永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(教養と学問・省試)

2008年10月20日 | Weblog
教養と学問・省試(しょうし)
 
 この物語の作られた50年ほど前の、応和元年(961年)に、村上天皇は桜花の宴を催し、文人たちに題を与えて詩を作らせ、更に擬文章生20人に題を与え、カンニングをしないように、池の中島に放って作詩の試験をしている。これを「放島の試」という。このように式部省の行う試験は、天皇の催しの中で行われることもあった。

 時代が下がるに従って、試験は形骸化、儀式化していき、物語の夕霧の場合も、合格を予定した儀式として書かれている。

◆参考:源氏物語手鏡


源氏物語を読んできて(教養と学問・官途への道)

2008年10月20日 | Weblog
教養と学問・官吏への道
 
 大学には卒業ということがない。一定の単位に合格して、官途に推薦されて出る。あるいは、推薦されなくても、教養を身につけて自由に出て行く。
官吏になるには3通りある。

1.大学寮および国学が推薦してくれ、所定の試験を受けて採用される。
2.親王および三位以上の子孫、または五位以上の子で、試験を受けずに任用される。
3.勅旨によって推薦され任用される。

 夕霧は大臣の子として大学に入学しなくても、すぐに官途につき得たし、家柄として大臣になり得る人物であった。
 大学は官吏になる一つの道であるが、夕霧はわざわざ大学で学ぶには及ばなかったが、なぜか?

◆勅旨=天皇の意思。
◆参考:源氏物語手鏡

源氏物語を読んできて(195)

2008年10月19日 | Weblog
10/19  195回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(5)
 
 「つとこもり居給ひて、いぶせきままに、殿を、つらくもおはしますかな、かく苦しかれでも、高き位にのぼり、世に用ゐらるる人はなくやはある、と思ひ聞こえ給へど、」
――夕霧は、始終閉じこもられては、憂鬱なままに、父の源氏を随分ひどいことをなさるものだ、こんな苦しい思いをしないまでも、高い位に昇り、世間からも重く用いられる人が、無いわけでもないでしょうに、とお思いになりますが、――

 「大方の人柄まめやかに、あだめきたる所なくおはすれば、いとよく念じて、いかでさるべき書ども疾く読みはてて、まじらひもし、世にも出でたらむ、と思ひて、ただ四、五月の中に、史記などいふ書は、読みはて給ひてけり。」
――夕霧は、大体に性格が実直で、浮ついたところのない方なので、よく耐え忍んで、何とかしてしかるべき漢籍の書類を、一日も早く完読して、朝廷のお役にも着き、出世もしていこうと志されて、わずか4.5か月のうちに、『史記』などという書物は、全部読み通してしまわれました。――

「今は寮試受けさせむとて、先ずわが御前にてこころみさせ給ふ。(……)」
――そろそろ、寮試を受けさせようと、源氏は先ずご自分の前で、若君の学力を、試させることにします。(右大将「葵の上の兄で、夕霧の叔父」や、佐大弁などを立ち会わせて、家庭教師の大内記を召して、寮試に出そうな重要な部分を、一わたり試問しますと、夕霧はどこからどこまでも読解でき、驚く程良い成績ですので、誰もかれも、涙を流して感激しております。)――

 源氏もたいそう気強く思われ、涙をおぬぐいになって、大内記に杯を差し上げます。

 御師である大内記の酔いづぶれているその顔は、ひどく痩せて細く貧相です。この学者は天下の変わり者で、その学識の割には世に用いられず、無愛想で世渡りがまずく、貧乏であったのを、源氏は見所があると見込んで、このようにお召出しになったのでした。

「大学に参り給ふ日は、寮門に、上達部の御車ども、数しらずつどひたり。(……)」
――大学に寮試を受けにお出でになる日は、正門に上達部の車が数え切れないほど何台も集まって、(ここに集まって来ない人は、ほとんどあるまいと思われますが、立派に装われて入って来られた若君の夕霧は、なるほどこういう儒者仲間には似合わぬほど、気品高く、愛らしい。)――

ではまた。
 

源氏物語を読んできて(教養と学問・擬文章生)

2008年10月19日 | Weblog
教養と学問・擬文章生

 紀伝道の学生は、はじめ明経道の学生として学び、大学寮の行う寮試というのを受けて合格すれば、擬文章生(ぎもんじょうのしょう)となる。
夕霧が『史記』の勉強をしたのは、『史記』を寮試の受験科目に選んだためである。

『史記』は、紀元前2世紀、司馬遷によって書かれた中国の歴史書である。年代順ではなく、天子の事績を書いた本紀、個人の伝記をかいた列伝などからなる。文章もすぐれ、文学としてもすぐれた書物である。全部で130巻、52万余字もある。それを、夕霧は4~5月で読了したとは、大変なことである。

◆参考:源氏物語手鏡

源氏物語を読んできて(教養と学問・文章生)

2008年10月19日 | Weblog
文章生

 擬文章生(ぎもんじょうのしょう)になってから、作詩の練習に励み、春秋の半ばに行われる「省試」という式部省の試験を受け、それに合格して文章生(もんじょうのしょう)となる。ここで官途につく。又はさらに「文章得業生」に選ばれ、何年も学んで「方略試」という論文試問に合格すれば、もっと良い官職につきやすく、文章博士への道が開ける。

 「文章博士」というのは学位ではなく、紀伝道の教官のことである。
菅原道真は、18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳で方略試に合格、33歳で文章博士となった。

◆参考:源氏物語手鏡

源氏物語を読んできて(194)

2008年10月18日 | Weblog
10/18  194回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(4)

 若い公達は我慢しきれず、つい笑い出してしまいます。実はそれなりに落ち着いた人々だけを選び出して、酌などをおさせになったのですが、何分風変りな席とて、右大将や民部卿などが、身の程に応じて盃をとられますのを、教官たちは、厳しく欠点を指摘してけなしています。

 この時とばかり、教官たちが居丈高にものを言っているのも、真面目なだけに、かえって可笑しく、人々がふき出して笑いますと、「騒々しい、静まりなさい。甚だけしからん。退席なされい」とやかましくののしっています。

 源氏までも、
「いとあざれ、かたくななる身にて、けうさうし惑はかされなむ」
――私のような不行儀で、融通のきかない者は、席に出たならば叱り飛ばされるだろう。――
と、御簾の内に御隠れになってご覧になっています。

 夜になりますと、灯火の光で儒者たちの顔はかえって道化じみてみすぼらしく、貧相で見苦しいのがはっきりして、確かに異様なことではあります。その夜は漢詩をお作りになるなど、なさったようですが、

「女のえ知らぬことまねぶは、憎きことをと、うたてあれば漏らしつ」
――(作者のことば)女の知りえぬ学問の事を口にしまして、生意気と憎まれますのが厭ですので、ここでは略します。――

もちろん、それぞれに大層な贈り物と酒宴が催されました。

 「字」の礼に続いて、大学入学の儀式をおさせになって、そのまま二条の東の院にお部屋を設けさせて、学識の深い師をお付けして、学問をおさせになります。大宮は、夕霧を事の外可愛がっていらっしゃって、学問なさる環境には相応しくないとの源氏のご配慮で、一カ月に三度ほどは、大宮の御邸にご機嫌伺いにと、お許しになるのでした。

ではまた。
 

源氏物語を読んできて(教養と学問・大学の諸規定)

2008年10月18日 | Weblog
教養と学問・大学の諸規定

 大学入学に当たっては中国風に「字(あざな)」をつける。中国では元服したら「字」で呼ぶからである。そして束脩(そくしゅう)として、教官各々に、布一反と酒食を渡すように決められている。

 学習法は、音博士について経文を漢音で読めるようにし、その後、博士から講義を聞くというやり方である。

 学生は10日に1回ずつ休暇がある。休暇の前に試験がある。
大学は7月に学年末の試験をする。1年間に習った中から、大義八条を問い、6つ以上できたのを上、4つ以上を中、3つ以下を下とし、3年続いて下、または9年在学しても官庁に推薦できる単位を修得できないときは、退学させる。

 物語の夕霧は、大学へ入学して籍をおいたものの、自宅で大内記(だいないき)を家庭教師にして、寮試を受けるべく勉強している。

◆束脩=(そくしゅう=束ねた乾肉。中国の古代、初めて入門するとき、手軽な贈り物として持参した。師のもとに入門するときに贈呈する礼物。転じて入学のときに納める金銭。


源氏物語を読んできて(193)

2008年10月17日 | Weblog
10/17  193回 

【乙女(おとめ)】の巻】  その(3)

さらに続けて、

「時移り、さるべき人に立ち後れて、世おとろふる末には、人に軽めあなづらるるに、かかり所なき事になむ侍る。なほ才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強う侍らめ。(……)」
――時代が変わり、力と頼む人に死なれて、晩年には人に軽蔑されるにつけても、頼りどころも無いということになります。やはり学問を基礎にしてこそ、持前の大和魂(やまとだましい)も立派に世間に役立つというものでしょう。(さしあたっては、心元ないでしょうが、将来、国の重鎮となれますような教養を、今のうちに身につけさせておきますならば、私の亡くなりました後も安心であろうと存じます。私が付いておりますうちは、大学寮の貧乏書生などと、蔑むものはおりますまいと存じまして)――

 大宮は、なるほどそこまでお考えならばとお思いになりますが、嘆息なさって、夕霧が子供心にひどく口惜しそうにしていらっしゃるご様子を申し上げますと、源氏はお笑いになりながら、「ひどく生意気に不平を言ったものですね。あの年頃では無理もないでしょうが、学問をして少しものの見方が変われば、そのような怨みは自然消えていくでしょう」とおっしゃる。

「字つくることは、東の院にてし給ふ。」
――儒者となるものの通称をつける儀式の「字(あざな)」は、二条院の東院で行われます。――

 普通、大臣邸で行われることはないので、珍しくゆかしいことと思って、上達部、殿上人が、めったにない儀式を見たいと集まっています。式を司る博士たちも気後れしているに違いありません。
 源氏は、「身分に対して遠慮することなく、いつもの通りに容赦なく厳格に執り行うように」と仰っられますので、儒者(教官)たちは、しいて何気なく装ってはいるものの、借り物の衣装が身に付かず、不格好なのも構わず、それでも顔つきや言葉つきをもっともらしくしながら、ずらりと居並んでおります。まことに見慣れぬ儀式の模様です。

ではまた。


源氏物語を読んできて(教養と学問・大学寮)

2008年10月17日 | Weblog
教養と学問・大学寮
 
 大学寮は式部省の管轄で、学長を大学頭(だいがくのかみ)といった。官費でまかなわれ、学生の寄宿舎ともいうべきものもあった。入学資格は、13歳以上16歳以下という年齢制限があったが、9世紀には10歳以上20歳以下と変わってきている。

 夕霧は12歳であった。明経道という科目以外は庶民からでも入学が許されていた。

 学科は、明経道(周易や、尚書、論語など)、紀伝道(史記、漢書、後漢書、文選など)、明法道(法律)、算道(算術)、音道(漢音)、書道(習字)で、文学的で実用的な紀伝道がいちばん栄え、名だたる官吏を輩出した。

◆参考:源氏物語手鏡


源氏物語を読んできて(192)

2008年10月16日 | Weblog
10/16  192回 

【乙女】の巻】  その(2)

さて、話は変わって、
故葵の上がお産みになった、源氏の御子、夕霧はそろそろ御元服のころとて、大したご準備の有様でいらっしゃいます。あのまま大宮(葵の上の御母上)の元で、だいじにかしずかれて、今年12歳になられました。

元服後、源氏は、
「四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、まだいときびはなる程を、わが心に任せたる世にて、然ゆくりなからむも、なかなか目馴れたる事なりと思しとどめつ。浅黄にて殿上にかへり給うを、大宮は飽かずあさましき事と思したるぞ、理にいとほしかりける。」
――源氏は夕霧を親王の子息に准じて、従四位下(じゅう四位げ)に奏請いたそうと思われ、また世間も大方そのようになられると思っていましたが、まだ幼少であり、源氏の意のままになる世の中とはいえ、そう唐突ななさり方はかえって味気ないとお思いになって、源氏はおやめになりました。浅黄色(六位の袍の色、昇殿を許された中で最も下位の身分)で、昇殿することになりますのを、大宮は大層ご不満で、あんまりななされ方だと思われるのも、もっともなことでした。――

このことを大宮が源氏に申し上げますと、
「(……)自らは九重の内に生ひ出で侍りて、世の中の有様も知り侍らず、夜昼御前に侍らひて、わづかになむはかなき書なども習ひ侍りし。」
――(小さい時分から、大人っぽくさせたくないのには訳がありましてね。大学に進めようと思うのです。あと二、三年は棒に振るつもりになって、自然に朝廷のお役に立つほどに成人しましたならば、やがて一人前になりますでしょう。)私自身は、宮中で生まれ育ちましたので、世間のことはよく存じませず、夜昼なく帝のお側に居りまして、漢籍なども少しは学びはしましたが。――

続けて、
「(……)高き家の子として、官かうぶり心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむ覚ゆべかめる。」
――(ただ、畏れ多くも直接父帝の御手からお教え頂いてさえ、世間を広く見ませんうちは、学問も音楽も不十分で至らぬ点が多うございました。)身分の高い家に生まれた子は、官職や位階も思いのままに得られ、世の栄誉に奢る癖ができますと、学問などに心身を労そうなどとは、思わなくなりがちなのです。――  

「たはぶれあそびを好みて、心のままなる官爵に上りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従う程は、自ら人と覚えて、やむごとなきやうなれど、」
――遊芸にばかり身を入れて、思いのままの官職につき、位も昇りますと、時の勢いに靡く世人は、蔭ではせせら笑いながらもお世辞を言い、機嫌を取って付き従うものです。そんな輩に取り巻かれているうちは、一角の人物に見られてはいるでしょうが…。――

ではまた。