住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

 <仏教のキモ> 

2024年12月08日 07時06分17秒 | 仏教に関する様々なお話
 <仏教のキモ> 



私とは何かと探求する

世界でも地球でも一切衆生でもなく、本来は私が中心課題。
自ら認識できることから思索を始めるのが仏教。

私は心と体に分かれる。身体は今生の借り物。心は輪廻する。
                
生まれたときから皆違う、環境も顔も体も心も好き嫌いも。
平等ではない。それは私とは過去世からの業の蓄積だから。 
                     
みんな前世があり、だから違う人生。
でも、だからこそ一人一人生きる価値がある。
尊い命を生きる意味がある。
    
なぜ輪廻するのか。すべてのものに原因あり結果するから。
因と縁と果の連鎖の中に生きている。
                     
自分があるかぎり無知が残る。
だから死ぬ瞬間の心に生きたいという執着があるので来世に心が向かう。

今生でも無知だから外から入る刺激に反応して欲や怒りを生じ、苦しみ悩み迷う。
                           
それは他者のせいではない。
みんな苦しみを作り出しているのは自分自身。

すべて自業自得、因果応報。
その現実をありのままに認識する。 


今に専念する-今の瞬間に生きる<智慧>

この世はすべてが無常だから、自分も自分の心も無常。

すべてのものが瞬時に変化しているから、常に不完全、不満足、不安、空しさがともなう。

空・無我だから思い通りにならない。
それなのに、なんとかならないかと苦しみ、もがき、心を暗くする、心を病む。

生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦八苦を生きている。                        

自分の五官に入るものに対して反応する。
それが、生きている実感となる。

五官と心で知るものに、好き・嫌いで反応し、欲や嫌悪を感じる。
刺激に反応し思い、考えることが習慣となり、妄想し、雑念の中に生きている。
                 
刺激による感覚から自分という思いが生まれ、自分・自分のもの・自分の考えに執着する。

私たちは今に生きておらず、常に過去や未来に心遊ばせて考えて考えて思いまどう。
だから、今なすべきことをまさに熱心になせといわれる。
            
妄想し、考える心の癖を止めて今の瞬間に生きる。
わずかな幸せを十全に味わう。

考えないために、読経、写経、坐禅などの実践がある。 
         
今さえよければいいという刹那主義ではなく、充実した今という瞬間の積み重ねとして人生を生きる。

今の自分の行いを、ラベリング・言葉で確認し、自分の一つ一つの行い、呼吸、思い、見るもの聞くもの感覚や周囲に気づく。 
             
まずは考えている自分に気づく。
考えず、判断せず、評価しない。これが、仏教徒の心のもちかた。

何度生まれ変わっても、最高のしあわせへ近づく為に精進する。

                                  
みなとともに幸せを願う<慈悲>

私たちは一人で生きていけない。すべての物事は相互に関係し依存している。                  
自分だけよくあることはあり得ない。

まずは正しく自ら生き、すべてのものたちを友として幸せを願い助ける。        

亡己利他ではない、まずは私が幸せであるように、
それから親しい人、嫌いな人も嫌われている人も、
生きとし生けるものの幸せを願う。  
 
すべての存在に優しく、助け励まし、ともに喜び、分け隔て無い平安な心で接する。                              
善行功徳を積む=功徳がよい来世を私たちにもたらす。

身体も財産も名誉も地位も持っては逝けない。

怒り・物惜しみ・嫉妬・後悔を手放す。


<頭で理解し、体験する。心清める。最高のしあわせを最終目標に生きる>



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托鉢の思い出

2024年12月07日 07時16分40秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
2014年01月25日 投稿の「托鉢の話」を修正再掲





昔托鉢をして生活していたことがある。

今から30年以上も前、最初のインド旅行から帰り、いよいよ四国遍路に出ようと準備していた頃、リシケシで出会った臨済宗の雲水さんに、草鞋の編み方から四国の歩き方を指南していただいた。その折に、いざというときやはり托鉢をしなくてはと言われて、托鉢というものについて改めて考えさせられたのであった。

托鉢とは、本来、そう言ってもお釈迦様の時代ということではあるが、僧侶としての最も基本となる生活スタイルの一つであって、その頃は樹下を住まいとし、食は托鉢によると定められていた。精舎ができ、住まいは屋根のあるところで生活はしても、炊事は禁じられ、施しを受けたものを食して修行生活を続けるものとされていた。勿論、今もタイやミャンマーでは昔ながらに托鉢は行われてはいるのだが。

頭陀という言葉がある。頭陀袋の頭陀ではあるが、インドの言葉、dhutaの音写語で、払いのける、捨てるとの意味である。修行者の衣食住についての執着を捨てることを言うわけであるが、衣は捨てられた生地で袈裟を作り、食は乞食して一日一食、住は樹下とされていた。仏教僧は比丘と呼ばれたが、比丘とは乞士と訳されるように、乞い求める者との意味であって、一切の生産活動、経済活動を遠離して、在家信者からの供養をもって生活していた。

勿論その時、そこまでのことを求めて托鉢を行おうとしたわけではない。そんなことは今の日本では不可能だろう。私のかつて生活していたインド・コルカタの僧院でも托鉢はしていなかった。近隣はイスラム教徒の多い地区で、仏教徒は離れたに住んでいた。その代わりに、昼食に招待を受けて、仏教徒の家に食事のお呼ばれに行くことは度々あった。

東京で初めて托鉢をしたのは、とげ抜き地蔵の山門だったろうか。自分で編んだ草鞋を履き、脚絆を巻いて、作務衣の上に衣を着て、輪袈裟、頭陀袋を首からさげ、網代笠をかぶって家を出た。朝の8時頃だったろうか。そんなに朝のラッシュが気にならない時間帯。巣鴨の駅に着くと、既に沢山の参詣者が高岩寺に向かって歩いている。都会のお寺だからそんなに境内は広くないが、本堂横の洗い観音には数珠つなぎに行列が出来ていた。

縁日の四の日だったこともあり、山門には既に三人の雲水さんたちが托鉢に立っていた。私が立つと新参者のお出ましだとでもいうように、ギョロッと三人がこちらを見た。頭陀袋から数珠と小さな木製の鉢を出し両手に持つ。みんな何かを唱えている。初めての私も何かを唱え少し緊張して直立不動。そんな事情も関係なく、おばあちゃんの原宿と言われるとげ抜き地蔵の参詣者は、次々に途絶えることなく山門をくぐり、そのうちの何人かの人たちはそれぞれに托鉢の鉢の中に小銭を入れて下さった。何度か鉢のものを頭陀袋に移し、夕方までずっと立ち続けた。

家に帰り、一日の分を勘定して手帳にメモした。それを皮切りに、浅草寺雷門、また虎さんで有名な、葛飾柴又の帝釈天・題経寺山門でも縁日に托鉢をさせていただいた。また銀座数寄屋橋の袂でも托鉢をした。初日、立っているとウロウロと易者がやってきて、ガードレールにくくりつけた小さな椅子と机を出して来て店を開いた。私の托鉢の横で。結構人が座るものだと感心したが、その易者、私の所に寄ってきて囁いた。「あなたも易を勉強して易者になるといい、そんな托鉢しているよりも実入りがいいよ」と。

托鉢とは何だろう。その頃から自分なりに考えていた。網代傘の下から世間を眺める。通りを行き交う人。上品に装い、お金持ちそうな人。ビジネスマン。忙しそうに走り去る人など様々だが、この人は入れてくれるのではなどと思った人が入れてくださったためしはない。勿論そんなことを考えて托鉢するものではないが。こちらが見ている以上に通る人たちがこちらを見ている。一目見ただけでどんな人物か分かってしまっているだろう。そんな事を考え、それまでお経を唱えたり、通行人を見たりということをすべて止めることにした。托鉢に立っているときには、視線を前方に定め、ただ何も考えず、じっと心を無にすることだけに徹底した。托鉢は、頭陀、捨てる、思いはからい、執着を捨てる、払うことなのだと改めて思った。托鉢は立ち禅なのであると。

すると、かえって、それまでよりも多くの人たちが近づいてきて下さり、顔をのぞき込んで小銭を入れて下さったりということが多くなっていったように感じた。やはり数寄屋橋で托鉢していたときのことであるが、あるとき、ホームレスの人たちが前を行ったり来たりしたことがあった。何だろう、鉢のものに手を入れるのではなどと思った瞬間に、大柄の一人がカチャンと、それも出だしたばかりの五百円玉を入れて下さった。とっさに頭を下げ、その頃から入れて下さった人に差し上げていた、ワープロ打ちした書き物を手渡した。意外な顔をされて受け取られたそのホームレスさんは、後ろのベンチに横になり、その書き物をひろげて読んで下さっていた。

そのホームレスさんは度々、数寄屋橋に行くと出てきて、小銭を入れて下さっていたのだが、あるとき、話しかけて「いつも恐縮です。お金に困りませんか」と言うと、「俺はお金なんかなくても何でも出来るからいいんだ、それよりお坊さんも大変だね」そんなことを清々しい眼をして言われたと記憶している。その頃は週に三度ほど、午前中の2、3時間、浅草寺の新仲見世と仲見世の交点のところとこの数寄屋橋の二か所を自分の托鉢場と定めた頃のことだったが、様々なしがらみを乗り越え数寄屋橋にたどり着き、決して衛生的な生活ではないが、何も困らないと言うだけの心になるまでにどれだけの葛藤を乗り越えてきたのかと思いを馳せた。自分の心を見透かされ、よっぽどこの方の方が清々した人生を得られているのではと思ったりしたものだった。

あるとき、その方から、白い包み紙をもらったことがある。細長いものだったので、刃物でも入っているのかと一瞬思ったが、触ると冷たく、それは料理屋からもらったばかりの魚の切り身だった。帰って焼いて食べたが、それは美味しい口にしたこともないような上等な白身の魚だった。また数寄屋橋も、浅草寺も、宝くじ売り場や場外馬券場があり、季節になると縁起をかついで、お札を投げるように入れて下さる方もあった。

結局私は二年間ほど、托鉢をして生計を立て、図書館に通い勉強しつつ、四月五月には四国に入り歩いて遍路をした。夏には知り合いから紹介を受けたお寺の盆参りに行き、その間東京の役僧をしていたお寺の法要に際してはその前後にお手伝いをさせていただくというような生活を送っていた。友人のお寺さんがインドに行かれるのを聞きつけ、同行することになり、しかし結局そのお寺さんはキャンセルし、一人またインドに旅発つことになった。その時のご縁でその後インドに留学し、インド僧になる機縁をつかんだ。フリーランスの坊さんとして、自分は何をすべきなのかと問いつつ礼拝し、仏に面していたこともそこに結実したように感じていた。加えて、古来托鉢というものの功徳を一身に頂戴した御利益だったのかもしれないなどと不遜なことを思ったりもしたのであった。




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ウポーサタという仏教行事についての話

2024年12月06日 06時56分57秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
ウポーサタという仏教行事についての話



コルカタは、私の居た頃はカルカッタと言われていた。デリーよりも、私はもともとカルカッタに縁があり、初めてインドに行ったときも、パキスタン航空でバンコクに入り、バンコクからカルカッタ迄ビーマンバングラディシュ航空という安いチケットで行ったので、夜中にダッカに到着しダッカで一泊して翌日夕方カルカッタに入るという飛行機だった。タクシーで街に入ったころは真っ暗で、道端に水が噴き出し、そこに人々が群がり水浴している姿を目の当たりにして、日本の戦後間もなくの着の身着のまま町に人々がたむろして、右往左往している、そんな光景に見えた。

それから町に入りタクシーを降り、教えられた宿に行くと満室で、偶々道であった人に連れられ行った宿は、アフリカ人ばかりが泊まる宿だった。一泊20ルピー程度の安宿で、それからサルベーションアーミーというドミトリーの部屋にも泊まりながら、外国人専用の事務所に行き列車のチケットを取り、ガヤに行った。そして、ブッダガヤで大菩提寺に参拝するなど数日を過ごし、それから二等寝台でリシケシに行った。その頃には腹部に違和感があり、リシケシでシバナンダアシュラムの部屋に案内されるが早くも下痢に悩まされた。医務室で薬をもらいなんとか快復。

リシケシに滞在しているとき臨済宗のお寺さんに会い、勧められチベット亡命政府のあるダラムサーラにも行くことができた。日本に帰ってからも、四国の歩き方や草鞋の編み方を習い、一緒に伊豆の温泉町を托鉢したり。実はそのお寺さんはその後もお寺に入らず、今では熊野川町で廃校を借りて生活し、生きることに疲れ悩む若者の支援活動をされている。また無農薬無化学肥料で小麦を栽培し、奥さんがパンを焼いて販売されている。「パン工房木造校舎」という名前で販売されていて、自家製小麦による自然派のパンとして好評だ。

そのはじめてインドに行ったときに帰り際、ベンガル仏教会という仏教のお寺に立ち寄り宿泊させてもらった。そこは、ボウバザールという金属類の市場の側で、沢山のイスラム教徒が暮らす町でもあり、目の前に警察の大きな建物が聳え、見下ろされるような所だったが、ビルラ財閥によって一三〇年も前に造られたL字型の三階建ての僧院と事務所のある建物と、二階に本堂のある集会所に囲まれて、その中に舞台のある小さな中庭があった。ゲート入口の、左側には三階建ての新しいゲストハウスがあり、それは立正佼成会からの寄附による建物であった。

初めて行ったときには想像もしなかったが、その四年後に、その寺で再出家することになり、インド僧として、3年半過ごす間に、何度もウポーサタという行事を経験した。日本では布薩といっている。

布薩は、本来出家のお坊さんたちの布薩と在家の仏教徒の布薩は別々にあり、ともに月の満ち欠けが実施日となっていて、お坊さんは新月と満月の日に戒本を読み上げ、227もの戒律に反したことをした人はその罪の重さにより、懺悔したり謹慎したりと言うことがある。もしくはお坊さんを辞めさせられたり。

在家者は、新月満月と二回の半月の月四回行う。インドでは新月をアマボッシャ、満月がプルニマ、半月はアストミーという。これを日本では六斎日と言い、14・15と29・30、8、23の月六回すると言うが、これは誤りで、月の満ち欠けでやるので、月四回が正しい。この日は普段五戒を守っているところ八戒を守ることになっている。五戒の不邪婬が不婬となり、午後食事しない、歌舞音曲しない、高床で寝ないが増える。

在家の布薩は、コルカタの僧院で何度も見ており、朝早くから信徒の奥さん方が段重ねの弁当箱を持参して、寺内の清掃作業をされる。庭を掃いたり、床を雑巾がけしたり。そして、11時頃になると手を休め、食事会場の準備を始めて、持ち寄った弁当箱を開けて準備し、お寺さんたちが着席すると、それぞれお坊さんのプレートの上に各自の弁当箱から料理を分けていく。自分たちも敷物を敷いて床に座り、お寺さんたちが食べ始めると一緒に食べる。色々な各家のカレーが食べられるのでとても豪華な食事になるからありがたい。

たらふく食べるとお寺さんは部屋に帰り一眠りして、二時頃から自分の好みのお寺さんを呼んで、数人のグループで、八つの戒を授かり、短いお経を唱えてもらって、法話を聞く。そして、四方山話をしてゆっくりと過ごし、夕方になるとみんなそそくさと帰っていくというもの。信徒がお客さんになるのでなく、とても自発的に色々と気を回してお寺さんたちと親交を結ぶ、とてもいい習慣、行事だと思えた。

この布薩が、お寺さんと在家者の二種のものがきちんと行われていたら、仏教は衰退することはないのだと言われている。このことは、どの世界にも適用できるような内容と言えるのかもしれない。

たとえば、学校で言えば、先生たちの研修や、生徒の自発的勉強会などにも応用できそうなものといえようか。それをしていたら、その学校に衰退はないという規定をどう作っていくかということになるが。現代にも参考になるものが仏教には沢山ある。2500年はだてではない。

単なる信仰だけではない、教えと規則と理論が揃っている。そこに、組織を護り継続するための制度がある。今の時代にも応用できる点が多々あるのではないかと思う。平安時代には死刑はほとんどなかったと言われているが、それは仏教思想による政治経済が行われていたからだといわれている。



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人は人から学ぶものという話

2024年12月05日 07時25分12秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
人は人から学ぶものという話




30年も前のことではあるが、インド僧時代に日本に帰ると、あるスリランカのお寺さまに親しくしていただき、3年も4年もの間、事務所や合宿所、また講演会などにも欠かさず参加してお話を伺っていた。日本の大学で、ある研究のために来日して、それからずっと今でも、ほとんどを日本に滞在して法を説かれている。戦後のお生まれではあるが、もうかなりのお歳になる。

実は、日本とスリランカはとても仏教交流の歴史が深く、明治の外交官たちは船でヨーロッパに渡航した。その途次セイロンに寄るとわが国も仏教国でありましてという話になり、是非仏教僧の交流をしたいという話となり、初めてセイロンで南方仏教僧となるのが釋興然師であったが、このブログでも度々名前の登場する釋雲照律師の甥にあたる人。

この方はセイロンの僧院で数年過ごし、日本人で初めて南方上座部の比丘になり、インドの仏跡地ブッダガヤに行って、当時からバラモンが所有していた大菩提寺の買収交渉もされた。日本に帰っても、現在の横浜市港北区鳥山の三会寺の住職であったが、終生黄色い大きな上座部の袈裟をつけて過ごした。林董という日英同盟の時代の外務大臣が会長になって、釈尊正風会を結成して、南方仏教の僧団結成を計画した。

その興然師のいるセイロンの寺に臨済宗の慶応出のエリートがやはり南方の比丘となるべく来られた、釋宗演という方がおられた。この方は、後に若くして35歳くらいで鎌倉の円覚寺の管長になる。世界に禅を布教する鈴木大拙氏の師としても有名で、明治時代に1893年シカゴ万博に合わせて開催された世界宗教会議に参加している。この会議にセイロン仏教徒を代表して参加したのが、ダルマパーラ師であった。

当時セイロンでも、イギリスの植民地として出世のためにキリスト教に改宗して官吏になろうする人ばかりの中で、アメリカの神智学協会という東洋趣味のオカルト教団とも言われた協会の主催者オルコット大佐とマダム・ブラパッキーという二人がセイロンに入り、仏教徒となり、まだその頃青年だったダルマパーラ師と出会い、ともにセイロンでの仏教の復興をしていくなかで、植民地からの解放運動に発展し、民族意識に火を付けていく。

このダルマパーラという人は、後にインドの聖地を復興して歩くが、日本にも四度ほど来ていて、親日家。一回目はアメリカ人の仏教徒オルコット大佐を連れて日本に来て、明治政府によって廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中だったため、日本仏教界がそれを大歓迎してアメリカ人の仏教徒としてオルコット氏の講演会が数ヶ月のうちに全国各地で70回を超えたと言われている。

まあ、そういう仏教交流の歴史がスリランカとはあった。

それで、私に仏教の本筋を教えてくれたスリランカの長老は、現在では、書店に行き宗教コーナーに行けば平積みでいくつも本が並べられているほど有名になっているが、当時はまだそんなに知られておらず、北関東の合宿所には何度も泊まりかげでいき、4日も5日も一緒に生活させてもらった。ずっと居たら良いのだが、段々しんどくなり、生き抜きに帰りまた行くという感じであった。

朝は4時前には起きて、粉コーヒーを飲んで、歩く瞑想と座る瞑想をして、お経を唱えて、食事を作り一緒に食べ、掃除をして、それから講義をして下さった。おおぜい居られるときには仏教の基本についての法話が主であったが。そしてまた、瞑想するという生活。横になって休んでいたりすると怖ろしいほどやさしい声で、何のためにここに来たんですかね、と言われたりした。とても生まれもよくエリートで、ずば抜けて頭の良い長老で、日本に来る前もお国で大学で教鞭をとられていたという。

丁度社会党自民党政権が誕生した瞬間も合宿所で長老と一緒にテレビを見ていた。村山さんが首相になった時のことだ。その地位につくと、ものすごいエネルギーが備わり別人になる、オーラが違うんですよというようなことを言われていた。

一緒の部屋で寝たこともあり、その時には一度も寝返りも打つことなく熟睡して、長老と一緒に眠りに就き、翌朝も一緒に目を覚ますという不思議な体験をした。これは私も合宿所にあるときには特に心掛けて瞑想中心の生活であったこともあろうが、長老が、心の中に何もわだかまるものなく、常に放逸に過ごすことなく、サティという、日本語では念と訳すが、その実践そのままに今の瞬間に生きておられるので、寝るときには寝ることだけで、そうした長老の聖者の階梯にあるお方としての力によって、お蔭で何も考えることなく熟睡できたのであろう。

また朝の瞑想で、心が落ち着かないときに、一緒にお経を唱えてみましようと言って下さり、『初転法輪経』をパーリ語で唱え、終わってもう一度瞑想すると、それまでとまったく違って、心の中が平静で落ち着いて、すべてよく分かる見えているという、正にこれが仏教の瞑想かという時間を体験した。これも大変不思議なことであった。

その長老から言われたことでとても印象深い言葉の一つが、「人は人から学ぶものです」という言葉である。そして、「敬いの気持ちがなければ人は学ぶことができません」と。敬う気持ちがあって初めてその人の行い、言葉、後ろ姿から何事かを人は学んでいくものだと言うこと。

今どうであろうか、学校の先生は敬われているだろうか。みんな平等だと、教壇も無くなってしまい、先生を敬わないから、ただの知識しか子供たちは学ぶことができない。敬われないからだけではないだろうが、先生によるおかしな事件も後を絶たない。家庭教育もおろそかな時代でもあり、人が育たない、そんな国になってしまったのではないか。

誰しもみんな完璧な人は居ない。完璧な人が要るなら、それはもう仏様か菩薩様であろう。人の道に外れたことをしているのなら別だが、その人の良いところ、勝れたところ、立派だなと思うところを見て、そのことについて敬い参考にし、学んでいこうという気持ちにならなければいけないのではないか。そうして少しでもその人の良いところを自分の物にしようとしなければ、人は成長できないだろう。

自分のことを思えば、頭から人を馬鹿にするなんて事ができようはずもない。だめなところをあげつらって貶めて、自分たちのことを棚に置いて言うだけ言うみたいな、昨今のマスコミのような、ああいうあり方は変えていかなければいけない。

特に教育現場では先生をはじめ、教えて下さる方を敬う気持ちの大切さを教えていくことが必要ではないかと思う。家庭でもお祖父さんお祖母さん、年長者を敬うということがとても大切であろう。人間文化の始まりは親孝行からという。孝行の孝はすべての善行の本、善の始めであり、孝は道の大本であるとも言われる。

相手を敬いどんなことでも学ばせていただくという気持ちから人の成長があるというお話でした。



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小中学生不登校34万人という話

2024年12月04日 16時30分17秒 | 様々な出来事について
小中学生不登校34万人という話



ニュースを見ていたら、不登校が最高の数字になっているという。子どもの頃は友達に会いに学校に行くのだから楽しくて仕方ない年ごろではないか。それなのに学校に行けないというのは、何か社会全体が持つ不条理、歪な社会構造が原因しているのかもしれない。親の心はそのまま子供に影響しますから、親の複雑な心境が子供の心に微妙な影をもたらし、なかなか周りと打ち解けられない壁を作ってしまうということはあるのではないか。

実は私が中学三年の時、幼稚園から一緒で、小学生のときにも仲良く、その後少し距離ができていた子が、中学三年の時同じクラスになり、余り教室で顔を合わさないなと思っていたら、担任の教師から、下校前の挨拶の時に、彼が学校に来れないと聞いた。

行ってきますと家を出るのだがおなかが痛いとか気分が悪いと帰ってきてしまって、ほとんど新学年が始まってから学校に来れていないという。どうしたのかなという軽い気持ちから、その翌日よく知っていた彼の家に迎えに行くと、ごく自然に一緒に学校に来て、教室に座っているから、先生が驚いて今日は来れたのかと聞くと迎えに来てくれたからと言ったのでしょう。担任が来ていいことをしてくれたと。

それから毎日迎えに行き一緒に学校に行っていた。別にそんなに偉いことをしているとも考えずに、ごく自然に迎えに行き一緒に学校に行くという感じだった。学年始まって私より小柄だったはずなのに、なぜか一年終わる頃には彼の身長はずんと高くなって、はるかに私より背が高くなっていた。

三年の終わるころ三月になって、君日曜日に区役所に来てくれという。行くと、何やら区長さんから表彰状をもらい、新聞にも載ってしまって、えらいことになって、学校中が知ることになった。教育委員会の教育功労者としての表彰であった。

専門のことは分からないが、難しくしすぎな面もあるのではないか。当たり障りなくそっと見守るとか。そのせいで解決できるものも長期化してこじらせる。もっと簡単にというわけにはいかないかもしれないが、もっと軽く考えて対処したら改善される面もあるのではないか。

鬱とか、引き籠りとか、ニートとかいろいろと名称を付けて、それぞれに当てはめてひとまとめにして対策を考えるのもいかがなものか。簡単に薬を求めてしまうというのもどうなのかと思える。みんなそれぞれ事情が違うので、その当事者にしかわからないことが沢山ある。私がかかわったのはとても軽いものだったからかもしれないけれども、もっとオープンに個々のケースごとに係われる人が気楽に助けていくことを考えるのが良いのではないか。

この話には実は、後日談があり、中学卒業後はまったく疎遠になっていたのに、私が高野山の専修学院で一学期を終えて、夏の休暇を東京で過ごし、明日から高野山に登りいよいよ百日の修行に入るという時、大阪で用事があり難波の南海ホテルに泊まった。そのホテルのエレベーターで、ばったりその彼に10年ぶりで再会しお互いの無事を確認した。私は作務衣だったが、彼はスーツ姿で企業に勤め、同僚と一緒だった。短い会話でお互いの近況を伝え合うだけだったけれども、私にとってはとても意味のある、不思議な再会だった。




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