住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

阪神大震災13年目を迎えて 東灘区田中町本山南中学の思いで 

2007年01月17日 07時43分23秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
朝日新聞社会面に、「まち人12年震災田中地区から」という連載があった。阪神大震災で最も大きな家屋倒壊の被害があった東灘区田中町の罹災当時と今にいたる復興の様子と人間模様を描き出している。JR神戸線の摂津本山駅から住吉にかけての南側、国道2号線も真ん中を通っている。

ここ國分寺も昨年福山市に合併しているが、福山市の中心部にも国道2号線が通る。この道をどこまでも東に行けば、12年前、まだ黄色い衣を纏って歩き回ったあの震災現場にたどり着くのだなぁ、と何度も思った。

あれから、まる12年がたった。今日は13年目の第一日、つまりは亡くなった人にとっては13回忌に当たる。当時私は、インドの黄色い袈裟を纏い東京のお寺に居候していた。震災二週間が過ぎようというとき、芦屋の知り合いから心のケアーに来ないかと言われ、速断した。

その2日後に新幹線で大阪に出て、それから、阪神電車で青木駅に向かった。当時西に向かう電車の最終駅だった。リュックを担ぎ両手に荷物を持ったおおぜいの人でごった返していた。知り合いと待ち合わせ、一緒に避難所になっていた本山南中学に向かった。電線が垂れ下がり、倒壊した家の瓦礫で道がふさがっていたり、ぐるりと遠回りをして駅から2時間あまりもかけて避難所に到着した日のことを思い出す。

避難者の代表とボランティアが協同で自治を起こしたところだった本山南中学の避難所の事務所で自己紹介をした。そして、とにかく出来ることを何でも手伝った。行くところ行くところ何人の被災者から話を聞いただろうか。みんな話したくて話したくて仕方なかったという感じで、堰を切ったように話しまくる。みんなその話には真実があり、胸を打たれ感動する話も数多くあった。

とにかくこうして生きていることが奇跡であった。ありがたい、生きているだけで幸せだという。それにしても何で神戸で地震があったのだろうか。何かやはり私たちは大きな過ちをしてきたのではないか。もっと人様のためになることをしよう。恩返しをしたい。そんな気持ちでいる人ばかりであった。

ボランティアに来る人もみんな温かい心をもって駆けつけてきた。みんな素晴らしい優しい人たちばかりだった。人と人との連帯。個人的な繋がりによって仕事が広がる。今でも連絡を取り合っている人たちがいる。一度みんなで会いたいと思う。同志社大学から来た代議士候補、慶応大学の博士たち、千葉県代表の主婦、愛知県の若き好々爺、将来の看護婦長さん。個性溢れる面々。

みんなそれぞれに駆けつけてきた背景は違う。中には、自分の生活圏で様々な問題を抱え生きにくく感じていたときに、この被災地に生きる場を、生きていると実感できる場を得て、水を得た魚の如くに活躍する人たちも大勢いた。みんな良い仲間たちだった。

自分を必要としている人がいる。自分のやったことがその場で人々の喜びに変わる。とてもストレートに反応が返ってくる。そんな生きがいをボランティアみんなに与えてくれた。阪神大震災は、最近の若い者は、と言うお年寄りたちにも、若い人たちを頼もしく、見直す機会にもなった。心の励みになった。

本山南中学の避難所は一時本当に被災者もボランティアも心一つにうまく自治が成立し、慈悲喜捨の温かい心の波動に満ちていた。みんなの笑顔が本当に素晴らしかった。震災は勿論たくさんの尊い人命を失い、家を無くし、その後も復興住宅での孤独死など多くの問題も継続する。とてつもない負の遺産を残した。

しかし、そうならなければ見出すことの出来なかった尊く優しい助け合う心、みんなのことを思いやる心を多くの人々に授けてくれたことも忘れてはならない。それによって亡くなられた多くの人々も救われたことであろう。亡くなられた方々に心よりの追悼をささげます。

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四国遍路のススメ

2006年12月16日 13時16分57秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(以下は、大法輪誌平成19年3月号「特集真言宗がわかる」掲載のために著した文章の下書です。誤字脱字不整合があると思いますがご了承下さい。)

十六年ほど前に、四国八十八カ所を歩いて遍路したことがあります。実は、その前年、インドで出会った臨済宗の雲水さんから「真言宗の人なのに歩いていないのですか」と言われ、「これから歩く予定です」と答えてしまったのでした。

臨済宗では、眼病を癒すために四国を歩き、行き倒れた雪渓寺で出家され、昭和の白隠さんとも言われた山本玄峰老師が何度も四国を歩かれたことから、今でも徒歩遍路に出る雲水さんが多いとのことでした。

「四国を歩くと歩いただけ坐禅ができるようになりますよ」とも言われ、その気になって歩いたのです。教えられたようにビニール紐で草鞋を編み、前に頭陀袋、後ろに寝袋をくくりつけ、衣姿に脚絆を巻いて網代傘をかぶり、錫杖を突きつつ歩きました。

どこに寝たらよいのやら、昼に食堂に入れるか、道に間違いはないか、そんなことばかりにとらわれて、ただ札所まで歩けばいいだけなのに様々な雑念ばかりが心に浮かんでくるのでした。

そうした時には、なかなか札所が見えてこないもので、暫くして何も考えずに、ただ足の先だけを見て歩けるようになると、気がつくと札所の前に来ていることがしばしばありました。その時四国の遍路は、正に歩く瞑想の道場なのだと実感いたしました。

また、道端で佇むお婆さんから百円玉をのせたミカンをいただいたり、おにぎりを買いに入ったお店で、御飯ものがないからと、家の夕飯をパックに詰めて下さったり、食堂でお会いした方に車で次の札所に連れて行かれ、そのまま善根宿をお接待いただいたこともありました。

本当にありがたい出会いを用意して下さるのが、歩き遍路の妙と言えるのではないかと思います。

一度目の歩き遍路では三十九日目の夕刻、大窪寺に結願しました。さあ、高野山までどうやって行ったものかと思案していると、たまたま拝み終わって座ったベンチにいたご婦人から話しかけられ、徳島駅までと言われていたのに小松島港まで車をお接待下さいました。

そして、フェリーに乗り込み和歌山港へ。そこから歩いて和歌山駅前に着いたのは、夜の九時頃だったでしょうか。駅前で知人の車を待っていた若い方に宿泊所をお尋ねしたところ、案内しましょうと言われました。

それで、乗用車に乗り込みましたら、高野山までお連れしますということになり、話に興じている間に到着。結願した日の晩には高野山の師匠の寺に帰ることができるという、誠に絶妙な出会いの連続に不思議な遍路の功徳に感じ入ったものでした。

出家は本来、人様からいただく施食と粗末な衣で遊行しつつ樹下で暮らす者であるとするならば、四国の道は、現代において正にその出家本来の姿を体験させて下さる、得難い道場であるとも言えましょう。

ところで、四国遍路の歴史は、奈良時代の役行者や行基までさかのぼることができるそうです。当時すでに、都から遠く海を隔てた四国の辺路は日本一の難所として知られており、大和葛城山などで修行していた役行者も四国まで足を伸ばしたと言われています。紀伊、淡路を通って、阿波、讃岐、伊予、土佐へと歩を進め、途中石鎚山にも籠もったとか。

また、八十八カ所の札所には行基開基のお寺が多く、行基も四国を旅して修行し、様々な社会事業もなされたのでしょうか。

そして、真言宗の宗祖・弘法大師空海も、おそらく生まれ育った讃岐から足を伸ばし、辺路の道場をくまなく渉猟されたのでしょう。舎心ヶ嶽や御蔵洞で虚空藏求聞持法を修したり、真言を唱えつつ山野を駆けめぐられたといいます。そうして悉地を得られた霊蹟への道を、後の大師を慕う人々が踏み固めていったのが四国の遍路道です。

鎌倉時代、若き日に四国の辺路を修行し、源平の争乱で焼失した東大寺大仏殿を再建した大勧進・念仏聖重源の活躍は、旅をして念仏する多くの仏教者を生み出し、さらに、そこへ一遍上人の時宗聖が加わり、たくさんの念仏聖たちが四国を修行に歩くようになります。

戦国時代には、高野山や根来を追われた念仏聖たちが逃げ込んだ先が信長や秀吉の勢力の及ばない四国でした。彼らは後に全国を廻国して四国遍路の功徳を説いたと伝えられています。

江戸時代には、四国遍路の中興と言われる真念と高野山の寂本によって、「四国遍路道指南」や「四国遍霊場記」が著され、四国遍路の大衆化が図られ今日に至っています。

遍路道を歩いていますと、いにしえのお遍路さんたちが建立した様々な道しるべ、供養塔、地蔵尊を遍路道沿いに見ることができます。同行二人、杖を頼りに、是非歩いて遍路されることをお勧めします。

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インド思い出話1-ヨーガの郷リシケシ

2006年11月28日 13時36分42秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
もうかれこれ17年も前のことになるが、はじめてインドに行ったときの話をしよう。高野山から戻り2年目の私は、何も知らずに5月のインドに降り立った。5月のインドは乾期で、とても暑い。灼熱の大地そのもの。カルカッタからブッダガヤに行き、干上がったネーランジャラー河を歩いた。大塔のあるマハーボーディ寺、金剛座、日本寺。くまなく歩いた。しかし数日すると暑さで気力も萎え、もう逃げ出したくなった。

それでもその時ブッダガヤの安宿で、部屋に洗面器の水を持ち込み、長くなっていた髪をカミソリで剃り上げたことを記憶している。それから、リキシャとバスでガヤの町に戻り、列車の予約をした。目指すはリシケシ。しかし、2日後にしか予約が取れない。近くの安宿で、昼間はベッドに横になり、時折起き出してパンとバナナをかじり、本を読み日を過ごした。

そして、夜半にドゥーン・エキスプレスの2等寝台にやっとのことで乗り込んで、丸1日。一日中出入りするインド人たちを眺め寝台に横になっていた。口にしたのはバナナだけ。昼間には横になっているのに上がり込んできたり荷物を置かれたり。トイレに行くのも荷物と場所がなくなりはしないか不安で一杯だった。

なんとか、ハリドワールに着く。そこからバスで一時間。リシケシの町に到着しても目指すアシュラムはまだ先で、そこからまだ20分はリキシャを走らせたであろうか。ガンジス河沿いのヨーガの聖地リシケシに着く。

灼熱地獄から神が舞い降りたかのような穏やかな地、冷たい雪解けのガンジス河の水に神々しさを味わった。インドの人々が神と崇めるガンガー。そのありがたさが身にしみた。ガート沿いの店の並ぶ通りから少し上がったところに目指すアシュラムがあった。

その頃東京でヨーガを教えていただいていた成瀬雅春氏からの紹介で、シヴァナンダ・アシュラムにはいる。傾斜地に沢山のお堂や僧院が建てられていた。外国人用のゲストハウスに案内される。しかし、ここで、もうすでにいけなかった。ホッと安心した途端に下痢の洗礼だった。気分が悪く熱もある。ベッドに横になって、山が過ぎるのを待ち、アシュラム内の病院に行く。診療時間外で待たされる。やっとのこと英語で説明して薬をいただいて飲む。

二三日でよくなった。隣の部屋にはかわばたあつさんといって、別府でヨーガ道場をされていて、シヴァナンダ・アシュラムの本を書くために滞在されている日本人の先生がおられた。英語に不自由なく、様々な御案内をしてくださった。とても感謝している。ここのアシュラム内での挨拶は、合掌して「ハリオーム」という。神様オーンということだろうか。オーンは聖音である。

また、朝と昼、食堂で食事が出された。給仕をするアシュラムに住む修行者たちの白い布を腰と肩に掛けて巻いている姿がとてもすがすがしく美しかった。私は、日本語で話のできるスワミジを訪ねて、インドの宗教について話を伺ったり、朝晩のお勤めに参加して、現代インドのヒンドゥー教を体験させていただいた。

「ハレラーマー・ハレラーマー・ラマラーマー・ハレーハレー・ハレクリシュナー・ハレクリシュナー・クリシュナクリシュナー・ハレーハレー」というマントラを何回唱えたろうか。毎日、24時間このアシュラムではこのマントラを唱え続けているそうだ。鎌倉時代に東大寺大仏殿の勧進を行った重源が、高野山の別所で、四六時中三人の聖に念仏を唱えさせることをはじめたそうだが、それと同じようなことをここでもしていた。

毎週サト・サンガという晩に開かれる集いがあり、様々な信者からの質疑応答に続き、祈りの会が開かれた。また夕方には毎日、マハームリトゥンジャヤ・マントラというマントラを力一杯唱えるプージャーがありよく参加した。またヒンドゥー教のホーマーという真言宗で焚く護摩の原型も拝見できた。2週間の宿泊を許されただけだったが、貴重な時間を過ごした。

それから、そこを出て河向こうのヨーガ・ニケタンというアシュラムに居をかえた。そこは特別にクラスがなく、宿泊だけ。そして、そこに移って何日目だろうか。ある日暑いのでガンジス河に沐浴して涼んでいると、後ろから、ヌッと、一人白い襦袢を着た男の人が現れた。臨済宗の雲水さんだった。

何でも、伊豆で托鉢して暮らしておられて、インドにでも行きたいと思って東京で托鉢しているとき、30万円もの封筒をいただいたのだそうだ。それで、すぐにインドに来て、リシケシというところでみんな修行していると聞いたのでやってきたとのことだった。

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悩んでいる君に2

2006年07月20日 07時49分26秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
そのお寺のある東大和市役所に電話をして電話番号を聞きました。そして連絡すると、とても気さくなご住職が出られて、すぐにでも会いに来ないさいと言ってくれました。数日して会いに行くと、本当に普通の家の玄関に「観音寺」と寺号が書かれ、8畳ほどの部屋に十一面観音像と不動明王、、弘法大師の御像が祀られていました。金融機関に勤務後高野山に登り専修学院を出られたことなどこれまでのいきさつを伺いました。

この前年だったか、一人年末年始の休暇を利用して高野山に一人で参りました。とても寒い年で、何軒かの宿坊が水道が凍り付き宿泊を断られました。もう諦めかけたとき大圓院というお寺に予約が取れ、その年の12月30日だったでしょうか、一人新幹線に乗り、難波に出て、急行で高野山に行き、バスで山内に入りました。

高野山に行く前には高野山というのは、まったく異界であって、石畳の道で街灯は灯籠だけで、お寺の他には何もないと思っていました。ですから、はじめて行って、ケーブルカーで高野山に上がり、バスで山内に入りましたら、沢山の車が出入りし、また商店もあり、パチンコ屋までがあるのには少し興ざめでした。

それでも荷物を宿坊に置いて一人弘法大師の御廟のある奥の院へ歩いていきましたら、そこはやっぱり別世界でして、深々と冷え、小雪がちらついてきました。戦国武将の五輪塔などを眺めつつ奥の院への道すがら、何か昔からこの道を歩いていたようなそんなおかしな感覚を憶えたことを記憶しています。

そして奥の院の黄色い衣の行法師さんに「坊さんになりたいんですが」とお尋ねしたところ、「専修学院というところを出れば誰でも坊さんになれます」と言われ、何かうれしくなって宿坊に帰ってきたのでした。次の日早速、その専修学院の門まで行ってみました。しかしその時には勿論その5年後に、そこに生徒として入ることなど夢想もしていませんでした。

そして東京に帰ってきて、大学の友人にその時の興奮を新宿の喫茶店で何時間も語りました。そうして、その後東大和のお寺に毎月通うようになるのですが、大学も卒業間際になり、僧侶になりたいと母親に告げると、青天の霹靂と言うのでしょうか、おそらくまったくお寺の世界という俗世間と隔絶した世界に行ってしまうと思ったのでしょうか、大変な騒ぎになり、一晩泣きながら様々なことを話し合ったことを憶えています。

そしてそんなことがあって、取り敢えず、もう少しサラリーマンとして過ごすことになり、そのままそのときいた会社に勤め、その後大学を卒業して暫くして、他の会社、有名な情報出版企業に転職し、そこに3年余り勤務しました。企画、部長付き、営業などの職種を経験した後、その頃には母親も仕方ないかという気持ちにもなっていたこともあり、高野山に行くことになるのです。が、先に言ったとおり、その間のすべてがとても私には、学ぶべきものがあった、とても意味のある、通るべき道のりであった、ありがたい時間であったと思っています。

会社を変わることでとても多くの人たち、今もお付き合いのある魅力ある人たちと出会うことにもなりました。いろいろと回り道をして、そうしなければ得られないものを確かに手にして、いよいよ出家をすることになりました。

そして、東大和のご住職の師僧筋に当たる早稲田のお寺に行き、またそこのご住職の配慮から、高野山高室院住職齋藤興隆前官の弟子として、全雄という名前をいただき、高野山大学の生徒たちとともに集団得度式を受けました。実はそのときはまだ会社に在籍していたのですが、上司の了解を得ていたので剃髪し得度を受け、僧籍に入ることになりました。

ですが、東京に戻ってみると、実際その剃髪した頭で営業に出るわけにもいかず、一週間くらい社内で待機して、少し髪の毛が生え始めた頃営業に出たわけですけれど、どこの会社に営業に参りましても、意外にもとても好評で、その期の目標をすぐに達成してしまいました。その4ヶ月後に退社するときにも、自分のクライアントを受け持ってくれた営業マンには同行し、彼らもすぐに目標を達成してしまったことを憶えています。

退社後、早稲田のお寺に見習いとして仕事をさせていただき、翌年高野山高室院に入り、4月から専修学院に入学。この専修学院での1年は私にとっては誠に充実した一年でした。月々の収入を稼ぐことから解放され、ただ勉強と修行に打ち込むだけでいい有り難い一年間でした。この間のことはまた別の機会に詳しく語りたいと思います。

とにかく、私の場合は、そうして自分が関心の向く方向へ動くことで出会いが生まれ、自らまったく未知の進路を切り開いて来れたと思っています。その後、インドに行ったり、阪神大震災でボランティアに行ったりとその都度たくさんの人たちと出会い、その方々のお蔭で自分の世界を広げて来れたと思います。そうした出会いによって知り合えた人たちが、そののちに様々な場面で手助けして下さる機縁もいただけたのではなかったかと思います。

こうしたたくさんの人のお世話になり、その方々のお蔭で今があると思います。感謝してもしきれません。疎遠になってしまった人もあり申し訳なく思うこともしばしばです。誰もが誰かのお世話になり、またお世話をしつつ成長していきます。より多くの人たちとの交流はそれだけ大きな世界をもたらしてくれることにもなります。外の世界への働きかけはとても大切なことです。

そして、時間は過ぎ去っていくものです。逆戻りは出来ません。今の自分はいまだけのものです。いまを大切にして欲しいと思います。大切なことは自分の世界、俺の世界があると自信を持って信じることです。進路を変更することに躊躇してはいけません。

今のあなただから出来ることがあるはずです。すべきことがあるはずです。将来に繋がることが。それを探して欲しいと思います。とにかく自分で動くことです。誰に指示されるでもなく、自分が思うことをしなければいけない。人に指図されてうれしいはずがない。自分の思いに自信を持って動いて欲しい。そう思います。
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悩んでいる君に1

2006年06月14日 09時16分27秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
今日もあなたの車が駐車場にあるのを目にしてどうしているのかと心配しています。私もあなたと同じように悩み、考え続けていました。今から25年も前のことです。ですが、私はそのころ、自分一人で稼ぎ生きていく必要がありました。ですから、毎日昼間は会社に行き、晩は学校に駆けつけ、学食で簡単な夕食を掻き込み授業を受けました。ですが、今から思えばそれはただの形だけのものに過ぎませんでした。

経済学部の二部に入学したわけですが、自分が何をしたいのか、本当は分かっていなかったのです。とにかく経済学部で勉強すればどんな会社にでも入れそうな気になっていたのです。よく考えもせず経済学部を受験し、合格したから大学に通っている、単位だけ取れればいい。今から思えば随分安易だったと思えますが、とにかく大学を卒業したかったのです。

そして、やみくもにある東京日本橋にある金融系の会社に面接に行き、明日から来なさいと言われ、そのまま小さな会社の社員になりました。次の日から毎朝7時に家を出て、日経新聞を読みながら地下鉄に揺られました。会社では、経理を担当し伝票書きと帳簿付けが日課でした。

そしてその頃何より私の頭を悩ませたのが朝礼でのスピーチでした。当時日本橋兜町でも有名な厳しい証券会社の初代外国部長を務め独立した社長は、高卒入社であろうと容赦せず他の人以上に私に発表の機会を与えました。当時は為替相場が日本経済の先行きを左右する大事な局面だったこともあり、何か一つ関心事について話をさせられたのでした。

毎日海外の為替相場や商品相場に目を光らせ、時々の国際情勢を織り交ぜて経済状況を解説したり、石油相場の先行きを予測したりと当時は一つの話をこしらえることに精一杯で汗をかきながら何とか毎度話したことを思い出します。法事のあと話をしなければいけない今の立場を思えばその頃の経験が生きているのか、もしくは同じように冷や汗をかき続けるのが私の役回りなのか。とにかく私には良い勉強となり意味あることだったのでしょう。

思い起こせば、小学生の頃から人前で話をさせられる機会が多く、もちろん満足な話が出来たからではなく、辻褄の合わないこともしばしばではありましたが、とにかくそうした機会が与えられたことは、今となってみればそれらが、今あるためにすべてあるべくしてあったと思えるのです。ですが、会社での様々な仕事をこなし、それから大学に通う忙しさに、その頃は本当のことを考える余裕をわざと自分に与えないようにしていたのかもしれません。

ですが、それらは、ただ生活のために、大卒の資格を取るためだけの単なる空虚な時間だったのではなく、今の私のためにはなくてはならなかった一過程であったのであろうと、今では思えるのです。経理の仕事にしても、その後、総務課に転属し、またある関連する協会の事務局としても、会議の司会をしたりと冷や汗の連続ではありしまたが、それらの仕事のすべてがとても意味があったと、今に生きていると、回り道ではありましたが決して無意味なことではなかったと思えるのです。

高校の友人の中には「経済学部なんかに行ってどうするんだ」という人がいました。彼は先見の明があって文学部に入り、好きなだけ哲学やらさまざまな思想をその頃既に勉強していました。その彼と数人で大学二年目に出会い、議論するのを聞いていて自分も何か学ばねばと漠然と思うようになりました。

そして手にしたのが一冊のお釈迦さまの本でした。何も考えずに時間つぶし程度にブラッと入った書店で、なぜかそれまで立ち寄ったこともなかった仏教書のコーナーに、その時いました。その本との出会いが私を変え、それまで会社帰りに漫然と大学に通うだけだった私に、自ら本当に学びたいという気持ちを起こさせ、会社勤めと大学の授業の合間に仏教書を読みあさる日々が続きました。この仏教に対する情熱のようなもの、学んでも学んでも尽きない向学心は今も続いています。このような一生懸命になれるものに、この時期に出会えたことはとても幸せなことであったと思えます。

それから宗教に関心のある友人もでき、関連する様々な分野たとえば、深層心理学やインドの聖人の思想や占星術などにも領域を拡大させていきました。気がつくと、何とか会社に勤め大学の授業も取りながらですが、私にはもう仏教の世界しかなくなっていました。すぐにでも僧侶になりたくなり、当時若者たちの愛用紙だった平凡パンチという雑誌に紹介された自宅を改造して日本一小さなお寺を造ったというお坊さんに連絡をとり会いに行きました。つづく

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托鉢の思い出

2005年07月02日 17時36分52秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
昔托鉢をしながら生活していた時期がある。高野山から戻りお世話になった東京のお寺の役僧を辞して後、四国を歩いていた時分のことだ。だから、今からかれこれ14、5年も前のことになる。

自分には帰るお寺なんか無かった。だから、役僧を辞めてしまったら、もともと自分名義だった団地の一室に戻るしかなかった。初めにしたことは、掛け軸の阿字を本尊様にしてその周りに持っていた仏様方を配置し、その前に素焼きの器を仏具にした修法用の壇を設けることだった。そこで毎朝お勤めをし、何とか自分が僧侶であることを確認した。

本来お寺で生活するから僧侶なのではない。職に就かないから僧侶だと思っていたから、何の仕事をすることもなく、職探しもしなかった。と言うことは生活が出来ない。それでも、家賃もいるし食費もかかる。そこで、インドで知り合った禅僧信玄師の手ほどきよろしく、また当時親しくして頂いていたK師から聞いていた、巣鴨のとげ抜き地蔵で一つ托鉢をしてみようと思いたった。

K師というのは、真言宗の修行のあと臨済宗の専門道場で修行されているときに、たまたま私がその道場に坐禅に行き知り合った真面目な修行僧だった。私より少しだけ年長なだけなのに世間を渡り歩いて苦労をされたのだろう、私には随分親身に世話を焼いてくださった。その後さらに天台宗で修行されて、今天台宗のお寺の住職になられた。

話を戻すと、その翌年には四国を遍路する予定で網代傘や脚絆を手に入れていたし、信玄師から教えられたビニール紐で編んだ草鞋もある。それに雲水衣を羽織って頭陀袋を前に掛け電車に乗った。JRの巣鴨駅でおり、とげ抜き地蔵まで歩く。4のつく日が縁日と聞いていたので、縁日に行ったからだろうか、まだ9時過ぎだというのに大変な人だ。

山門には既に4人の坊さんが立っていた。私が門を入ると、じろりと皆視線を投げてきた。新参者の登場だという感じ。頭陀袋から、サラダ皿として売られていたタイ製の木の器を両手で胸の前にもって立つ。初めての托鉢でどうして良いのか分からない。その少し前に信玄師の地元で托鉢したときはそれぞれの家の前で延命十句観音経を唱えながら回ったのだが、こうした立ちんぼの托鉢は初めてだった。

他の人を見ると口の中でぶつぶつやっている人もある。そこで私も理趣経を唱え始めるが、途中でお金を入れて下さる方があったりすると途絶えてしまう。なかなか思うようにお唱えが出来ない。般若心経にしたり十句観音経にしたり。

時間が経つにつれて参詣者が増えて境内の洗い観音には長蛇の列ができていた。山門手前で線香を買うとその列に並ぶ。その際に財布から小銭を取り出し、山門の両側に並ぶ托鉢僧の鉢に入れてくださる方もある。線香を渡すときに擦る火打ち石の音が耳に心地よい。線香の煙が辺り一帯に漂う。

鉢から開けた頭陀袋の中の小銭が重くなり首から下ろして下に置いた。午後になり参詣者が減りだして一人二人と托鉢僧も帰って行った。その中の誰かと話をしたかったが結局誰とも話さずじまいでその場を後にした。その日なぜかそのまま帰ることが出来ず、都電に乗り早稲田に向かった。早稲田の知り合いのN氏に「托鉢してきたんですよ」と告げていた。

それから週に何度か、こうして托鉢に出る生活が始まった。寅さんで有名な葛飾柴又の帝釈天にも行った。私のお寺の原点とも言える浅草寺にも行った。銀座まで地下鉄を利用して数寄屋橋でも托鉢した。

浅草寺は何度か行くと雷門で托鉢していると警備員から追い払われた。そこで駅からの道と仲店が交わる手前当たりで托鉢するようにした。場外馬券場があることもあって、土日には随分と気前のいい男の人たちから沢山の施しをいただいた。

銀座では、銀座の地下街に暮らすホームレスの男性からお金をいただいたり、ある時には料理屋からもらったばかりという感じのまだ冷たい脂ののった鯖の切り身をいただいたりした。その頃小さな紙に少し自分の思いを書いたものを差し上げていたのだが、そのホームレスさんはその書き物をベンチにゴロリと寝転がって読んで下さっていた。その姿を今も忘れずに憶えている。

数寄屋橋には宝くじの売り場が近くにあって、夏や年末の時期には沢山の人が並んでいたが、宝くじを買う前に私の鉢の中に小さく畳んだお札を投げ入れていく人も結構いた。その頃はただひたすら心を無にして立ち禅だと思って立っていた。人の姿を見ると入れて欲しいという思いがどうしても出てくる。さもしい思いが己とあきらめ、ただ何も思わず過ぎゆく人の姿を見れるようになると自然に人が目の前に来て下さっている。そんな思いで立つことに専念した。

ある時、銀座の街を歩いている姿を親戚に目撃され母親に連絡されるということがあった。不憫に思った親戚はそうまでして坊さんで居る必要は無かろうに、ということを言ったのであろう。その様な趣旨のことを母親からも言われた。しかしその頃既に確信的なものを得ていた私は別に気にすることなくそれまでの生活を続けた。

結局数寄屋橋交番近くの地下鉄の出口横と浅草寺の仲店脇での二カ所を自分の托鉢場と決めて、週に二度ほどその日の気分でそのどちらかへ向かった。時間は10時頃から2時間程度だけ。その他の日は図書館に通ったり書き物を用意したりして過ごしたように記憶している。

時バブル全盛期であった。おそらくそんな良い時期に托鉢をさせていただけたお蔭で、この2年ほどの期間、私は一年のひと月ほど四国を歩き遍路し、後はお寺の法要の手伝いを年に数度する他は托鉢だけというゆとりある生活を送ることができた。

托鉢をしているところで偶然にも高野山で一度お会いしただけの方と再会し、その後親しくお付き合いをさせていただいている先輩僧もある。施しをいただいて差し上げた書き物を見て連絡して下さり、それ以来連絡を取り合っている方も何人かある。私にとって懐かしくもあり、またとてもとうとい一時期の経験であった。
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私のフリーランサー時代

2005年06月01日 17時15分52秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
まだ私がフリーランサーだった頃の話をしてみたい。実際は、そんなに格好の良いものではない。下積み時代と言った方が良いかもしれない。15年ばかり前のこと、高野山から降りて世話になった放生寺を辞してから、一人で団地に住まい、四国を歩きに行ったり、インドへ行ったり。また東京にいるときには銀座の数寄屋橋と浅草の浅草寺仲店裏で托鉢をして暮らしていた。

その前くらいからお世話になっていた人にN氏が居る。何の後ろ盾もない私を誘ってくれて、時々食事をご馳走になり、色々と話す仲になった。私より7つばかり先輩だ。会うとよく「この年になって友達が出来るというのは珍しいんだよ」と言っていた。私も今思うとホントにその通りだなと実感する。N氏は学生時代、好き勝手に音楽に打ち込み、プロを目指していた。今一歩の所で、慎重になって、事業を興された。

その事業を今でも続けているが、バブル景気の時期どうだったのかは知らないが、はじけても未だに時代の波に乗って景気がよく、一人余裕を持って人生について考える、ゆとりのある人だ。私がインドを訪ねている時期にカルカッタにやってきて、一緒にカルカッタ随一のオベロイグランドホテルに一週間泊まった。

ヨーロッパから来ているとおぼしき初老のご夫婦たちの隣で、二人してプールで泳ぎ、プールサイドでラム酒を片手に語り合った。何を話したのか、話しながら二人とも涙を流していたことだけは憶えている。日本とインドの違いだったか、生き方の話だったか。とにかく一週間話詰めだった。二人でマザーテレサの教会にも寄った。がそれよりも、彼はその地区にある売春宿の女性の人生に涙していた。

国内でも、誘っくれてよくご家族と共にボートを湖畔に浮かべ遊んだこともあった。そうして私がインドにまとまった期間滞在することになった頃、ご家族に不幸があった。そんな中にもかかわらず、私は2ヶ月後にはインドへ飛び立たねばならなかった。インド僧になり、サールナートに滞在した。その数ヶ月後、N氏は仲間たちと私の母を伴ってインドにやってきてくれた。

カルカッタで出迎え、ベンガル仏教会を訪問し、寝台列車でサールナートへ。私の滞在していた法輪精舎に来て、無料中学校のために寄付を募るビデオを制作してくれた。瞬く間の一週間だったが、同じ事の繰り返しで、またヒンディ語に慣れず行き詰まっていた当時の私の心がその一週間でとても軽くなった。

それから一年後、私が日本に戻っていた時期に再婚され、私がインドの袈裟姿のままで、インドのお経をあげて儀式を執り行わせてもらった。結婚式はなかなかする機会に巡り会えるものではない。私にとっても、それはとても貴重な体験となった。

その頃からせっかく日本にいる間何か書いたらと勧めてくれて、ダンマサーラという名のB5版16ページの布教誌を発刊した。私はその内の半分程度の原稿を書くだけで、その他レイアウト、イラスト、編集、他の写真家さん作家さんとのやり取りなど、すべてN氏の好意で作って下さった。

当時は毎月200部印刷し、ページを折ったり閉じたりを私とN氏が行った。全て制作すると一緒に郵便局へ発送に行った。お互いの知り合いが殆どだった。一緒に制作に当たっていた作家さんなどと共に慰労会を催してくれたこともあった。

その後私は、インドの僧侶を辞め、日本の僧侶に復帰して、深川の小庵に住まいした。それでも隔月でダンマサーラ誌を発行し、今住まいする國分寺にやってきてからも続けていた。しかし、とうとう私自身の立場がダンマサーラというタイトルに合わなくなっていたこととインドへの憧憬だけでは原稿は書けないと思い、35号をもって廃刊となった。この間七年が経過していた。

正に、このダンマサーラ誌のお陰で、今の私があるのだと思っている。書くために勉強し考える習慣がついた。その後、膨大な量の原稿をホームぺージ「インド仏教通信・ナマステ・ブッダ」と題して整理し、6年前にインターネット上に公開した。ものを書くという習慣自体は私の中でもっと以前に芽生えたものではあるが、今のようなスタイルで書き続けられるのは正にダンマサーラ誌あってのことであり、そう思うとすべてN氏のお陰だとも言える。

実は、そのN氏の父上が亡くなられた。明日葬儀の導師として招かれ、午後の便で、東京に飛ぶ。父上も別の事業を興し、自社ビルを東京に建てられた立派な方だが、とても温厚で実直な人柄だった。心を込めて読経したいと思い、N氏との思い出をここに綴らせていただいた。
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スマナサーラ師の思い出

2005年04月25日 14時46分41秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
十年以上も前のことにはなるが、インドと関わりを持ち、インドの伝統的仏教教団ベンガル仏教会とご縁が出来て、インド僧になった。その比丘になったときの比丘名を、ダンマサーラといった。「法の核心」とでもいう意味。その頃、現在様々なところでご活躍のスマナサーラ師に学ばせていただいており、それと直接のインドの師匠であるダルマパル師の前後をいただいた名となっている。

スマナサーラ師には、インドの比丘になる少し前に、僧侶仲間と共に、その頃まだ方南町のマンションに住まいされているところへお邪魔して数度に亘り随分長時間色々と上座仏教について質問し、感化を受けた。

その一年数ヶ月後、日本に黄色い衣をまとって一時的にインドから戻った際にも南新宿にあった上座仏教修道会のお世話で、師の勉強会に何度も足を運んだ。たまたまその頃茨城県の鹿島の先に修道会の研修施設が出来、そこにスマナサーラ師が住まいされ、そこへも通わせてもらって、お教えを賜った。

同じような袈裟をまとっていても全くその資質が違い、埋め合わせようもない格差に申し訳ない思いを抱いたものだった。その研修所に泊まらせていただいたとき、スマナサーラ師が私と一緒の部屋で寝ると良いことがあるかも知れませんよ、よくスリランカにいる頃は子供たちが自分と寝たがって仕方なかったというようなことを言われた。

どんなことなのかよく分からなかったが、その晩は寝返りもうたずに熟睡できたことだけは良く憶えている。また、朝の瞑想の時間なかなか落ち着いた気持ちになれなかった頃、スマナサーラ師が、一緒にダンマチャッカパバッタナスッタ、転法輪経を唱えてみましょうと言って本を持ってこられ一緒にパーリ語のお経をたどたどしく読んだ。

そして、その後瞑想をしたとき、それまでとは全く違った心の統一感というか、どっしりと地に着いた瞑想が出来、細かい一つ一つのことがはっきりと分かる不思議な感じを味わったことがあった。ヴィパッサナーとはこういう事かとその仏教の瞑想の一端を垣間見る思いがしたものだ。

その後インドに戻り、また阪神大震災のボランティアに出たりと次第に疎遠になり、その後一度だけ日本テーラワーダ協会を結成された頃会にお邪魔したのが最後となった。その後私は日本に復帰してしまい上座仏教の衣を脱いだときにお礼の手紙だけ差し上げた記憶があるが、その後全く不義理にもお便り一つ差し上げていない。

申し訳ない思いのまま今に至っているが、その後先生は、協会での華々しいご活躍に加え様々な書籍を出版されている。一読された方は、これまでの日本の仏教書にない、本当のお釈迦様の教えはこうしたものだったのかとお思いになるのではないだろうか。

まさしく、本当に分かっておられるからこそ優しく分かりやすく書かれている。瞑想実践の裏付け故にその納得感が読まれている人に伝わってくる。是非スマナサーラ師の本を読んで下さることをお勧めする。(最新刊に養老孟司との対談「希望のしくみ」宝島社がある)

私も今日本の寺に住まい住職として役職を全うしている。しかしスマナサーラ師に学んだ仏教の基礎無くして私の仏教理解はあり得なかったと思っている。今もまだ日々学ぶ段階にはあるが、しっかりと基本を身につけさせていただいたお陰で、本筋は間違わずに歩めることを感謝したい。
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放生寺へまいります

2005年04月17日 18時50分13秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
明日朝一番の飛行機で東京に行き、早稲田の高野山真言宗準別格本山光松山放生寺ご開帳法会に出仕します。

放生寺は、放生会寺というのが正式名で、徳川三代将軍家光公が鷹狩りの際立ち寄り、放生会を盛大に行っていることをお聞きになり寺号を定め、葵の御紋を寺紋とすることを許し、徳川宗家の祈願寺の一つとされた由緒あるお寺です。

私が坊さんになりたくて訪ねていったお坊さんがこの放生寺のお弟子さんで、以来お世話になり、高野山から戻った際には2年ほど役僧として住み込んだお寺でもあります。

実は、このお寺の向かえに早稲田大学文学部の門があるのですが、私が大学2年生の秋、早稲田祭の晩に高校時代の友達2人とその門前で待ち合わせ、その晩四方山話に花を咲かせている内に、私はなぜか、何か東洋の思想を学びたくなり、その後手にしたお釈迦様の本がきっかけで仏教の道を歩むことになりました。

そのことを高野山で一年間の専修学院という僧侶養成期間を終えて戻り、役僧として放生寺の本堂の床を拭いていたとき、その7年も前のことに気付き、その場所が自分にとってとても意味のある場所であったと知りました。そして、正にその時、仏教でいう縁起ということが実感として一瞬のうちに閃き明らかになりました。

それからしばらくの間、全てのことがみんなとても有り難く思え、全てのことが今のこの一瞬に結実している。全ての物事の因と縁の織りなす交差点として今その時にその場がある。そのことが正にあるべくしてある。偶然なんていうことはあり得ない。全てのことがあるべくしてそこに存在し現象しているということが分かりました。

その後物わかりの良いご住職のお陰で翌年インドに行き、その数年後には、インド僧として日本で過ごす間居候をさせていただいたりと、この放生寺さんのお陰で私の今があります。そのありがたい観音様のご開帳に明日まいります。その様子は、また後ほど。
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