09.6/11 412回
三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(21)
紫の上に、源氏は、
「今宵ばかりは道理と許し給ひてむな。これより後のとだへあらむこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。またさりとて、かの院に聞召さむ事よ」
――今夜ばかりは、結婚の決まりなのですから許してくださいよ。今後あなたを捨てて置くようなことがありましたら、わが身ながら愛想がつきるというものです。かといって、あちらを捨ててお置きしたならば、朱雀院が何とお思いになろうかと思うと――
と、辛そうにおっしゃるのを、紫の上は少し微笑まれて、
「自らの御心ながらだに、え定め給ふまじかなるを、まして道理も何も何処にとまるべきにか」
――あなたご自身でさえ定めかねていらっしゃるのに、私など何が何やら捉えどころもありません――
と、いかにも相手もできないという風に、はかなげにおっしゃるので、源氏は気まりが悪く恥かしくて、頬杖をついて横になっていらっしゃる。
紫の上が、硯を引きよせて何やらお書きになります。
「めに近くうつればかはる世の中を行くすゑとほくたのみけるかな」
――目のあたり、こうも変われば変わる仲なのに、ゆく末遠く頼みにしていたことよ――
と、古歌に心境をうつしたものを書き散らされたのを、源氏もご覧になって、
「命こそたゆとも絶えめさだめなき世の常ならぬなかのちぎりを」
――命は絶えることもあろうが、世の常とは異なる二人の間は絶えることなどない――
源氏がこのような成り行きになって、あちらへお出でになれぬのを、紫の上はそれはそれで困りますので(引きとめているようで)、お支度を整えて差し上げます。
「なよよかにをかしき程に、えならずにほひて渡り給ふを、見出だし給ふも、いとただにはあらずかし」
――糊気がほどよく抜けた御衣に、何とも言えない良い香を匂わせて出て行かれますのを見送られる紫の上のお気持ちは、決して穏やかな筈はないのでした――
◆なよよかにをかしき程=衣装の糊がほどよく抜けて体に馴染んで優雅な状態
◆写真:女三宮のお部屋 風俗博物館
ではまた。
三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(21)
紫の上に、源氏は、
「今宵ばかりは道理と許し給ひてむな。これより後のとだへあらむこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。またさりとて、かの院に聞召さむ事よ」
――今夜ばかりは、結婚の決まりなのですから許してくださいよ。今後あなたを捨てて置くようなことがありましたら、わが身ながら愛想がつきるというものです。かといって、あちらを捨ててお置きしたならば、朱雀院が何とお思いになろうかと思うと――
と、辛そうにおっしゃるのを、紫の上は少し微笑まれて、
「自らの御心ながらだに、え定め給ふまじかなるを、まして道理も何も何処にとまるべきにか」
――あなたご自身でさえ定めかねていらっしゃるのに、私など何が何やら捉えどころもありません――
と、いかにも相手もできないという風に、はかなげにおっしゃるので、源氏は気まりが悪く恥かしくて、頬杖をついて横になっていらっしゃる。
紫の上が、硯を引きよせて何やらお書きになります。
「めに近くうつればかはる世の中を行くすゑとほくたのみけるかな」
――目のあたり、こうも変われば変わる仲なのに、ゆく末遠く頼みにしていたことよ――
と、古歌に心境をうつしたものを書き散らされたのを、源氏もご覧になって、
「命こそたゆとも絶えめさだめなき世の常ならぬなかのちぎりを」
――命は絶えることもあろうが、世の常とは異なる二人の間は絶えることなどない――
源氏がこのような成り行きになって、あちらへお出でになれぬのを、紫の上はそれはそれで困りますので(引きとめているようで)、お支度を整えて差し上げます。
「なよよかにをかしき程に、えならずにほひて渡り給ふを、見出だし給ふも、いとただにはあらずかし」
――糊気がほどよく抜けた御衣に、何とも言えない良い香を匂わせて出て行かれますのを見送られる紫の上のお気持ちは、決して穏やかな筈はないのでした――
◆なよよかにをかしき程=衣装の糊がほどよく抜けて体に馴染んで優雅な状態
◆写真:女三宮のお部屋 風俗博物館
ではまた。