活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

謎が多い千々石ミゲルの墓

2015-03-21 09:53:14 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 浅田昌彦さんのメモによるとまだ、今回の正式な調査報告書はあがっていないし、あらためて遺構調査が進まない限り、千々石ミゲルの墓と断定はできない模様です。しかし、諫早市多良見町で昔から土地の人に「ゲンバさん」と呼ばれていた墓についてかなりのことがわかって来ました。

 ゲンバさんと呼ばれていたのは墓石の裏に「千々石玄蕃允」と彫ってあるからで、浅田さんは墓に刻まれているふたつの戒名、本住院と自性院が自家の過去帳にあることを発見し、千々石と浅田家とのつながりを確認されたといいいます。

 高さ1メートル80センチ、幅1メートル20センチの墓石の周辺は昭和40年代の大水害と江戸時代からの堆積土で寛永年間の建立当時に戻すだけでもたいへんでしたが、ボランティアのたらみ歴史愛好会や千々石ミゲル研究会の協力で着実に進み、墓石の周囲に1辺3メートル近い正方形の基壇や従者の墓とみられる小さな墓石もみつかったといいます。

 問題は残念ながら現段階ではキリスト教関連の遺物は発掘されていないとのことです。私はそれだけでミゲルの墓ではないというつもりはありませんが、基壇の存在や敷地の規模から領主級の墓地ということから疑問を持ちます。

 伊東マンショは帰国後早くに病死、原マンショはマカオに移され、中浦ジュリアンは逆さ吊りの処刑、ひとりミゲルは棄教して千々石清左衛門に逆戻り、大村喜前に仕えたが、その喜前にも領民からも疎まれて薄倖だったミゲルがそんな領主級の墓におさまっているとはどうしても考えられません。私はミゲルは最後まで棄教はしなかったし、彼の墓所は土を盛っただけの土まんじゅうで江戸時代まで原型を保ってはいなかったと想いたいのです。





コメント (3)
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