活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

もっと知りたいペドロ・ラモン神父のこと

2015-03-25 17:33:17 | 活版印刷のふるさと紀行

 ペドロ・ラモンはスペイン人のイエズス会神父で1577年(天正5)にのちに天正遣欧少年使節とともにヨーロッパに行ったメスキータ神父と共に来日しました。途中、マカオに行っていた期間はあるものの、1611年に長崎で没するまで、日本での宣教や日本人修道士の育成につとめたなかなかの人物です。

 けれども、私の印象はかならずしもよくありません。1587年生月から出した書簡で「ヴァリニャーノがローマに派遣してその行く先々で歓迎された少年使節たちは決してそんな厚遇を受けるような日本の高貴な生まれの少年たちではない」と内部告発をした神父とされているからです。

 唐突にペドロ・ラモンについてもっと知りたいといいだしたのにはワケがあります。昨日は朝日カルチュアセンターで五野井隆史先生に大友宗麟(義鎮)の講義を聴く日でした。大友家の系図や資料・史料を使って実に懇切な講義でしたが、当然、お話のなかに伊東マンショの伊東家の系図も出て来て少年使節にも触れられました。

 少年使節派遣のプランはヴァリニャーノが短時日でたてたもので、大友宗麟はそれをまったく知らなかったし、まして使節の代表とも目される伊東マンショが自分の名代とされていることなど露ほども知らなかったというのが定説になっています。もちろん、五野井先生も松田毅一先生はじめ使節についての研究家みなさん同意見です。

 大友宗麟とヴァリニャーノは臼杵でかなり親交を重ね、宗麟が敬愛してやまないザビエルの列福・列聖についてもふたりは同じように熱望していたといいます。1587年ペドロ・ラモンが内部告発に踏み切ったとされたときは臼杵の修練院院長でしたから宗麟の身辺に通じていたはずですが、宗麟が亡くなったのが6月、その同じ6月ゴアまで帰ってきた少年使節はマルチノがヴァリにヤーノに感謝する演説をし、ドラードが日本人として最初に金属活字を使った印刷をしています。内部告発は10月ですが、ラモンの耳にはどの程度少年使節派遣の成功が伝わっていたでしょうか。単にヴァリニャーノ、憎しでもなかったでしょうし、ヴァチカンはじめ少年使節をもてはやした筋に真相を知らせようとしたのか、それとも宗麟を憐れんだのかどうもラモンの真意はわかりかねます。

 






 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする