住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ネパール巡礼・二

2009年08月02日 06時43分51秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
ゲストハウスに荷物を置いて、トイレバスの位置を確認していると子供に呼ばれた。ついて行くと、お寺の裏でヴィマラナンダ長老が座って食事をしている。知らぬ間に十一時を過ぎていたのだ。私の座るところを指さすので、座りご馳走になる。

野菜のカレーにチャパティ。チャパティは日本のインド料理屋で定番のナンよりも庶民的なインドパンで、精白していない小麦粉をこねて丸い鉄板で薄く焼いたもの。それを右手で小さく切ってカレーにつけて食べる。目の前で焼いてくれるので焼きたてのおいしいチャパティを沢山いただいた。

正午を過ぎると固形物を口にしない南方の僧侶にとって、一日の一番大切な行事を終えて、しばし部屋で横になり、二時過ぎにルンビニーの広大な平原へ向かった。ルンビニーはサールナートなどの遺跡と違いまだ未整備の為、柵やゲートなどもなく出入りが自由なのは結構だが、ガイドなしで一人行くときは何の手がかりもなく心許ない。カルカッタを出る前にバンテーから手渡された一枚の絵はがきをたよりに歩く。

ゲストハウスを北に出て少し行くと道の左側に沢山の看板があった。僧院地区に用地を取得して建設中のお寺の方角を示す看板だった。韓国やミャンマー、ベトナムのお寺の看板に混じって、薄いブルーに茶色の文字で、「BHARATIA SANGHAーRAMA The Bengal Buddhist Association」という看板があった。

両側に草原が広がるだけの、ひと気のないその道を北にまっすぐ行くと、蓮の形をした皿に灯された燈火が揺れていた。そこが僧院地区の入り口で、西側が大乗仏教のお寺、東が南方上座仏教のお寺に割り当てられ、その中央には水の干上がった水路が延びていた。

マスタープランが出来てから、その時すでに二十年は経過しているはずであったが、未だに草ボウボウの原野の中にレンガが点在しているようなものに思われた。私はそれから数人の人夫が立ち働く姿の見える西側の僧院地区へ向かった。そこはベトナムのお寺の建設現場であった。中に入っていくと、すぐに青いポロシャツに長靴を履いたベトナム人僧ウィンギュさんが出迎えてくれた。

百二十メートル四方の大きな土地にゲストハウスを建築中で、その後本堂と塔、寺務所などを作る予定だという。建設途中の仮寺務所に案内され、ベトナムのお茶とビスケットをご馳走してくれた。

ベトナムの仏教は、中国経由の禅仏教が主流で、他の東南アジアの仏教とは異なる。紀元前から一千年程中国領であったため道教儒教の要素も混淆している。共産党支配下で衰退したが、一九八六年以降改革開放路線がスタートしてからは仏僧も増加して今では、一万八千人の大乗僧に加え七千人もの上座仏教僧もいるという。ベトナム戦争当時から積極的に平和活動をしてノーベル平和賞の候補になる世界的にも有名な「行動する僧侶」もあり、社会的な地位も高いようだ。

次に向かったのは總教という日本の新興宗教が造っているお寺だった。柴田さんという日本人の方が七ヶ月前から駐在しており、何もない原野に一からお寺を建てる苦労話をひとしきりうかがうことになった。總教は茨城県に本部があるということで、それまで聞いたこともなく日本でこの方とお会いしても話すことはないだろうと思えたが、このときはお互いに久しぶりに会う日本人でもあり、すぐにうち解けて話が弾んだ。

三ヶ月前に電気が来て電話は一月前に入ったばかりとのこと。敷地の柵を作り出して二年半。一つ一つ建物を造り、寺務所が二棟出来たところで、そのときはお寺の本堂を建設中だった。夜が特に物騒なので寺務所の周りには別に三メートル程の柵をめぐらしていた。職人には一日百ルピー(約一五〇円)、人夫には五十ルピーとのことだったが、韓国のお寺が来てからは何もかにも値上がりしてしまったので困っているとこぼしていた。雨期が過ぎてスッポンが出たといって、水たまりに囲って入れたスッポンを見せてくれた。他の地区だがミカサホテルの現場では蛇に噛まれて死者も出たという。

この後日本からノータックスで運んだというトヨタに乗せてもらい日本山妙法寺に案内してもらう。途中韓国のお寺の前を通る。かなり大勢の人夫を使い建設を急いでいる様子。二人の韓国人僧が居るとのことだった。僧院地区を抜けて、研究所やホテルの建つあたりに来ると、草の間に煉瓦造りの大きな土管を重ねたような建物が見えた。日本の新興宗教「霊友会」が出資して建てたルンビニー国際研究所兼ホテルだそうだ。

柴田氏曰く、はじめに霊友会から一億もの寄附があったが何もしない間にルンビニ開発トラストの幹部がその大半を食べてしまったことがわかり、完成後直ちに寄附する予定だったが十年間は霊友会が管理することになったらしい、各部屋には高価な電気製品もあり、それらを持ち出されるのを恐れてとのことだ。

またその先には法華ホテルがひっそりと煉瓦の塀で覆われていた。すでに開業しているはずだが、聖地地区で発掘をしている全日本仏教会の関係者や日本の研究者が来たときくらいしか宿泊者もなく閑散としている。日本人発掘団の一人がドラックを鞄に入れられて警察に捕まりひどい目に遭う事件があって、その後地元警官と現地人の金目当てのトリックと判明し、日本人技術者もしばらくは来ないという。

日本山妙法寺は、熊本県出身の藤井日達師が大正七年に中国の遼陽に造ったお寺を先駆けに日本国内外に七十程の白い仏舎利塔を造り世界平和を訴える日蓮宗系のお寺の総称。インドではあのガンジーさんと出会い、ともに非暴力主義を語り確認し合ったと言われ、それがためにインドではかなり優遇されている組織と以前から聞いていた。ラージギールやヴァイシャーリー、ダージリンなどに大きな世界平和パゴタという仏舎利塔を建立している。

マスタープラン外の土地で建設を進める妙法寺では、ここへ来て三年、その前にはラージギールに六年いたという生天目豊師が迎えてくれた。白い上下の服を着てニコニコと話をされる。既に本堂と宿泊施設ができあがり塔の建設に入っている。二百メートル四方の土地だからかなり広く感じる。本堂に中国の化粧瓦を用いたが土地に合わないせいか、もう既に風化してきていると嘆いていた。

その時も何人かの人夫が働いていたが、彼らに仕事をさせる大変さを話していた。仕事をするとはどういう事か、そこから教えなければいい仕事は出来ないなどと。勤行は朝夕五時から団扇太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」と一時間半程唱えるとのこと、厳しい気候の中、生半可なことで真似の出来ることではない。今ではインド国内には十人しか坊さんがおらず、みんな快適なアメリカやヨーロッパに移り住んでいるとのことだった。

その後ベトナムのウィンギュさんもオートバイに乗ってやってきて、英語とヒンディ語混じりでひとしきり話をしていると、早くも日が傾きかけてきた。そのとき外に出てみんなで撮った写真が残っている。一人合掌し艶のいい笑顔で真ん中に写っている生天目師だが、実はこの一年後に賊に入られ殺されてしまったのを、ちょうど滞在していたカルカッタの新聞で知った。寺務所を二重に柵で囲った柴田氏はお元気にその後日本に戻り活躍されているようなのだが、気の毒なことである。

その晩はむしろを敷き詰めた床にスポンジだけの布団を敷いて、持参したシーツを身体に巻いて眠りについた。

十月十四日。この日も一日歩いて各お寺を回る。八十メートル四方と百六十メートル四方の隣接する土地を取得しているミャンマー寺では、坊さんがおらず全てを政府の役人が指揮を執っていた。簡易寺務所を作り、ミャンマー様式の細く上に伸びた円錐形の大きな塔を建設中であった。

そして、その隣の水路側に肝心のベンガル仏教会が取得した土地があった。看板一つ。何ともさびしそうに立っていた。短い草に覆われて、いつになったら人で賑わうことになるのか。インド国内でさえ他の地方に住みたがらないベンガルのお坊さんがこの地に住まうことさえ無理なのに、お寺を造ることなど出来るのかと人ごとのように感じていた。

加えて、その日の朝、ヴィマラナンダ長老に会ったとき、「仏教徒の居ないこの地にそんなに沢山のお寺を建ててどうなるのだ」と言われた言葉も私の脳裏に重くのしかかってきた。つづく

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ネパール巡礼・一

2009年07月27日 07時27分27秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
一九九五年、この年は、阪神大震災のあった年である。この頃私はまだインド僧のひとりとして、四六時中黄色い袈裟をまとってインドと日本を往来していた。

一月十七日、阪神地方に地震が襲い、丁度ペスト騒ぎでインドに戻りそびれた私は、その一週間後には被災地入りし、東灘区の本山南中学で避難民と共にひと月を過ごした。それから何度か再訪し、落ち着きを取り戻した神戸の町を後にして、七月中旬カルカッタのベンガル仏教会本部僧院で雨安居に入った。

このときの安居の様子については既に、『仏教の話』(P105)「インドの僧院にて」に記した。そして、その安居開けを待つようにして私はある使命を帯びてお釈迦様生誕の地ルンビニーに巡礼することになった。

十月十一日、お寺のアンバッサダー(インドの代表的国産車)に乗り込み、カルカッタの雑踏を縫うようにしてハウラー駅へ向かう。お祭りが終わったばかりでごった返す人、車、牛の群れ。結局途中渋滞して車では先に進めず、駅対岸のフェリーポートからフーグリー河を揺られ駅にたどり着く。

黄色の布を身体に巻いた人々の波をかき分けつつホームへ。午後二時半発の列車に乗り込む。乗ってしまえば、明日の昼には目指すゴーラクプールに到着してしまう。インドで求めた物だけを所持し、南方仏教の袈裟をまとっているので、誰も日本人とは思わない。ホームで待っていても好奇な目で見る人もなく、物売りも物乞いも寄ってこない。以前のことを思えば拍子抜けするくらい。

さりげなく、「タイ人かい?」などと聞かれる程度。拙いヒンディ語で受け答えしておけば、勝手にむこうがネパール人かブータン人と勘違いしてくれる。インドでの一人旅も慣れたものだ。初めてインドにやってきたときは、何も分からず、列車に乗って口にした物はバナナだけ。大きなナップザックを担いで自分の乗り込む列車と寝台を探すのに疲れ切り、二階の荷物棚のような寝台に横になって身をすくめていたものだった。

翌朝、窓から前年まで一年間過ごしたベナレスの町を懐かしく眺めつつ、昼前には北にルンビニー、北東にはクシナガラへの巡礼ルートの基点となるゴーラクプール駅に到着。インドの列車にしては珍しくほぼ定刻に到着した。クシナガラはお釈迦様入滅の地。大般涅槃経にあるように、ヴェーサーリーからルンビニー方面に最後の旅を続け、息絶えた所。荼毘された塚が今も残されているという。が、残念ながら私はまだ行く機会に恵まれていない。

駅前の簡易食堂で腹ごしらえ。二十九ルピーで、野菜のカレーとチャパティを数枚食べる。ところで、カルカッタからここゴーラクプールまで、約一千キロ、それで寝台席が二百八ルピー。一ルピーは当時約三円だったから、六百二十円ほど。エアコンの入った車両ではない庶民の乗る所ならこんな安上がりに旅が出来てしまう。新幹線などという高価な列車でしか不便で長距離の旅が出来ないというどこかの国とは大違いなのだ。

ここからルンビニーには、中型の路線バスを使う。スノウリというネパール国境の町まで二時間程度の距離。沢山客待ちをしているバスの一つに乗り込む。調子よく乗客を座席に案内するもののなかなか走りださない。走ったかと思うと駅前からぐるりと元の所に戻ってきてさらに客を中に招き入れる。そんなことを小一時間繰り返しやっとゴーラクプール駅前を発車。田園風景を駆け抜けて国境の町スノウリへ。物々しく警官がたむろする通りでバスを降りる。二十五ルピー。

そこからまっすぐ遮断機が下ろされたインドとネパール国境のゲートへ徒歩で向かう。手前インド側でパスポートを出し、手渡す。無言で指さされ、横の人一人が通れるくらいの扉から国境を越える。ネパール側に入ると小さな建物があり、窓口で、パスポートと十五ドルを差し出す。十五ドルはヴィザ代。係官らしき男が持ち物の検査。しきりにノック式のボールペンを欲しがるので進呈した。

そこからまもなくの所にルンビニーへの入り口の町バイラワ行きのバスが待っていたので、乗り込む。気が付くともう既に夕刻。バスの窓から眺める国境の町は、二階建ての建物が数軒建ち並ぶ程度だが所狭しと人と物が行き交う交易の町。インド側の閑散とした風景とは好対照であった。

バイラワに着くと辺りは暗くなりかけていた。下車したバス停の前に、窓に飛行機の写真が貼られた旅行社があった。ルンビニーの後カトマンドゥに行く予定のため立ち寄る。バスで行くと一昼夜かかる。山道のため体調を壊すことも考えられるし、出来れば飛行機に乗ってヒマラヤを拝みたいなどと考えて訪ねる。

ヒンディ語はネパールでも通用する。ヒンディ語で話す私を留学生かと思ったらしい。ところがパスポートを見せると、年齢制限で外国人値段になってしまうと言う。そこでその時まだベナレスのサンスクリット大学の学生証を懐中していたことを思い出し見せると、所長と掛け合ってくれて、何とか学生値段五十四ドルで三日後のカトマンドゥ行きの航空券が買えた。

その日はそこで紹介された宿シティゲストハウスへ。ネパールルピーで三百二十五ルピー。ネパールルピーはインドルピーの約半分の価値しかない。

十月十三日早朝、小型バスとオートリキシャ(オートバイに座席を取り付けた三輪車)を乗り継ぎルンビニーへ。大きな荷物を抱えた人でバスもリキシャもすし詰めの状態。途中でタイヤがパンクしたり。やっとの思いでルンビニーに入る。

ルンビニーには、お釈迦様がお生まれになる前にマヤ夫人が沐浴されたという池があり、お堂があると案内書にはある。が私が行ったときには、確かに池はあるが、そのお堂は全日本仏教会の手によって発掘調査が行われていて、黄色いシートで覆われて何も見ることが出来なかった。

その池の前にはアショカ王がかつてお参りされたときの記念の石柱があり、その近くにネパールのお寺とチベットのお寺がある。私はカルカッタのバンテー(尊者という意味だがここでは私の師匠ダルマパル師のこと)の紹介により、ヴィマラナンダ長老を訪ねてネパール寺に向かった。

お寺は石積みで床も大理石。内部にはお釈迦様の一代記が描かれている。ヴィマラナンダ長老は、六十歳くらいの方。床に額を着けて三礼し、カルカッタから来たこと、ルンビニープロジェクトの下見に来たことなどを告げると、別棟の巡礼宿に案内された。

ルンビニープロジェクトとは、当時荒廃していたお釈迦様生誕の地を復興開発することを目的に、遺跡の保存と地域の開発を計る国際的プロジェクトである。このプロジェクト推進の為、一九七〇年ニューヨーク国連本部に、国際ルンビニー開発委員会がネパールを議長国としてインド、日本、アフガニスタン、タイ、ミャンマー、スリランカなど十三の国の代表により組織された。

一九七八年には日本の建築家丹下健三氏による全体のマスタープランが合意され、マヤーデヴィ寺院を中心とした聖域の発掘整備、また、近隣に宿泊施設、僧院、研究所、博物館、文化センターを順次建設することが計画された。そして、この計画の中心となる僧院地区は、一九九三年より各仏教国が建設用地を取得。世界的にはその存在を忘れられがちなインド仏教徒の念願として、我がベンガル仏教会がインド仏教を代表して用地取得を申請した。

そして、一九九四年三月カトマンドゥに於いて中国、スリランカ、インドのカトマンドゥ駐在大使立ち会いのもと、インターナショナル・モナスティック・ゾーンEC-九区(八〇メートル四方)の九十九年間の借地使用が正式に認可されたのであった。

そして、私のその時の任務というのは、この肝心のルンビニープロジェクトがその後どの程度進展しているのかを現地に赴いてレポートし、その後カトマンドゥのルンビニー開発トラストのオフィスを訪ね、理事に面会し、初年度の借地料を払い、インドの僧院建設の予定を申し述べることであった。

因みにこのときベンガル仏教会が計画した僧院は、その名をバーラティア・サンガーラーマ(インド僧院)と称し、インドを代表する仏塔であるサンチーのストゥーパを模した本堂を中心に、その周囲をアジャンター石窟寺院をモチーフした僧院が囲み、入り口ではインドの国章であるアショカ王柱が来訪者を迎えるという壮大なもの。建設予算も日本円で一億を超す破天荒な大事業であった。    つづく

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インド思い出話8-無料中学設立とパーリ語の特訓

2007年03月03日 13時17分45秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
7月の晴れた日曜日、めでたく仮校舎もでき、無料中学校が開校した。20名ほどの赤と白の柄シャツに薄茶のズボンとスカートの制服を着た学生が入学し、式の後、近隣の多くの子供たちに施食が行われた。

こういうときは小さめのプーリーというパンを油で揚げる。なかなか美味しいのでつい食べ過ぎて腹をこわす。結婚式や葬式でも人が大勢集まるときには作られるようだ。

学生達が毎日やってきて賑やかになる。朝は毎日朝礼で、「ナモータッサバガバトーアラハトーサンマーサンブッダッサー」とお釈迦様に挨拶し、「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。

みんなヒンドゥー教徒の子供達だが、仏教の学校に入って、仏さんに供養された寄附金で運営されている学校で学ぶのだから、誰も親たちも文句を言わない。

それから各教科の授業にはいる。私は、一人図書室で、パーリ語のダンマパダ(法句経)を水野弘元先生の辞書と長井真琴先生の文法書で毎日一偈ずつ四苦八苦して調べ自分で訳文を作り、今度はヒンディ語の辞書を片手にヒンディ語に訳した。勿論、ヒンディ語訳のついた現地で手に入る数種類のダンマパダを参照しながらではあるが。

それが終わるとサールナートに寄付を乞うために自転車で出かけ、夕方には、後藤師のパーリ語の指導を受けた。後藤師は、日本では有名な小栗堂仏教研究会を主催して、毎年夏に一週間のパーリ語の講習会を開いていたことで知られている。この講習会は今でも、愛知県安城の慈光院戸田忠先生が引き継ぎ行われている。

後藤師の日本語は茨城訛りがあり、だから、ヒンディ語もパーリ語もどこか訛ってはいるが、教え方は天下一品だった。何も分からなかった私が、一年間で、法句経423偈すべてを自分で辞書を頼りに訳し、ヒンディ語訳も作れるようになった。インドのノートで、5冊ある。私の宝物の一つである。今でも後藤師には感謝している。

しかし、ヒンディ語はというと、なかなか上達しなかった。それでも8月になって、東京から知り合いやら母親がインドに来るので、カルカッタに迎えに出た。ハウラーから急行のコンパートメントに初めて乗り、ベナレスに同行し、サールナートのお寺やらを案内して、お寺の無料中学の紹介ビデオを作ったりして、また、カルカッタに送り、サールナートに戻ってみたら、ダージリンから来たチベット系の少年ディペンがいた。

8歳だという事だったが、どうやら年齢詐称で、実は6歳だった。どうりで私より文字が分からない。でも、ヒンディ語は私より流暢だ。それで、この子を何とかお寺で仕事が出来るように仕込む係になって、ヒンディ語で命令し、怒ったり、冗談を言ったりしていて、何とかヒンディ語が自分の物になり始めた。

そうしたら、日本から、高校生がやってきた。少し家庭内に問題があって、インドに預けたいとのことで、同居することになった。大きな体で、何とも取っつきにくい。でも、この学生さん料理が上手で、みんなの食事を全部朝以外ではあるが任せてやり出したら途端に良い子になった。年末にお母さんが迎えに来たときまでは良い子だった。でも、母親の顔を見るなり、元に戻ってしまったようだったのは残念だった。

サールナートにいると各国の諸行事に招かれた。5月の満月の日にはお釈迦様の生誕と成道と入滅を祝うブッダジャヤンティが盛大にあり、戦前お堂の壁に野生司香雪画伯が釈迦一代記を描いたムルガンダクティビハーラで、祭典があった。経文を読むより、おおぜいの弁士により講演が長々と行われ、11時すぎ頃から食事が供養された。

また、10月には、カティナチーバラダーンという雨安居(うあんご)開けの比丘に特別に用意した袈裟を供養する儀式も賑々しく行われた。ときどき、沙弥の戒師をしてくれたミャンマー寺に呼ばれて昼食を頂くこともあった。ニマントランと言われ、ミャンマーから来た篤信者からの食事の供養だった。沢山の小皿に盛られたミャンマー料理が食べきれないほど出されてとてもありがたく思った。

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インド思い出話7-サンスクリット大学

2007年02月27日 20時32分04秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
カルカッタからサールナートに戻る列車は、この時なんと12時間も遅れてバラナシに到着した。後藤師と二人、一向に進まない列車の中で、ただふて寝をして過ごした記憶がある。インドはそんなことで誰も騒いだりはしない。そんないい国は他にはないだろう。

サールナートに戻ると、やっと、大学の授業が始まった。ベナレス・サンスクリット大学パーリ語専攻科。ディプロマ・コースだった。ただ後で、このコースではビザが降りないということになって、留学前の話と違ってきて、結局サンスクリット語もやらねばならず、そうなるとお寺の仕事や一度にふた言語もやるということで無理があり、留学を一年で諦めざるをえなくなった。

パーリ語の教授シャルマー・ジーは、たった一人の生徒であった私のために、時間を設けて、毎週2度程度、初めはパーリ語の成り立ちを偈文にした文の英語訳ヒンディ訳を宿題にされて、暗記させられ、続いて小部経典中にあるクッダカ・パートの読みと暗唱を学んだ。毎度行くと部屋に他の先生達がたむろしている中で、「バンテーボリエー」と言って、私に暗唱させる。

その暗唱させられる文章を、私は、毎度、自転車をこぎつつサールナートのお寺から大学まで、がたがた道を40分もかけて通いつつ、車やバスの騒音にかき消されながら、大声で唱えた。

クッダカ・パートの前半をほぼ終えると次は、法句経の暗唱だった。一章ずつ、暗唱しては、少しずつその訳をヒンディ語で教えられ、書き取り、それをまた何人かの前で暗唱した。インドの教え方は、正に読書百遍意自ずから通ずといった古典的なものだった。

大学に行っても、たまに教授が来ていない日もあり、その日は、ブラブラ学生寮に行っては様々な国から来ている学生僧たちと談笑した。スリランカからは育ちの良さそうな在家の学生。スリランカは都会の僧侶と村の僧侶では体質が違うというような話をしていた。

ブータンから来ていたチベット仏教の僧侶は、とても世話好きで、よくお茶をご馳走になった。ブータンにも遊びに来てくれと言っていた。タイから来た僧侶は、とてもお金持ちで、なんとインドのアンバサダーを買い込んで乗り回していた。何をしにインドに来たのか勘違いをしているような人だった。

サールナートのお寺ではその頃無料中学開校にあわせ校舎を建設中で、毎日工事作業員が何人もやってきてざわついていたり、私の方のヒンディ語がなかなか上達しないのでストレスもあり、また日本を離れて半年となり、精神的に辛い時期があった。そんなとき、日本人旅行者が来て、ひととき寛ぐこともあった。

そして、食後の沢山の食器洗いも私の仕事だったが、一枚一枚洗っていたとき、インドのことなので、泥を付けて油汚れの食器を一生懸命洗っていた。そのとき、本当にその洗っているということだけに心が集中して、それだけがあると。

それまで、いろいろと思い悩んでいたようなこと、心に引っかかっているようなことのすべてがその瞬間には何もないということに気づいた。そのことに気付いたら、何だそういうことかと思えて、別に大したことではなかったのだと思えた。それからは腫れ物が取れたように気持ちが楽になったのだった。

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インド思い出話6-比丘となる

2007年02月14日 20時10分04秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
インドに住み込み、3ヶ月ほどが過ぎ、やっと生活に慣れてきた6月。カルカッタのダルマパル・バンテーから手紙が来た。突然だが、ウパサンパダー(正式な比丘になる受戒を行う具足戒式)をするから22日までに来いとのことだった。後藤師と共に、夜行の急行に乗り込み、翌朝雨の降るハウラー駅に到着した。

二人でゲストハウスに泊まる。カルカッタのお寺で暗い朝、聞こえてくるお経は本当に素晴らしいものだった。22日の9時頃、後藤師がかつて寄付したオレンジ色に塗られた「ふそうバス」で、15人ほどの比丘がたとともにフーグリー河に向かい、船に乗り、船室で私とボーディパル師の具足戒式が行われた。

10畳ほどの部屋に、10人以上の比丘が一つの境界をなし、受者である私とボーディパルとは離れたところに座らされた。二人ともダルマパル師に、「尊師よ私の和尚になって下さい」と三度言い、袈裟一枚が入った鉢を手にする。これら問答はすべてパーリ語でなされる。

暫く待たされ、その間、他の比丘たちに教誡師が、比丘志願者がいることを告げ、その後、二人の所に来て、癩病、皮膚病、肺病、顛狂病などがあるかどうか、人間かどうか、男性かどうか、借金がないか、王の家来か、父母に許されたか、二十歳を過ぎたか、衣鉢を調えているかなどと、伝統に則り、教誡して、その後、比丘衆に教誡が済んだことを述べ、受者は比丘衆に具足戒を三度乞う。

そして、比丘衆の中に受者を入れて、改めて、教誡師は、受者に対して、先に述べた病気がないかどうか、人間かなどと問い、そのつど受者は「はいそうです。尊師よ」と返答していく。

そして、その後、長老比丘が、「ダルマパル師を和尚として二人の沙弥が比丘になることを志願し障害なく清浄であるので、僧伽に機が熟せば具足戒を授けてはどうか。同意する方は黙って下さい。同意しない人は言って下さい」と同じ文句を三度唱えます。

三度誰も何も言わないことを確認して、僧伽によって、ダルマパル師を和尚にして具足戒が授けられました。黙っているので同意したと了解します」と教誡師が述べる。この問答方式による裁決の仕方を白四羯磨(びゃくしこんま)という。

その後、時計の時刻を正確に記録して、具足戒式は終わり、ダルマパル師から、四資具と四波羅夷について講話があり、その後全員でカラニーヤ・メッタ・スッタ(慈経)を読誦して式が終了した。

四資具とは、托鉢によって食を、糞掃衣という粗末な袈裟を、住まいとして樹下を、牛の尿に漬けた薬を基本とすることを教誡する。そして、四波羅夷とは、僧団を追放される4つの禁戒で、男女の交わり、与えられていない600円相当以上の物を盗む、故意に生き物の命を奪う、悟っているかのような嘘を言うことを戒める教誡がなされた。

そして、甲板に出て、記念写真を撮り、11時頃までにはお寺に戻り、盛大な施食が行われ、その晩には、記念の式典が行われた。ただ、この式典は、もちろん私のためではなくて、ボーディパル師がベンガル仏教会の創立者クリパシャラン大長老の家系出身者であったが為に行われたのだった。彼は今、ブッダガヤの大塔を所有する大菩提寺の住職の要職にある。

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インド思い出話5-沙弥となる

2007年02月11日 19時00分46秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
丁度14年前の今頃、私は再度インドに旅立った。3度目のインドだった。作務衣に大きなナップザックを担ぎ、荷物の半分は辞書やら書籍類が占めていた。前回は私にとって関所であったカルカッタを今回はすんなり通り抜け、サールナートに向かった。

少しばかりヒンディ語を習っていた私は、ベナレスに向かう列車に乗り込んだ人たちの言葉に聞き耳をたて、途中から乗り込んできた学生らと話し、軽くいなされたことを憶えている。所詮一年ばかりの語学では知れているということなのだった。

後藤師の住職するサールナート法輪精舎に着いた私は、まず、デリーに向かった。ベナレスサンスクリット大学の入学許可書を持って、留学滞在許可の申請を中央政府にするためであった。

ベナレスを夜出る急行でデリーに向かい、朝方着き、オールドデリーのメインバザールの安宿に荷物を置いた。それから、まず日本大使館に行った。長期滞在の届けを出して、留学手続きをするインド政府の役所の場所を聞く。

聞いたところに行くと、そこにはもうその係はなく、またそこで教えられた事務所を探してリキシャを走らせる。たどり着いた事務所は、管轄外だという。そこでまた教えられて、リキシャで走り、三ヶ所目にやっと目指す事務所にたどり着いた。もう夕刻だった。

大きな事務室に係官が一人座っていた。中に通され、拙い英語で用件を告げる。書類に不備はない。しかし聞いていたので、100ルピー札を二枚ほど差し出す。しかし、「これは何か」と係官。何かタバコでもと日本の感覚で言うと、憮然とした表情で、「私はプアーではない。このようなことはしないで欲しい」と、お金を突き返してきた。

しかし、にこりと笑って、外で待っていなさいと言われる。不安な気分で、暫く待っていると、また呼ばれて書類にサインと丸い判を押して渡してくれた。インドの役人も変わったものだと感心した。いや、おかしいのは地方だけなのかも知れない。中央の役人は結構きちんとしているのかも知れない。

そんなことを思いつつ、宿に帰り、一日で用件が済んで、泊まる必要もなくなり、荷物を取って駅に向かったのだった。しかしベナレスに戻って、ベナレスのビザ事務所に行くと、相変わらず袖の下を要求し、それがなければ判を押してはくれなかった。

行ってから、ひと月くらいたってからだったろうか、サールナートのビルマ寺の住職を招いて、私の沙弥出家の儀式が執り行われた。白い上下の服を着てしゃがむ。いくつかの問答の後、白い服を脱いで、袈裟を纏い、10の戒律を授かり、教戒を受けて、沙弥となった。

その後、サールナートに住むベンガル仏教徒から食事の供養を受け儀式は終了したが、以来黄色ないしオレンジ色の袈裟だけで過ごす。暑い時期には腰に巻く袈裟だけで過ごし、客人があったり、外出するときだけ上に袈裟を纏った。何とも身軽になり、誠に心地よかった。

それからも私は、サールナートでは、毎日遺跡公園に出かけ、旅行者に寄付を募り、お寺では、習ったヒンディ語を実用に使えるようにすべく、お寺にやってきた子供たちと話しをするよう心がけた。しかし、話さねばいけないのに、なかなか言葉が出てこない。そんなもどかしい毎日が過ぎていき、後藤さんにはまったく積極性のない奴だと怒られるはで、何とも情けない、思いで日を過ごした。

ひと月くらいで、とてつもないかゆみが身体を襲ったかと思うと、今度はできものが足にできて歩けなくなり、環境に身体が慣れるまで随分な日を要した。それでも、後藤さんからパーリ語を習い、法句経を毎日一偈ずつ文法書と辞書とにらめっこでヒンディ語訳と日本語訳をこしらえ、後藤さんの添削を受けた。朝は暗いうちに起きだし、パーリ語の経典を毎朝読誦した。仮本堂には一尺ほどのネパール製の仏陀が鎮座していた。

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インド思い出話4-サールナートの後藤師と出会う

2007年02月05日 17時20分02秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
第二回インド巡礼。前回同様カルカッタに降り立った私は、今回は迷うことなくボウ・バザールの裏手に位置するベンガル仏教会に飛び込んだ。このとき初めて、後に私の師匠となるダルマパル師と出会う。この時70歳くらいだったろうか。

とてもきさくに話をして下さり、ゲストハウスに案内してくれた。そして、「仏蹟巡礼ならサールナートに行け、そこに日本人の比丘が居るから」と地図を書き丁寧に場所まで教えてくれて、土産まで預かった。

数日後、予約した列車に乗るべくハウラー駅に夕方のラッシュ時にタクシーで向かう。そのあたりからどうも頭が熱かった。列車を待つ間にもロビーで物乞いが寄ってくる。終いにお腹に来てトイレに行くと、もういけなかった。高熱がでだした。予約したチケットを無駄にして、またタクシーでお寺に戻る。また同じ部屋に案内されて寝た。

その晩夢を見た。黄色い袈裟を纏ってインド人のお坊さんと暮らす自分がいた。次の朝には不思議と熱が下がり、数日後サールナートにたどり着く。サールナートのマアイア地区に後藤恵照さんという日本人比丘が開いたベンガル仏教会支部法輪精舎があった。

初めてお会いするのに、何の屈託もない。よく来ましたと茨城訛りの日本語で歓迎してくれた。既に在印14年、そのとき59歳ということだった。私が増谷文雄先生の本から、つまりパーリ仏教から出家に至ったというと大層喜ばれた。

そして、インドの仏教は、イスラム教徒が攻めてきて13世紀に無くなったと思われているけれども、そうではなくて、既にその前にマガダ地区から東に避難していた仏教徒たちがいて、彼らがインドと今のミャンマー国境地帯に住み着き、アラカンの仏教徒と関係する。

その後、彼らはベンガル湾に面する港町チッタゴンを本拠とする。けれどもその後イスラムがその地まで勢力を拡張してきて随分とお寺は破壊され、坊さんたちは袈裟も着れない時代となる。

しかし、その後、英国が植民地としてベンガルにやってきてから、その地元採用の軍隊に仏教徒たちが志願して社会的な地位を回復し、お寺を造り、坊さんの組織をアラカンの長老に来てもらって上座仏教として再生し、それからチッタゴンに協会を作った。その後カルカッタにも出来た教会がベンガル仏教会なのだと。そんな話を延々と聞かされた。

インドにはもう正統たる仏教はないのだと思っていた私には、青天の霹靂。何か身体に力が漲るようなうれしい思いにとらわれた。その日から、細々寄付を募って暮らす後藤師と一緒にサールナートの遺跡公園に出かけていき、日本人観光客らに話しかけ、寄付を募り、宿泊希望者はお寺に招きお世話をした。

この間に様々な団体がやってきた。まだバブル期だったせいか、日本のお寺の団体や旅行社の団体なども多く、中には、奈良の大安寺の貫首さんが連れてこられた団体もあった。その頃私は、日本から持参していった日本式の衣を脱いで、リシケシのシバナンダアシュラムの修行者のように白い布を二枚買い込み、一枚を腰に巻き、一枚を肩からショールのように纏って過ごした。

お寺では、日曜日には日曜学校が開かれ、朝から近在の子供たちが詰めかけ、英語を教え、終わるとビスケットを配布した。これらにはマウリア王朝の末裔モウリア族の少年たちが数人手伝いに来ていた。

サールナートに後藤師と出かけていくと、小さい子供たちが沢山集まってきて、後藤師に合掌して近づき、右手を後藤師の足に付けその手を自分の額に持って行き合掌する。そんな姿を見ていたら、無性にこんなありがたいお坊さんが今の時代にもいたのだと感激し涙が溢れてきた。

もっとこの方のお役に立てることをしたい。東京で、むざむざ無為に日を過ごしていたことが悔やまれてならなかった。こう思ったら早かった。私は、2、3日後には、もう一度インド僧として再出家して、このお寺に住み込み、これから作ろうと計画されていた無料中学校のために出来ることをさせていただこうと決めていた。

それにはこの地域の言葉であるヒンディ語が分からなくてはいけない。少し仏教の言葉パーリ語も勉強しなくてはいけないということになり、一度日本に戻り、学校で文法から学ぶのがよいということで、他の仏蹟に行くという、特別あてもなかった私の当初の計画はすべてキャンセルして、そのままカルカッタに戻り、ダルマパーラ・バンテーにその旨を述べ、賛同していただいた。

東京に戻った私は、拓殖大学語学研究所にヒンディ語を学び、夏には、後藤師とともに嘗てパーリ語研修会を開かれていた愛知県安城の慈光院の戸田先生を訪ね、一週間泊まりがけのパーリ語研修会に参加した。

新しい自分の方向が決定されると、自然と様々な関係の知人友人の輪がワッと広がり、途端に大勢の方々と知り合うこととなった。その一年間は、私にとって、ヒンディ語という新しいアジアの言語を学びつつ、南方仏教の知識をさらに深めるべく勉強三昧の年であった。

そんな中で、後藤師から教えられ連絡を取った上座仏教修道会の竹田代表の紹介で、スリランカから来られていたスマナサーラ長老を二、三の友人僧侶とともに方南町のマンションに訪ねる機会も得た。そして、それから数度にわたって、様々お話をうかがえたことは誠に貴重なことであった。

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インド思い出話3-カルカッタ、バンコク、東京

2007年02月03日 19時43分56秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
前回ダラムサーラに行ったことを回想して、すこしチベット人の仏教について語った。道行く人が数珠を持ち、真言をくりながら歩く姿をよく目にした。僧服を着たお坊さんたちも何か小さな声で唱えながら歩く。とても信仰が日常に根付いていることを感じた。

しかし、彼らチベット人はとても頑固で商売が上手であることも後によくインド人から聞かされた。元々チベットの人たちが中国を追われてインドに来たとき、インド側は別の土地を用意していたのだという。それなのに、地形や季候がラサと似ているとのことでダラムサーラに居座ってしまったのだと聞いた。

後に住み込んだサールナートのお寺の隣はチベタン・インスティチュートというチベットの大学や研究所があり、僧服を着た学生たちも沢山学んでいた。彼らの学校は他のインドの学校に比べても立派でエアコンが完備されていて、発電機もあった。

多くのインド人が停電で困っているとき、私の住んでいたお寺もご多分に漏れず停電してロウソク生活をしていたのだが。インドからの助成でチベット人たちは明るいところで生活している不思議な光景を目にすることにもなった。

ベナレスの商店街などには沢山チベット商人が店を並べ、道行く外国人にチベットの文字の入ったTシャツやら小物、仏具を売っていた。チベット人は商売上手なのだとも聞いた。しかしダライ・ラマ法皇の講演や伝授会などには数千人規模で人が集まる。

宿泊施設や食堂などはそれによってかなり経済的な恩恵も受けている。インドにとって、チベット受け入れは、インドという国の懐の大きさ、寛大さ、人権への配慮など国際的な評価を高める意味からも意味があることだったのであろう。

ところで、カルカッタに着いた私は、後にそこで再出家してインドの坊さんになることなど予想すらせずに、その時はのんきに町に食事に出て買い物し、帰国に備えた。ただ、仏教がインドにも行われているのだということを知り、毎朝どこからともなく聞こえてくる読経に耳を澄ませていたのだった。

その時にはまだインドの仏教がどのようなもので、どれだけ意味のあるものかも知ろうともせず、リシケシで体験した現代ヒンドゥー教の様々な修行が確かに日本の真言宗の真言念誦と関係し、また阿字観という真言宗の瞑想と同じ構造のあるオームの瞑想法を教えられ修したことが強く印象に残った。リシケシには真言宗の密教の源流を見る思いがしたのだった。

カルカッタから、バンコクを経由し、バンコクからアユタヤに出て山田長政の日本町を拝見し、また前王朝の頃華やかであったろう古寺を拝観した。バンコクに戻るとそれだけ日本に近づいたという安堵と人間が穏やかでゆったりしていることに気づいた。

それだけインドという国はみんなが必死になって生きている。人口も8億を超え、気候も厳しくみんな生きることに懸命なのだ。勢い観光に来る外国人にはしんどい国なのだということをタイに来て精神的に楽になった分強く感じられるのだった。

日本に戻った私は、リシケシで出会った信玄師を訪ね、四国遍路へ出たり、禅寺に坐禅を重ねるようになる。そしてその後お寺の役僧を辞し、東京で、とげ抜き地蔵や柴又の帝釈天、浅草寺の門前や、銀座数寄屋橋などで托鉢をして生活をした。

そんな不安定な生活を続ける中で、果たして坊さんとは何か。僧侶としてどう生きるべきかなどと考えはじめたとき、再度インドへ行く機会を得た。友人の坊さんがインドに一緒に行かないかと誘われ、その気になり、その後その人が行けなくなって、また一人旅立つことになる。

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インド思い出話2-ダラムサーラに行く

2007年02月02日 16時23分11秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
ガンガーで沐浴していた私の前に突然現れた信玄師も、同じベーダニケタンに宿泊していた。三つほど部屋が離れていたが、頻繁に会い、いろいろ話をうかがった。もともと坐禅に興味があったので、禅宗の坐り方から心の持ちようなどあれやこれや話を聞き、こちらで知ったヒンドゥー教について話すなど話題が尽きなかった。

信玄師はどこで知り合ったのか、日本人女性とイタリア人男性のカップルと親しくされ、私も仲間に入れてもらい、よく一緒に食事に出たり、簡単な料理を作ってはともに食べたりしていた。このカップルはロンドンで一緒に何かボランティアの仕事をしていて、こうしてインドまで来たような話をされていた。

そして、この頃、毎日のようにガンガー沿いの商店街を通って、上流に向かい、多くの修行者が坐って瞑想したり、マントラを唱えつつ座る姿を見て歩いた。夕刻、薄暗くなる中、燈火を灯し、川岸に沢山の人が一人のスワミジを囲んで話に聞き入っている光景を目にすることもあった。

近づいて話に耳を傾ける。ヒンディ語なので全くその時には分からなかったが、その声を聞いているだけで心落ち着くような感じがした。不思議なことに花も見えないのに花の香りがどこからともなく漂ってくる。おそらくこのような集いの中でお釈迦様も比丘たちや信者に話をしたのであろう。インドには2500年も前から変わらないこのような伝統が今も残っていることが、とてもありがたいことに思えた。

ある時、雨期の最中だったこともあり、とても暑いので、三人はもっとガンガー上流の修行者の町ケダルナートへ行き、その帰りダライラマ法皇の居られるダラムサーラに行って帰ってきた。とても良いところだったと窺い、今度は私一人でバスを乗り継ぎダラムサーラに向かった。

行き帰りのバスは道も悪く車体も劣悪で丸1日かけてのバスの旅はひどく疲労したことを憶えている。それでも行きは途中からチベット人家族と同行だったので不安もなかったが、帰りは、モンゴル系の豪傑ばかりの中に小さく一人帰ってきた。

ダラムサーラは海抜1700㍍。マクロードガンジと呼ばれる小さな商店街を中心に数千人のチベット人が暮らしている。数か寺の寺院が建ち、エンジの僧服を纏う坊さんも道を行き交う。数珠を持って真言を唱え歩いている人が多い。中心部にマニ車という経文が中に入った円筒形のものを回しながら歩く人もいる。

早速親しくなったチベット人家族からモモというチベットパンをご馳走になり、宿を探す。夜は寒く、毛布も急遽買うわけにも行かず寒い夜を過ごした。外国人も多く、茶店で何人かと話し、暇をつぶした。

一週間ほどいたが、大きな法要の日があり、本堂の中央の高座にはこちらに向いて高僧が坐り、その下には向かい合わせに大勢の坊さんが座っていた。外縁には空いた隙間もないほどに信者が座り、私もその中に混ぜてもらって3時間ほどの法要に参加した。

その後ろでは数人の男子が盛んに五体投地を繰り返していた。法要が終わると祭壇に御供えされたパンとバター茶がみんなに振る舞われた。オン・マニ・パドマ・フーンと言う観音様の真言を何度となく一緒に唱えた。

リシケシに戻ると、暫くして、3人と共に3ヶ月を過ごしたリシケシとも別れを告げ、デリーに向かった。バスでデリーに着いたのは夜中だった。リキシャで安宿に入る。窓のない部屋で、パンカーという大きな天井に付けられた扇風機を回さねば寝れない。シーツをベッドの上に広がるように窓枠から縄で取り付けて寝た。

オールドデリーのメインバザールに宿をかえ、他の3人と共に観光地を一回りしてから、ラージダニ特急で一人カルカッタに出た。一晩でデリーからカルカッタに到着する。カルカッタでは、迷うことなく、ベンガル仏教会のゲストハウスに入った。

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寺報を45年間続けられた偉業 新井慧誉和尚 追悼

2007年01月23日 17時37分16秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
東京都北区滝野川の真言宗豊山派寿徳寺住職にして、二松学舎大学教授、若かりし日にインド西ベンガル州シャンチニケタンのタゴール大学で教鞭を執られた新井慧誉師が1月9日午前6時、急逝された。

私は13年ほど前、カルカッタのベンガル仏教会本部の宗務総長ダルマパル・バンテーの居室で、まだベンガル仏教会で具足戒を受けたばかりの頃、はじめて新井先生にお会いした。

とても気さくな語り口で、「東京に帰ることがあったら、お寺に遊びに来て下さい」と言われた。私をもと真言宗の僧侶だと知って、親しくそう声を掛けて下さったようだった。

新井先生がお寺で写経会をして奉納された沢山の般若心経が、ベンガル仏教会の本堂の本尊であるお釈迦様の前に置かれていたことを思い出す。また、先生が代表して仏教徒海外奨学基金を作られ、カルカッタのお寺に併設されたクリパシャラン小学校の生徒のために奨学金を送られ、それを受け取っている生徒のファイル用に写真を私が撮らせてもらったこともあった。

その後、東京に戻った際に、黄色い袈裟のまま何度かお寺にお伺いした。大きな来訪者名簿に署名させられたことを思い出す。また仏教徒海外奨学基金の役員会にも招かれていき、インドのお寺の様子をお話させてもらったこともあった。

「観世音」という寺報を若いときからお出しになっていると聞いた。「一人ではじめ書いたが、なかなか大変で、みんなに協力してもらっている。是非書いて欲しい」と言われ、2度ほど「インドでの安居会のこと」と「ベンガル仏教徒の葬儀について」を書かせていただいたことがあった。

挿絵を大学の教え子に描いてもらっていて、編集会議は楽しいものだと話されていた。この先生の「寺報観世音」に触発されて、その頃私も「ダンマサーラ」という名の布教紙を毎月発行し、先生にも送らせてもらっていた。

その中で、「報恩」という名の父母の恩についての述べた経典について書いたとき、その文章を読まれた先生は、御自分もその経典について研究したことがあり、大きな封筒で論文を送ってきて下さった。

御礼を述べるために電話をすると「是非読んで下さい。ところで、その経典はどこから見つけたのか」などとお聞きになられ、励まされたことを記憶している。その時には、専門に仏教学を学んだこともない私のような者の文章を読んで下さって、その上、御自分の研究論文まで送って下さったことに随分と感激したものであった。

その頃だったか、インド僧を辞して下町の小庵に住まいしているとき一度インドに行き、帰ってから、カルカッタのバンテーのメッセージを持って新井先生をお訪ねしたことがあった。カルカッタのお寺で仕事するヒンドゥー教徒とイスラム教徒を比較して様々お話ししていると、「なかなか話がおもしろいね」とおっしゃってくださったことを憶えている。

インド・サールナートの法輪精舎にいる頃、住職後藤惠照師のところに新井先生が送られた「心のまんだら」という分厚い文集があった。「寺報観世音」を何年か毎に一冊にまとめたものだった。日本語に飢えていた私は、それを読んで勉強し、心楽しく過ごさせてもらった。

ここ國分寺に住してから、先生の寺報を参考にして「國分寺だより」を発刊するようになっても、やはり先生には必ず一部送らせてもらってきた。また、晋山したときに発行した短編集「仏教の話」、また昨年は「仏前勤行次第の話」を発行し、それらも先生にお送りさせていただいた。晋山したときには、

「帰依三宝 お久しぶりです。晋山されたとのことおめでとうございます。歴史ある國分寺を受け継がれる御身どうぞ大切にされご活躍されること念じ上げます。また「仏教の話」は興味ある内容です。有り難うございました。平成14年 春彼岸 寿徳寺新井慧誉 國分寺 横山全雄様」と筆で書かれた書状をお送り下さった。

平成16年発行の「心のまんだら」第四集には、親しくお声を掛けて下さって、錚々たる執筆陣の中に加えさせていただいた。何度も丁寧な原稿と校正のやり取りがあって、「インドのベンガル仏教徒の葬儀について」をご掲載下さった。

平成16年末に「写経を奉納しますからよろしく」とお電話いただいたことがあった。その時にも、この地の様子をいろいろと心配されてお聞きになられた。沢山の写経を送ってこられ、一人一人に御朱印を紙に書きお送りしたら、丁寧な礼状が送られてきた。

その後、先生は、インドのタゴール大学から名誉博士号を送られ、また東京大学からもたしか学位を授与されておられた。暫く音信不通で、寺報が送られてくるだけだったが、その寺報によって知るだけでも、何年か毎に定期的に檀信徒をつれてインドやスリランカ、ブータンに行かれていた。

また、毎月定期的に仏教入門塾、写経会や護摩供をされていた。新撰組近藤勇の菩提寺でもあったことから、そちらの方の活動も続けておられた。さらには、寺内整備、大仏の建立と休む間もなく事業を展開しておられた。

昨年末、晩にお電話をいただいた。「久しぶり。寿徳寺の新井です。」といつもと変わらないご様子で、インドのブッダガヤ寺の住職の話やベンガル仏教会の現在の様子、写経を2月に送るからまた奉納しますということなど、3、40分ばかり話をした。既にその時は心臓弁膜症の手術をなさり、お寺に戻られていたのだった。

少々ご容態が良かったのか、笑いながら話をされていた。何も知らない私は、東京から随分ながい電話をされるので、来年にでも春頃東京に出たときお伺いします、などとのんきなことを言ってしまった。何か言いたいことでもあったのか。ただ、気になったことを話したかっただけなのか。不詳の私を最後に励ましたい思いだったのか、今では知る由もない。

今日手にした「寺報観世音」の表紙に先生の訃報の知らせがあり、ご逝去を知った。ただただ残念に思う。先生の走り抜けた67年。「寺報観世音」は第46巻第1号通巻271号で絶筆となった。分かりやすい布教にかけた一生に学ばせていただき、お力添えいただいたことに感謝します。合掌。

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