永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(大宮)

2008年10月25日 | Weblog
大宮(おおみや)
 
 故太政大臣の北の方(正妻のこと)。故桐壷院の妹。女五の宮の姉。内大臣、葵の上の母。娘葵の上を亡くし、忘れ形見の夕霧を養育し、雲井の雁を養育する。
 夫亡きあと尼となった。温和な性格で、一族の円満な和に大きな役割を果たしている。

◆写真:尼削ぎの大宮、後姿。


源氏物語を読んできて(200)

2008年10月24日 | Weblog
10/24  200回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(10)

 内大臣はその夜は、お帰りになるふりをなさって、こっそり一人の女房の許へ忍び寝されて、お部屋をお出になると、ひそひそ話が聞こえます。

女房達がつつき合ってささやくには、
「賢がり給へど、人の親よ。自ずからおれたることこそ出でくべかめれ。子を知るはといふは、虚言なめり。」
――内大臣は賢そうにしておられるけれど、やはり親馬鹿ですね。そのうち困ったことが起こりそうですよ。《子を知る者は親》だという諺は偽りなのでしょう。――

内大臣は内心、あきれたなあ。だから言わないことではない。子供だからと油断していたものだ。実際世の中は面倒なものだ、とお思いになりましたが、何ごともないかのようにお帰りになりました。

 女房達は、「あら、殿が今お帰りになったとは、今までどこに隠れていらしたのでしょう。今でもまだこんな浮気ごとをなさるなんて」「お衣裳の香りは夕霧の君と思っていましたのに、ああ気味が悪い、蔭口をお聞きになったでしょうね。」「やかましい御気性ですから、大変」などと当惑しています。

 内大臣はお帰りの道すがら、
「いと口惜しくあしきことにはあらねど、めづらしげなきあはひに、世人もおもひいふべきこと、大臣の、しひて女御をおし沈め給ふもつらきに、わくらばに、人にまさることもやとこそ思ひつれ、ねたくもあるかな、」
――夕霧と雲井の雁とのことは、特に悪い縁組になるとも思えないまでも、幼馴染みのいとこ同志では、珍しくもないと、世間では評判にもならないだろうし、源氏があのように弘徽殿女御を圧えられたのも悔しく、もしかしたら、今度は雲居の雁が、他の方を抑えて后に立ちはすまいかと思っていたが、あの冠者では残念だ、――

「殿と御仲の、大方には昔も今もいとよくおはしながら、かやうの方にては、いどみ聞こえ給ひし名残も思し出でて、心憂ければ、寝覚めがちにて明し給ふ。」
――源氏と内大臣の御仲は、おおむね睦まじくていらっしゃいますが、このような争いになりますと、昔のお若いころの、公私につけて張り合われたあれこれが尾を引いて、思い出しても心が塞ぎますので、寝覚めがちに夜を明かされました。――

 大宮も事情はご存じである筈と思えばなおのこと、また、女房達の内緒話の様子も思い出されて、憎く、けしからぬと、お心穏やかではなく、
「すこし男男(おお)しくあざやぎたる御心には、しづめ難し。」
――雄々しく一徹で物事をはっきりさせなければすまないご気性では、急き立つお心をなかなか鎮めにくいのでした。――

ではまた。


源氏物語を読んできて(内大臣)

2008年10月24日 | Weblog
◆【乙女の巻】の内大臣(かつての頭中将)
 
 左大臣、後の故太政大臣の長男。正妻は右大臣の四の宮で、弘徽殿女御の父。また柏木(これから登場)と雲井の雁の父。源氏の正妻葵の上は、同腹の妹であることから、源氏とは特に親しい間柄であった。絶対的存在の源氏に対して、青年の頃より、学問や音楽、また恋のライバルであり、その子だくさんを源氏は羨んでいた。政治家としての手腕に秀で、和琴の名手でもある。源氏より4~5歳年上。

読み方、内大臣(ないだいじん・うちのおとど)
    大臣(おとど)


源氏物語を読んできて(199)

2008年10月23日 | Weblog
10/23  199回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(9)

 内大臣も人の身の上に事よせて、おっしゃりながら、
「女御を、けしうはあらず、何事も人に劣りては生ひ出でずかし、と思ひ給へしかど、思はぬ人におされぬる宿世になむ、世は想いの外なるものと思ひ侍りぬる。(……)」
――弘徽殿女御を娘として、まずこれといって何事も人に負けはとらぬようにお育てしたと思っておりましたのに、以外にも梅壺女御に気圧された不運により、世間とは案外なものと知りました。(せめて今度は雲居の雁でも、なんとか望みどおりにしたいものです。東宮のご元服も間近なので、心ひそかに願っていたのですが、あのように運の強い人(明石の御方)が産んだ、太政大臣の御息女が、またまた后の候補者として後から追い付いてきました。この方(明石の姫君)が入内なさったら、またしても競争する人もいないでしょう。)――

と、嘆息なさると、大宮は、「どうしてそんなことがありましょう。この家から后となる方がお出にならずに終わることなどあるまいと、亡き大臣(夫)も、弘徽殿女御のご入内には万端の御仕度をなさったのですもの、生きていてくださったならば、こんな風に、物事が狂ってしまうこともなかったでしょうに」と、おっしゃって、この件にだけは、源氏の大臣(おとど)を恨めしく思っておいでです。

内大臣は、
「和琴引きよせ給ひて、律の調べのなかなか今めきたるを、さる上手の乱れて掻き弾き給へる、いと面白し。」
――和琴をお側近くに引き寄せられて、律の調子を思い切って当世風にしてお弾きになります。まことに趣ぶかい――

 そこに夕霧がいらっしゃったので、内大臣は、「こちらへ」といって、雲居の雁にお逢いできぬよう、几帳をへだてて、お入れになります。「どうして、そんなにご学問一筋なのでしょう。あまりに才学が御身分を過ぎますのは、感心しないことを、あなたのお父上もご存じの筈ですのに、何か訳がおありでしょうか、あまり引き籠っておいでになるのは、お気の毒でなりません」などと、お話しになり、その夜は皆でお酒を召し上がっているうちに暗くなりましたので、お夜食の湯漬けや果物を召し上がります。

 内大臣は、雲居の雁をあちらのお部屋におやりになって、強いてお二人の間を離し、お琴の音さえも聞かせまいと、隔ておかれますので、大宮にお仕えしている老女房達は「何かいまに、お可哀そうなことがおこりそうな」と囁き合っています。

◆写真:和琴 風俗博物館

源氏物語を読んできて(198)

2008年10月22日 | Weblog
10/22  198回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(8)

「所所の大饗どもも果てて、世の中の御いそぎもなく、のどやかになりぬる頃、時雨うちして、荻の上風もただならぬ夕暮れに、大宮の御方に、内の大臣参り給ひて、」
――さて、源氏と内大臣の昇進で、それぞれが催されましたご披露宴なども終わって、特に公式の行事もなく、のどかになった頃に、時雨が降り、荻の葉に吹く風の身にしみる夕暮れ時に、大宮の邸に内大臣がおいでになって――

 そこに、雲居の雁をお呼びになって、お琴などを弾かせます。大宮は何の技にも優れていらっしゃり、雲居の雁にもお琴を教えておられました。

内大臣は、
「琵琶こそ、女のしたるに憎きやうなれど、らうらうじきものに侍れ。(……)。」
――琵琶というものは、女が弾くのは見た目の形が良くないものですが、音色はまことに奥ゆかしい。(今の世で優れている人は、なにがしの親王、某の源氏……、女では、太政大臣(源氏)が山里に囲っておいでの、明石のなんとかという人が、上手と聞いております。あの大臣が時々お話しになります。本来は合奏してこそ上達するものですが、一人で習って上手くなった例は余りききませんね。)――

 内大臣は、大宮に琵琶を弾くようにせがまれます。大宮は、
「柱さすことうひうひしくなりにけりや」
――琵琶の柱(じゅう)を押す手も、初心者のようになってしまいました。――

と、おっしゃりながらも、なかなかお上手です。

 大宮は、琵琶の手を休めて話をされますには、
「幸いにうち添へて、なほあやしう、めでたかりける人なりや。老の世に持給へらぬ女子をまうけさせ奉りて、身に添へてもやつし居たらず、やむごとなきにゆづれる心掟、事もなかるべき人なりとぞ、聞き侍る。」
――明石の御方は幸運なだけでなく、不思議によくできたお方のようですね。源氏の君が後年まで持たれなかった女の子を産んでさしあげて、しかもその姫君を手元に置き続けては世間から見下されるでありましょうと、歴とした紫の上に差し上げた決心なども、申し分のない人柄であると聞いております。――

 内大臣は、
「女はただ心ばせよりこそ、世に用ゐらるるものに侍りけれ」
――女というものは気立て次第で出世するものですね――

ではまた。


源氏物語を読んできて(琵琶を弾く)

2008年10月22日 | Weblog
琵琶を弾く姿
 
 「女が弾くのは見た目がよくないという琵琶」
 なるほど、裳の中では、右足を開いて曲げ、左足は投げ出している格好です。
 当時の女性が抱えて弾くには大きい楽器であった。

 ◆写真:風俗博物館

源氏物語を読んできて(197)

2008年10月21日 | Weblog
10/21  197回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(7)

内大臣(故左大臣の長子、頭中将、葵の上の同腹の兄君、)
夕霧(母の葵上亡きあと、左大臣家で養育される。)12歳
大宮(故左大臣の正妻、夕霧の祖母、女五の宮の姉君、皇族につながる血筋)
雲井の雁(内大臣の姫君、側妻の御娘、大宮の孫、夕霧といとこ同志)14歳位。
弘徽殿女御(内大臣の正妻の姫君、冷泉帝に一番目に入内、冷泉帝と同じ歳)


 内大臣の御子のもう一人の姫君は、弘徽殿女御と同じ王族の女君の御腹に生まれた方で、弘徽殿女御に劣るわけではありませんが、母親がその後、按察使(あぜち)大納言の北の方になって、あちらにも御子が多く生まれましたので、内大臣はそこで一緒に育てられるのは面白くないと思われて、大宮に養育をお願いしたのでした。
 この姫君を、内大臣は弘徽殿女御と比べて、軽く扱っていらっしゃるけれども、性格もご容貌もとても美しく愛らしくいらっしゃいます。
*【この姫君を「雲井雁(くもいのかり)」と書いていきます。】

 このような訳で、大宮の邸で夕霧は雲居雁と一緒にお育だちになりましたが、それぞれが十歳を過ぎて後は、お部屋を別々になさって、内大臣は、女子は男の子とは打解けるものではないとおっしゃって、離れ離れに暮らすようになさったのでした。

「御後見どもも、何かは、若き御心どちなれば、年ごろ見ならひ給へる御あはひを、にはかにも、いかがはもて離れはしたなめ聞こえむ、と見るに、女君こそ何心なく幼くおはすれど、男は、さこそものげなき程と見聞こゆれ、おほけなくいかなる御中らひにかありけむ、よそよそになりては、これをぞ静心なく思ふべき。」
――乳母たちは、何の、子供同士のことですもの、今まで雛遊び、花紅葉と睦んでいられた間柄を、急に引き離してやかましくご意見を申す事もないと思っておりました。姫君も無邪気でいらっしゃるし、男君はもっと幼くみえていましたのに、まあ、いつどのような仲になっておられたのでしょうか。別れ別れになってからは、夕霧は雲居の雁に逢えぬ事をもどかしくお思いになっておられるようです。――

 幼い手蹟で遣り取りなさったお文が、取り落として人手に渡ったりなさることもあって、姫君付きの女房達は、うすうす察している者もおりますが、どうしてこの様なことを、いちいち申し上げられようかと、見過ごして知らぬ顔でいるようです。

ではまた。
 

源氏物語を読んできて(教養と学問・有職家)

2008年10月21日 | Weblog
教養と学問・有職家(ゆうそくか)
 
 政治家となる公卿には、もうひとつ大切な教養が要求された。それは、日々の政治を行っていく上での、「しきたり」についての知識である。これがなくては、政治家の資格がない。これは、先祖が残してくれた家に伝わる文書によったり、肉親の政治家から伝授されねばならない。
 
 何事においても、前例を重んじ、前例を考慮して判断を下し、行動するのが政治家の基本であった。その前例に通じた人が、「有職家(ゆうそくか)」として尊ばれた。

 貴族は、前例にのっとって無難な政治をしていれば良いのではない。折にふれ口ずさむ当意即妙の古歌や、詩句の一節、男からも女からも好ましく思われる豊かな教養と、風流が自然に出てくることが望ましい。それは大学で教えられることではなく、個人的に遊芸(笛や、琴など)に優れた師について学ぶこと。やはり最終的には本人の才能とそれを育てる生活環境であった。

◆参考:源氏物語手鏡


源氏物語を読んできて(教養と学問・紫式部の夢?)

2008年10月21日 | Weblog
教養と学問・紫式部の夢?
 
 物語の中で、源氏は夕霧を大学に学ばせたのはなぜか。何のためだったのか。公卿となって、誰にも軽蔑されない見識と、政治的判断を確かなものとなるからか。長幼序ありという儒教的な生活様式の中で、学生の刻苦勉励する世界に触れさせようとしたのだろうか。

漢学者の父を持つ紫式部は、聖賢の道を学ぶ大学が栄え、そこに学んだ夕霧のような人が、良き政治をするということに、夢を託したのかもしれない。父も兄も、学者としての見識は高かったが、身分と地位は必ずしも高くなく、除目には、自ら任官を願い出ている。
(就職にも楽ではなかった)

◆参考:源氏物語手鏡

源氏物語を読んできて(196)

2008年10月20日 | Weblog
10/20  196回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(6)

 「例のあやしき者どもの立ち交じりつつ来居たる座の末を辛しと思すぞ、いと道理なるや。(……)」
――いつものように、みすぼらしい風采の儒者たちが来ては並んでいる席の、末に座ることを、夕霧が辛いと思われる、それも尤もなことでありましょう。(ここでも、作法に違う者を蔑み叱る儒者たちが居て、不愉快ではありますが、夕霧は少しも臆せず、読み終えたのでした。寮試をすらすらと及第されましたので、師も弟子も一層励みが増して、源氏邸でも作詩の会が度々催されるのでした。)――

「かくて、后居給ふべきを、『斎宮の女御をこそは、母宮も、御後見と譲り聞こえ給ひしかば』と、大臣もことづけ給ふ。源氏のうちしきり后に居給はむこと、世の人許し聞こえず。」
――さて、話は変わって、内裏では立后の儀がもうある筈の時期でありました。「斎宮の女御(梅壺女御)こそ、藤壺の宮も、帝のお世話役にとお頼み申しておかれましたので」と、源氏は主張なさいます。しきりに申し上げますが、皇族出の源氏から引き続いて后がお立ちになることを、世間はよく思わないのでした。――

 先に入内なさった弘徽殿女御を差し置いては、と人々は内内に気をもんでいます上に、紫の上の父君の兵部卿の宮の御女(おんむすめ)も目的どおり入内されました。それぞれに肩を持っての争いがありましたが、やはり梅壺女御が后に立たれたのでした。

「御幸の、かく引きかへすぐれ給へりけるを、世の人驚き聞こゆ。」
――亡き母君の六条御息所がご不幸でいらしたのに引き換え、なんとご幸運に恵まれた方よ、と世の人は驚き入っております。――

 源氏は太政大臣(だじょうだいじん)に昇進され、大将(もと頭中将・葵の上の兄君)も、内大臣になられました。源氏は天下の政務をこの大将にお譲りになります。お若いころは、源氏といろいろ競争なさっては、負けることが多かったようですが、この方は、お人柄はおおらかで、分別にも優れ、学問もしっかりなさっておられるので、まつりごとについては、賢くていらっしゃいます。また、正妻の他にも女君に十余人もの御子をもうけられて、源氏の御家に劣らず栄えていらっしゃる御一族です。

◆写真:六位の浅黄(浅葱)色
蓼藍で染めた薄い藍色。葱という名称からしてやや緑がかった色の方がこの色名には妥当との説も。もう少し緑がかっている。

ではまた。