニーは、グリーンピース・インターナショナルの核キャンペーンのコーディネーター。

まず、所々重要部分を抜粋してみよう。「長崎に投下された原爆は5キログラムのプルトニウムを含んでいたが、今日本はその9千倍の45トンものプルトニウムを持っている。60年代後半日本の有力な政治家によって原爆製造に必要な核物質とその運搬手段を手に入れることが画策された。本当の核兵器開発をしなくても、日本は事実上の核保有国になっている。日本政府は、この状態を維持している」

さらに「六ヶ所村再処理工場が動けば、日本は世界最大級の余剰プルトニウムを持つことになる」「高度の技術をもつ核兵器設計者なら、六ヶ所村で作られるプルトニウムの3~4キログラムで一個の兵器を製造できる。大量のプルトニウムがある中でこのような少量のプルトニウムの転用を知るには高度の技術を要するが将来の技術の進歩を見込んでも達成不可能である」

「日本では、世論が逆転しないと核兵器を製造する決断は下されないと想定しているが、その想定は危険である。ある一線が越えられてしまった後で反対は盛り上がるものだが、その時には既に遅すぎる」「アメリカの核の傘の下にある事実上の核保有国として、日本がすぐに核兵器を製造する必要はない。そのプルトニウム保有量は戦略的に重要である。しかし、核兵器開発の決定に向けた状況は進んでいて、世論はそれを受け入れやすくなるように弱められてきている」

「日本の核武装が中期的にアメリカにとって有利だと考えている人がワシントンにいないと考えることはできない。アメリカは既にその方向を止めにくいと暗に伝えている」「世界で第二の経済大国として、日本の政策決定者にとって重要かつ危険な教訓は、すぐに世界は核をめぐる現実を受け入れることを学ぶということである」「インドとパキスタンができることなら、日本はできる」

「日本国憲法は、アメリカの積極的な対応によって改正されつつある。日本の自衛隊は海外に派遣され、両国の合同軍事訓練は強化されている。日本がナショナリズムと軍国主義に進むという予測は、2006年に交代が予定されている小泉首相の有力な後継者候補と見なされている安倍晋三によって、より悪い方向に向かうであろう」

そして「国際社会は日本の核武装を受け入れることを学ぶであろう」「日本のプルトニウム計画は、核拡散の引き金となる」「核不拡散の方針に従ってプルトニウム利用をしないエネルギー政策へと転換することが、日本が核兵器保有を選択した世界の国々のたどった道を拒否するための第一歩である」

どうであろうか。私たちには初耳、夢夢思ってもいない展開について述べられ、現実問題としてこうした見方を外の人々はしている。私たち日本は既に事実上の核保有国であり、身に余る核兵器製造のためのプルトニウムを既に確保し、それをいつ現実化させるのかを政治上の推移を見て、その時期をはかる段階にあるという。

私たちが何も知らない間に、もうそこまで来てしまっている。近隣諸国はもとより、諸外国はそうした視点で我が国を見ている。中国、韓国の我が国に対する強硬姿勢もこの事実を織り込み済みなのであろう。だからこそ恐れている。知らされていないのは当の国民自身。自分たちが核を持つなんて、とのんきな感覚でいるのは、私たちだけなのである。

現在の核保有国のいずれもが、核保有を議論して決定したわけではない。ごく一部の政治指導者たちによって準備され、ある日突然発表されたものだという。私たちもいつその現実に向き合う日が来るとも限らない。そう思うとき、改憲が次なる照準に合わせられようとしている現在、返す返すもこの度の総選挙の結果は、私たち日本国民の無知さを象徴したものと記録されるであろう。自らの一票の重さをその時ひしひしと感じる人がせめて多くあることを願いたい。

追記、9/20各新聞一面に北朝鮮核放棄を確約と大きな見出しが紙面を飾った。北朝鮮が核実験に踏み出せば、日本の核武装も現実視されるであろうとの予測もあることを考えれば、これは一安心と言えようか。しかし、45トンものプルトニウムを我が国が保有している現実は何も変わりがないことを認識しておくべきであろう。
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郵政民営化法案が否決された

2005年08月12日 18時47分15秒 | 時事問題
郵政民営化法案が否決された。当日たまたまお盆参りから帰りテレビで参院の賛否討論と採決を目の当たりにした。議員が壇上に上がり一人一人票を入れていく姿が映し出され、白票青票がカウントされていた。これまでこんな場面を観たことがない。それだけ大事なシーンだったのだろう。

この採決から二日目の新聞には一斉に世論調査がトップの紙面を飾っていた。解散に対する理解を示す世論が過半数を占め、郵政民営化法案への支持を表明する者が半数近くを占め、反対派を凌いでいるとあった。このところの内閣支持率を調べる世論調査の数字も40数パーセントが小泉政権を支持するとあるのと同様に、本当だろうかと疑いたい。サンプルを操作することなど至極簡単なことだと思えるからだ。おそらくアメリカ大統領選挙でしたのと逆に、自民党支持基盤の多い地域年齢職業などを選別した上での結果ではないかと思う。

どこへ行っても政治に対する意見を聞くようにしているが、この2年ばかりは小泉氏を支持するという人に会ったためしがない。かつての大本営発表とは言わないが、それに近い操作又は捏造があったとしてもおかしくはない。それほどまでに現在の日本のマスコミはおかしい。ニューズウィーク誌の特集にあったとおりだ。

誰のための報道だろうか。何を目的に新聞やテレビがあるのか。私はしばらく前から殆どテレビを観ない。先日もNHKの何かのアンケートに協力してくださいと言って係の人が来たが、テレビを一日に5分も見ないと言ったら結局殆どの項目を該当無しということになってしまい帰って行った。テレビなど観たいとも思わない。なぜなら、明らかに日本国民を愚鈍化するためにあるように思えて仕方ないからだ。ニュースや政治関連番組にしても全く意図的に操作された形跡があると思える。多少の教養番組のみ見る価値があると言えようか。

本題に入ろう。今海外のメディアではこの度の郵政民営化法案の否決をどのように報道しているのかということだ。森田実氏のサイトでは、ウォールストリートジャーナルに「日本の郵政民営化法案は廃案になったがこれは手取りの時期が少し延びたに過ぎない。ほんの少し待てば我々は3兆ドルを手に入れることが出来る」との見方が掲載されているという。さらには、ウォール街は小泉自民党を大勝利させるために日本国民をマインドコントロールするための多額の広告費を投入している、それも日本の在京テレビ局に対してであるとまで書かれている。

また別のサイトによれば、ファイナンシャルタイムズにも同様のことが書かれているとのことだ。何も知らされていないのは当の日本人だけで外人たちはみんなこの度の郵政民営化の意味するところを知り尽くしているということなのだ。国債を何とか買い支えてきた郵貯簡保資金がみんな外へ出て行ってしまい、終いにはなくなってしまうことであろう。戦後60年丸々太らせてあげたのだから少しおいしい肉を切り取って喰わせなさいと言われているのも同然なのだ。みんな私たち日本人庶民の汗の結晶なのに。

私たちは外からの見るもの聞くもの読むものに少なからず影響される。間違いのないものを見て聞き読む必要がある。何が自分にとって必要か、何を正しいと思うか、間違いないと思えるか、その人の一生の間にはかなりの大きな違いが生じることであろう。つまらない番組を見てつまらない時間を過ごしつまらない人生を送ってはならない。つまらない人生を送る国民が多ければ多いほどその国は疲弊する。

私たちは自分の中に入ってくる情報を正に厳選に選別した上で取り入れることが特に今の時代不可欠なことだと思う。余りにも情報過多であり、その内容の質が劣悪である事は周知の事実であるからだ。何が正しいのか、今正にそれを見抜く目を養う必要に私たちは迫られている。
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いかにあるべきか

2005年07月13日 19時45分23秒 | 時事問題
国民の関心事、郵政民営化法案が衆議院を通過した。しかし、自民党の議員の51人が党議拘束を違反してまでこの法案に反旗を翻した。立派なことではないかと思う。これまでとは違う雰囲気が政界に醸成されてきたということか。と言うよりもそこまで、政党の存立意義がぐらついているということなのかもしれない。

今の自民党執行部に乗っていて良いのか、反対した方が将来有利に風向きが変わるのではないかと読んだ向きもあるかもしれない。しかしここは、本来あるべき姿に回帰したものと思いたい。本来こうあるべきなのではないか。これまで所謂今批判の的である談合そのままに、国会こそ馴れ合い体質のままやってきたということではないのか。何のための政党助成金か。こんな身勝手な政党を国民の税金で養っているのは日本だけではないのか。

議員とはいかなるものかと考えたとき、すべての法案に対して個々に自主判断して票を入れるべきではないかと思う。だからこそ各地から議員を選挙で選んでいるのではないか。たくさんの税金を使って選び、歳費を払い、優遇された議員年金まで払って議員を養い、議会を開き、法案を審議している。

それなのに個々の議員の意思を尊重することなく日本の国会は党議拘束で縛った上での票決が常識化している。党の言うとおりに票を入れるだけなら、これだけの議員は必要あるまい。ただ政党の支持率だけで法案の可否を決めたらいい。

党の言うままにこれまで言いなりになっていた議員たちは、本来の自分の仕事を放棄していたことにもなる。ただ上の人間の言うままにその通りのことをするだけに存在しているならば、全くその存在意義を疑いたくなる。

しかし問題は彼らだけのことでは済まないのかもしれない。国の行政を担う人々をはじめ、その組織を取り巻くすべてが、そして、そもそも私たちの仕事の多くが、そうしたものなのではないか。それまでの慣習、おおかたの意向、目上の存在を意識して、意に沿うようにやってきただけなのかもしれない。

本当に自分で自力でいかにあるべきかと考え抜き、こうあるべきだと本気で実行しているものなどどれだけあるだろうか。目先の利益に翻弄されることなく、長い目で見たとき、それが本当に自分のためでもあり、周りの人たちのためでもあり、生きとし生けるものたちのためになることをどれだけしているだろうか。

国家を司る立場の人々には、特に、それが本当に国のためになるのか。国民一人一人のためなのか。世界の沢山の人々のためになるものなのかを本気で考え、推進して欲しい。

そして、お寺に暮らす者の一人として、いかにあるべきか。何を語るべきか。それが仏教のためなのか。仏教を今日まで伝えて下さった先師たちに報いるものなのか、が私には問われているのであろう。この度の自民党議員の勇気を称賛したい。
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世の中単純化していないか

2005年06月21日 11時42分06秒 | 時事問題
どうもこのところ気になることがある。この世の中何かみんな頭が単純になってはいないかと思うのだ。特にマスコミ、新聞の論調など、その傾向が濃厚なのではないか。今日の新聞にも「頭のいい人悪い人の言い訳術」という本が広告にあった。頭がいい人悪い人などとそう簡単に二つに分けられるものでも無かろう。

こういう題名にすればよく売れるという発想なのだろうが、世の中他にもこれに似たものがゾクゾクある。JRの宝塚線の脱線事故でも、加害者を非難する声は被害者以外からもものすごい高まりがあった。加害者JRを悪者に仕立て上げみんなで寄ってたかって、こてんぱんにやっつける。経営者に土下座させなければ気が済まないといった剣幕だ。

何もJRは事故を起こしたくて電車を走らせているのではない。経営サイドの怠慢もあったかもしれないが、それなりに旧態依然とした社風の中一生懸命やってきていたのではないか。様々な原因が重なり事故になった。これからは無いよう心して取り組むと言う。それでよいのではないかと思う。あまりに被害者遺族の感情に流されすぎではないか。

前には三菱自動車の火を噴く事故が相次いだ。自動車事故は日常茶飯事。三菱の車の事故ばかりが新聞紙上を賑わせた。いまはJALが狙われている。その根源には、あの米国の同時多発テロに対する報復劇に至った、悪事に対する嵩にかかった勧善懲悪の発想があるように思える。悪い者には何をしても良い。そんな風潮が世の中の大勢を占めているようだ。特にマスコミにはその気風がある。恐ろしいことだ。

私たち人間は完全ではない。間違いを犯すのが人間だ。その人間が人間を神であるかの如くに裁こうとすることがいかに恐ろしいことであるか。私たちが一番よく知っているはずではなかったか。

お釈迦さまの時代。アングリマーラという凶悪残忍の輩がいた。アングリとは指、マーラとは花輪。次々に人を襲い殺した人の指を首飾りにしていた。シュラーバスティの街を托鉢して終わったお釈迦様は、アングリマーラの居るところに向かう道を一人歩いていった。そのことを知ったアングリマーラは、一人でのこのこやってくるあの沙門を襲ってやろうと剣や弓矢を持って忍び寄った。

しかし、走れど走れどゆるゆると歩くその沙門を捕らえることが出来ず、思わず「そこの沙門よ、止まれ」と声を掛けた。するとお釈迦様は私は「私は止まっている。そなたこそ止まるがよい」と言った。止まって話しかけた自分に止まれと言い、歩いている沙門は止まっているという。

その意味が分からずアングリマーラが問うと、お釈迦様は、「私は生きとし生けるものに対して害する心が止んでいる。しかるにそなたはその心のみに歩まんとしているではないか」そのように言われて、アングリマーラはその場で崩れ落ちお釈迦様にすがり、弟子となった。

直にその噂が街に溢れ、アングリマーラがシュラーバスティの坊さんたちの精舎のあるジェータ林に入ったとなれば、お坊さんたちに何かあったらいけないと心配し、お釈迦様を師と仰ぐパセーナディ王は五百の騎馬兵と共にジェータ林に駆けつけた。

「アングリマーラという残忍な兇賊を捕らえんが為に来たり」という王様に対し、お釈迦様は、「大王よ、もしその者が髭や髪をそり落とし、袈裟衣を着て出家し、殺すことなく、盗まず、過ちを語らないという自戒堅固になったとしたらいかがなすであろうか」と問うた。すると王は、「そのようなことがあれば私は彼を敬い供養し保護するであろう、がそのようなことはあり得ない」と言われた。

するとお釈迦様は、「そこにいる沙門こそあのアングリマーラである」と、変わり果てたアングリマーラを指し示した。王は「本当にそなたがあのアングリマーラか」と絶句され、誰もが恐れ捕らえることの出来なかった凶悪残忍な者を武器無くして調伏したお釈迦様を讃歎したと言う。

しかしながら、その後彼が托鉢へ街に行けば、人々から石を投げられ、衣を破かれ、棒で叩かれた。血を流しつつもそれに堪えて戻ったアングリマーラにお釈迦様は、「堪え忍ぶがよい、それはそなたが来世にわたって受けるべき報いを今受けているのだから、忍び受けるがよい」と諭され、アングリマーラも、それに良く堪え修行に励んだと言われている。

私たちは誰もが過ちを犯す人間に過ぎない。周りの人たち、様々な恵まれた環境のお蔭で罪を犯すことなく満足に生かさせてもらっていると考えた方が正しいのではないか。罪を犯したことを悔い改め改心した者には、その罪を償った後には私たちと同じ目で見守ってあげることが必要なのではないかと思う。過ちを犯した者もその非を認め改める素直な心が必要なのであろう。

私たちは、マスコミや新聞、他の人たちの考えにとらわれることなく、冷静に物事の因果因縁を捉え、より成熟した物の見方を身につけることが肝要なのだと思う。単純に何事も善玉悪玉を決めつけてしまうことは誠に危険なことなのではないかと思う。

(これは本日の護摩供後の法話に加筆校正したものです。参考文献阿含経典による仏教の根本聖典)
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隠れ公務員

2005年04月23日 17時35分56秒 | 時事問題
毎朝、朝日新聞に目を通す。この備後地域では、圧倒的に中国新聞が読まれている。その次が朝日新聞ではないか。毎日、読売は余り聞かない。友人に毎日の記者があるので当初毎日新聞を取ってみたが、何ともページ数が心許なく、情報量の多さで今は朝日新聞を購読している。

昨日22日の朝日に、「失速小泉改革-中-増殖する隠れ公務員」と題する記事があった。小泉首相には官僚主導の中央集権の本質を変える気持ちはない。確かに公務員の定員は01年に84万人だったものが、今年3月で、33万人まで減ったという。だが、定員の外側で、独立行政法人、国立大学法人、特殊法人の職員が、計67万人もいるのだそうだ。そしてこの独立法人化によって天下りポストは逆に増えてしまっている。

何のための行政改革であろうか。先だって、外務省の公報だっただろうか、シニア海外ボランティアの募集があった。また、定年後は四国遍路という人も多くなってきたという。そうした定年後の時間を自らの技術を生かし人様のために生きよう、功徳を積んで来世のために生きようとする人が多くなってきたということかもしれない。

そこで、海外シニアボランティアなどというありがたいご提案をなさるのなら、官庁を定年なさる皆様が先んじて、自らその精神を体して事に当たってはいかがかと思う。

つまり、天下るのは良いが、そこで高給高額退職金をもらうのではなく、これまで培ったノウハウをボランティアでお国に恩返ししていただいたらよいのではないか。功成り名遂げた皆様に定年してまでお金のために働いていると世間から思わせるのは大変失礼なことでもある。

財政破綻状態にもかかわらず、国連常任理事国入りのためにさらに海外に沢山のお金を必要としているようだ。これから貧しい国民にも重税が予想されているのだから、是非とも官僚の皆様にも国民に強いるだけでなく、ボランティア精神を大いに発揚していただいて、無給ないし必要経費のみにて特殊法人などへ天下っていただく制度を作っていただくべきではないかと思う。

何を詰まらぬ事を。一人愚痴ていろと思われる方も多かろう。しかし、こうしてこれを読んで共鳴してくださる方があれば、次第にそうした雰囲気が出来上がろう。そして、そうした声が上がってきて、当たり前になってこなければ何一つ先に進まない。

つまりは、私たち一人一人が様々なことに知悉して考え、共鳴していかなければ世の中は変わらないのではないか。新聞テレビマスコミの情報を鵜呑みにすることなく、その先に一人一人がものを考え意見を持つことが大切なのではないか。

昔インドの列車で夜中に乗り合わせた人たちが大声で政府の乱暴な施政方針を非難し合い、ときに反駁し様々な情報を口角泡を飛ばして言い合っていた光景を思い出す。お陰で既に横になっていた私は睡眠時間をかなり制限されてしまったのだが。それでも日本ではまずお目にかかれない光景を、つまり興奮して自分たちの生活のことを真剣に論じ合う人々を羨ましく思えた。

私たち自身が変わらなければ何も変わらないことだけは確かなのだと思う。

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この世は燃えている

2005年04月14日 14時35分03秒 | 時事問題
この世は燃えている。こう言われたのはお釈迦様だが、いま正に我が国を取り巻く周辺は燃えさかっているようだ。テレビを殆ど見ないので、テレビ報道がどうなっているのかも知らずに、新聞だけで反日暴動が起こっているんだな程度に思っていた。

が、先ほど、檀家さんが見えて大変なことになったものですと心配顔であった。韓国などは豊臣秀吉の時代からのことを今以て言うのだから、その恨みは日に日に増していくものなのだろう。伊藤博文にしても韓国で大量の人々を殺しているのだから仕方ないことなのでしょうねと、とその檀家さんも言われていた。

確かに過去のことは様々だろう。悪かったことはきちんとその事実を伝えるべきだとは思う。しかし、この度の様々な反日暴動は、明らかに、日本の国連常任理事国入りを阻止せんがための作為あるものだろう。

アメリカも表だって日本に異を唱えられないので、表面は指示すると言いながら、周辺に手を回していることだろうと思われる。アメリカは双子の赤字を日本からのお金で何とかしのいでいることを考えれば、賛成せざるを得ない。

しかし、国連とは、連合国と言うことだという。United Nationsだから、そうなる。と言うことは、まだ先の戦争のままの意識なのだと言うことではないか。そこへ私たちは大変大きな負担金を払わされているわけなのだ。つまりは、国連改革などではなく、新しい国際関係の枠組みを創設すべきなのではないかと私は思う。
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