住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

簡略化の弊害

2024年12月22日 08時50分00秒 | 様々な出来事について
簡略化の弊害




御歳暮の季節である。お中元御歳暮というのは、もともと室町時代に始まった習慣で、親元にその季節に家の神様をお迎えするための御供えを実家に持ち寄ることがもとだという。そうした習慣が他家にもお裾分けしてお世話になった感謝の気持ちから物を送る仕来りに発展したものらしい。

毎年、こちらに来て25年、盆と暮れに車で1時間かけて御中元御歳暮をお届けしているお寺様がある。初めは敷居が高いというのか、いつも怒られるのではないかというような気持ちもあり、玄関先で置いて帰ろうというなどと思いつつ車を走らせたものだが、先様も忙しい時期でもあり、お会いできないこともあり、それでも毎年二回欠かすことなく通ってきた。

いつの頃からか、連絡をしてから来なさいと言われ、そうした頃からだろうか、好きなお寺の話、仏教の話、本山の話、昔話に花が咲くようになった。行くことがとても楽しみになり、コロナの時期にも迷惑がられながらもお伺いした。先週も遅くなったことを詫びつつ奥の間に通され話し始めた。

今年の行事の話、美術館での特別展の話、他のお寺の御開帳に関してなど話し始めたらあれもこれも、気がつくと2時間が経過していた。慌てて失礼したようなことではあるが、お話のすべてが勉強になる、誠に貴重な時間を過ごさせてもらった。

ところで、コロナ騒動の頃、何でも簡略化、休止、キャンセル、廃止の波が襲ったことがある。未だにその波の影響か、お祭りなどは徐々に元に戻ってきているようには感じるが、旧に復さないものも多くあると感じる。お中元御歳暮の類いもそうかもしれないし、仏事もその一つで、葬儀法事がコロナ前からではあるが、小さく小さくという風習が当たり前になってしまっている。

田舎は隣保と言って、集落の組内で、葬儀やお祭りなど互助する取り組みがなされてきた。しかし、そんな当たり前のことも、今では何の通知もなく、お隣のことであっても、「家族葬で行いました」と回覧板を見て知るような時代となってしまった。良い、悪いの話ではなく、そうして人と人の関係が薄れていくことの意味を考えなくてはいけないのではないかと思う。

日本人が現代にあってもなお、先祖を大切にする数少ない文明社会の一つであると聞いたことがある。今日迄、一つの共同体として、世界で唯一古代から一つの国として存続してこられた礎にそれがあったのではないか。人と人との関係、繋がりの大切さを思う、その大本に親があり先祖があり、皇室があった。それが戦後教育の改変によって、家や親、家族の育みが遠ざけられてしまった。

そうした延長線の上に、様々なキャンセルの大波の余波から、人と人の関係の大本が、いまだに疎かにされている。コロナの時期、それまでしてきた葬儀をせずに火葬だけして済ませてしまった家々がある。それらの家の未だそんなにお歳でもない当主や若い奥様が突然に身罷ることがあると聞く。突然の訃報に多くの近しい人が戸惑い、近親者は自らなしてきたことに思い至る。偶々、偶然のことかもしれない。しかし、先祖がずっと伝えてきた習慣や教えを蔑ろにすることの怖さを感じざるを得ない。

私たちは一人では生きられない。つねに、すべての生きとし生けるものの恩恵を受けつつ生かされている。家族でも、親族でも、師弟でも、地域の方々とも、人と人の関係は何があっても、忘れてはいけない、疎かにしてはいけないことなのだと思う。命の大切さなどと唱えていたのはいつのことであったか。舌も乾かぬ間に、何でも簡単に、簡略にしたらいい、しないで済ました家もあるなどという理屈でなされることの意味を知らねばいけないのではないかと思う。


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備後國分寺だより 第69号(令和7年1月1日発行)

2024年12月19日 07時09分02秒 | 備後國分寺だより
備後國分寺だより 第69号(令和7年1月1日発行)




令和六年十月十三日 
 ふくやま美術館特別展
「ふくやまの仏さま」記念法話
『仏さまとの出会い方』
〈前編〉


國分寺の横山でございます。さて、今日は三十三年ぶりの明王院様の本尊御開帳にあわせて開催されました特別展「ふくやまの仏さま」に際しましての記念法話ということです。まずは、この特別展のために長期に亘り準備を重ねてこられた関係各位に敬意を表し御慰労申し上げたいと思います。

ところで、この三月に、私ども國分寺でも三十年ぶりに本尊様のご開帳をいたしております。福山コンベンションセンターの皆様のおかげで、新聞ラジオなど多くのメディアにて告知いただき、遠方からも沢山の皆様がお参りにお越し下さいました。遠くは名古屋、大阪、呉、広島などからもお越し下さり、改めて仏さまの人を引きつける力を再認識させられました。

そして、今日は、「仏さまとの出会い方」というお題を頂いております。結論を先に申し上げますと、特別な出会い方があるわけでもなく、皆様がそれぞれの思いで出会っていただければよいのではないかと思っております。ですが、今申したように、仏さまという存在には人々の心を引きつける力があります。それはどういうものなのかとたずねてまいりますと、出会い方ということも見えてくるのではないかと思います。

そこで、お尋ねいたしたいと思うのですが、皆様は、これまで、仏さまとどのような出会いをされてこられたでしょうか。子供の頃、お祖母さんのあとをついて仏壇の前に座り、何かよくわからなかったけれども仏さまと出会っていたという方もあるかもしれません。

実は、私の生まれた家には仏壇もなく、仏教などとは縁もゆかりもなく、勿論親戚にお寺さんがあるということもありませんでした。ですが、まったく仏教と縁の無かった私が、僧侶となり、その後沢山の仏さまと出会うことで、今こうして國分寺に住まわせていただいております。

そこで、まずは、私にとりましての仏さまとの出会いについて語らせていただき、それから仏さまについて、なぜ人々の心を引きつけるのかと考察を進めて参りたいと思います。
=================

私は東京の生まれでして、小さな家でしたので仏壇もなかったのです。ですが、小さな頃、浅草の浅草寺(せんそうじ)の境内を通って、父親の会社に連れられ行くときに、十八間四面の本堂前の大きな香炉の煙を身体に、行くたびに掛けられていたことを思い出します。

それから、やはり子供の頃、父方の祖母が、私の顔を見ると、おまえはお祖父さんの生まれ変わりだね、といつも言っておりました。何度も何度も言われたせいで、自然と人は生まれ変わるのだと頭に刷り込まれていたようです。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界をグルグル生まれ変わるという輪廻転生という生命観を前提とする仏教の第一関門が、このお祖母さんのお蔭ですんなりとクリアされていました。

また母親からは、小学生の頃ですが、周りの子たちに良くしてあげなさい、そうすれば回りまわって他の子からよくしてもらえるとか、汚い言葉を使ってはいけない、人を悪く言ってはいけないなどとよく言われました。それは、今思えば、仏教の縁起、因果応報という教えに繋がるものだったのかもしれません。

そして、中学の三年間、毎年のように、お祖母さん伯父さん同級生が亡くなるということがあり、それぞれお葬式に参加し、正確には高校一年の時にも中学の先生が亡くなり、やはり葬式に参列しております。

皆様も、大体10代20代で祖父母との別れを経験しているのではないかと思います。亡き人の菩提を願うとき、故人のことではなく、仏さまとの出会いもあるわけですが、その仏さまがその後の人生に、どのように関わってくるかということが大事なことではないかと思います。

私には、その後大学に入ってから、一冊の仏教書との出会いがありました。お釈迦様の仏教を専門とする増谷文雄先生と哲学者の梅原猛さんとの共著ですが、①『仏教の思想1知恵と慈悲・ブッダ』角川書店という本です。

この本との出会いが運命的に私の人生を変えていくことになります。この本で学んだことは、お釈迦様は神でもスーパーマンでもなく、人としての最高の人格を得られた方であり、私たちの理想であり、目標であるということでした。

そして、その内容は、明治時代にヨーロッパ経由の近代仏教学が伝来し、お釈迦様の実像を、漢訳ではないインドの原典から研究することによって明らかにしたものでした。このお釈迦様の原典による教えを初めから学ぶことが出来たことは私の仏教観に大きく影響を与えるものであったと思っています。

それ以来、毎日仏教書を読む日が続き、それから今日に至るまで、仏さまの教えを学ぶということが私の人生の中心を占めることになります。それは、教えの上から仏さまと出会うということだったのだと思います。

大学を卒業する頃には出家をしたかったのです。ですが、やっと二十六歳のとき西早稲田放生寺(ほうしょうじ)様にご縁をいただき高野山で高室院前官(たかむろいんぜんがん)様の弟子として出家得度を受け、翌年高野山専修学院に入りました。一年間七十人程の得度したばかりの修行僧たちと寮生活をし、お経を習い百日間の修行をして、寺院に住職する資格の得られる学校でした。

寳壽院(ほうじゅいん)というお寺の中の学校でしたが、その本堂の②本尊大日如来様には、毎朝のお勤めでお経を唱えていました。が特に、二学期に百日の修行の最後七日間断食することにしたとき、七十人のうち三四名ですが、加行(けぎょう)監督に何があっても自己責任とするという誓約書を書き、その後、私は一人本堂に入り、この本尊様に修行の無事成満を一心に祈願しました。

高野山の学院を卒業後、東京の放生寺に役僧として勤め、その間に資金を作り、仏教はインドに行かねば解らないというような切迫した気持ちから、初めてインドに行きました。それが二十九歳の時です。この時は、コルカタ、ブッダガヤ、リシケシ、ダラムサーラ、デリーと旅をしました。

インドでは沢山の神様仏様の御像を見て参りました。これは③ネパールのルンビニの摩耶夫人(まやぶにん)堂というお寺に祀られているご像ですが、ルンビニは誕生所ですから、お母さんと生まれたばかりのお釈迦様です。

みんなこのような雑な作りの物が多いのですが、現地インドの人たちはそんな御像にも敬虔(けいけん)に手を合わせ御供えをしていきます。それはお姿がどうこうではなく、まずは来世のために徳を積むために神仏に対する思いや行為こそ尊いものなのだと信じているからだと思います。

それから、最初にインドに行った次の年から二年続けて四国の歩き遍路を三十余日を掛けて二度、一四〇〇キロを歩きました。この間沢山の仏さまに出会いましたが、それらの中で一番印象が残るのは、④十二番焼山寺(しょうざんじ)に向かう山道の中で出会った弘法大師の修行行脚(あんぎゃ)姿のご像です。もやのかかった山道を登り、急な石段を上がっていくと前に大きなお大師様が居られ、思わず手を合わせていました。

その後、またインドに行くチャンスがあり、二度目にインドに参りましたとき、インドのベンガル仏教会という仏教教団(本部コルカタ)に御縁が出来ました。そしてその翌年、そこで再出家してインド僧になりました。これは⑤ウパサンパダーという南方仏教の得度式の後の写真です。コルカタの街中を流れるフーグリー河上の船の中に結界を作り、二人の受者のために十五、六人のインド僧が参加された受具足戒(じゅぐそくかい)式でした。この着ている袈裟はタイ製で、横275㎝縦190㎝のとても大きなものです。

 ◯[ベンガル仏教会について]
インドの仏教は十三世紀初頭に衰滅したとされています。その遙か前に八世紀頃からイスラム勢力がインドに侵入を繰り返すようになり、それを嫌った中インドのマガダ国の末裔(まつえい)とする仏教徒たちが東に避難を始めたとされ、たどり着いた先が今のバングラデシュのチッタゴンでした。隣国との様々な抗争に巻き込まれながら仏教徒として生きて、ムガール帝国の時代にはインド東部にまでその勢力が迫り、お寺はモスクにされお経も唱えられない時代が続き、仏教の伝統が失われた時期もありました。

その後十八世紀にベンガル地方は英国植民地となり、その軍隊に志願することで仏教徒は地位を回復し、十九世紀半ばビルマのサーラメーダ長老により受具足戒式が行われ仏教の伝統を復興しチッタゴンやダッカに仏教会を造り、カルカッタに移住していた仏教徒のためにクリパシャラン長老により一八九二年ベンガル仏教会が創立されました。セイロン仏教徒であるダルマパーラ師がインドの仏跡地の復興に活躍するのもこの時代のことでした。・・・

私は、それからインド僧として、バラナシの北10キロほどのサールナートという、お釈迦様が最初に説法を成功された、初転法輪(しょてんぽうりん)の聖地の近郊にあるお寺、法輪精舎(ほうりんしょうじゃ)に一年あまり滞在しました。そこには⑥ダメークストゥーパという大きな仏塔や僧院跡のある遺跡公園があり、塔は高さ43メートル周囲は百メートルほどはあるでしょうか。

その法輪精舎から遺跡公園までの三キロほどの道は、⑦田園風景の中に道の両脇に大きな街路樹が植えられ、牛が行き交い横になり、そこに人々が生活していて、まさにお釈迦様が歩かれているお姿を彷彿とするような道でした。お釈迦様がその先を歩いていると、その姿を思い描きながらいつも歩いていました。

サールナートの考古学博物館には⑧サールナートブッダと言われる説法の印を結ぶお釈迦様の御像が安置されていて、とても有名なものです。五世紀頃の作品で、高さが155㎝巾が87㎝です。インドのものとしては珍しくすばらしい造形の仏様です。レプリカが、明治時代にダルマパーラ師により造られる新しいお寺に祀られ、その堂内の壁画は野生司香雪(のうすこうせつ)画伯が釈迦の一生を描いたものとして知られています。

そして、これは⑨釈迦四相です。誕生と成道(じょうどう)と初転法輪と涅槃の姿を表しています。これは正にお釈迦様の一生を塔に見立てたものです。

それから、インドの師匠が居られ、私も併せて一年程度暮らしていたベンガル仏教会のコルカタ本部の仏様についてご覧頂きますと、この⑩大きな真鍮のお釈迦様は一階の礼拝所の仏様です。これはミャンマーの仏像で、教団の歴史を感じさせる仏像です。毎朝のお勤めのときに拝んでいました。

こちらは⑪二階の本堂の本尊様です。どちらの仏像も、右手が膝を覆い指先が地に触れ、修行の真実なることを大地に証明してもらったことを示した触地印(そくちいん)のお釈迦様・成道仏です。

そしてこちらは⑫創立者クリパシャラン大長老の石像です。

インドではこのような仏様方を礼拝し暮らしていました。この間、日本に帰りますと、放生寺に居候させて貰いながら、スリランカ仏教の長老に、親しく仏教の基本や今ではマインドフルネスと言われる瞑想法について、トータルにしますとかなりの時間になりますが、学ばせていただきました。

そうしてこの大きな袈裟をまとって、インド僧として都合三年半ほど、インドと日本を往来していました。ですが、コルカタでマラリアに二年続けて感染してしまい、健康の不安もあって捨戒して帰国し、日本の僧に復帰いたしました。

それから、東京深川の七福神の札所でもあった冬木弁天堂の堂守を三年ほどしています。出世弁天とでもいうのでしょうか、戦前は日本三弁天の一つ江ノ島の弁天様と同体の弁天像が祀られていたという御堂で拝んでおりましたら、倉敷宝嶋寺(ほうとうじ)様が御縁を繋いでくださり、福山に参りました。

國分寺では⑬御本尊・藥師如来様に毎朝仏飯御茶湯御経をお供えしています。・・・つづく
(当日はプロジェクターで、丸数字の写真をご覧いただきながらお話をいたしました)


十善会蔵版 明治二十八年四月十五日
雲照和上の御講演(東京三浦家にて) 現代語訳横山全雄

『十善の法話』 下


十善を行じて四恩(しおん)に報いるべき事

私たちが今日こうして身体欠けるところなく、健康で幸福に、無事に日を過ごし安穏にして、このように才智あり、様々な仕事をなせるのも、決して自分一人のなせる技ではありません。父母が自分を産み育ててくれたのは、父母への恩であり、着るものも、食事をし、また書物を読み、物を書いたり、眼に触れ手に触れる物すべてが世の中の人々の労働によりなせるものであって、これは一切衆生への恩であります。また国王ともいえるお方があって、国を鎮め安定せしめ、私たちを見守って下さっているのは、これは国王への恩でありましょう。

そればかりか、果てしない過去から今日迄、私たちは一切衆生とともに、この三界に生まれ変わり死に代わり輪廻してきました。その間に、すべてのものたちと、ときに父母となり兄弟となり、また主や友となって、無量無辺の関係を持ちつつ今日に到っていると考えられます。

そうであるならば、一切の男子は我が父、一切の女人は我が母とも言えるものなのです。どうして他者を殺したり奪ったり邪な関係を持ったりできましょうや。また、嘘をつき媚びへつらい汚い言葉を吐き、仲違いさせたり。さらには、欲を貪り、怒りをあらわにしたり、道理に合わないことを押し通すことができるでしょうか。

さらに申し上げるならば、今この森羅万象は、みな真理そのものであって自性なく、実相、つまり縁起の法をそのままあらわにしているものであって、その身の他に仏はなく、仏の他に衆生もなく、衆生の他に自心もないのです。

我が心と仏と衆生は本来平等、つまり一体なので、無二とも言えるものでありまして、分け隔てあるものではないのです。この無二の関係にあるものたちの中で、我とか他とか、こちらとかあちらとか分け隔てして自ら損となることをしてどうなりましょうか。

このような高い見識をもって十善をなすのは、すなわち真正なる道徳であり、そのまま四恩を奉ずるものと言えましょう。これをインドでは菩薩と名づけ、中国では聖人と名づけ、日本にあっては明神と名づくのです。

このような真理を明らかにして、すべての衆生を憐れみ、救済するのは仏教の教理であり、その実践であって、これは即ち三宝への恩であります。このような心構えで四恩の大きな徳にむくい生きることによって、国家の深い恩に報いることを仏教の真の報恩とするのであります。

十善四恩は一切道徳の元素となるものであり十善の他に別に道徳はない事

今本会・十善会において主張する、十善因果応報によるところの道徳は、道徳即十善、十善即道徳であり、因果応報ということが人の行いに顕れて十善となるので、十善の他に道徳はなく、道徳の他に十善はないのであります。またこの因果の真理を離れて仏教は無く、仏教すなわち道徳であり、道徳すなわち仏教であり、私の仏教の真理から言えば、道徳の他に宗教なく、宗教の他にさらに道徳無しとするのです。

どうしてかと言えば、仏教とは天然の真理に則って、普通に衆生が起こす慈悲と、この世のすべてのものは無我であると悟ったものが起こす慈悲と、さらにはあらゆる差別を離れた仏の大悲の心、この三つの慈悲の心を起こして、多くの人々と遍く十方世界の生きとし生けるものを憐れみ、それらを利益し安楽にする事業に勤め励むのを菩薩の本来の仕事とするのです。

また諸々の仏がこの世に出生する一大事とするのもこのことと別にあるわけではありません。およそ菩薩の最初の発心や諸々の仏の悟りに到る目的や願いはこのためにこそあると言えましょう。

世の中の人が父上に対して、その恩に報いようとするならば、この十善を離れては真にその恩に報いることはできないでしょう。なぜならば、世俗にあって普通にいうところの忠孝とは十善道徳の一部に過ぎず、道徳はすなわち道徳であると言っても、十分に道徳の根源をきわめ奥底まで尽くして忠孝の道を全うすることはできません。

それはただ人情や常識を本として志を尽すものであって、確実な真理に則ったものではないので、常識の範囲で父上のためにこの上ない善事と思ってしたものであっても、後になって顧みた時、かえって真に利益や安楽をもたらすものでなかったという場合も多々あることでしょう。

今もしもこの十善因果の理に則って、忠孝を尽すときには、たとえ目の前で父上の気持ちを十分に愉快にさせられるようなものでなかったとしても、後々に必ず父上のためになる大孝であったと顕かになるでしょう。

ましてや父上のためと思って、他の者から怨みや怒りを買うようなことをしたとしたら、父上のために悪をなすこととなり、それを忠孝などと捉えるのは顛倒の極みであり、決して忠孝とはならないのです。なぜなら、悪をなして善い結果を得ようというのは原因結果の真理においてあり得ない定則だからです。

よって、大孝をなそうとする者は必ず因果応報の原理にのっとり、怨みに報いるに徳をもってなし、父親が怨みを受けるようなことの無いようにすべきであり、それをこそ大孝と言うのです。自分が父母から恩を受ける年月は長いものですが、その恩に報いて恩を返そうとしてもその時間は限られているものです。どうしてその短い時間の孝をもって長い年月の恩に報いることができるでしょうか。

もし仏教の十善の真理に基づいて至孝をなすならば、ただ父母にこの世の快楽をあたえるのみならず、いくつも生まれ変わってもお互いに愛し喜びをもって、自ら十善道徳の至孝を行い、またよく父母に十善因果の真理を信じせしめて、無理に勧めずとも父母が進んで善根功徳をなして一切衆生のためになすならば、大きな至孝と言えるものとなることでしょう。

そうすれば真実の道徳、真実の忠孝はこの十善を離れて他に求めても決して得られるものではなく、この大孝至徳をもって父親の恩に報いるのを仏教の真面目、一切道徳の本体とするのであります。世の中の有徳の皆さんはよくこの旨を心得ていただきたいと思います。

さらにもう一言申し上げておきたいと思うのは、もしこの原因結果応報ということをよく理解する人は、慈善道徳をしても人に誇ることのないようにしなくてはならないということです。

自分はこんな善いことをした、人に喜ばれるようなことをしたと、自ら吹聴して人様の信用や敬服を求めることをしがちですが、真正なる道徳をなそうとする者にとって、これは最も慎むべき事であり、このようにすることは、善は善ではありますが、その結果は甚だ下品なものとなり、阿修羅界の報いを得ることにもなりましょう。

ですから、善はなるべく秘すべきなのです。これを陰徳(いんとく)と言います。逆に悪はなるべく表に露すべきことであって、これを発露懺悔(はつろさんげ)と言うのです。

例えば筍を育てるようなもので、枯れ葉や肥料でその根を覆うときはその質柔らかに味は甘くかつ大きな筍となりますが、肥料を与えず、その根を覆うことをしなければその質は硬く味も悪くなります。

善悪をなす場合もこのようなものです。善いことをして努めてそれを隠す者はその福が増すことでしょうし、それを人に言いふらすような者はその徳は薄くなるでしょう。これに反して、悪をなして努めてそれを覆い隠す者は悪業の力が増し、努めてそのことを懺悔して公にする者はその悪業は極めて弱いものとなるでしょう。

これも自然の理によりそうあるべきことであって、こうしてみてみると、善悪応報原因結果の天則は定まれる一定不変のものであり、一毫(いちごう)も変異あるものではないのです。ましてや一度撒いた原因が報いて結果を顕さないということも決してあることではないのです。

よって律の偈にも、「たとえ百劫(ひゃっこう)という果てしない時間を経るとも、なされた業は亡びること無く、因縁が巡り来たるとき、果報還り報いて自ら受ける」とあります。

律蔵(りつぞう)の中の各章段の終わりにこの偈を掲げて誡めています。よって私も、またつねにこの偈を引いて応報の理を述べるのです。たとえ百劫という果てしなく長い年月を経ても、いったんなされた行為の善悪の業の力は決して亡くなったり枯れたりということはなく、因縁が熟したときにはその善悪の果報が生じて、他の人がそれを承けること無く、必ず自身がこれを承けて悪は必ず苦果を、善は必ず楽果が報いることでしょう。

それは決して他に神仏あって苦楽を与えるのではありません。自ら悪をつくり自ら悪の果を受け、自ら善を修めて自ら善の結果を受けることは、鏡に姿が現れ、谷に呼びかけて声が反響するようなものなのです。たとえ大地を打ち外すことがあっても、この応報の真理は古今にどこにあっても、決して僅かにも相違あることはありません。

よって、勉めてなされるべきなのは、ただ十善道徳であり、頼みても頼むべきは因果応報の真理なのであります。たとえ富財産が四海を埋め尽くし、妻子家族が思いのままに財宝を身につけたとしても、無常の暴風はたちまちに来り、息絶える時には一物もその死後の魂に随(したが)いついていくものはありません。

大国の君主と言えども、橋の下に住まう乞食同様に、死に去って冥途(めいど)に赴くときには異なることなく、ただ知らず知らずのうちに一人彷徨(さまよっ)って死者のいく黄泉(こうせん)に入るのみなのです。そのとき、実に頼りとならないのは、世間の名誉や地位であり、そのためになされた業であります。

それに対し、今世でも後世でも我が伴侶となって導き、涅槃安楽の境遇に至らしめてくれるのは、ただこの十善道徳による功徳のみなのです。

ことここに至って、このように思えるならば、歓喜の涙を拭って信じ行うこと、貧人が宝を得たときのように、また渡りに船を得たように、得難き心地がして、この十善のためには、たとえ命を落とすことがあったとしても、決して退歩退くことのないようにと固く誓って、自らも勉め、周りにも勧め励むべきものと言えます。

この肉身は言ってしまえば旅館のようなものです。惜しむようなものではなく、今日努力して善業を貯え、後の世の糧を得たならば、命終(みょうじゅう)を迎えた時、その旅館を出て、明日にはもっと上等な旅館に移り宿泊したらよいのです。

善業の道徳だけの身となれる人は、四苦八苦を生じさせるこの不浄なる肉身を脱ぎ捨てて、煩悩の無い正に清らかな真如法性そのものとなって不老不死となることでしょう。ただおおよそ世の中の人は、わが身である旅館を惜しむことばかりに専心して、旅費を貯えることをしないというのは愚の骨頂ともいうべきことです。旅館というこの身を惜しむことなく、旅館は他にも散在しているのですから、後の世の糧となる金貨をこそ貯えるべきなのです。

もちろん、後の世の糧となる金貨とは十善道徳にほかなりません。ときに世間の金貨は時代や国の事情により通用しなくなるということがありますが、そればかりか価値が目減りすることもあります。

ですが、この十善道徳の金貨は、この世界のはじめから未来永劫、日本でも中国でも欧米でも、東方阿閦如来の世界でも、西方阿弥陀如来の世界でも、十方世界いたるところで、過去現在未来、三世にわたり、通用しない時も空間もないのであります。たとえ百千万効を経たとしても決して朽ちることはなく、ますます光輝を放って自身を利益し、一切の人々を利益して、様々に果てしなく世の人々を救うことでしょう。どうして貴ばないことがありましょうか。勉めないことがありましょうか。            了


平成二十年三月二八日記
信楽峻麿(しがらきたかまろ)著(法蔵館)
『親鸞とその思想』を読んで


著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方です。しかし、今日その宗門からは異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだそうです。

しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者先生です。目の前の利益や地位を優先して、自分の考え方や信じるものをまげてまで、いい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もですが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思えるのです。

この本は、先生の四回の講演を本にしたものです。この本を読むと、親鸞さんという人は、本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した人に思えてきます。

非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではありますが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた人のようです。

極楽往生と言い、浄土教とは、みな死後の往生を願い、疑いを差し挟むことなく信じることだという思い込みがあります。しかし、親鸞さんは、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにあるとして、おのれの生き方を振り返り、誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわったのだといいます。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるというのです。

ですから、親鸞さんの説く信とは、阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではなく、煩悩のまま何も自分を変えることなく、ただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではありません。

きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだというのです。

ここで先生は『倶舎論(くしゃろん)』における信の捉え方を記述されるのですが、ようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのです。

ですから、往生という言葉の意味も、当然のことながら、普通私たちが考える往生とはわけが違ってきます。往生とは往いて生きることをいうとあります。ですから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならないというのです。極楽もまだ輪廻の中、ということなのです。

さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われています。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎない、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということなのだとあります。

寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎないということです。

つまりは、すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということなのです。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるというのです。

ですから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であらねばならないと説かれています。

縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではなく、浄土に生まれなければ仏にならないということなのですから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになります。

私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しないのです。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのですから、この信心ということこそがもっとも大切なことになります。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだということです。

ですから、他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではありません。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われています。

自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではありません。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事、事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだというのです。

さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされています。

おそらくこの信心が決定(けつじょう)したならば念仏は一度でも結構ということなのでしょう。回数は問題なのではありません。念仏が大切なのでもありません。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なのであるということです。

だからこそ真宗と言われたのでありましょう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではないでしょうか。

最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励しています。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばなりません。それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われるのです。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられます。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したいと思います。

今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思えます。


寄稿 S様 (令和六年六月記)
『信楽先生のご本で心のゆとりを』


突然ですが、私の子供の頃はほとんどの家庭は貧乏でしたが、幸せを感じながら生活をしていました。何が幸せだったのか考えても何もなく、家族が仲よく助け合いありがとうの気持ちでほんわかと過ごしているだけです。ご近所も同じようでした。今は子供たちも成長し夫婦二人で年金暮らしですが、お友達や趣味などに恵まれ幸せに過ごしておりますが、何故か子供の頃の幸せ感が懐かしいのです。

以前より新聞・テレビのニュースなどの事件・事故の信じられないような人の行いなどを思う度、何十年かの歳月で人間が変わってしまったのかと思っておりました。でも、人間は簡単には変われません。心が変わったんだと思うようになりました。

國分寺でのお話会(仏教懇話会)やそこにともに参加している友人の振る舞いなどを見て、ひとつ心を穏やかに癒やすのに大切なものが宗教があげられると思っていました。そう思っていましたところ、信楽峻麿先生の『親鸞とその思想』(法蔵館刊)の「現代社会と親鸞の思想」(一頁から四〇頁)を読ませて貰い、時代が変わり価値観が違っても心の持ち方、考え方が大切だとわかりました。

 「物質中心の生きざまが強くなり、精神的なものが失われていきつつある。人間の心がやせ細っている」
 「宗教は、人間の悲しみ悩み苦しみは時代によって変わっていくが、それを癒やす為の働きがある」
 「人間だけ恥ずかしいという心を持っている。またありがとうと言える心も人間だけ、だから向上心が生まれる」
 「一人では生きていけない、親の思い・世間の皆様のお蔭、また自分も誰かを思い、お蔭様と思われている」
 「仏教の根本原理は現実の人間が理想の人間に成長していくこと、これはお釈迦様の教えです」

そして、今年七十七になる私にできることは何でしょうか。

國分寺でのお話会でのお勉強、皆様とのおしゃべりやご本も紹介されたりお借りしたりして、向上心も少しは残っております。子供の頃より明治生まれの父母より「感謝」しながら生活しなければいけない、「徳」を積まなければいけないと言われておりました。これからも父母の教えを忘れずに、皆様の手助けを借りながら「理想の人間」に一歩でも近づけるよう頑張ろうと思っております。

最後に、娘より「まだまだ七十七歳では長寿の御祝いなんかできないわよ」と言われました。ですが、世の中の子供たちにお婆ちゃんからお願いです。未来を築くのはあなた達です。どうか自分の周りの人や物に感謝しながら、小さな感動を一杯して心豊かに育って欲しいです。ほんわかとした幸せが待っていますよ。

國分寺様には、お話会、本の紹介など、このような機会を下さりありがたく思っています。奥さんのおいしい御茶も楽しみの一つです。感謝


【國分寺通信】 謹しんで新春のお慶びを申し上げます

『彼国(かのくに)の 池の蓮(はちす)の 上ならで 
浮世(うきよ)の中の 名こそおしけれ』
 (慈雲尊者和歌集より)

この世には名を留めることもせず、彼の国つまり弥陀の浄土へ身罷ることを待っている人があるという。けれども、この世ですべきこともせずに、彼の世で蓮台に上って、なんの意味があろうか、という解釈となるでしょうか。短い限られた人生で、しっかりと自らの役割を生き、名を汚すことなく、記憶に留められるような生き方をせよと言われているようです。自分のため周りの人たちのため、自らが生きた証をしっかりと残す今を生きてまいりたいと思います。

◯本号一頁から六頁まで掲載しました特別展「ふくやまの仏さま」記念法話は、昨年十月十三日日曜日午後二時から、ふくやま美術館一階ホールにて定員百名のところ百三十五人もの皆様がご来場下さり、熱心にご傾聴下さいました。寺院法要後の法話は何度も経験しておりましたが、美術館では初めての法話となりました。法話はプロジェクターで写真をご覧いただきながらの話となり予定の一時間を超え、さらに質疑応答を終えましたのは三時半を過ぎておりました。貴重な機会を与えてくださいました、ふくやま美術館学芸課並びに福山市文化振興課の皆様に深く感謝申し上げます。


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 <仏教のキモ> 

2024年12月08日 07時06分17秒 | 仏教に関する様々なお話
 <仏教のキモ> 



私とは何かと探求する

世界でも地球でも一切衆生でもなく、本来は私が中心課題。
自ら認識できることから思索を始めるのが仏教。

私は心と体に分かれる。身体は今生の借り物。心は輪廻する。
                
生まれたときから皆違う、環境も顔も体も心も好き嫌いも。
平等ではない。それは私とは過去世からの業の蓄積だから。 
                     
みんな前世があり、だから違う人生。
でも、だからこそ一人一人生きる価値がある。
尊い命を生きる意味がある。
    
なぜ輪廻するのか。すべてのものに原因あり結果するから。
因と縁と果の連鎖の中に生きている。
                     
自分があるかぎり無知が残る。
だから死ぬ瞬間の心に生きたいという執着があるので来世に心が向かう。

今生でも無知だから外から入る刺激に反応して欲や怒りを生じ、苦しみ悩み迷う。
                           
それは他者のせいではない。
みんな苦しみを作り出しているのは自分自身。

すべて自業自得、因果応報。
その現実をありのままに認識する。 


今に専念する-今の瞬間に生きる<智慧>

この世はすべてが無常だから、自分も自分の心も無常。

すべてのものが瞬時に変化しているから、常に不完全、不満足、不安、空しさがともなう。

空・無我だから思い通りにならない。
それなのに、なんとかならないかと苦しみ、もがき、心を暗くする、心を病む。

生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦八苦を生きている。                        

自分の五官に入るものに対して反応する。
それが、生きている実感となる。

五官と心で知るものに、好き・嫌いで反応し、欲や嫌悪を感じる。
刺激に反応し思い、考えることが習慣となり、妄想し、雑念の中に生きている。
                 
刺激による感覚から自分という思いが生まれ、自分・自分のもの・自分の考えに執着する。

私たちは今に生きておらず、常に過去や未来に心遊ばせて考えて考えて思いまどう。
だから、今なすべきことをまさに熱心になせといわれる。
            
妄想し、考える心の癖を止めて今の瞬間に生きる。
わずかな幸せを十全に味わう。

考えないために、読経、写経、坐禅などの実践がある。 
         
今さえよければいいという刹那主義ではなく、充実した今という瞬間の積み重ねとして人生を生きる。

今の自分の行いを、ラベリング・言葉で確認し、自分の一つ一つの行い、呼吸、思い、見るもの聞くもの感覚や周囲に気づく。 
             
まずは考えている自分に気づく。
考えず、判断せず、評価しない。これが、仏教徒の心のもちかた。

何度生まれ変わっても、最高のしあわせへ近づく為に精進する。

                                  
みなとともに幸せを願う<慈悲>

私たちは一人で生きていけない。すべての物事は相互に関係し依存している。                  
自分だけよくあることはあり得ない。

まずは正しく自ら生き、すべてのものたちを友として幸せを願い助ける。        

亡己利他ではない、まずは私が幸せであるように、
それから親しい人、嫌いな人も嫌われている人も、
生きとし生けるものの幸せを願う。  
 
すべての存在に優しく、助け励まし、ともに喜び、分け隔て無い平安な心で接する。                              
善行功徳を積む=功徳がよい来世を私たちにもたらす。

身体も財産も名誉も地位も持っては逝けない。

怒り・物惜しみ・嫉妬・後悔を手放す。


<頭で理解し、体験する。心清める。最高のしあわせを最終目標に生きる>



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托鉢の思い出

2024年12月07日 07時16分40秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
2014年01月25日 投稿の「托鉢の話」を修正再掲





昔托鉢をして生活していたことがある。

今から30年以上も前、最初のインド旅行から帰り、いよいよ四国遍路に出ようと準備していた頃、リシケシで出会った臨済宗の雲水さんに、草鞋の編み方から四国の歩き方を指南していただいた。その折に、いざというときやはり托鉢をしなくてはと言われて、托鉢というものについて改めて考えさせられたのであった。

托鉢とは、本来、そう言ってもお釈迦様の時代ということではあるが、僧侶としての最も基本となる生活スタイルの一つであって、その頃は樹下を住まいとし、食は托鉢によると定められていた。精舎ができ、住まいは屋根のあるところで生活はしても、炊事は禁じられ、施しを受けたものを食して修行生活を続けるものとされていた。勿論、今もタイやミャンマーでは昔ながらに托鉢は行われてはいるのだが。

頭陀という言葉がある。頭陀袋の頭陀ではあるが、インドの言葉、dhutaの音写語で、払いのける、捨てるとの意味である。修行者の衣食住についての執着を捨てることを言うわけであるが、衣は捨てられた生地で袈裟を作り、食は乞食して一日一食、住は樹下とされていた。仏教僧は比丘と呼ばれたが、比丘とは乞士と訳されるように、乞い求める者との意味であって、一切の生産活動、経済活動を遠離して、在家信者からの供養をもって生活していた。

勿論その時、そこまでのことを求めて托鉢を行おうとしたわけではない。そんなことは今の日本では不可能だろう。私のかつて生活していたインド・コルカタの僧院でも托鉢はしていなかった。近隣はイスラム教徒の多い地区で、仏教徒は離れたに住んでいた。その代わりに、昼食に招待を受けて、仏教徒の家に食事のお呼ばれに行くことは度々あった。

東京で初めて托鉢をしたのは、とげ抜き地蔵の山門だったろうか。自分で編んだ草鞋を履き、脚絆を巻いて、作務衣の上に衣を着て、輪袈裟、頭陀袋を首からさげ、網代笠をかぶって家を出た。朝の8時頃だったろうか。そんなに朝のラッシュが気にならない時間帯。巣鴨の駅に着くと、既に沢山の参詣者が高岩寺に向かって歩いている。都会のお寺だからそんなに境内は広くないが、本堂横の洗い観音には数珠つなぎに行列が出来ていた。

縁日の四の日だったこともあり、山門には既に三人の雲水さんたちが托鉢に立っていた。私が立つと新参者のお出ましだとでもいうように、ギョロッと三人がこちらを見た。頭陀袋から数珠と小さな木製の鉢を出し両手に持つ。みんな何かを唱えている。初めての私も何かを唱え少し緊張して直立不動。そんな事情も関係なく、おばあちゃんの原宿と言われるとげ抜き地蔵の参詣者は、次々に途絶えることなく山門をくぐり、そのうちの何人かの人たちはそれぞれに托鉢の鉢の中に小銭を入れて下さった。何度か鉢のものを頭陀袋に移し、夕方までずっと立ち続けた。

家に帰り、一日の分を勘定して手帳にメモした。それを皮切りに、浅草寺雷門、また虎さんで有名な、葛飾柴又の帝釈天・題経寺山門でも縁日に托鉢をさせていただいた。また銀座数寄屋橋の袂でも托鉢をした。初日、立っているとウロウロと易者がやってきて、ガードレールにくくりつけた小さな椅子と机を出して来て店を開いた。私の托鉢の横で。結構人が座るものだと感心したが、その易者、私の所に寄ってきて囁いた。「あなたも易を勉強して易者になるといい、そんな托鉢しているよりも実入りがいいよ」と。

托鉢とは何だろう。その頃から自分なりに考えていた。網代傘の下から世間を眺める。通りを行き交う人。上品に装い、お金持ちそうな人。ビジネスマン。忙しそうに走り去る人など様々だが、この人は入れてくれるのではなどと思った人が入れてくださったためしはない。勿論そんなことを考えて托鉢するものではないが。こちらが見ている以上に通る人たちがこちらを見ている。一目見ただけでどんな人物か分かってしまっているだろう。そんな事を考え、それまでお経を唱えたり、通行人を見たりということをすべて止めることにした。托鉢に立っているときには、視線を前方に定め、ただ何も考えず、じっと心を無にすることだけに徹底した。托鉢は、頭陀、捨てる、思いはからい、執着を捨てる、払うことなのだと改めて思った。托鉢は立ち禅なのであると。

すると、かえって、それまでよりも多くの人たちが近づいてきて下さり、顔をのぞき込んで小銭を入れて下さったりということが多くなっていったように感じた。やはり数寄屋橋で托鉢していたときのことであるが、あるとき、ホームレスの人たちが前を行ったり来たりしたことがあった。何だろう、鉢のものに手を入れるのではなどと思った瞬間に、大柄の一人がカチャンと、それも出だしたばかりの五百円玉を入れて下さった。とっさに頭を下げ、その頃から入れて下さった人に差し上げていた、ワープロ打ちした書き物を手渡した。意外な顔をされて受け取られたそのホームレスさんは、後ろのベンチに横になり、その書き物をひろげて読んで下さっていた。

そのホームレスさんは度々、数寄屋橋に行くと出てきて、小銭を入れて下さっていたのだが、あるとき、話しかけて「いつも恐縮です。お金に困りませんか」と言うと、「俺はお金なんかなくても何でも出来るからいいんだ、それよりお坊さんも大変だね」そんなことを清々しい眼をして言われたと記憶している。その頃は週に三度ほど、午前中の2、3時間、浅草寺の新仲見世と仲見世の交点のところとこの数寄屋橋の二か所を自分の托鉢場と定めた頃のことだったが、様々なしがらみを乗り越え数寄屋橋にたどり着き、決して衛生的な生活ではないが、何も困らないと言うだけの心になるまでにどれだけの葛藤を乗り越えてきたのかと思いを馳せた。自分の心を見透かされ、よっぽどこの方の方が清々した人生を得られているのではと思ったりしたものだった。

あるとき、その方から、白い包み紙をもらったことがある。細長いものだったので、刃物でも入っているのかと一瞬思ったが、触ると冷たく、それは料理屋からもらったばかりの魚の切り身だった。帰って焼いて食べたが、それは美味しい口にしたこともないような上等な白身の魚だった。また数寄屋橋も、浅草寺も、宝くじ売り場や場外馬券場があり、季節になると縁起をかついで、お札を投げるように入れて下さる方もあった。

結局私は二年間ほど、托鉢をして生計を立て、図書館に通い勉強しつつ、四月五月には四国に入り歩いて遍路をした。夏には知り合いから紹介を受けたお寺の盆参りに行き、その間東京の役僧をしていたお寺の法要に際してはその前後にお手伝いをさせていただくというような生活を送っていた。友人のお寺さんがインドに行かれるのを聞きつけ、同行することになり、しかし結局そのお寺さんはキャンセルし、一人またインドに旅発つことになった。その時のご縁でその後インドに留学し、インド僧になる機縁をつかんだ。フリーランスの坊さんとして、自分は何をすべきなのかと問いつつ礼拝し、仏に面していたこともそこに結実したように感じていた。加えて、古来托鉢というものの功徳を一身に頂戴した御利益だったのかもしれないなどと不遜なことを思ったりもしたのであった。




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ウポーサタという仏教行事についての話

2024年12月06日 06時56分57秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
ウポーサタという仏教行事についての話



コルカタは、私の居た頃はカルカッタと言われていた。デリーよりも、私はもともとカルカッタに縁があり、初めてインドに行ったときも、パキスタン航空でバンコクに入り、バンコクからカルカッタ迄ビーマンバングラディシュ航空という安いチケットで行ったので、夜中にダッカに到着しダッカで一泊して翌日夕方カルカッタに入るという飛行機だった。タクシーで街に入ったころは真っ暗で、道端に水が噴き出し、そこに人々が群がり水浴している姿を目の当たりにして、日本の戦後間もなくの着の身着のまま町に人々がたむろして、右往左往している、そんな光景に見えた。

それから町に入りタクシーを降り、教えられた宿に行くと満室で、偶々道であった人に連れられ行った宿は、アフリカ人ばかりが泊まる宿だった。一泊20ルピー程度の安宿で、それからサルベーションアーミーというドミトリーの部屋にも泊まりながら、外国人専用の事務所に行き列車のチケットを取り、ガヤに行った。そして、ブッダガヤで大菩提寺に参拝するなど数日を過ごし、それから二等寝台でリシケシに行った。その頃には腹部に違和感があり、リシケシでシバナンダアシュラムの部屋に案内されるが早くも下痢に悩まされた。医務室で薬をもらいなんとか快復。

リシケシに滞在しているとき臨済宗のお寺さんに会い、勧められチベット亡命政府のあるダラムサーラにも行くことができた。日本に帰ってからも、四国の歩き方や草鞋の編み方を習い、一緒に伊豆の温泉町を托鉢したり。実はそのお寺さんはその後もお寺に入らず、今では熊野川町で廃校を借りて生活し、生きることに疲れ悩む若者の支援活動をされている。また無農薬無化学肥料で小麦を栽培し、奥さんがパンを焼いて販売されている。「パン工房木造校舎」という名前で販売されていて、自家製小麦による自然派のパンとして好評だ。

そのはじめてインドに行ったときに帰り際、ベンガル仏教会という仏教のお寺に立ち寄り宿泊させてもらった。そこは、ボウバザールという金属類の市場の側で、沢山のイスラム教徒が暮らす町でもあり、目の前に警察の大きな建物が聳え、見下ろされるような所だったが、ビルラ財閥によって一三〇年も前に造られたL字型の三階建ての僧院と事務所のある建物と、二階に本堂のある集会所に囲まれて、その中に舞台のある小さな中庭があった。ゲート入口の、左側には三階建ての新しいゲストハウスがあり、それは立正佼成会からの寄附による建物であった。

初めて行ったときには想像もしなかったが、その四年後に、その寺で再出家することになり、インド僧として、3年半過ごす間に、何度もウポーサタという行事を経験した。日本では布薩といっている。

布薩は、本来出家のお坊さんたちの布薩と在家の仏教徒の布薩は別々にあり、ともに月の満ち欠けが実施日となっていて、お坊さんは新月と満月の日に戒本を読み上げ、227もの戒律に反したことをした人はその罪の重さにより、懺悔したり謹慎したりと言うことがある。もしくはお坊さんを辞めさせられたり。

在家者は、新月満月と二回の半月の月四回行う。インドでは新月をアマボッシャ、満月がプルニマ、半月はアストミーという。これを日本では六斎日と言い、14・15と29・30、8、23の月六回すると言うが、これは誤りで、月の満ち欠けでやるので、月四回が正しい。この日は普段五戒を守っているところ八戒を守ることになっている。五戒の不邪婬が不婬となり、午後食事しない、歌舞音曲しない、高床で寝ないが増える。

在家の布薩は、コルカタの僧院で何度も見ており、朝早くから信徒の奥さん方が段重ねの弁当箱を持参して、寺内の清掃作業をされる。庭を掃いたり、床を雑巾がけしたり。そして、11時頃になると手を休め、食事会場の準備を始めて、持ち寄った弁当箱を開けて準備し、お寺さんたちが着席すると、それぞれお坊さんのプレートの上に各自の弁当箱から料理を分けていく。自分たちも敷物を敷いて床に座り、お寺さんたちが食べ始めると一緒に食べる。色々な各家のカレーが食べられるのでとても豪華な食事になるからありがたい。

たらふく食べるとお寺さんは部屋に帰り一眠りして、二時頃から自分の好みのお寺さんを呼んで、数人のグループで、八つの戒を授かり、短いお経を唱えてもらって、法話を聞く。そして、四方山話をしてゆっくりと過ごし、夕方になるとみんなそそくさと帰っていくというもの。信徒がお客さんになるのでなく、とても自発的に色々と気を回してお寺さんたちと親交を結ぶ、とてもいい習慣、行事だと思えた。

この布薩が、お寺さんと在家者の二種のものがきちんと行われていたら、仏教は衰退することはないのだと言われている。このことは、どの世界にも適用できるような内容と言えるのかもしれない。

たとえば、学校で言えば、先生たちの研修や、生徒の自発的勉強会などにも応用できそうなものといえようか。それをしていたら、その学校に衰退はないという規定をどう作っていくかということになるが。現代にも参考になるものが仏教には沢山ある。2500年はだてではない。

単なる信仰だけではない、教えと規則と理論が揃っている。そこに、組織を護り継続するための制度がある。今の時代にも応用できる点が多々あるのではないかと思う。平安時代には死刑はほとんどなかったと言われているが、それは仏教思想による政治経済が行われていたからだといわれている。



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人は人から学ぶものという話

2024年12月05日 07時25分12秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
人は人から学ぶものという話




30年も前のことではあるが、インド僧時代に日本に帰ると、あるスリランカのお寺さまに親しくしていただき、3年も4年もの間、事務所や合宿所、また講演会などにも欠かさず参加してお話を伺っていた。日本の大学で、ある研究のために来日して、それからずっと今でも、ほとんどを日本に滞在して法を説かれている。戦後のお生まれではあるが、もうかなりのお歳になる。

実は、日本とスリランカはとても仏教交流の歴史が深く、明治の外交官たちは船でヨーロッパに渡航した。その途次セイロンに寄るとわが国も仏教国でありましてという話になり、是非仏教僧の交流をしたいという話となり、初めてセイロンで南方仏教僧となるのが釋興然師であったが、このブログでも度々名前の登場する釋雲照律師の甥にあたる人。

この方はセイロンの僧院で数年過ごし、日本人で初めて南方上座部の比丘になり、インドの仏跡地ブッダガヤに行って、当時からバラモンが所有していた大菩提寺の買収交渉もされた。日本に帰っても、現在の横浜市港北区鳥山の三会寺の住職であったが、終生黄色い大きな上座部の袈裟をつけて過ごした。林董という日英同盟の時代の外務大臣が会長になって、釈尊正風会を結成して、南方仏教の僧団結成を計画した。

その興然師のいるセイロンの寺に臨済宗の慶応出のエリートがやはり南方の比丘となるべく来られた、釋宗演という方がおられた。この方は、後に若くして35歳くらいで鎌倉の円覚寺の管長になる。世界に禅を布教する鈴木大拙氏の師としても有名で、明治時代に1893年シカゴ万博に合わせて開催された世界宗教会議に参加している。この会議にセイロン仏教徒を代表して参加したのが、ダルマパーラ師であった。

当時セイロンでも、イギリスの植民地として出世のためにキリスト教に改宗して官吏になろうする人ばかりの中で、アメリカの神智学協会という東洋趣味のオカルト教団とも言われた協会の主催者オルコット大佐とマダム・ブラパッキーという二人がセイロンに入り、仏教徒となり、まだその頃青年だったダルマパーラ師と出会い、ともにセイロンでの仏教の復興をしていくなかで、植民地からの解放運動に発展し、民族意識に火を付けていく。

このダルマパーラという人は、後にインドの聖地を復興して歩くが、日本にも四度ほど来ていて、親日家。一回目はアメリカ人の仏教徒オルコット大佐を連れて日本に来て、明治政府によって廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中だったため、日本仏教界がそれを大歓迎してアメリカ人の仏教徒としてオルコット氏の講演会が数ヶ月のうちに全国各地で70回を超えたと言われている。

まあ、そういう仏教交流の歴史がスリランカとはあった。

それで、私に仏教の本筋を教えてくれたスリランカの長老は、現在では、書店に行き宗教コーナーに行けば平積みでいくつも本が並べられているほど有名になっているが、当時はまだそんなに知られておらず、北関東の合宿所には何度も泊まりかげでいき、4日も5日も一緒に生活させてもらった。ずっと居たら良いのだが、段々しんどくなり、生き抜きに帰りまた行くという感じであった。

朝は4時前には起きて、粉コーヒーを飲んで、歩く瞑想と座る瞑想をして、お経を唱えて、食事を作り一緒に食べ、掃除をして、それから講義をして下さった。おおぜい居られるときには仏教の基本についての法話が主であったが。そしてまた、瞑想するという生活。横になって休んでいたりすると怖ろしいほどやさしい声で、何のためにここに来たんですかね、と言われたりした。とても生まれもよくエリートで、ずば抜けて頭の良い長老で、日本に来る前もお国で大学で教鞭をとられていたという。

丁度社会党自民党政権が誕生した瞬間も合宿所で長老と一緒にテレビを見ていた。村山さんが首相になった時のことだ。その地位につくと、ものすごいエネルギーが備わり別人になる、オーラが違うんですよというようなことを言われていた。

一緒の部屋で寝たこともあり、その時には一度も寝返りも打つことなく熟睡して、長老と一緒に眠りに就き、翌朝も一緒に目を覚ますという不思議な体験をした。これは私も合宿所にあるときには特に心掛けて瞑想中心の生活であったこともあろうが、長老が、心の中に何もわだかまるものなく、常に放逸に過ごすことなく、サティという、日本語では念と訳すが、その実践そのままに今の瞬間に生きておられるので、寝るときには寝ることだけで、そうした長老の聖者の階梯にあるお方としての力によって、お蔭で何も考えることなく熟睡できたのであろう。

また朝の瞑想で、心が落ち着かないときに、一緒にお経を唱えてみましようと言って下さり、『初転法輪経』をパーリ語で唱え、終わってもう一度瞑想すると、それまでとまったく違って、心の中が平静で落ち着いて、すべてよく分かる見えているという、正にこれが仏教の瞑想かという時間を体験した。これも大変不思議なことであった。

その長老から言われたことでとても印象深い言葉の一つが、「人は人から学ぶものです」という言葉である。そして、「敬いの気持ちがなければ人は学ぶことができません」と。敬う気持ちがあって初めてその人の行い、言葉、後ろ姿から何事かを人は学んでいくものだと言うこと。

今どうであろうか、学校の先生は敬われているだろうか。みんな平等だと、教壇も無くなってしまい、先生を敬わないから、ただの知識しか子供たちは学ぶことができない。敬われないからだけではないだろうが、先生によるおかしな事件も後を絶たない。家庭教育もおろそかな時代でもあり、人が育たない、そんな国になってしまったのではないか。

誰しもみんな完璧な人は居ない。完璧な人が要るなら、それはもう仏様か菩薩様であろう。人の道に外れたことをしているのなら別だが、その人の良いところ、勝れたところ、立派だなと思うところを見て、そのことについて敬い参考にし、学んでいこうという気持ちにならなければいけないのではないか。そうして少しでもその人の良いところを自分の物にしようとしなければ、人は成長できないだろう。

自分のことを思えば、頭から人を馬鹿にするなんて事ができようはずもない。だめなところをあげつらって貶めて、自分たちのことを棚に置いて言うだけ言うみたいな、昨今のマスコミのような、ああいうあり方は変えていかなければいけない。

特に教育現場では先生をはじめ、教えて下さる方を敬う気持ちの大切さを教えていくことが必要ではないかと思う。家庭でもお祖父さんお祖母さん、年長者を敬うということがとても大切であろう。人間文化の始まりは親孝行からという。孝行の孝はすべての善行の本、善の始めであり、孝は道の大本であるとも言われる。

相手を敬いどんなことでも学ばせていただくという気持ちから人の成長があるというお話でした。



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小中学生不登校34万人という話

2024年12月04日 16時30分17秒 | 様々な出来事について
小中学生不登校34万人という話



ニュースを見ていたら、不登校が最高の数字になっているという。子どもの頃は友達に会いに学校に行くのだから楽しくて仕方ない年ごろではないか。それなのに学校に行けないというのは、何か社会全体が持つ不条理、歪な社会構造が原因しているのかもしれない。親の心はそのまま子供に影響しますから、親の複雑な心境が子供の心に微妙な影をもたらし、なかなか周りと打ち解けられない壁を作ってしまうということはあるのではないか。

実は私が中学三年の時、幼稚園から一緒で、小学生のときにも仲良く、その後少し距離ができていた子が、中学三年の時同じクラスになり、余り教室で顔を合わさないなと思っていたら、担任の教師から、下校前の挨拶の時に、彼が学校に来れないと聞いた。

行ってきますと家を出るのだがおなかが痛いとか気分が悪いと帰ってきてしまって、ほとんど新学年が始まってから学校に来れていないという。どうしたのかなという軽い気持ちから、その翌日よく知っていた彼の家に迎えに行くと、ごく自然に一緒に学校に来て、教室に座っているから、先生が驚いて今日は来れたのかと聞くと迎えに来てくれたからと言ったのでしょう。担任が来ていいことをしてくれたと。

それから毎日迎えに行き一緒に学校に行っていた。別にそんなに偉いことをしているとも考えずに、ごく自然に迎えに行き一緒に学校に行くという感じだった。学年始まって私より小柄だったはずなのに、なぜか一年終わる頃には彼の身長はずんと高くなって、はるかに私より背が高くなっていた。

三年の終わるころ三月になって、君日曜日に区役所に来てくれという。行くと、何やら区長さんから表彰状をもらい、新聞にも載ってしまって、えらいことになって、学校中が知ることになった。教育委員会の教育功労者としての表彰であった。

専門のことは分からないが、難しくしすぎな面もあるのではないか。当たり障りなくそっと見守るとか。そのせいで解決できるものも長期化してこじらせる。もっと簡単にというわけにはいかないかもしれないが、もっと軽く考えて対処したら改善される面もあるのではないか。

鬱とか、引き籠りとか、ニートとかいろいろと名称を付けて、それぞれに当てはめてひとまとめにして対策を考えるのもいかがなものか。簡単に薬を求めてしまうというのもどうなのかと思える。みんなそれぞれ事情が違うので、その当事者にしかわからないことが沢山ある。私がかかわったのはとても軽いものだったからかもしれないけれども、もっとオープンに個々のケースごとに係われる人が気楽に助けていくことを考えるのが良いのではないか。

この話には実は、後日談があり、中学卒業後はまったく疎遠になっていたのに、私が高野山の専修学院で一学期を終えて、夏の休暇を東京で過ごし、明日から高野山に登りいよいよ百日の修行に入るという時、大阪で用事があり難波の南海ホテルに泊まった。そのホテルのエレベーターで、ばったりその彼に10年ぶりで再会しお互いの無事を確認した。私は作務衣だったが、彼はスーツ姿で企業に勤め、同僚と一緒だった。短い会話でお互いの近況を伝え合うだけだったけれども、私にとってはとても意味のある、不思議な再会だった。




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