活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

さあ、諫早へ

2006-09-10 14:22:11 | Weblog
 諫早へは大村から路線バスで向かいます。
 大村湾・有明海・橘湾と三方を海で囲まれた諫早は、島原半島のつけ根にあり、昔から交通の要衝です。最近も、干拓や女子高生のマラソンなどで、よく、テレビに顔を出す町でもありまが、なぜ、「さあ、諫早へ」と張り切るのでしょうか。

 諫早は、いまから400年以上も前、日本に始めてグーテンベルク直系の「活版印刷」をもたらたコンスタンチノ・ドラードの出生地であります。ドラードと同行して、リスボンで印刷術を習得し、不幸にも帰路、マカオで亡くなったジョルジュ・ロヨラも、諫早出身でした。

 よくある話ですが、諫早と活版印刷の結びつきなど、長い間、だれも心にとめる人はありませんでした。知られていなかったのです。
 平成15年2月28日、諫早市立図書館内にドラードの顕彰像がお目見えしました。日本最初の活版印刷人ドラードに、ようやく、日が当たったのです。

 ですから、活版印刷紀行のスタートにあたって、ぜひ、諫早市立図書館でドラードと対面していただきたいのです。 ドラードは1567年生まれ(永禄10)ですから、ギリギリで信長や秀吉や家康と同世代人です。
 肥前の伊佐早で孤児として生まれたその彼が、偶然から天正少年使節たちと同じ有馬のセミナリヨで学び、従者兼印刷技術習得要員として、南蛮船に乗り込むことになり、帰国して「キリシタン版」の印刷を手がけたとは、スゴイことです。
 
 日展作家の馬場正邦さんの手になるブロンズのドラード像は、若々しく、才気ばしって見えますが、あくまで、想像上の姿にしか過ぎません。
 ヨーロッパの印刷職人スタイルでたっているドラードは、リスボンで印刷を学んでいた21,2歳のころのイメージです。

 混血児説があったり、風貌やことばづかいも日本人離れをしていたといいますから、もうちょっと、エキゾチックであってもよかったと思います。


 今日は時間があるので、付録。
 諫早ではいつも「道具屋」という面白い名前のホテルにご厄介になります。接客も環境も料理もナカナカで一流です。実はこのホテルの所在地が金谷町で、ドラードの生まれたところともいわれております。
 「ホテル道具屋」のとなりにある「慶厳寺」をのぞきたい。八橋検校が琴の名曲「六段」を作曲した記念碑がある。「六段」には少年使節が持ち帰った西洋音楽の影響が見られるという。(横田庄一郎「キリシタンと西洋音楽」)

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