活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

下町のモダンボーイ井上源之丞(日本の印刷人100)

2012-08-15 10:11:50 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 

前回、秀英舎の生みの親として佐久間貞一をあげました。ならば、凸版印刷はというと誰の目にも井上源之丞ということになるでしょう。生年に30年も開きがあるのに、佐久間と並んで日本の印刷業界草創期の巨星扱いを受けているから大変な大物です。

 本人は八丁堀鉄砲洲生まれの江戸っ子ですが、井上家はもともと大阪で「堺屋」という江戸にまで名前を知られた紙問屋で、祖父は廻船問屋として千石船を所有するほどでした。その千石船の難破、倒産によって父、源三郎が東京へ移った。どうやら関西の血の方が濃いようです。

 源之丞は15歳で府立城北中学に進みますが、卒業前に結核に罹り1年休学するようなこともありましたが、後年の凸版印刷の社長時代の恰幅、押し出しからはとても想像できません。この写真は明治34年5月撮影とありますが、凸版はその前年、合資会社として下谷二長町一番地で発足しています。 ですから当時の源之丞は凸版の創業に関わったわけでありません。

 もともと自分で印刷会社を経営しながら顧問のような形で凸版の経営相談に乗っていた彼が会社をたたみ、正式に凸版の副支配人としてスタートを切ったのは明治41年、30歳のときでした。住まいのある新宿区からスーツにアスコットタイで颯爽と自転車で風を切って通勤したようです。日露戦争直後、モダンボーイの先駆けといってよいでしょうか。この年凸版印刷は内外印刷を合併してあらたな第一歩を踏み出しました。その合併に最初から力を発揮したといいますから、案外、本人としては創業にかかわったと思っていたのではないでしょうか。

 いずれにしても、あの、昭和の毒舌評論家大宅壮一が「翁の一生は我が国印刷史」と追悼録でベタ褒めしています。


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