活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

有馬のセミナリヨはどこにあったか

2011-12-19 13:12:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 北有馬を中心に遣欧少年使節や有馬セミナリヨについて勉強会をもって
おられる熱心な地元の方のグループがあることを知っています。了解を頂いて
いないので紹介は差し控えますが、おそらく、3回所在を変えたセミナリヨの
存在もつきとめていらっしゃるかもしれません。

 とにかく450年前と今とでは、地形がかなり変わっているので、想像する
しかないのですが、当時の有馬の町はこんなだったらしいのです。
 日野江城の前を有馬海の入り江に注ぐ有馬川が流れていて、北有馬のところ
では浦口川という小川が支流として分かれていたようです。

 フロイスの書いたものに、日野江城の南西に広場があって、その先に浦口川
があって、それを渡ると教会とセミナリヨにぶつかる。そこを通り過ぎると
北有馬の町にさしかかるとありました。つまり、町は低いところにあって、城は
高台にあった、してみるとセミナリヨや教会堂はその中間にあったことになります。

 当時、大きな船は口之津に着きました。そこで来校者は小舟に乗り換えて有馬の
浜まで来て、浜から続く細い入り江の有馬川や、小川の浦口川をわたって、坂道を
セミナリヨや教会堂めざして歩く道順ではなかったでしょうか。セミナリヨはいっ
たいどこにあったのでしょうか。

 セミナリヨの最初の頃、つまり、少年使節になった1期生のころは、城の近
くの高台にあり、1590年ごろには城の手前の坂の途中に、追放されて長崎に
移る1600年ごろは町に近いところに移っていた考えるのはいかがでしょうか。
 
 とにかく、もどかしく、恨めしいのはキリシタンの徹底的弾圧と島原の乱です。
それさえなければ、有馬のセミナリヨの所在は確かめられたはずです。加津佐や
天草での活版印刷所の所在と全く同じことがここでもいえるのです。

 




コメント
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