住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

浄瑠璃寺と岩船寺ー1

2008年03月10日 15時40分59秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職とゆく日本の古寺巡りシリーズ」第4回として、この3月14日と26日に京都府山城の浄瑠璃寺と岩船寺を参詣する。京都と奈良の県境にある山城の丘陵地。もともと山背と書いていたが、これは奈良の都から見て山の背後にあるからこの名称がつけられた。しかし、都が長岡京に移ると、山の手前ということになり、山城と書くようになった。

この一角に当尾(とうの)という鄙びた風景が残る里がある。平安時代にはこのあたりは沢山の塔が立ち並び、昔は塔尾と書いたらしい。百塔参りが流行り、応仁の乱などでみな焼失したが、石仏だけは沢山今でも残されている。

鎌倉時代中期から室町初期に東大寺大仏殿再興した人々が、中には宋の国から来た名工もいたようだが、花崗岩の岩盤のあるこの地に来て、磨崖仏や板碑、石塔を造った。弥勒菩薩や阿弥陀三尊、地蔵尊など、35カ所に90もの石造物が散在するという。

周りにはアジサイや彼岸花などが咲き緩やかな丘を上り下りする中に石像が佇む。それら石像がこれからお参りする岩船寺から浄瑠璃寺へと1.5キロの道のりを案内してくれるかのようにおられるのである。

最初に訪ねる岩船寺は、浄瑠璃寺の北東1.2キロのアジサイで有名なお寺であり、もとは浄瑠璃寺よりも先に出来た大寺であった。室町様式の三重の塔がひときわ美しいお寺としても有名。729年(天平元年)聖武天皇の勅願で行基が建立したのが始まりといわれ、806年(大同元年)智泉大徳が報恩院、灌頂堂を建立した。

智泉大徳は、弘法大師の姉の子で、十大弟子の一人。嵯峨天皇の后・橘皇后が皇子誕生を智泉に祈願させるために報恩院を建てたという。智泉は図像を書写するのに長けていたといい、高野山東南院を建て住んだが、弘法大師に先立って亡くなった。壇上伽藍内に廟がある。

813年(弘仁四年)嵯峨天皇が皇子誕生を感謝し、堂塔伽藍が整備され岩船寺と名を改めた。最盛期には39の坊舎をもつ大寺院であったが、1221年(承久三年)承久の変により大半が焼失。承久の変とは、源実朝暗殺後源氏の血統断絶で北条氏による独裁になろうというとき、鎌倉幕府倒幕を目論む上皇三人が企てた反乱で、敗北した後鳥羽上皇らは隠岐などに流罪になった。

それ以後、再興された堂塔も再度の兵火により次第に衰え、現在は本堂と三重の塔のみが残る。山門の左前に石風呂が置かれている。39坊の僧が身を清め岩船寺に詣でたと言い伝えられる。だから岩船寺とも言われるが、寺名の由来は経典からだという。

小さな趣のある山門を入るとすぐ目に飛び込んでくるのが緑の木立に囲まれて建つ三重塔で、三重塔は834~847(承和年間)嵯峨天皇の子・仁明天皇が智泉大徳を偲んで建立された。現在の三重塔は、「嘉吉二年(1442)五月二十日」の銘があり、総高17.5m。軒下の部材に彫られた渦模様には、初重二重三重と変化があり、室町時代の特色が出ている。内部には、須弥壇と来迎壁画がある。

明治32年に特別建造物として保護され、その後重要文化財の指定を受けた。昭和18年に解体修理が行われて以来風雪に耐え、屋根瓦の波打ち傷みが激しく、外部的にも緊急に保全修理が必要となり、工期3年3ヶ月余りの工期で、文化財保存修理技術により外部、塔内部の壁画の調査・復原等、平成の大修理が行われた。
 
本堂は江戸時代のものが老朽化し、1988年(昭和六十三年)に、再建され、現在に至っている。こぢんまりしたお堂だが、重厚感のある威厳あふれる建物。東向き。本尊阿弥陀如来座像は、像高284.5cm。正面からは肩幅が広くどっしりしているが、奥行きは浅く、胸や腹もなだらかで、優雅で品格がある。像内の墨書き銘により、946年(天慶九年)の作とされる。印相は上品上生印(平安時代)重要文化財。ケヤキの一木造。

本尊を囲むように四天王立像があり、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)(鎌倉時代)不指定文化財。本堂右奥には、普賢菩薩騎象像があり、法華経に説く、6本の牙を持つ白象に乗る普賢菩薩像で、法華経信仰者を守護すると言われる。平安時代の作で、像高38.9.cm。全体ではその倍くらいの高さ。平安時代後期の目鼻立ちが優しくほっそりした体つきの繊細なご像。重要文化財

また、この普賢菩薩象の厨子には、厨子内部に板絵・法華曼陀羅図が描かれ、永正十六年(1519)12月、遍照院覚忍房を本願とし、大工国定長盛・藤原弥次郎が修理した銘あり、作者智泉大徳という。絹地に截金(きりかね)、彩色が施されており、長く秘仏であったために当時のまま保存された貴重なもの。

境内には、十三重石塔があり、鎌倉時代後期の作で、高さ6.3m重要文化財。軸石のくぼみの中から水晶の五輪舎利塔がみつかっている。智泉大徳の墓とも伝承される。このほか、石室不動明王立像(鎌倉時代)重要文化財。

三重の塔隅垂木をささえる木彫に天邪鬼(鎌倉時代~室町時代)重要文化財。五輪塔(鎌倉時代)重要文化財。十一面観音像(鎌倉時代)十二神将像(室町時代)釈迦如来像(室町時代)薬師如来像(室町時代)不動明王像(室町時代)など沢山の仏像を有す。

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<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>4 阿弥陀寺

2007年11月10日 17時14分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に東大寺別院阿弥陀寺を紹介しよう。周防華宮山阿弥陀寺といい、太平山の山麓で眺望絶佳のところにあり、周防の国衙(国司が政務を執った役所)にも近い。平安後期から鎌倉初期にかけて活躍された名僧俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が、東大寺を再建するため、周防国務管理在任中に建立された由緒ある古寺である。

治承4年(1180)東大寺が平重衡(たいらのしげひら)の兵火にかかって焼失。大仏殿が焼け落ち、本尊盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が大破したのをはじめ、堂塔伽藍(どうとうがらん)の多くが、内部に安置されていた幾多の尊像とともに灰燼に帰した。

非常に残念に思った後白河法皇は、大仏を改鋳し、大仏殿を再建しょうとの悲願を起こし、最初、法然に再建を依頼したが、法然はこれを固辞して、当代きっての有徳者であった重源を東大寺再建の大勧進職に推挙した。

重源上人は、まず大仏を鋳かえることとし、文治元年(1185)にこれを改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手。翌2年に、朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付され重源上人を周防国務管理に任ぜらた。建久4年(1193)には備前国が追加されて、周防国からは良材が、備前国からは瓦が供給された。

上人は宋人の陳和卿(ちんなけい)、日本の大工物部為里らをひきいて防府に下向され、4月18日佐波川をのぼり徳地の杣山(そまやま)で杣始めを行なったという。そまとは、木材にするための木を植え、切り出す山を言い、杣木をそまやまから切り出すことをそま出しという。

山地は断崖絶壁が多く杣出しに不便であったので道のないところへ岩を崩して道をつけ、橋を架け、材木を佐波川の木津に出して筏に組み、河口まで28キロメートル余の間に118ケ所のせき場をつくって筏を流し送るなど苦労の連続であったようだ。

しかし、上人は、寒暑も厭わず、老齢の骨身を削って精進と努力を続け、数ヶ月の間に、東大寺の柱の用材とするため口径1メートル60センチ、長さ20メートル余の杉をはじめ130本の巨木を切り倒している。周防国は瀬戸内海に開けた国であり、東大寺への用材も瀬戸内海を舟で運ばれた。

ともかくも、このような巨木が鬱蒼と生い茂る西国有数の森林が当時の周防には存在したのである。搬送に莫大な人夫を要し、在地の地頭の妨害もあり、地頭職を停止させられた者もいた。材木に刻する東大寺の焼印(槌印)が阿弥陀寺に伝えられている。また阿弥陀寺参道には用材のレプリカが展示されている。

杣始めから5年後の建久元年(1190)10月、東大寺上棟式を挙げ、ついで同6年(1195)竣工の大供養が営まれた。源頼朝は参列しているが、本願主であった後白河法皇は建久3年3月崩御されて、この落慶式にご臨席されなかった。

阿弥陀寺は東大寺の周防別所として、後白河法皇の現世安穏を祈願して文治三年(1187)に建立。上人が当地に下向された当時は、源平合戦の余波で国府は疲弊し、士民の流亡する者も多く、また飢えを訴える者が雲集し、これに米を与え、野菜の種をとり寄せ、耕作を励まして、国府の繁栄を図ったという。

この地を選定し、自ら鍬をとって開墾すること三日三晩、創建当時の境内は、東は木部山(きべやま)、南は木部野を横ぎって半上峠(はんじょうだお)に向かう旧街道、西は今の多々良山、北は大平山に至る広大な地域を占め、この中に浄土堂をはじめ、経蔵、鐘楼、食堂(じきどう)、温室および実相坊、成就坊など多くの支院僧坊があった。

上人はこれら阿弥陀寺の経営のため、本寺を建立すると同時に寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付。僧坊は、長い年月を経るうちに火災や倒壊などの災難が多く廃寺となり、今はただ本寺のみが残る。

阿弥陀寺の入り口である、仁王門は市の重文で、茅葺き。貞享二年(1685)毛利就信公が再建。安置される金剛力士像は、仏法の護持にあたる像で隆々たる裸体の忿怒尊。高さ2.7メートル。桧寄木造り。快慶一派の作で、国の重要文化財。玉眼、堂々とした力強い容姿は鎌倉期の特色を表す。

仁王門を進むと、湯屋(重要有形民族文化財)がある。建坪47.38㎡、焚口・鉄湯釜・湯船(石材)・洗い場(石畳)・脱衣場からなり、湯釜と湯船を別々に設けた鎌倉時代以降の古い様式を伝えるものである。現在でも7月の開山忌には湯を立てて入浴させている。

さらに、石風呂があり、重源上人が東大寺用材の伐りだしに従事する人夫たちの病気治療や疲労回復のために設けたものと伝える。鎌倉時代のサウナ。新しい石風呂では、地元の世話役が毎月第1日曜日に定期的に焚いている。神経痛や腰痛によく効くという。

現本堂は、享保16年(1731)に毛利広政公が再建したもので、本尊に阿弥陀如来立像、ほかに十一面観音などを祀る。念仏堂は、明治35年焼失後の再建。護摩堂は、享保16年本堂と同時期に再建されたもの。他に経堂、鐘楼がある。

そして、重源上人を祀る開山堂には、重源上人坐像が祀られ、国の重要文化財(鎌倉時代)。88.78㎝桧の一木彫り。快慶一派の作。日本最古の寿像といわれ、よく老僧の風格をあらわす。鎌倉肖像彫刻の傑作である。

宝物庫には、数々の寺宝を収蔵する。まずは、国宝の鉄宝塔(鎌倉時代)。重源上人が願主となって建久八年(1197年)に鋳造された。鋳工は東大寺の大仏を鋳た日本鋳物師を代表する、草部是助・是弘・助延たちである。屋蓋部・塔身部・基壇の三部を分鋳し組み立てている。総高3メートル。相輪部は後補。塔身部にはもと両面開きの扉がついていて、その中に仏舎利七粒を納める水晶五輪塔(国宝)13.9㎝が安置されており、併せて国宝に指定されている。

このほか、東大寺槌印、27.2センチの木の柄をもつ槌で、印面に東大寺の三文字を刻印してあり、切り出した用材に刻印するためのもの。国の重要文化財。また、紙本墨書き阿弥陀寺領田畠注文並びに免除状、鎌倉初期の正治2年に国衙領のうち田22.9ヘクタール畠3ヘクタールを寺領として諸公事の課役を免除したもので、重源上人の袖判がある。袖判とは、文書の袖・右端の空白に署した花押のこと。国の重文。

伽藍や文化財については以上である。ここで少々、阿弥陀寺開山の重源上人について補足すると、重源上人は、京都の紀氏の出。真言宗京都醍醐寺に入って出家、のち法然に学んだという。47歳の仁安2年(1167)宋に渡り、翌年帰国。帰国は臨済宗を開く栄西と一緒であった。

重源は真言宗の僧であったが、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、各地に阿弥陀堂や阿弥陀如来像を建立するなど、その事跡を特色づけているのは阿弥陀信仰である。それは鎌倉新仏教とよばれる新仏教が興隆する時代の中でその流れに沿うものではあったが、法然や栄西とは違った道を歩み、勧進聖や宗人陳和卿や土木技術者など実働部隊をひきいて大事業をなすプロジェクト集団とも言うべきものを組織し、勧進に生涯をかけた人であった。

重源の指導のもと、大仏の再鋳(さいちゅう)や大仏殿の再建、仏堂内の諸仏の造立が次々と実現してゆく。その過程で、仏像の世界では巨匠運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派仏師(けいはぶっし)によって写実性と躍動感に富んだ鎌倉彫刻が成立し、また建築の分野では大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる新しい様式が開花し、重源がその成立に大きく関与したといわれる。

大仏様とは、天竺様とも言われ、当時の南宋の建築様式を言う。今日に残る代表的な大仏様である東大寺南大門のように、挿し肘木を用いて柱から前に木を出し屋根を支える方式が特徴で、木部は朱壁は白塗りで、野屋根や天井がないので、内部が高く見通せる構造になっている。

重源は、宋を三度にわたって巡礼した経験をもち、東大寺再建の大勧進(だいかんじん)に任ぜられたときには、すでに六十歳を超えていた。それまで、僧侶が国司に任ぜられることはなく、周防国も例外ではなかった。しかし、東大寺の再建は重源の行動力と人望をもってしか叶わなかったわけで、重源は国司職に補任され実質的に国司の任にあたった。そこで、重源は国司上人と呼ばれたといわれる。

また、天平の昔、大仏造営に献身的に協力した高僧行基(ぎょうき)の存在も強く影響していたであろう。当時、数々の偉大な業績を成し遂げた重源を賞して、行基菩薩の再来と敬う人々も多かったと言う。

阿弥陀寺は、今日では、西日本一のあじさい寺として有名である。地元のあじさい保存会の人々によって境内至る所に様々なあじさいが植樹された。毎年6月中旬のあじさい祭りには多くの人々で賑わう。あじさいの彩りとともに、日本仏教の象徴とも言える東大寺大仏殿を支えた周防の国の豊かな自然と歴史の重みを味わって欲しいと思う。

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<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>3 周防國分寺

2007年11月08日 10時37分39秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
国分寺の歴史についてはこのくらいにして、周防(すおう)国分寺について学んでいこう。ここまで見てきたとおり、どこの国分寺も栄枯盛衰を繰り返し、その過程で少しずつ境内が移動している。しかし、周防国分寺の伽藍は、いまでも奈良時代の創建時の位置に立っており、全国的にきわめて珍しい。

平成9年から16年にかけて行われた金堂の解体修理の過程での発掘調査で、金堂は奈良時代創建当初の金堂の上に再建され、創建当初から、その位置が動いてないことが判明した。現在の寺域は、東西に約1町、南北に2町の寺域を保持し、その中に、仁王門・金堂・聖天堂・二の門・持仏堂・庫裏・長屋・土蔵を現在に伝えている。

本尊は、室町時代の薬師如来坐像(重要文化財)で、その他に平安時代初期の日光・月光菩薩(重要文化財)、藤原時代初期の四天王(重要文化財)など、数多くの仏像を安置している。現在宗派は、高野山真言宗で、別格本山。

仁王門(県指定)は、重層入母屋造り、桁行3間(9.94m)、梁間2間(6.0m)、棟高(12.12m)本瓦葺き、建坪36坪。天平創建時の旧境内地に立っている。二手先(ふたてさき)で支える上層の縁・勾欄・尾垂木付二手先の組物二軒扇垂木の軒など、全体のバランスがよくとれた美しい門である。現在の仁王門は、文禄5年(1596年)に毛利輝元が再建。室町時代16世紀中後期の作の仁王像(3.5m)を安置。檜材寄木造り。

金堂(重要文化財)は、二層入母屋造り、桁行(けたゆき)7間(22.0m)、梁間(はりま)4間(15.8m)、棟高(18.0m)、本瓦葺き、建坪116坪。正面、背面ともに一間の唐破風造りの向拝を取り付けている。柱の上にある斗拱(ときょう)は上下で違い、上層は青海波支輪・尾垂木を伴った二手先、下層は蛇服支輪付の出組(でぐみ)で、軒も上層は扇垂木、下層は指垂木としてそれぞれ変化をつけている。

現在の金堂は、室町時代の大火の後に大内氏が再建し、江戸・安永8年(1779年)毛利重就(しげたか)によって奈良時代の大きさに再興された。平成9年から16年にわたり総事業費19億円をかけて重要文化財国分寺金堂保存修理事業として、財団法人文化財建造物保存技術協会の設計監理のもとで平成の大修理が行われた。大変な大事業をなされたご苦労が偲ばれる。

周防国分寺金堂の須弥壇上には、本尊藥師如来坐像[坐高218センチ・檜材・寄木造り](重要文化財)を中心に日光・月光菩薩立像、四天王像、十二神将などが安置されている。本尊藥師如来坐像は、室町時代制作の仏像としては極めて珍しい大型像で貴重な作例である。

国分寺の本尊は、創建当初は釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期に藥師如来に替わっているが、周防国分寺も創建当初は釈迦如来であったが、国分寺の国家鎮護と、人々の慶福を祈願するという趣旨から、早い時期に藥師如来になったという。

室町時代、1417年の火災で焼失し、現在の本尊は室町時代1421年金堂再建時に大内盛見によって造られたもの。また、この1417年の火災のときに時の住職仙秀宝憲が藥師如来の左手を持ち出し、現在の本尊の胎内に収めたと寺伝で言い伝えられてきたというが、金堂の解体修理の為の仏像移動で、胎内から出てきた。

ところで、その百年ほど前、周防国司に西大寺流の律宗に属する鎌倉極楽寺善願が任国し、そのころから周防国分寺は奈良西大寺との関係が結ばれ、住持職の任命権を持ち、西大寺法会への出仕が義務づけられていたようである。

そして、正中2年(1325)には西大寺の僧が周防国分寺を再興しており、そのあと、興福寺南円堂から出現した仏舎利を西大寺の僧の手を経て周防国分寺五重塔に納められたというが、その金堂再興に際して造像された本尊薬師如来の左手が現本尊の胎内にあったものであろう。

さらにはこの後17世紀初頭には、奎玉房という周防国分寺住持から西大寺長老になる住持も現れる。周防国分寺は当時律戒清浄の道場、かつ密教の各種祈祷の他灌頂の儀礼を行う格式高い密道場としても西大寺流を踏襲していたが故に、持戒堅固な高僧が法灯を守り今日があるのだと思われる。

またこの度の金堂修理に関連して、本尊様の薬壷の蓋を開けたところ、中に、五穀(米・大麦・小麦・大豆・黒大豆)・丁子・菖蒲根・朝鮮人参など15種類の薬と、財宝として色ガラス、水晶のほか五輪塔が収めてあったという。

本尊藥師如来の両脇侍として日光・月光菩薩立像(重要文化財)が安置されている。本来は左右対称に作られるのが普通であるが、この両像は、左右同形で珍しい。日光菩薩が180センチ、月光菩薩が179センチ、檜の一木造りである。温和な相貌、腰が高く伸び伸びした体躯から平安初期の作と見られる。

四天王像(重要文化財)いずれも2メートルを超す巨大像。四天王は、須弥山(古代インドの神話や仏典に出てくる世界の中心にあるという山)の四方にいて、仏法を守っている四人の天王。東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天が位置し、それぞれ剣・三鈷・杵・宝塔を手にして甲冑で身を固め、足元に邪鬼を踏みつけている。

国分寺は、正式には、『金光明四天王護国之寺』と称されるが、これは「金光明経」に『もし国王がこの経を崇拝すれば、われら四天王はこの国を常に守護せん』と書かれていることによる。檜の一木造。漆彩色像。持国天・増長天は本体と邪鬼が一木造である。平安時代後期、藤原時代初期の作。

持仏堂は、宝永4年(1707年)毛利吉広によって修築された客殿。堂内には、阿弥陀如来坐像(重要文化財)等の諸仏や位牌堂がある。半丈六阿弥陀如来像(坐高114センチ・国重要文化財)は、檜の寄木造りで漆箔、彫眼、上品下生印を結んだ姿である。藤原時代の作で、伏し目がちな慈眼、柔和な表情は、人々を救うにふさわしく、肩のはりのなだらかさ、衣文線の流麗さは、平明、優美、調和という定朝様の特色を表している。

このほか、快慶作・阿弥陀如来(県指定有形文化財)鎌倉時代・坐高96センチ。檜の寄木造り、玉眼入り。高麗からの渡来仏・金銅毘盧舎那如来(県指定有形文化財)。坐高51.6センチ、智拳印。 9世紀統一新羅時代の作・金銅誕生仏(県指定有形文化財)。坐高25.3センチ、左手を高く上げて右手は下げた逆手の形態は貴重なもの。

さらに堂内には、阿弥陀如来立像・十一面観音・十二神将・十二天・不動明王・愛染明王など、五十体以上の諸仏が安置されている。このほかも含め約百体の仏像、二百枚の絵画、周防国分寺文書など千五百の文書、8500点の典籍経文が現存している。まさに山口県下一、ないし全国の国分寺一の文化財の宝庫と言えるであろう。すばらしいの一語に尽きる。

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<周防国分寺と阿弥陀寺参拝>2 國分寺の研究②

2007年11月07日 11時21分15秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
国分寺は、聖武天皇の勅願によって諸国に68ケ寺建立された官立の寺院。『国泰らかに人楽しみ、災除き福至る』と聖武天皇が詔勅に述べられたように、国民の幸せを祈念され、当時流行っていた疫病や戦乱から国民を守り、五穀豊穣の世となるようにと諸国に建立された。

創建当初、国分寺は、寺域2町四方、その中に、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔・食堂・経蔵・鐘楼・僧坊などの七堂伽藍があった。また、当初本尊は丈六の釈迦如来で、国分寺の正式名称は金光明四天王護国の寺と言った。

その後、平安中後期には、律令体制が衰退すると言われてはいるが、少なくとも3分の2強の国分寺は10世紀以降12世紀に至るまで存続していたことが確認されている。そして、国分寺の修理料や法会の布施供養料は原則として正税でまかなわれていたようで、国分寺僧・講師の任命手続きも律令制の枠内で行なわれていた。しかし、一方では東寺、法勝寺、成勝寺、観世音寺などの中央、地方の有力寺院の末寺あるいはそれらの強い影響下におかれたという。

鎌倉初期には、表面的には変化ないものの、講師の名誉職化と役割の交代、境内などが狭くなり規模が縮小して、次第に諸寺化していった。さらに武士特に地頭・守護による国分寺領などの掌握が促進されたが、そのことは、当時、国分寺の宗教活動が地域住民と密接な関係を有していたことを示している。

蒙古襲来期から建武の親政並びに南北朝の内乱期には国分寺の役割が見直され奈良・西大寺流律宗による国分寺再興が進む。西大寺自体は叡尊により暦仁元年(1238)から本格的に再興がはじめられる。

西大寺は聖武天皇の子称徳天皇(孝謙天皇重祚)が創建した大寺院であるが、当時は四王堂、食堂、東塔などを残すのみとなっており、一応はまがりなりにも奈良時代以来の鎮護国家寺院として機能し、南都七大寺の一つとして認識されていた。

叡尊は再興にあたって鎮護国家寺院としての性格を損なうことなくその機能を継承したといわれ、蒙古襲来期に叡尊は異国降伏の祈祷を盛んに行い効果をあげ、その名声を不動のものとする。こうした機能を発揮した西大寺に対し為政者が、当時再認識されてきた国分寺を掌握させるのが適当と考えたのであろう。

亀山院(1287~1298)が叡尊在世時代に19カ国の国分寺を西大寺に寄附。続いて、後宇多院(1301~1308)が信空(第2代長老)からの受戒に感激し、60余州の国分寺を西大寺の子院としたとされる。

また1391年9月28日付「西大寺諸国末寺帳」によると、周防、長門、丹後、因幡、讃岐、伊予、伯耆、但馬の8ヶ国が見える。さらに、尾張、加賀、越中、武蔵、陸奥の国分寺も末寺となっている。

西大寺は叡尊、忍性時代から国分寺と関係を持ち始め、13世紀末から14世紀のごく始めには形の上だけにはせよ国分寺を管掌するようになったと見てよいようだ。次第に、国分寺と西大寺の結びつきが希薄になりつつも中世後期まで西大寺との本末関係を維持していた国分寺の代表は、周防、長門であった。その関係は、本寺の重要法会への参加、本寺による住持職の補任といった近世の本末制さながらの関係が伺われる。

西大寺が国分寺にかかわりをもった早い例は1310年西大寺上人御坊(信空)宛の長門国分寺復興の院宣である。続いて周防国分寺再興、伊予国分寺復興、丹後国分寺再興などである。守護領国制の形成とも相俟って国分寺の地位の回復が図られるに至る。

平安末期から鎌倉初期にかけて国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあったからこそ西大寺系の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかったことは疑いない。その点で西大寺流と国分寺との関係は国分寺史の中でも一つの画期であり、中世のあり方をよく示している。

ところで、何故かこの蒙古襲来期に東大寺が「総国分寺」であることが強調されるという(東大寺文書に5回見られる(1272~1292))。東大寺が総国分寺として各国国分寺とどのような関係を有していたかは明らかになっていない。

しかも東大寺が特定の国分寺と本末関係を結んだり、国分寺再興に東大寺の僧が関わった形跡もない。当時の国分寺の宗旨が真言宗であったことからそれは難しかったであろうし、逆に西大寺は真言系の律宗であったら、入り込みやすかったのであろう。

ともかくも、この時期に第3者ではなく東大寺側が自ら総国分寺であると主張している点が興味深い。そのことは東大寺が異国降伏の祈祷を行う第一の寺院であるという自覚の表れとみることもできようが、しかし、当時異国降伏祈祷に最も活躍したのは西大寺であった。

祈祷寺院としての西大寺は蒙古襲来を契機に再認識され西国国分寺進出の足がかりをつかむわけであるが、そうした西大寺の勢威に対する対抗意識から総国分寺であるというかつての位置を主張し、国家鎮護の祈祷に相応しいことを標榜したのであろう。

そして、中世後期、つまり戦国期には、ここ備後国分寺でも、いくさに出る軍勢を整える陣屋として使われたことが資料に残されている。そうした戦争への関わりから焼失衰退する国分寺が多く、時期的には天正年間に集中している。しかし、それまでの大名による保護政策があったためか焼失したまま放置されることはまれで、17世紀後半までにほぼ再興修理がなされ、全国国分寺の3分の2以上が存続機能している。

当時、国分寺で行われた祈祷は、大名などの個別の要請にこたえたものであったが、奈良時代以来の伝統をひく鎮護国家の祈祷を年中行事として行っていた。国分寺の教学や信仰面などを見ても、いわゆる鎌倉新仏教の影響は顕著でなく、天台、真言といった密教にかかわるものがほとんどであるという。

創立期の伽藍を維持していた国分寺は皆無に近かったであろうし、焼失のたびに規模を小さくしていったことは想像に難くない。しかし、現世利益の願いを満たす地方における中規模の一山寺院として、中世以降にも一定の役割を果たしつつ近世にも存続していくのである。

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<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>1 國分寺の研究

2007年11月06日 13時53分18秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
朝日新聞愛読者企画・備後国分寺住職と巡る日本の古寺巡りシリーズ第3回晩秋の防州をゆく周防国分寺・東大寺別院阿弥陀寺という企画で、今月14日と26日に両寺を参拝する。

これまで室生寺、三千院など東に向けてバスを走らせたが、今回は西に向かって歩を進めていく。周防国分寺は、創建時の金堂の位置に現在の本堂が建つ誠に貴重な国分寺であり、多くの古い仏像を蔵している。阿弥陀寺は、鎌倉期の東大寺再建に奔走した重源上人ゆかりの大寺だ。

早速、国分寺の歴史から紐解くが、國分寺はわがことでもあるので、少々細かく歴史を解明していこう。まず、国分寺の建立は、天平13年に国分寺建立の詔が発せられて建立されたわけではあるが、その30年ばかり前のこと、仏教の興隆によって国家の安寧を願う護国思想に基づき、天武天皇14年に、諸国の家毎に仏舎を作り仏像、経を置き礼拝供養すべきことが詔せられている。

これにより、諸国への仏教の流通が計られ、ついで持統天皇8年、国分寺の詔に遡ること20年の頃に諸国に金光明経を送り置き、毎年正月に読むべきことが命ぜられた。これにより、諸国において護国の法会が営まれることとなる。

そして、国分寺の建立は、天平9年3月の詔で国毎に釈迦仏像の造立が命ぜられたときに実質的には開始され、天平13年2月に僧寺、尼寺からなる体系的な国分寺建立の詔の発布にいたる。

続日本紀巻14にある「国分僧寺・尼寺建立の詔」の和訳を大学教授鈴木渉氏によるHP「国分寺・全国の国分寺を巡る」より転載させていただく。http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/

『詔曰く、私は徳は薄い身であるが、忝なくもこの重任(天皇に即位)を承けた。しかし、未だその成果を得ていないので、寝ても醒めても恥ずかしい思いをしている。いにしえの為政者は皆、国を泰平に導いて災難を除き楽しく暮らしていたのだが、どうすれば良いのだろうか。

近年、稔りも少なく疫病も流行している。そのため先年諸国の神々を祀り、また国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、さらには大般若経の写経を命じたのだ。そのためか、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀が豊かに実った。このように誠を願えば霊を賜わることができるものである。

【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。

そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部ずつ写すようにするものとしたい。私は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納めることにしよう。こうして仏教を盛んにさせて、天地のごとく永く伝えられるようにし、擁護の恩寵が死者、生者ともにあることを願うようにするものである。

これらの塔を造る寺は国の華でもあり、建立にあたっては必ず好い場所を選ぶようにすること。あまり人家の近くで生活臭のするような所ではいけない。また、あまり遠くで人の労をかけるような所でもよくない。国司どもはよろしく私の意志を国内に知らしめるとともに、これらを執り行って寺を清潔にきれいに飾るようにすること。

また国分僧寺には封戸五十戸と水田十町を、尼寺には水田十町を施すこと。僧寺には僧侶20人を入れ、寺の名を金光明四天王護国之寺とすること。尼寺には尼を10人を入れ、寺の名を法華滅罪之寺とすること。両寺は適当な距離をおき戒に順うこと。僧・尼にもしも欠員が出たらすぐに補うように。

毎月8日には金光明最勝王経を読経すること。また、月の半ばに至るごとに羯磨(こんま)を暗誦し、毎月六斎日には行事を執り行い、公私ともに漁・猟などの殺生をしないように。国司らはこれらをよろしく監督するものとする。』

こうした国分寺の制に影響を与えた中国の制度としては、則天武后が690年に天下に大雲寺経を頒ち諸州に設置した大雲寺、中宗が705年に諸州に一観一寺の設置を令した竜興寺観、玄宗が738年に州毎に設置を命じた開元寺等があるという。

天平13年2月のこの詔によって、諸国国分寺の造営が開始されるが、天平19年11月には国司の怠慢を戒め、七道に使いを遣わして進捗状況を観察させ、向こう3年のうちに造営を終えるよう督励するなど、造営の進捗は必ずしも順調ではなかったようだ。が、その後宝亀年間ころ、つまりその後30年ほどの間には国分寺の多くが完成していたと見られている。

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日本の古寺巡りシリーズ番外編「永平寺・那谷寺・竹生島参拝と山代温泉」

2007年06月16日 19時09分24秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
13日午前7時、いつものように国分寺前バス停から乗車する。この日本の古寺巡りシリーズも三回目。同行29人の参拝者を乗せて、笠岡インターから山陽道へ。今回は、特にこれまでに室生寺ないし三千院の参拝にご参加されている方々ばかり。みんな知った顔ぶればかりの和やかな雰囲気だ。

恒例の道中祈願に、般若心経とこの度参るお寺の諸堂でお勤めする仏様方の真言を唱える。そして吉備から三木までの1時間少々、今回の旅のテーマである修行ということを中心に、私のこれまでの経験上の話をさせていただいた。

まず、仏教に関心を持っただけの時期、丁度、NHKの特集番組で「シルクロード」が放映されていた。毎月欠かさず見ているうちに、テーマ曲にあわせ瞑想の真似事を始めていた。曲にひたり、砂漠を駱駝の背に乗るキャラバン隊が行く映像をイメージしながら、暫し自分だけの世界に没入していた。

そして縁あって高野山に登り真言僧となるための100日間の修行をした。日に三座、108礼の礼拝行からはじめて、十八道、金剛界、胎藏界、護摩の修行を進めていく。途中から、朝昼の二食にして、三座とも水をかぶってから行にのぞんだ。はじめ三座で6時間程度の行が、最後には、10時間程度を要し、それと別に朝夕の勤行に、伽藍や奥の院への参拝があった。

途中何度も修行中に、随分昔の過去の記憶が蘇ってきた。後悔するような出来事であったり、馬鹿にされて心傷ついたこと、世話になっていた方に御礼一つ言っていなかったこと等々。そうした様々な過去の出来事に自分が影響され、感情的に不安定な状態をそれらがもたらしていたことも知ることになった。

最後の一週間、断食をした。その前に、それまでは、全くと言っていいほど、自分自身のために仏菩薩に御願いをする祈るということをしないできたのに、なぜかこの最後にきて、一人本堂に入り、仏前で、心からの祈念を施した。「この一週間なんとかよろしく御願いします」と。

そして、断食に入り、護摩を三座焚く一週間が始まった。午前1時半に起き、3時間余り護摩を焚く。朝勤後、食事となるが自分は自室で待機。それから、また護摩を焚いた。きつかったのは、3日目くらいで後は楽になった。不思議なことに、廊下の足音を聞くと、それが誰の足音かが分かるなど遠くで行われていることがみんな分かるような感覚になった。食事を消化吸収するエネルギーはすさまじい物で、そのエネルギーがみんな精神面に向かっているように感じた。

それから、高野山では、真言宗の瞑想である阿字観を実習した。下山して、東京のお寺で役僧を勤め、その間にはヨガを習い、インドに行った。仏蹟地からリシケシに入り、そこで臨済宗の雲水さんに出会い、四国遍路と坐禅について教えられた。日本に帰り、禅寺に案内され、接心と言う一週間の座禅会に参加した。

そこでは日に10時間ほども坐禅する。足ばかりか、手の先から首まで筋がはって痛んだ。その痛みを避けるように一心に数息観をした。息の数をかぞえる坐禅法で、よどみなく伸びやかな腹式呼吸に心を集中させていく。

そうして公案なども織り交ぜて、ひらめき直観による悟りを目指すのが臨済禅で、その後参った永平寺の曹洞禅は、只管打坐と言われるようにただひたすら座ることがそのまま仏の姿であり、悟りのための坐禅ではなく、仏としての坐禅であると標榜している。そして、立ち居振る舞い、日常すべてが禅であり、仏の真似をするのだと考える。だからこそ、炊事から掃除作務を細かく規定し、やかましく躾けられる。

こんな話をしながら、福井へと入り、永平寺を参拝。雲水さんの案内で諸堂を巡り、法堂でお勤め。さすがに永平寺さんだ。諸堂を廊下づたいに歩いても足袋が全く汚れなかった。

翌日は、山代温泉から加賀の那谷寺に雨の中参拝。白山信仰と仏教が融合した神仏習合の霊場だ。花山法皇ゆかりの寺であり、また前田家祈願寺としての雄大な伽藍配置。修験者の行場奇岩遊仙境、新しい丈六の千手観音も素晴らしかった。

そして最後に竹生島弁財天に参る。午前中は長浜からの舟が欠航との報を受け緊張するが、何とか渡航できたが、帰りの舟の乗船時間が早まり慌ただしく参拝。急な石段を登り、弁財天本堂に参り心経を唱える。さすがに音楽の神、みんなの読経も声が揃いひときわ響きわたったように感じた。

宝物館では、御請来目録、覚鑁上人阿字観本尊、弘法大師諡号授与状などを拝見する。それから唐門観音堂を参り、竹生島神社本殿に参り船着き場に。みんな満足そうな笑顔でお参りを終えた。

竹生島は周りを水深100メートルという深海に囲まれた神秘の島。舟が沈めば命がない。命がけの信仰者のみを受け入れるという神の意思を表示しているかのような孤島であった。

帰りのバスの中では、黒澤明監督第30作記念映画「まあただよ」を見た。夏目漱石門下の作家内田百間とその弟子達との交流を描いた作品。弟子達が百間に長生きしてくれることを願って、摩阿陀会という誕生会を開く、成仏は「まあだかい」と弟子達が叫ぶと、百間が「まあただよ」と言い返す。戦後間もなくの占領下にあって何とも微笑ましい仲間達のやり取りに今の私たちが見失っている心の豊かさ、たくましさ、暖かさを感じさせてくれた。

亡くなる前の摩阿陀会で弟子の孫たちに百間は、「君たちの本当にしたいことを見つけてください、そのことに真剣に打ち込んでください、そうすればそれが君たちの立派な仕事になるでしょう」こんなことを言っていた。私たちは本当にしたいことすべきことをしているだろうか。いろいろと考えさせられる映画であった。

日本の古寺巡りシリーズ番外編と称して、この度は一泊二日の盛り沢山の行程であった。これまでの室生寺、三千院の参拝のようにテーマを絞った話が出来ず申し訳なく思った。最後に慈悲の瞑想についても話したが、十分な解説もできずに終わった。次回以降にまたそのあたりも一つのテーマとして大いに語ってまいりたいと思う。

私自身が今ひとつ満足のいく話が出来ない中で、この度も企画添乗いただいた倉敷観光金森氏の紡ぎ出す和やかな雰囲気によって、参加者一同はおもしろ楽しく、まことに心地よい二日にわたる旅を満喫できたと思う。心から感謝します。次回11月には西方面に向かう古寺巡りが既に話題に上っている。是非、次回もお楽しみに、沢山の皆様のご参加をお待ちしています。

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 5

2007年06月07日 08時12分14秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
竹生島参拝
  
船着き場からの石段は、まことに急な傾斜で息を切らして登る。165の石段が続く。本尊弁財天が納められた竹生島最大の建物である本堂に参る。本尊は明治維新の際、神仏の分離があって以来七十年近くの間仮安置のままとなっていたところ、これを憂いた信者滝富一郎氏の一寄進にて、昭和12年現在の本堂に造営着手、昭和17年(1942)落成した。悲願の本堂なのである。

平安時代後期様式の本堂は屋根も総桧皮葺き。昭和の大仏堂の代表作と言える。壁画はお堂正面に諸天神の図、左右天井近くには飛天の図が描かれている。これは昭和の日本画壇の重鎮であった荒井寛方(アライカンポウ)画伯 の遺作である。寛方は、若い頃タゴールのいるインドシャンティニケタンに学んでいる。

弁財天はもともとインド古代信仰の水を司る神「サラスヴァティー神」で、インドでは「水」には汚れを洗い流す力があるというところから、智恵の神、学問の神、河の美しいせせらぎから音楽や弁舌の神、河の恩恵から、豊饒至福、河の水の強さから戦闘、増福の神であった。

日本に来ると、農業の神・宇賀御魂神(うがのみたまのみこと)や宗像三女神の一つ市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と習合して、財物富貴、名誉、福寿縁結び、子孫繁栄、芸道、商売の守り神が加わって殆どの人々の願いを叶えてくれる神として、さらに七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。

『和漢三才図会』によれば、竹生島の弁天様は妙音天女と記されているから、琵琶を弾じる二臂の弁天像となる。しかしお前立ちは八臂の宇賀弁財天である。因みにその特徴は、頭の宝冠の上に鳥居を乗せその後ろにとぐろを巻いた宇賀神がおり、左手は胸の前に宝珠、その他矛(ほこ)、輪宝、弓を持ち、右手は前に剣、宝杵、鍵、矢を持ち、蓮の葉座に天衣を着ている。(秘仏のご本尊は60年に一回開帳、次回の開帳は西暦2037年)

そして、本堂を出るとその前に、五層の石の仏塔がある。地・水・火・風・空の五大をかたどったものといわれ、高さ247cm。石材は滋賀郡の山中から採れる小松石。初重塔身には四仏が彫られている。初重以上の屋根はその上層軸部と一石彫成となり、上に相輪あげたての形式は鎌倉中期の石塔の特徴を示している。

それから、三重の塔が本堂より一段上東側にある。塔は本来、お釈迦様の遺灰を納めた土饅頭型の仏舎利塔であったが、所と時代により変形した。平成12年5月、江戸時代初期に焼失したと言われている「三重塔」が、約350年ぶりに復元された。

この塔は、古来の工法に基づいて建築されていて、四本柱に32体の天部の神々を描き、また、四方の壁には真言宗の八大高祖を配している。各柱や長押にはうんげん彩色や牡丹唐草紋様が描かれており、これらの装飾は、昔ながらに岩絵の具を膠水で溶いて描いているため、耐久性に欠け剥落もしやすく、新しい色合いにて見れるのもこの新築時しかないものだと言われる。

三重の塔の前に、もちの木がある。この木は、1603年、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行の片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念にお手植えされたもの。片桐且元は豊臣秀頼の後見役で、賎ヶ岳合戦で七本槍の一人として名をあげ、秀吉のもとで検地・作業奉行として活躍した。

三重の塔の先には、宝物殿がある。竹生島は、滋賀県における文化財の一大宝庫といわれ、ここに宝厳寺に伝わる数々の寺宝を収蔵・保存・一般公開されている。「法華経序品(竹生島経)」(国宝)や、弘法大師直筆「御請来目録表」(重要文化財)をはじめ、数々の宝物が収蔵されています。

まず、「不動明王像」は県の指定文化財。悪魔を下し、仏道に導きがたいものを畏怖せしめ、煩悩を打ちくだく力をもち、菩提心の揺るがないことから不動という。仏や真言行者によく仕えることから、不動使者ともいい、猛々しい威力を示す怒りの表情を浮かべ、右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持っている。

頭に蓮の皿をのせており、この特色は天台寺院に伝わる不動明王の形で(これは中世、天台宗に属していたため)天台智証大師 円珍の作と伝えられている。密教では、真言陀羅尼(呪文)を一心に唱えると、その功力は絶大であり、いろいろな祈願がかなうという信仰があり、その功力を象徴する存在が不動明王である。もとは護摩堂の本尊で、像の主要部は、頭体を通してヒノキの一材で彫刻し、両肘から先は後補のケヤキ材製でできている。十一世紀前半の作。

「釈迦三尊像」は、温雅な作風ながら精緻に描写した、重要文化財。法華経を説く釈迦を護持するように左に文殊菩薩、右に普賢菩薩を配されている。釈迦は右手を胸前に施無畏印を結び、左手をひざ前で与願に結んで結跏趺坐しておられる。文殊菩薩は右手に三鈷の利剣を、左手に蓮枝上梵篋を執って緑青の獅子の背に乗られている。普賢菩薩は合掌して白象のせに乗られ、光背(後光)は切金細工が施されている。鎌倉時代後半期の作。

「御請来目録」は、弘法大師が唐での密教修行を終えられ帰朝された807年、平城天皇に献じた経論疏類の目録である。重要文化財。本文にあたる料紙には薄い金箔を施し、510行にわたり新訳等経142部247巻、梵字真言讃42部44巻、論疏章等32部170巻、その他の各項目をあげ、奥書に「大同元年十月二十二日入唐学法沙門空海」とあり、平安時代中期の写本。

なおこの請来目録にはその伝来を明確にさせる文書として「禅師宗光が長年保持していたが、仏法興隆衆生利益のために、竹生島神殿に南北朝時代の観応元年(1350年)に奉納した」と記す寄進状も付属してる。

「金蒔絵小塔」は、徳川家光公の寄進で、高さ63.5cmで須弥檀上に乗る。初重は一辺12.5cmで23重は亀腹を造り円筒形軸部を載せる。全面黒漆塗で、須弥檀縁・匂欄、初重柱・斗・肘木は朱漆塗、須弥檀・軒・屋根・扉などは金蒔絵が施される飾金具を多用する。初重内に仏像台座があるが 、現在、安置仏は無い。 製作:江戸初頭か桃山期か。

「国宝・法華経序品」は、弁才天に奉納された妙法華経で、平安時代後期の作。平安後期になると料紙・装濆に美をつくした経典作りがさかんに行われた。これは鳥の子紙の料紙に金銀泥で宝相華風の唐草や蝶をあしらったもの。装飾経としては日本の代表作で、竹生島経とよばれています。現在、奈良の国立博物館に寄託されている。

「宝来亀」は、江戸時代に彦根藩より、その家系が絶えず末代までも安泰でありますよう願って奉納されたもの。彦根城は正式名を金亀城(こんきじょう)とよばれ、それを現した姿は木製で亀の背中に宝珠がのせられて、全体が金箔を施されていた。宝珠は一木でできている。亀は長寿の象徴であり宝を背負った姿は子孫繁栄、国家安泰を現している。

そこから、少し下ったところに観音堂があり、その唐門は、国宝。唐門とは唐破風をもつ門の意味で、豪華絢爛といわれた桃山様式の唐門の代表的遺構。この唐門は京都の豊国廟の正門に使用されていた極楽門が移築されたもので、桧皮葺の屋根を持つ。この移築工事は慶長八年(桃山時代)、豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行としておこなわれた。

観音堂は、重文。唐門に続いて千手観世音菩薩を納めたお御堂があり、西国三十三所の第三十番の札所で、重要文化財に指定されている。このお堂は傾城地に建てられた掛造りで、参詣する仏間は2階にあたる。天井裏にも昔の絵天井の名残が見て取れる。

西国観音の札所本尊、千手千眼観世音菩薩は、衆生(しゆじよう)の声を聞き、その求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩が観世音菩薩。特にここの観世音菩薩は正式名を「千手千眼観世音菩薩」といい、各手に一眼を持つことにより少しでも多くの人を助けたいという慈悲の強さを表したお姿をしているという。

この観音様も弁財天と同様に秘仏のため、60年ごとの開帳。なお、西国三十三所観音霊場は、平安末期に始まった日本最古の霊場と言われている。

千手観世音菩薩を納めた観音堂から都久夫須麻神社に続く渡廊・舟廊下は、朝鮮出兵のおりに秀吉公のご座船として作られた日本丸の廃材を利用して作られたところから、その名がついている。これも唐門、観音堂と同時期に桃山様式で作られたもので、懸け造り。

その先に、竹生島神社本殿があり、桁行3間・梁間3間・入母屋造・檜皮葺き、周囲に庇を廻らす、1間の向拝付き、国宝。今から450年前、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移転したもの。

本殿内部は桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾があり、天井画は60枚で狩野永徳光信の作。黒漆塗りの桂長押には金蒔絵(高台寺蒔絵)が施され要所には精巧な金の金具がうたれている。

なお、竹生島最大の行事は、蓮華会と言われ、(旧来は弁才天様を新規に作造して、家でお祭りし8月15日に竹生島に奉納する行事)浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返す。

元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきた。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれる。

頭人は、出迎えの住職・役員・三人の稚児とともに、島の中腹の道場に入り休息、その後おねりの行列が出発。そして急な階段を一歩一歩踏みしめて登り弁天堂に入場する。その後、弁才天様を祭壇に安置し、荘厳な中で法要が行われる。

以上竹生島の参拝ルートに従って境内の様子を見てきた。竹生島弁財天は、古来琵琶湖に浮かぶ島としての様々な伝説の元に、そこに降臨して人々の願いを存分に叶えてくれる女神として信仰されてきた。時代に応じて、皇室や守護大名たちの関心を引かずにはおかない魅力があったのであろう。

加えてその島へは舟で渡らねばならず、さらに長い急な石段を登らねばお参りできないために、簡単に参れないことも、その神秘性を高め、よりありがたい存在として崇められる要因になったと考えられる。西国観音の札所として札所巡拝に訪れた観音信者にも弁天様は参拝される。それにより、より多くの人々に知られ、弁天様への信者が絶えない理由となっているのであろう。

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 4

2007年06月06日 08時03分19秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
竹生島弁財天

神秘とロマンの弁才天降臨の島・厳金山宝厳寺は、本尊大弁才天は日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十番札所として参拝者の姿が絶えず、御詠歌の声が響いている島だ。

私ごとで恐縮ではあるが、私は備後に来るまでは、東京の深川七福神の一つ、冬木弁天堂に堂守として住まいしていた。その弁天堂は、もとは冬木屋という江戸中期から江戸市中の大がかりな建築を引き受ける、今で言えばゼネコンとも言える大材木商冬木家の屋敷神であった。

冬木家は、尾形光琳のパトロンとしても知られるが、同じ材木商でも、大尽遊びで有名な奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門などとは違い、茶の湯を楽しむ趣味人でもあったらしい。

冬木屋自体はもう絶えてないが、その近辺を冬木町と言い町名にその名を留めている。その冬木の弁天様は、江ノ島の弁天様の分身で琵琶を持った裸弁天像だった。そこから、厳島・竹生島・江ノ島の日本三弁天について知ることになった。

当時は衰退していたが、その冬木弁天を護持する開運講の人たち、つまり材木問屋の檀那衆や辰巳芸者のお姉さん達、料亭の女将、富岡八幡の神社神輿総代方は、盛んな頃は毎年のように竹生島の弁天様を参詣していたと聞いた。そんなこともあり、何時かは私も参りたいと以来念願していたのであった。それがこの度かなうので、私にとっては十年来の念願かなっての参詣なのである。

ここから本題に戻る。竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、奈良の大仏建立に尽力する僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだという。

行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立して、千手観音像を安置した。創建時には竹生島寺と称し、東大寺に属した。伝教大師、弘法大師なども来島、修行されたと伝えられている。また皇室等の信仰を受け天皇の行幸が続き、堂塔伽藍の整備が進められた。

竹生島は「水神」としての弁才天信仰が盛んとなり天台僧が多く渡島修行し、平安期には叡山末となる。しかし、貞永元年(1232)竹生島全山焼失。3間四面の弁才天宝殿、同じく3間四面の観音堂等、坊舎30余灰燼に帰すとされる。

そのご復興を遂げるが、正中2年(1325)今度は大地震により多くの堂塔が倒壊。再興の勧進状によれば3間四面の弁才天宝殿、同じく観音堂、小島権現本地阿弥陀如来を安置する3間四面の堂、1間四面の阿弥陀堂、島主大明神の堂、小島権現堂、七所王子の宝殿各1棟計7棟、三重塔、1間四面の経蔵、七間の中門廊、5間の経所、5間の薬屋、湯屋、食堂、鐘楼などの伽藍が復興対象として挙げられている。

この復興の後、享徳3年(1454)火災・全山焼亡。永正5年(1508)には竹生島大神宮寺と号したという。天文9年(1540)には一応再復興を完了するものの、永禄元年(1558)再び火災にあい、堂舎炎上。浅井氏などの援助を受けるも復興は遅々としたものであった。竹生島は、豊臣秀吉との関係も深く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されているが、秀吉は慶長7年(1602)片桐且元を奉行として復興に当った。

その後、その遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺構である本堂(現神社本殿)観音堂や唐門などを移築させ今日の姿に復興せしめた。その移築時の時代背景としては、秀吉公亡き後に家康公により豊臣色を薄める政策がとられ、その一連の流れのなかで、豊国廟の縮小を余儀なくされた秀頼公は、その遺構を残すべく片桐且元に移築の命を与えたのであった。

慶長8年(1603)「寺領置目」では、瑠璃坊、実相坊、月定院、妙覚院など23の坊舎がある。近世初頭、延暦寺末から、新義真言長谷寺末に転ずる(現在は真言宗豊山派末)。

経済的困窮より、享保元年(1716)には9院、幕末には4院に減じたという。「中世以降、弁才天信仰が隆盛になるに及んで、浅井姫命の神格は弁才天の中に吸収・融合せしめられ、竹生島は仏教一色の霊場となり、古来の社名や祭神はほとんど忘れられていた」といわれる。

従って明治初頭の竹生島には勿論神職は存在せず、妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみであった。明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、宝厳寺を廃寺とし神社に改めよという命令が下った。

しかしながら、全国数多くの信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなった。それが現在の竹生島神社の本殿である。そして、そこで常行院覚潮が復飾して神職(現在の生島家)となり、弁才天は宝殿を出て一時観音堂に移座、弁才天社は都久夫須麻神社(竹生島神社)と改称された。

しかし、ご神体が無いため、適当に宝厳寺宝物中より2点を選び、ご神体としたと言われる。その後明治中期まで、蓮華会の執行権の帰属、弁財天像・観音堂敷地の移管を巡り、宝厳寺と神社は対立するが、結局は実体のない神社側には移管はされず。以来、本堂のないままに仮安置の大弁才天であったが、昭和17年、現在の本堂が再建された。つづく

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 3

2007年06月04日 10時43分12秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
那谷寺(なたでら)

那谷寺は、奈良時代、泰澄法師によって開かれた、美しい岩山と四季の草花に囲まれた、高野山真言宗別格本山である。高野山真言宗寺院が3500ヶ寺ある中で、別格本山は57ヶ寺だけ。高野山山内の別格本山を除くと、30か寺。奈良の大安寺や岡山の西大寺、京都神護寺などがある。

那谷寺は五木寛之著「百寺巡礼」にも掲載され、境内を散策すると、松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句碑があり、秋には紅葉が色彩やかに庭園一杯に広がる。また、初詣や七五三、百日参り、各種供養などの場所としても親しまれている。

境内に足を踏み入れると、「奇岩遊仙境」の美しい姿に圧倒され、四季の草花が色彩やかに咲き誇る「庭園」に時を忘れ佇む人も多い。松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ句「石山の 石より白し 秋の風」が句碑として現存し、近年復元造園された『瑠美園』は深山幽谷の感がある。

歴史

那谷寺を抱くようにしてそびえる白山は往古の昔、その気高い山容から、 清らかで優麗な女神の住む山として神聖視され、信仰の対象となっていたと言われている。奈良時代の初め、「越の大徳(たいとこ)」とよばれ、多くの人々の崇敬を集めた名僧・泰澄法師が、白山に登り、白山の神が十一面観音と同じ神であることを感得した。

そして、養老元年(717年)霊夢に現れた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置。法師は「自生山 岩屋寺」と名付け、寺は法師を慕う人々や白山修験者たちによって栄えた。これが那谷寺開創の由来であるという。

平安時代中期の寛和2年(986年)花山法皇が行幸された折、岩窟内で光り輝く観音三十三身の姿を感じられ、法皇は「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」と曰われたと言われる。そして、西国三十三カ所の第1番・那智山の「那」と、第33番・谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と改め、自ら中興の祖となられた。

花山法皇とは冷泉天皇の第一皇子で65代天皇。17歳で即位されましたが、最愛の女御の逝去を悲しむあまり、藤原兼家の謀略にかかって在位2年で退位、出家し各地を巡礼されたのであった。

中世に入って南北朝時代には、足利尊氏側の軍勢が寺を摂取して城塞とし、新田義貞側がこれを陥れ、一山堂宇ことごとく灰燼に帰した。また、一向一揆中に改宗して一向宗に近づく僧や信者が続出、次第に勢力を弱めた。中世は那谷寺にとって苦難の時代であったと言うが、一部の修験者たちは命懸けで寺を護持、観音信仰と白山修験を捨てることはなかった。

江戸時代になると、境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主・前田利常公が寛永17年(1640年)後水尾院の命を受け、名工・山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせた。書院は最も早く完成し、利常公自らがここに住まわれ、山上善右衛門らを指揮したといわれている。

江戸時代にはまた俳聖・松尾芭蕉が来訪し、「奥の細道」道中の元禄2年(1689年)7月、門人・曾良とともに山中温泉を経由して、8月5日、曾良と別れ、金沢の門人・北枝とともに那谷寺を訪れた。

明治維新後は廃仏毀釈の影響を受け、一時困窮するが、昭和初期に再建計画が進められ、昭和16年、利常公ゆかりの建造物すべてが国宝(現・重文)に指定されてからは加速度的に復旧がなされた。平成2年には金堂華王殿も再建された。

現在でも、那谷寺は古代人の素朴な生命観、宗教観が息づいており、古代人は人の魂はあの世からこの世へ循環し続けていると考えていたという。岩窟本殿での「胎内くぐり」などがあり、洞窟は母の胎内を表わし、生きているときの諸々の罪を流して、生まれ変わりの祈りをささげる場所であったと言われる。理想の浄土は素朴な美しい自然に囲まれた世界にあるとして、那谷寺では十一面千手観音、霊峰白山、奇岩遊仙境が本尊であると言えよう。

境内諸堂

山門・参道は、数百年を経た杉椿の樹林に囲まれ、幽邃にして森厳、江戸期に寄進された石燈篭が両側に並ぶ。杉並木は小松より那谷寺にいたる御幸街道杉の一部で、寛永年間に加賀藩主前田利常公が植樹したもの。

金堂華王殿は、明治に廃寺となった花山天皇の御寺に因んで名づけられ、金堂は平成二年に650年ぶりの再建となり、総桧造りにて鎌倉時代和様建築様式、本尊丈六の十一面千手観音を始め、白山曼荼羅、秦澄神融禅師、中興の祖花山法皇像を安置。壁面は郷土が生んだ代表作家による作品で飾られている。那谷寺における法会は全てここで行われる。

書院(国指定重要文化財)は、天正の戦乱(室町末期)で諸堂伽藍が焼失した後、仮の御堂として建てられたもので、寛永十七年に利常公が書院として改造、自らこの書院に在って山上善衛門、後藤程乗等の名工をつかって、諸堂再興にあたったと言われている。武家風書院造りで一間毎に柱が入り、特に玄関入口は当時としては珍しい土天井で他の書院に見る事の出来ない数々の特徴をもった重要文化財。部屋は全て京間造りで、前南二間は仏間兼対面の間、東に面した部屋は装束の間、指定園に面した北間は利常公御成の間その前の廊下は家老の間となっている。

庭園は、書院から見える。茶道遠州流の祖である茶人大名・小堀遠州の指導を受け、加賀藩の作庭奉行・分部卜斉に造らせたもの。昭和四年に文部省名勝指定園になった。作庭年代は、寺院再興と同時期で、素朴な形態の中に気品を保ち、寺院茶庭として有名で、特に平庭の飛石は、三角あるいは四角の切石をはさみ、変化と調和を表現している。

荒削りの雪見燈篭は、景観上重要な位置を占め、附近の景色に良くマッチしている。石組は三立石よりなる三尊石型で、本庭園石組の見どころで、一種の迫力を醸し出している。尚、北西隅に利常公愛用の茶室、如是庵がある。

普門閣(宝物館)は、ここから約三十キロ離れた白山山麓旧新保村にあった春木家の家屋を譲り受け、昭和四十年に移築したもので、同家の祖先性善坊は親鸞聖人の諸国遍歴に従った後、大日山麓に道場を開き、子孫は江戸時代、白山西谷五ケ村の庄屋となった。

家屋は永平寺再建にあたった棟梁が、弘化四年から三年がかりで完成させた。欅造りで、雄大さは北陸随一といわれている。普門閣とは法華経観世音菩薩普門品からの命名。仏教美術品や前田家ゆかりの茶道具などを展示している。

本殿・大悲閣拝殿は、観世音菩薩の慈眼視衆生の大慈悲心の御誓願により大悲閣といい、本殿岩窟前の一大岩壁に寄りて建てられ四棟舞台造り、四方欄間浮彫りで、鹿、鳳凰、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉等花鳥を配す。

唐門は国指定重要文化財で、本殿前の岩窟入口に建てられ、本殿は岩窟内に構築され、中に厨子あり、ともに支那及び南洋材。内に那谷寺御本尊千手観世音菩薩を安置。

三重塔も、国指定重要文化財。小塔だが、三層とも扇垂木を用い四方の扉をはじめ壁面唐獅子の二十の行態や菊花の彫刻は美麗。内に鎌倉時代、那谷寺金堂にお祠りしてあった大日如来を安置している。楓月橋は寛永年間、前田利常公が計画し、現代になってようやく実現したもので、展望台から奇岩遊仙境の眺望は境内で最も美しく、頂上には白山妙理大権現を祠る鎮守堂が建っている。

護摩堂も、国の重要文化財で、壁面には沈思、柔和、昇天、凝視、喜悦、雅戯、正邪、問答の八相唐獅子、四面に十二支の動物及び牡丹を彫刻し、内陣には平安時代作の不動明王を安置している。また、鐘楼も国の重要文化財、入母屋造り和様建築で袴腰の上まで石造になっている。内には寛永時代朝鮮より請来した名鐘を吊るしてある。

そして、有名な「奇岩遊仙境」は観音浄土浮陀落山もこのような風景かと疑わせる奇岩霊石がそそりたち、その足をあらう蓮池の自然絶妙、その昔は海底噴火の跡であったと伝えられている。


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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 2

2007年06月03日 09時28分01秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
仏殿

七堂伽藍の中心に当たり、古来禅宗では伽藍の配置を人体図に当てはめているとのことで、頭が法堂、心臓が仏殿、左手が庫院、右手が僧堂、腰が山門、左足が浴室、右足が東司だという。この心臓部に当たるのが仏殿で、釈迦牟尼仏を祀られているので別名「覚王宝殿」あるいは「三世如来殿」とも呼ばれている。

明治35年(1902)、高祖大師650回忌を記念して改築された総欅(けやき)造りの中国宋代の形式に従った石畳敷き。須弥壇中央には釈迦牟尼仏、右に未来弥勒仏、左側に過去阿弥陀仏の三世如来が祀られている。この形式は中国天童山の三世如来に準じたものといわれ、間口9間、奥行5間半の二重屋根。

法堂(はっとう)

仏殿より東側の廻廊を昇ると法堂に至る。永平寺の伽藍で一番高いところにあり、間口18間、奥行14間の堂宇。一般の寺院でいえば本堂に当たり、天保14年(1843)に再建された。法堂は本来、一山の住職が須弥壇上に登って修行僧に説法をする場所。故に法堂眉間に有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)筆による「法王法」という額が掲げられている。

法堂は380畳敷で客殿を兼ね法要儀式も行われることから、専門家は「客殿型法堂(きゃくでんがたはっとう)」とも称している。須弥壇中央は藤原時代作の聖観世音菩薩を祀り、中央階段の左右には阿吽の白獅子が置かれ、また、天井には八面鏡をつけた天蓋「八葉蓮華鏡」が吊られ、中国宋代の形式を守っている。毎朝、この法堂で両席に相対して「諷経」(ふぎん)」(勤行)が行われる。

僧堂

仏殿の左側、大庫院(だいくいん)に対して在る建物が僧堂。間口14間、奥行10間の僧堂は明治35年(1902)に改築されたもの。僧堂は修行の根本道場で、坐禅・打眠(だみん)・二時の食事が行われる。

堂は内部中央に智慧の象徴、文殊菩薩を祀り、廻りは相対して82単(一畳敷)の台が並んでいる。これは中国宋代の形式に依った正規の僧堂だといい、床は土間、三和土(たたき)で毎日、掃除され雑巾がけもさる。内堂には約82人が就寝でき、坐禅の時には164名もの雲水が修行をすることができるという。

外堂には「魚鼓(ほう)」が吊られています。これは中国の伝説の魚ですが、人を集めるときに打つ法器。二時の粥飯(しゅくはん)に打ち鳴らされ、その間に修行僧は入堂して鉢位(はつい、自分の単)に付く。この外、左側に「経行廊下(きんひんろうか)」、右側に「北面間道(ほくめんかんどう)」を設けて「後架(ごか)」となし洗面所が置かれている。

大庫院(だいくいん)

東側の回廊を登った所に在る建物が大庫院で、昭和5年(1930)に改築され地下1階地上4階、延べ750余坪の豪壮な建築物。一般の寺院でいう庫裡(くり)に当たり、食事を作る厨房と来客を接待する瑞雲閣(ずいうんかく)、一山の会計を扱う「副寺寮(ふうすりょう)」、全山の修理・保全を担当する「直歳(しっすりょう)」の寮舎に分けられている。

正面中央には足の早いことで有名な守護神「韋駄尊天(いだそんてん)」を祀り、この裏で一山大衆の弁食(べんじき)を作っている。即ち修行僧や参籠者(さんろうしゃ)の三度の食事を作る所。道元禅師は「典座教訓(てんぞきょうくん)」一巻を撰じて、特に弁食の作法を尊んで、その精神に準じて食事が作られるという。

さて、庫院の二階には「瑞雲閣(ずいうんかく)」という一般参籠者の宿泊に当てられる和室や応接間があり、三階は和室の150畳敷の広間で「菩提座(ぼだいざ)」と呼ばれる。この室で多人数の宿泊から上膳(あげぜん)まで、時には法話、講義も行われ、四階は知庫寮(ちこりょう)の倉庫で雲水の日常品等が保管されている。

浴室

山門の東側に在り、一般でいう入浴場。間口7間半、奥行き5間の建物で昭和55年(1980)に大改修され、さらに、昭和60年(1985)には浴槽を浄化循環方式に改められた。

東司(とうす)

山門の左手に在り、一般にいうお手洗いです。七間(ななま)あることより七間東司(しちけんとうす)と通称される。禅宗では三黙道場(さんもくどうじょう)の一つでもあり、「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)」を祀る。一般に東司と呼んでいるが、厠(かわや)であり、西側に在る場合には西浄(せいちん)とも。

この東司は平成14年(2002)年に奉修される開祖道元禅師750回大遠忌記念事業の一環として、平成9年(1987)に改築された。


鐘楼(しょうろう)

鐘楼堂は昭和38年に改築された鎌倉様式の重厚な建物。総檜造で中に吊られた大梵鐘(おおぼんしょう)は口径1.5メートル、高さ3メートル、重さ5トンの巨鐘。現在の大梵鐘は第二次大戦中応召にあいながら、再び戻されたものを改鋳し、鐘楼堂の改築とともに完成した。

早暁の暁鐘(ぎょうしょう)・昼の齋鐘(さいしょう)・夕暮れ時の昏鐘(こんしょう)、そして夜坐が終わってからの定鐘(じょうしょう)と1日4回、そのほか特別の行事のたびに鐘点(しょうてん)という役の修行僧によって撞(つ)かれる。「一撞一拝(いっとういっぱい)」といい、一撞ごとに一拝をして撞かれ、その梵音は修行僧を覚醒せしめ深谷幽山に無限に響きわたると言われる。

承 陽 殿(じょうようでん)

僧堂より左側廊下を登っていくと左側に門が見え、これが承陽殿の門で「一天門(いってんもん)」とか「承陽門」、「承陽中雀門」と呼ばれ、この奥に御開山御真廟(ごかいさんごしんびょう)があり、これを承陽殿という。正しくは土蔵造りの本殿(間口3間、奥行4間)と拝殿(間口6間、奥行7間)とに区別されている。

明治14年(1881)の再建で本殿(御真廟)には御開山道元禅師の御霊骨と二代尊の御霊骨が奉祀され、更に、五代尊(二世孤雲懐弉禅師・こうんえじょう、三世徹通義介禅師・てっつうぎかい、四世義演禅師・ぎうん、五世中興義雲禅師・ぎうん)までの木造も安置されている。

この承陽殿は曹洞宗の発祥の根源であり、拝殿(下坦)の右側には6世曇希(どんき)以下77世までの位牌と、全国末派から祖堂に入牌された尊宿(そんしゅく)方の位牌を祀り、左側には高祖大師の御生家久我(こが)家の尊牌を始め、永平寺の開基波多野義重(はたのよししげ)公の木像、昔の仏殿の建立に功績があったという井伊(いい)家の位牌も祀られている。

以上が永平寺の見所と言えようか。なお、雲水さんたちの日課は、起床洗面3:30暁天坐禅3:50 朝課5:00 小食7:00 作務8:30坐禅10:00 日中11:00中食12:00 作務13:00 坐禅14:00 晩課16:00 薬石17:00 夜坐19:00 開枕 21:00となっている。一日三座、およそ、4時間もの坐禅が日課ということになる。(冬期間は30分~1時間起床時間が遅くなる)

体験坐禅会は、期間3泊4日で行われており、原則として14歳以下の人は許可しない。服装は、地味な和服、ハカマ、白足袋か白靴下及び作務のできる服を用意する。費用は3泊4日9000円教本2冊と日常雑費を含む。報恩摂心(2月1日~8日)、臘八摂心(12月1日~8日)。つづく

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