織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのは1568年(永禄11年)でした。翌年、彼は足利義昭の屋形として二条御所の建築にさっそくとりかかりました。
その工事現場で監督をしていた信長の前にあらわれたのがイエズス会の宣教師、『日本史』の執筆者ルイス・フロイスでした。
もちろん、まだ、『日本史』の執筆はしていません。信長に布教の許可を受けたくておそるおそる参上したのでした。そのとき、彼がお土産として差し出したのが数本のロウソクとギャマンの壺に入った金平糖、コンペイトウだったのは有名な話です。
そのとき、新進気鋭34歳の信長に対して滞日10年近い37歳フロイスとの間でどのような会話があったのでしょうか。当時から信長が仏教に対して反感を抱いていたことは確かでしたし、初対面のフロイスに好感を持ったことは、その後の信長のキリシタンに対する厚遇ぶりでわかります。
ところで、そのときのコンペイトウはいま、私たちが知っているのとはかなり違っていたと思われます。私もポルトガルでコンペイトウさがしをしたことがありますが、ナッツやチョコレートに糖衣をかぶせたものがいちばん近い感じで、あの日本風のは見つけられませんでした。コンペイトウはスペイン語のconfeitos「糖菓」が語源だといいますから、いまの日本のコンペイトウは日本独特のものといえましょう。
コンペイトウは長崎を振り出しに、焼米やケシの実に糖衣をかぶせて、見よう見まねで「南蛮菓子づくり」につとめたようですが、文化・文政時代になって江戸で庶民の手にもわたる貴重な南蛮菓子として認められるようになったといいます。
しかし、コンペイトウが信長を動かし、イエズス会の布教をスムーズにしたと考えるのも面白いですね。ただ、フロイスの献上したコンペイトウはどこで作られたものでしょうか。糖衣が主人公では、長い南蛮船の旅はむずかしいので、せいぜい、マカオあたりで作られたのでしょうか。まさか、フロイスが住院でみずから作ったとは思えません。