住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

永平寺・那谷寺・竹生島参拝 1

2007年06月02日 08時39分04秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月13日14日と、朝日新聞愛読者企画「日本の古寺巡りシリーズ」番外編と称して、永平寺、那谷寺、それに琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺を参拝する。

永平寺は福井県にある、誰もが知る曹洞宗の大本山であり、那谷寺は、石川県の花山法皇ゆかりの古寺。そして、宝厳寺は、西国観音の札所でもあるが、何と言っても、竹生島弁財天を祀るありがたいお寺である。この三ヶ寺について、早速、それぞれの歴史と見所を研究していきたいと思う。

永平寺

曹洞宗の大本山永平寺は、今から約750年前の寛元2年(1244)道元禅師によって開創された。「日本曹洞宗」の第一道場で、雲水さんたちが、常時200人も坐禅修行に励む聖地でもある。境内は約10万坪(33万平米)、樹齢約700年といわれる老杉に囲まれた静寂なたたずまいの霊域に、七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいるという。

永平寺の開祖道元禅師は、鎌倉時代の正治2年(1200)京都に誕生され、父は鎌倉幕府の左大臣久我道親、母は藤原基房の娘といわる。8歳で母の他界に逢い、世の無常を観じて比叡山横川に出家された。その後、京都の建仁寺栄西禅師の門に参じ、24歳の春、栄西の弟子明全とともに入宋。中国で天童山の如浄禅師について修行し、曹洞禅を授かり28歳のときに帰朝された。

帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創。坐禅第一主義を標榜して、坐禅堂を開単された。多くの信仰者を得たが、それが周囲の僧侶の反感を買い、寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題、波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)らとともに移られた。

翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれた。鎌倉幕府に招かれて法を説き坐禅を勧めた。坐禅は仏になるための修行ではなく、仏としての坐禅であるとして、日常の行持を重視した只管打坐を主唱した。病になり、上洛して高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の俗弟子覚念の屋敷で、入滅。世寿54歳。

永平寺第二代懐弉禅師は道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻や「永平広録(えいへいこうろく)」10巻等の著述を義介(ぎかい、永平寺三代)・義演(ぎえん、永平寺四代)」と共に集大成した。今日の世界的名著「正法眼蔵」はこの時に校合編集されたという。一方、永平寺伽藍の整備にも尽くした。明治12年明治天皇より道元禅師に承陽大師(じょうようだいし)の謚号が宣下されている。

七堂伽藍

永平寺は三方を山に囲まれ、南側の一方に永平寺川の流れを持つ深山幽谷(しんざんゆうこく)に位置している。寺院の建物を一般にサンガーラーマ(僧伽藍)というが、比丘(びく)たちが集まって修行する清浄な場所を指したもので、後世、寺院の建物を意味するようになった。特に中国宋時代になると禅宗が盛んになり、禅宗の清規(しんぎ)と共に日本へ伝えられた。

永平寺の七堂伽藍は鎌倉時代の中頃から、急斜面を開いて徐々に築かれたらしい。さて、禅宗建築では、山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす)の七つを七堂伽藍と呼んでいる。本来は、金堂、講堂、僧堂、鐘楼堂、経藏、食堂、塔をいう。

山門

山門は「三門」とも書かれる。総欅(けやき)造りの唐風の楼門で間口9間、奥行き5間の二重層からなる。永平寺伽藍の最古の建物で寛延2年(1749)8月、永平寺42世円月江寂禅師によって再建された。修行僧が正式に入門する永平寺の玄関に当たり、下層には四天王を祀り、上階には五百羅漢を安置する。昭和55年に福井県の文化財に指定された。

入門して上を仰げば正面に「吉祥(きちじょう)の額」といわれる扁額(へんがく)がある。『諸仏如来大功徳(しょぶつにょらいだいくどく)、諸吉祥中最無上(しょきちじょうちゅうさいむじょう)、諸仏倶来入此処(しょぶつともにきたってこのところにいる)、是故此地最吉祥(このゆえにこのちさいきちじょう)』

山門の両側には四天王を祀っており、東側には東方の守護神「持国天(じこくてん)」と北方の「多聞天(たもんてん)」、西側には西方の守護神「広目天(こうもくてん」と南方の「増長天(ぞうちょうてん)」。外部から進入する悪魔を遮っている。

正面の両側には、永平寺54世博容卍海(はくようまんかい)禅師が文政3年(1820)に山門を修復した折りに掲げた見事な聯がある。『家庭厳峻不容陸老従真門入(かていげんしゅん、りくろうのしんもんよりいるをゆるさず)鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来(さやくほうかん、さもあらばあれ、ぜんざいのいっぽをすすめくるに)』
     
この聯の意味は、永平寺を一個の家庭としたならば、ここは出家修行の道場であるから求道心の在る人のみ自由に出入りが可能である。と入門の第一関を提起している。楼上に案内されると中央眉間に後円融天皇の勅額「日本曹洞第一道場」の額がある。楼上には羅漢が祀られており、その中央には釈迦如来、脇侍として迦葉尊者と阿難尊者を祀る。最前列には「十六羅漢」を置き、その左右に「五百羅漢」が祀られている。つづく

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第二回日本の古寺巡りシリーズ「のどかな大原の里をゆく-陽春の三千院・寂光院」

2007年03月21日 12時35分14秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
一昨日、19日朝7時にお寺を出て、バスに乗り込む。東に国道を進み乗り合わせた同行39人とともに一路京都大原を目指して山陽自動車道を駆ける。笠岡インターから高速に乗り、道中祈願。般若心経に今日各お堂でお唱えする諸尊のご真言をお唱えする。

三千院・寂光院は天台宗のお寺。先だって電話で問い合わせると、心経でよろしいとのこと、また真言は真言宗と同じ平安時代に開かれた天台密教であるから同じようだ。しかし回向文が場合によったら、変更の可能性があり、「願以此功徳・平等施一切・同発菩提心・往生安楽国」もお唱えしておく。

今回はバスの中で、インドの話を中心に話をする。インドへ行かなくては仏教は分からない、そう考えて一度目のインド巡礼では、リシケシというヨガのふるさとでインドの宗教を垣間見て過ごしたこと。そして、僧としてどうあるべきかと考え始めたとき、二度目のインドに行く機会を得たこと。

そしてその時サールナートの後藤師に会い、インドの仏教が13世紀に消滅したのではなかったことを知り、インド僧になる覚悟をすること。そして、インドで体験した様々な仏教行事や日常のことをお話しした。

そのあと、今社会現象にまでもなっているという「千の風になって」と言う歌を取り上げたNHKのクローズアップ現代の録画ビデオを見た。皆さんとても感銘深くご覧になられたようだった。そして三千院寂光院の解説をして現地に到着。

私にとっては30年ぶりの大原。全くイメージしていた様子と違っていた。呂川に沿って緩やかな坂道を上がる。土産物屋が賑やかに客引きをしていた。三千院前まで参るとちらちら小雪が舞いだした。身震いするほどの緊張の中、三千院の御殿門を入る。

靴を脱いで内拝。客殿宸殿と参り、読経。往生極楽院では読経の後、駐在のお坊さんからお話を伺う。丈六の阿弥陀さんに観音勢至の両菩薩。観音さんは両手で蓮の台を持つ。この蓮台に乗って阿弥陀浄土に旅立つのだという。躊躇せずにその時には飛び乗らにゃいけませんよと言われた。軽妙なお話しにみな和んで話を聞いた。

それから不動堂や観音堂などを参り、そして寂光院まで長い道のりを歩いて参拝。陽春のはずが寒行となってしまった。建礼門院が住まいしていた頃もやはり寒い里であったのだろう。苦労が偲ばれる。29才で大原に入り、その7年後には亡くなられているのだから。

思えば三千院の往生極楽院を建立された真如房尼も29才で主人を亡くしお堂を建て、常行三昧の行に菩提を願った。ともに若くして人生の悲哀を舐め、過酷な行に生きることに救いを求めた。

仏法を分かりやすく、面白可笑しく現代人に説くことも必要だろう。しかし、それが度を超し、今ではどの宗派も耳朶に心地よいことしか言わない風潮が出来てしまってはいまいか。

今私たちの現前にその威厳をもってまた偉容をもって感銘深き姿を、お堂であるとか仏像を、残して下さった、いにしえの人たちがそれらをお造りになったときの思い、厳しさ、激しさに思い至る必要もあるのではないかと思う。

ただお参りして心経を唱えて、はいその蓮のうてなに乗れますよ、という簡単な話ではなかろう。念仏し、弥陀三尊の回りを何日も何日も歩いて浄土への思いを高めていった過去の人々の功徳にすがるだけではいけないであろう。浄土へ思いを馳せるというのはそんなに簡単なことであるなら、それらの人たちがそれだけの厳しい思いをする必要もなかったということになってしまう。

亡くなった人が「千の風になって吹き渡っています」という詩も、身近な人が亡くなって、打ちひしがれる人にひとときの癒しとなり、新たな人生のスタートにしてもらうものとしてそれは素晴らしい内容を持つものであるに違いない。

どんな宗教観を持つ人にも、世界中の人たちにも受け入れられていることは他にない魅力でもある。お経を聞いて心癒されるという時代ではなくなってしまったのかも知れない。

しかし、それだけに終わることなく、人の死ということ、生きるということをさらに探求していく一里塚と受けとめて欲しい。死は再生である、と番組の中で詩の訳者である新井満さんがいみじくも言われていた。

つまり、この詩は既に亡くなった人のことをうたっているだけでなく、正に死というこれまで縁起でもないと封印されていたテーマについて語り、死を自分自身のこととしても探求していく糧であって欲しいと思う。

そんなことを帰りのバスの中で、インドの死生観をテーマに遠藤周作さんが著した「深い河」の映画を見てから、みなさんとお話しした。京都市内の渋滞を避け、琵琶湖西岸を通り帰ってきた。

今回も参加した皆さんが気持ちよくお参りできるように微に入り細に入り心配り下さった倉敷観光金森氏に御礼申します。来週また二便目に参加する。どんな話が出来るだろう。今から待ち遠しく思う。

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京都 三千院・寂光院散策3

2007年03月13日 08時09分20秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
往生極楽院をあとにして、弁天池を南に進むと、延命水の井戸があり、その先には弁財天が祀られている。弁財天は、インドの河の神サラスワティで、人々に豊饒と実用的な智恵を与える。インドでは学問の神となっている。

庭を回遊して、先に進むと平成元年に建立された大きな金色不動堂が見えてくる。周辺にはしだれ桜、あじさいなどが多く植えられている。弘法大師の甥で天台宗比叡山に入り唐にも行って修学し天台密教を大成した円珍が比叡山で感得して刻んだという金色不動明王立像を本尊とする。木造97センチ。

さらに進むと、一番奥には観音堂があり、その北には来迎二十五菩薩示現の庭がある。また金色不動堂の北には、律川を渡って炭を焼き始めた売炭翁(ばいたんおきな)旧跡と伝えられるところに鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が祀られている。225センチ。

なお、三千院の三千とは、天台宗の教義中にある一念三千という言葉からきているもので、それは、自身のこの一念の中に地獄から仏までのありとあらゆる心が備わっているという教え。

三千院の緑の万華鏡によって醸し出される清浄なる空気を吸い、そして緑の光に照らされ、心を阿弥陀さんの眼差しに留めるとき、私たちは自ずと既に浄土にあるような心地に至るのではないか。

寂光院参拝

次なる目的地、寂光院へは、三千院から呂川沿いに戻り、田園の道を西の山へ向かう。土産店が建ち並び始めたら木々に覆われた高倉天皇皇后徳子陵(大原西陵)と出会う。

皇后徳子とは平清盛の二女で、高倉天皇の皇后として安徳天皇を産んだ建礼門院(けんれいもんいん)のことで、宮内庁が管轄しているが、五輪塔の仏教式で珍しい御陵の一つである。寂光院はこの西に並んで建ち、多くの観光客は、寂光院を目指しここを素通りするという。
 
寂光院は、天台宗の尼寺で、承徳年間(1097~99)に良忍が再興するが、創建は推古天皇(593~618)の時代、聖徳太子が父用明天皇の菩提のために建立したと伝えられる。

初代住職は、聖徳太子の乳母で玉照姫が敏達13年に日本で初めて出家された三人の比丘尼の一人となり、ここ寂光院に住職した。代々高貴な家門の姫がたが法灯を守り続けたと言われる。

寂光院と自然石に刻んだ門から参道石段を上がると、右手(東)の建物は庫裡であろうか。その先左(西)には昨年落慶したばかりの宝物殿があり、右には孤雲と名付けられた茶室が佇む。さらに上がると中門があり、右手は客殿であろうか。

その先本堂手前右側の庭には秀吉寄進の南蛮鉄の雪見灯籠が桃山城から移設されている。本堂左(西)側の庭園には、平家物語に語られるままに、汀の池(みぎわのいけ)と言われる心字池があり、苔むした石、汀の桜、そして樹齢千年の姫子松がある。

この松は、平家物語に建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と両天皇の菩提を弔うために終生この地で過ごされるが、平家物語のなかで、建礼門院を後白河法皇(夫高倉天皇の父)が訪ね対面するときに登場する松であるという。残念ながら、この松は本堂の火災の折に傷み、平成16年に枯れて、歌碑を建ててご神木として祀られている。

そして、この時法皇が詠われた「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけり」に因んで汀の桜、汀の池と名付けられた。汀の池の手前には、平家物語で語られる諸行無常の鐘楼がある。

本堂北側の庭園は、回遊式四方正面の庭で、石清水を引いた三段の滝を「玉だれの泉」と称して、一段一段高さ角度が異なる三つの滝がそれぞれ異なる音色が合奏するかの趣がある。

そして、桃山時代に建立された三間四面の寂光院に相応しい小降りの本堂は、平成12年5月消失後、内陣、柱は飛鳥様式、藤原様式、下陣は豊臣秀頼が修理させたときの桃山様式と消失前の本堂に忠実に復元されたという。往時の姿を取り戻した内陣は、漆塗りの黒い柱に赤、青、金色の極彩色で唐草模様が描かれている。中央には、高さが2mを越える鮮やかな彩色の本尊六万体地蔵菩薩像が安置されている。

火災時に、元のご本尊は本堂の屋根が崩れすべてが焼けてしまった中、全身を焦がしながら凜として屹立していたと言われる。さいわい、像内の願文、経文、小地蔵尊など納入品は無事であったため、今もって重文のまま収蔵庫に安置されているという。

新しい本尊は、国宝修理所の小野寺仏師によって復元制作された。彩色でうつくしく、日本で一番背の高い大きな地蔵尊。他には、建礼門院徳子の像と建礼門院に仕え大原女のモデルとされる阿波内侍(あわのないじ)像が祀られている。

この阿波内侍が里人の貢ぎ物の夏野菜(ナス、キュウリ)を、チソの葉と一緒に漬け込んだ漬物が「しば漬」の始まりとされ、みやげ物として茶店で売られている。

本堂落慶並びに本尊開眼供養は平成17年6月2日に行われた。本堂左(西)側には建礼門院が実際にお住まいになっていた御庵室跡と書かれた石標が立っている。平家物語の里は今も昔の趣のままに私たちを迎えてくれることであろう。


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京都 三千院・寂光院散策2

2007年03月12日 15時57分24秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
三千院参拝

春や秋の観光シーズンには三千院への細い参道は多くの観光客で賑わう。参道の片側には、小さな呂川が流れ、反対側には大原で有名なしば漬けなどの店が並ぶ。細い参道をしばらく登っていくと、突然眼の前が広がり、三千院の石垣が見えてくる。この石垣は、石工で名高い近江坂本の穴太(あのう)の石工(いしく)が積んだものだという。

来た参道をまっすぐにさらにさかのぼると、そこには良忍が声明の道場とした来迎院があり、その先に「音無しの滝」がある。良忍は類い希な美声の持ち主で、声明を唱えると、魚も鳥も静まり、滝の音さえも音を潜めたと言われている。

三千院は、南に呂川(りょせん)、北に律川(りつせん)に挟まれていて、その川の名も声明の音律「呂と律」からのものだ。石段を登ると門前には「三千院門跡」とある。門跡とは、皇室から格式高いお寺の住職としてお入りになる方を言う。

そのはじめは嵯峨大覚寺であった。元々嵯峨天皇の離宮であって、譲位後お住まいになられた。その後寺格を設けて皇族方が出家され門跡として住した。

天台宗三門跡のはじめが三千院(梶井門跡)であった。御殿門をくぐって中に入るとそこには大きな客殿が姿を現す。靴を脱いで中に参内する。大正元年に修繕され、各室の襖には、今尾景年、鈴木松年、竹内栖鳳など当時の京都画壇を代表する画家が桜、蓮池、芦雁といった花鳥を描いた。客殿の東・南側には庭園・聚碧園(しゅうへきえん)が広がる。

三千院は境内すべてが庭園であると言われる。高木の深い緑、低木の濃い緑、そして苔の輝くような緑色。しっとりと落ち着いた緑の万華鏡のような境内が展開する。

聚碧園は、江戸初期の茶人で、宗和流の始祖・金森宗和の作庭と伝わっている。池泉鑑賞式庭園で、東部は、山畔を利用して二段式となっており、南部は、円形と瓢箪型の池泉をむすんだ池庭となっている。

そこから宸殿に向かう。宸殿は大正15年、御所の紫宸殿を模して作られ、正面五間背面八間、中央は板敷きで畳を回り敷きにしてあり、本尊は伝教大師作秘仏薬師如来。他に阿弥陀如来、四天王寺創建時の本尊を模したと言われ、飛鳥白鳳時代の古式が見られる重文・救世観音半跏像(1246年造)が祀られる。

このお堂は、後白河法皇が宮中の仏事として保元2年(1157)に始めた御懺法講(おせんぼうこう)を修するために作られた。これは、法華経を読誦して六根を懺悔して罪障消滅して九品往生を祈る行法で、昭和の再興時から、小さな厨子に安置した後白河法皇像を開扉して始まり閉扉して終わる。雅楽の演奏が添えられ声明と共に奏でられる。毎年5月30日にここ宸殿で行われている。

宸殿東北にある玉座の間には、下村観山作虹の襖絵がある。この虹には7色のはずが一色少ない。赤がない。秋に紅葉の明かりが襖に映ると七色揃う仕掛けだという。宸殿を降り、外から往生極楽院に向かう。北側に有清園がある。石楠花がその季節には赤い鮮やかな色を付ける。

中国南朝宋の詩人謝霊運の詩「山水に清音あり」から名付けたとされる。池泉回遊式庭園で、山畔を利用して三段の滝を配して池に注ぐようにしつらえ、池には亀島鶴島がある。杉苔の絨毯から垂直に檜や杉が伸びている。見事な造形美を表現している。

往生極楽院は、平安時代、真如房尼の建立。29歳の若さで夫高松中納言実衡(さねひら)を亡くした真如房尼は、この往生極楽院(はじめ常行三昧堂と言った)を建立し、90日間休まずひたすら念仏を唱えながら、仏の周りを回る常行三昧の行を行ったといわれる。

常行三昧とは、右廻りに弥陀の回りを行道(歩きつつ)しつつ三昧(心を一つに専念せしめること)する。 歩歩声声念念(ぶぶしょうしょうねんねん・口に念仏を称えながら歩く)しつづけ、いわば陶酔の境地にまで至る。

そんな歴史を持つお堂ゆえに、今の世でも多くの女性を引きつけるのであろうか。因みに、作家の井上靖氏は、「東洋の宝石箱」と称したという。

奥行き四間正面三間の単層入母屋造りの柿(こけら)葺き。天井は山形に板を貼った船底天井。重文。堂内には、国宝阿弥陀三尊像。久安4年(1148)造立。金色のこの弥陀三尊は、信者の臨終に際して極楽浄土から迎えに来られる様子を表現している来迎相。でっぷりとふくよかな優しげな、ありがたいお顔をしている。

阿弥陀如来は丈六仏。194.5センチ。阿弥陀如来の印相は、来迎印で、上品下生。上品上生から下品下生まで、阿弥陀如来の極楽には行者の罪業と修行に応じて九品に区別されていると言われている。本尊背後に小さな2枚の開き戸があり、内部の胎内仏を拝むようになっていたらしい。

脇侍の蓮華をささげる観音菩薩、合掌する勢至菩薩は、ともに正座から少し前に乗り出したような倭坐り(やまとすわり)と言われる珍しいお姿をしている。132センチ。観音菩薩が慈悲心をもって人々の苦しみを救うのに対して、勢至菩薩は、智慧の強い力で迷いの世界にある人々に仏性を開かせ一気に悟りに至らしめると言われる。

往生極楽院はまた壁画が平安時代の作で重文。蓮華文の装飾や千仏図、飛天などが見られる。来迎壁の壁画は、現在は正面に胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅の両曼荼羅が、背面に来迎図が描いてあるが、元は来迎図が正面を向いており、曼荼羅は描かれていなかった。

船底天井、小壁、垂木には5色の極彩色で極楽の花園の画が描かれている。奥州の藤原清衡はこれを見て驚嘆し、わが故郷もこれで飾ろうとしたのが平泉の金色堂であるといわれる。

そして大事なことはこの往生極楽院は、お堂がそのまま須弥壇となっている。だから目の前に仏像がおられる。須弥壇ということは、仏の座に同座しているのと同じ構造になっている。

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京都 三千院・寂光院散策1

2007年03月07日 17時20分42秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
「朝日新聞愛読者企画-備後国分寺住職と巡る日本の古寺巡りシリーズ第二弾・のどかな大原の里をゆく陽春の三千院・寂光院」が企画され、この3月19日と28日に参拝する。どちらも天台宗の寺院。ここ真言宗とは同じ平安仏教ではあるけれども、少々趣が違う。その辺も含め、この度は楽しみおおい旅となりそうだ。

私自身、三千院は二度目である。ただ、30年も前に行ったきりなので、思い出そうにもなかなかその全体がイメージできない。思い出すのは、周りの風情豊かな畦道や、往生極楽院、それにその時お坊さんが面白可笑しく話をして下さったことくらいだ。

大原の里

「京都、大原、三千院・・・」と歌われて有名な三千院ではあるが、三千院は、その曲によって有名になり今日のような賑わいを見せるようになった。それまではひっそりした静かな里であったという。京都の北東の奥、大原にある。比叡山の西北の麓に位置している。賀茂川に流れ込む高野川を10キロさかのぼると山々に囲まれた小さな盆地大原に出る。

そもそも大原の仏教は、平安初期、唐に留学して天台宗の密教を大成する円仁(794-864)が五台山の五会念仏の節をもとにした天台声明の根本道場として大原寺(たいげんじ)を開創して開かれた。だから、こここそが仏教音楽、声明のふるさと、日本の音楽、和楽の発祥の地とも言われる。

そして平安時代中期には、「往生要集」という日本浄土教のもととなる著作をなした恵心僧都源信らの影響から宗門に疑問を感じる僧たちが山を下りて、官僧を辞して遁世し修行に打ち込む里となった。その一人良忍は(1072-1132)天台声明中興の祖と言われ、比叡山から大原に遁世して勝林院の永縁(ようえん)につき、それから来迎院を中興して声明の道場とした。

良忍は、尾張の出身で母は熱田神宮の大宮司の娘だった。12歳で比叡山に入り、東塔の常行三昧院で不断念仏を唱えた。23歳で大原に遁世し、毎日6万遍の念仏を唱え、京都市中で融通念仏を広めた。良忍以来大原は宮中の法要儀式はじめとする天台声明伝承の中心として、多くの門下をかかえ、草庵を結び別所と呼ばれ、最盛期には四十九の子院があったと言われる。

後に、湛智が出て、雅楽の理論で天台声明を理論化して大原を、中国の三国時代(221-265)の英雄曹操の第四子曹植が山東省魚山で天上から楽の音を聞きそれを中国梵唄(声明)のもととしたことから中国梵唄発祥の地と言われる魚山の名を付けた。そして魚山という言葉は、後に声明と同義語として使われるようになる。

そして、多くの洛中を喧騒を嫌い逃れた貴族文人達の隠棲の地としても有名である。女人禁制の比叡山延暦寺に対し、仏門を志す女性に開かれた場でもあった。

三千院の歩み

天台宗を開く最澄が、比叡山に根本中堂を建立する際、東塔南谷に構えた一堂宇、円融院(またの名は一念三千院)が三千院の起源で、後に近江の東坂本梶井に移り、円徳院と称した。この円徳院の歴代住職や縁故者の霊を祀る持仏堂を三千院と言った。

1118年最雲法親王が梶井に入室し、1130年、最雲法親王が三千院の門跡(住職)となり、梶井宮門跡となる。最雲法親王は後に天台座主となっており、その後もしばしば三千院の門跡が座主となっている。そして、このころ応仁の乱などで大原にも様々な行者が集まり、秩序を乱すことから、大原に比叡山は来迎院、勝林院、往生極楽院を管理する政所を置いて取り締まった。

その後本房を焼失した三千院の梶井門跡の仮御殿をこの政所に置いたことから、現在地との関係が出来た。だから、今でも三千院の建物は武家屋敷的な構えとなっている。そして、その後も梶井門跡は所在を転々とする。

つまり、三千院は、今では大原の里にひっそりと佇む静かな寺院だが、もとは、比叡山にあり、それから近江や洛中へと7回も8回も転々と所在を変えて、現在の大原に落ち着いた。そして今日のように三千院門跡を名乗る明治4年までは洛中京都御所の東にあった。

そしてその時まで皇室から門跡を迎えていた。だから、とても格式高く重んじられる寺格を有していたことになる。そしてだからこそ、所在を転々としながらも、妙法院、青蓮院とともに天台三門跡の一つとして、声明音律を統括し、比叡山の根本中堂、法華堂、常行堂などを管轄したのであった。

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日本の古寺巡りシリーズ第1回女人高野室生をゆく

2006年11月21日 13時45分42秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
昨日、朝6時20分お寺を出て、38名の参加者とともに、室生寺にお参りした。朝日新聞愛読者特別企画『備後国分寺住職と巡る日本の古寺めぐりシリーズ第一回、奈良県女人高野室生をゆく、晩秋の室生寺・松平文華館』。天気が心配されたが、何とか雨も上がり雲の合間から陽の差す空模様。

府中、福山、井原、笠岡と参加者を大型バスに迎え、一路室生寺へ。片道6時間。その間、軽妙な笑いを誘う添乗員さんの話に続き、分かりやすい仏教のお話をとのことで、私のこれまでの歩みなど四方山話をしたあと、坊さんとは何か。お寺とは何か。檀家さんとは何かという話をした。

坊さんは、職業と思っている人もあろうが、もともと職を持たないのが坊さん、僧侶だという話。このブログでは既に語り終わっているテーマではあるけれども、この度の参加者には珍しい語りであったようだ。

僧侶は、インドでは比丘であって、比丘とは食を乞う人のことであり、何も生産的な活動をしないで人様からいただく食で食いつなぎ、自分の悟りに向かって教えを学び坐禅瞑想に励み精進する人のことであると。

だから、坊さんの本来の仕事は、葬式法事等儀式儀礼を執行することなどではなく、やはり教えを学び精進することであって、そこから得たものを周りの縁ある人たちに伝え広めることであると。そんなことを長々と語った。

そして、お寺とは、七堂伽藍と言うけれども、もとは、がらんどうであった。七堂伽藍とは、金堂、講堂、塔、鐘楼堂、僧堂、食堂、経蔵。こんなに揃った姿になったのはずっと後のこと。

伽藍とは、サンガーラーマというインドの言葉が中国で僧伽藍と訳され、単に伽藍と言われるようになった。サンガーラーマとは、僧院のこと、僧侶が修行生活を行う場所のことである。

お釈迦さまの時代、初めて竹林精舎という建物が仏教教団にできたときには、ただ粗末な屋根のある建物に過ぎず、正にがらんどう。それも普段は遊行して歩く習慣のため、雨期の一時期過ごすだけのためのものであった。

それが時代を経て、レンガ造りの僧院ができ、そこには一人一人が瞑想する8畳くらいの部屋が沐浴する井戸を囲み、ロの字に配された建物に発展していく。そして、今私たちはお寺というと仏像を祀る本堂が必ずあると思っているが、それは、お釈迦様滅後500年は無かった。仏像はなくても、仏塔を拝し教えを学び、修行に励んでいた。

今でもミャンマーなどでは、仏塔や仏像を祀った仏殿と僧院とは離れて作られていて、一般の仏教信者が参るところと僧侶の生活する場は別れている。室生寺も昔は、今日歩いて参る伽藍は僧侶の修行の場であったであろう。しかし今ではそこは一般の参詣者に開放され、僧侶は下の本坊などに暮らし修行をする。

だから、お寺というのは、葬式法事をする場所などではなく、本来教えを学び修行する場なのであって、葬式法事という儀式儀礼も、本来それが教えを学び精進修行になるものであるからこそするのであって、だからこそ功徳があるということなのであろう。

それではお寺を護持する檀家さんとは何か。今では、いざというとき、家族の誰かが亡くなったなどというときに連絡するお寺がある家のことだと思っているかもしれない。しかしお寺が本来修行の場であり、教えを学ぶ場であるならば、そうしたお寺の活動に賛同し、御供えし供養する人々が無くてはお寺は維持していくことはできない。

檀家の檀は、檀那の檀であって、檀那は、インド語のダーナーからきていて、施し、布施のこと。そうしたお寺の教えに賛同し学び様々な行事儀礼に参加して施しをする檀家さんは、お寺にとってかけがえのない人たちである。

その人たちの中で、もしご不幸があったならば、その寺の住侶がそれは何を置いても駆けつけてお経を唱え、引導を渡す。それはごく当たり前、自然なことであって、日本仏教は葬式仏教であると揶揄されたりもするが、葬儀法事が悪いわけではない。この関係の順番を間違うからいけないのではないか。

こんな話をし、高野山の声明が流れるビデオを見たり、また、室生寺の解説をして、午後1時前に室生寺に到着。受付を通ると、仁王門の前には見事に真っ赤な色を付けた紅葉が姿を現し、そこに黄色やまだ緑の楓が絶妙のコントラストを興じていた。

鎧坂を登り、弥勒堂、金堂で、お勤め。他の団体や個人参詣者はお経を上げる私たちの団体を何か特別の存在のように取り囲む。私を室生寺の僧と勘違いして何やら尋ねてくる参拝者もいた。勿論丁寧に返答しておいた。

そして、石段を登り、本堂へ。堂内に靴を脱いで上がり座ってお勤め。丁度参拝者が入れる下陣が私たちの団体で一杯になる。ゆっくりとお勤めして、外へ出るとそこは五重塔を上に仰ぐ神秘的な空間。何とも美しい景色にとけ込んだ女人好み。曇り空のためやや晴れやかさを欠いた五重塔ではあったが、その景観は素晴らしい。

上に上がって、礼拝し、その西に位置する如意山を拝み、お勤め。心経一巻とオン・バン・タラク・ソワカ。ここは、室生山の中心。真言宗の最も厳粛なる祭儀である正月の後七日御修法の導師は修法前にここ室生寺の如意山にお参りするという。

それから、自由行動の後、松平文華館を拝観し、帰路へ。この日のために用意をした『モリー先生との火曜日』のビデオを見たり、仏教に関する様々な質疑応答に時間を費やして、一路福山へ帰還した。

参加者からは、「この度は参加して本当に良かった。行きたくて行けなかった室生寺に参れて。そして、いろいろな話を聞けたし、こういう参拝旅行でも帰りに釣り馬鹿日記や寅さんの映画ばかり見せられてきたけれども、今回は映画までとても宗教的な内容で感激しました」との声が聞かれた。企画添乗いただいた倉敷観光金森氏に感謝し、参加された皆さまとのまたの再会を楽しみにしたい。

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室生寺散策2

2006年11月09日 09時22分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
本堂の右手少し上がったところに大きな五輪塔がある。江戸幕府五代将軍綱吉の生母桂昌院のお墓である。桂昌院は仏教に帰依して綱吉とともに真言僧護持院隆光を師と仰いだ。隆光は将軍の外護のもとで僧録司という官職に就き、新義真言宗の関東における隆盛を不動のものとした。

将軍綱吉と桂昌院の帰依を受けて諸寺を再建したが、その一つが室生寺である。山門にも桂昌院の実家の家紋九目結紋(ここのつめゆいもん)が付けられている。因みに戒名は、桂昌院殿従一位仁譽興国惠光大姉。

そして、本堂左の石段を見上げると荘重できれいな五重塔が目にはいる。平成10年の台風で杉の大木が倒れ損壊した。しかし多くの篤信者たちの寄進により、室生山の桧皮を葺いた新しい五重塔が改修した。登ると、誠に小さい。16メートル、通例の五重塔の3分の一だという。しかし周りの木立に囲まれたその姿は美しい。

頂上には水煙はなく、代わりに受け花付き宝瓶、その上には八角形の傘蓋(さんがい)がある。これは高野山の大塔と同じもので、やはり根本大塔を意識した塔なのであろう。金剛界の五仏が祀られている。ここ五重塔がある舞台が第三壇。正にここ室生の神山の霊地である。

五重塔の右手には、織田廟があり、大きな五輪塔が2基、その先に修円廟が小さなお堂として祀られている。修円は、空海、最澄と並び称される平安初期の興福寺の学僧であった。

室生寺は、奈良時代から龍神の住む神山として名を馳せており、皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒を5人の持戒堅固な僧がこの地で祈願して効験があり、朝廷の命で興福寺の賢憬が開創した。

その後、現在のような伽藍を調えたのが修円である。以来山林修行と法相・真言・天台など各宗兼学の道場であった。江戸時代になって、本末制度ができて、どの寺院もどこかの宗派に属すことになって、初めて宗派を名乗るようになったのであって、それまで、誰でもが宗派にかかわらず縁故によって学べたのであろう。

しかし、桂昌院の働きかけでここ室生寺が再建されて興福寺の支配から逃れ、真言宗新義系の寺院として独立した。それからここ室生寺は桂昌院の庇護のある、女人にも開かれた寺院として、女人禁制だった高野山に対して世に名をとどろかす「女人高野」と名乗り、そう呼ばれるようになったのであろう。

そして、五重塔の左手には、如意山がある。三角をした小山がここ室生寺の中心。古い伝承に室生山には大日如来の宝珠があり、これが垂迹して天照大神となったという。室生寺の真西に三輪山の麓に初めて天照大神を祀った桧原神社があり、真東には伊勢内宮の本地斎宮跡があるという。

この東西の線を太陽の道と言い、室生山が古代の太陽祭祀にまつわる霊地であったことを物語っている。因みに、真言宗の最高の礼儀である正月の後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)の導師は、御修法前にここ室生寺の如意山を拝みに来るのだそうだ。

そして、その如意山から上に石段を上がりどこまでも続く石段を上がりきると、奥の院がある。途中に、桂昌院が帰依した大僧正隆光のひときわ大きな墓が沢山の僧侶の墓の中心に見つけられる。丁度この辺りの道は今工事中だ。

途中の窪地はシダの群生地で、この暖地性シダは天然記念物となっている。無明の橋を渡ると、奥の院へ上がる急な石段が聳えている。途中には賽の河原があり小さな石が沢山積まれていたり、地蔵尊、弘法大師像が祀られている。

奥の院には大きな位牌堂があり、その前に弘法大師を祀る御影堂(みえどう)。流板(ながしいた)の二段葺き、鎌倉時代の造。位牌堂は懸け造り。舞台と言うほどではないが、回り廊下があり下界を望める。遙か下に室生の村が見える。

室生寺は、山岳斜面にそれぞれの歴史を顕し、意匠を凝らした伽藍が配置されている。仁王門の先には何もなく、山に向かうと鎧坂が視界を遮る。

出たところには興福寺系の仏たちを祀る顕教の舞台が現れる。

そしてその上には、真言密教の神聖な儀礼の舞台。

さらにその上には霊地室生のシンボル如意山とそれに霊光を指し示すかのような五重塔が設えられている霊山の舞台。

石段を上がる毎に霊位が上昇するかのような造り。見事な舞台設計だと思う。

現在室生寺は、真言宗室生寺派の大本山である。毎年何人かの僧侶が本坊横の護摩堂で四度加行をする。もとは真言宗豊山派の大本山長谷寺との繋がりもあったと言うが、今は余り交流はない。末寺は70数ヶ寺。奈良には10数件で、東京と福島に多いという。今の座主さんは東京のお寺さん。

室生寺は、春よし、秋よし。霊地の空気にひたり、身も心も洗われる。是非一度訪れて欲しい。


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室生寺散策1

2006年11月08日 19時44分39秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月20日と29日に室生寺を参拝する。日本の古寺巡りシリーズ第一回となる。案内をおおせつかったので、少し、ここに、室生寺のことを書いておこうと思う。室生寺は実は私の行きたくて行けなかったお寺の一つ。これまで、何度も素通りしている。

名古屋から近鉄で大阪に入ったときも、ちょっと立ち寄ればよかったと思うこともあったし、橿原神宮や明日香村までお参りしたついでに足を伸ばせばよかったのにと思うこともあった。そのつど後悔しつつ今日に至っている。

室生寺は、近鉄室生口大野駅で降りる。そこからバスで20分。室生寺停留所で降りると、そこからしばらく室生川を左に見ながら、門前の土産物屋が並ぶ道を歩く。橋本屋という300年続く名物旅館が見えると、そこが入り口。太鼓橋を渡って、本坊前の門前に。女人高野室生寺とある。

そこから右に歩いて受付で、500円払って参詣順路へ。進むと右手に朱色の仁王門が姿を現す。左手に納経所。多くの参拝客らが写真を撮っている。門をくぐると、正面に手水鉢。左手にバン字池。ここはモリアオガエルが季節になると賑やかなところ。かつて生活した高野山の寶寿院の池にもモリアオガエルが生息していた。

そこから左に鎧坂が視界を閉ざす。しかし左右には有名な石楠花が覆い、また今の季節は紅葉が色づいている。坂を上ると第一壇の舞台が姿を現す。そこは、室生寺の1300年の歴史のうち1000年もの長きにわたり管理統制した興福寺の築いた舞台だ。興福寺は藤原氏の氏寺であり、大和の寺院のすべてを末寺にするくらいの力があった。

正面に金堂。平安時代初期に造られた柿葺き屋根の懸け造り。国宝。下陣は後から設えた。金堂の仏は、室町時代、興福寺が春日社の本地仏5体を安置してそれまでの様式を代えてしまったと言われている。一の宮・釈迦如来、二の宮・薬師如来、三の宮・地蔵菩薩、四の宮・十一面観音菩薩、若宮・文殊菩薩である。榧の一木造りの釈迦如来、十一面観音は国宝、他は重文。何れも立像。

それまで本尊は薬師如来と言われていたであろう。なぜなら、後背には七仏薬師が描かれているし、この金堂の横の蟇股(かえるまた)には薬壺が描かれているから。それにしても中央の本尊釈迦如来のお姿は満々と包容力に満ちて、お顔は優しげだ。

また、後背の後ろには国宝・帝釈天曼荼羅図が隠されている。帝釈天は寅さんの映画でおなじみだが、インドの雷神で、十二天の一つ、東方の守護神でもある。雨乞い祈願で何度も勅命があった室生寺ならではの神として、また都の東に位置してもいる。深意が込められているかのような設えである。

そして、金堂の左下には重文・弥勒堂が佇む。しっとりと風景に同化している。中央に重文・弥勒菩薩立像。右手に大きな国宝・釈迦座像。どっしりとした落ち着いた雰囲気で、榧の一木造り。左手奥には神変大菩薩像。弥勒堂から振り返ると、上に天神社があり下に拝殿。その左の岩には軍荼利明王が刻まれている。

金堂左手の石段を左に登り右折れしてもう一段上がると第二壇の舞台に出る。そこは、真言宗の築いた神聖なる儀式の舞台だ。灌頂堂とも言われる室生寺の本堂がある。その手前には防火用水だろうか、石で四角に囲われた水槽がある。

本堂は鎌倉時代に造られた檜皮葺、国宝。本堂の本尊は、重文・如意輪観音菩薩。観心寺と神呪寺と並び日本三大如意輪観音として名高い。前に真言宗の供養法を修する大壇があり、左右に板壁があってそれぞれ胎藏・金剛両曼荼羅が掛けられており、その前に灌頂用の壇が置かれている。

金堂がたくさんの仏で空間が狭く感じたのに比べ、こちらはガランとしていて、灌頂などの儀式を行うためのスペースを余した造りとなっている。この19日まで、弘法大師空海が室生寺に奉納したとされる仏舎利が宝筐印塔に入れられて祀られている。

これは建久2年(1192)東大寺再建時に勧進職・重源の弟子宋の人空体がこの舎利を数十粒持ち出し、また文永9年(1272)には東大寺灌頂院の空智が室生寺弘法大師石塔下より舎利を発掘したとと言われ、永正6年(1511)に今の宝筐印塔に祀ったという。つづく

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