永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(龍頭)

2008年12月16日 | Weblog
 
 龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)=龍は水を自由にし、鷁は風を受けてよく飛ぶ水鳥、いずれも想像の動物で、その頭部の像を船に付け、水患を防ぐまじないともし、装飾ともした。龍頭と鷁首の対となる。
実際はもっと大きい。

◆写真:龍頭(りゅうとう) 風俗博物館

源氏物語を読んできて(252)

2008年12月15日 | Weblog
12/15   252回

【初音(はつね)】の巻】  その(7)
 
 今年は男踏歌(おとことうか)の年です。
内裏より出発してまず朱雀院へ参上し、次にこの六条院へ参ります。道中は長くとうとう夜から明け方になっております。

 月が雲ひとつない空に冴えまさり、薄く雪の積もった庭が照らされて、いいようもなく美しい夜に、歌舞の名手が、特に源氏の御前では気を使っておいでです。
女君たちにも、見においでになるようにと前もってご案内がありましたので、こぞってお席や、局、渡殿などでご覧になります。

 夜も明けましたので、女君方はそれぞれにお帰りになりました。
源氏は少しお寝みになってから、こんなことをおっしゃいます。

「中将の声は、弁の少将にをさをさ劣らざめるは。中将などをば、すくずくしき公人にしなしてむとなむ思ひおきてし。自らのあざればみたるかたくなしさを、もて離れよと思ひしかど、なほしたにはほのすきたる筋の心をこそとどむべかめれ。(……)
――夕霧の声は弁の少将に勝るとも劣らないようだな。私は夕霧を、実直な政治家に仕上げようと決めていた。私のような風流じみた愚かしさを、夕霧はならぬようにと思ったが、やはり少しは、風流めいた点を備えておくべきだろうね。(落ち着き払って真面目一方では、厄介だろうから)――

 と、お話しなさりながら、夕霧を愛おしくお思いになります。また思いつかれたように、

「人々のこなたにつどひ給へるついでに、いかでものの音こころみてしがな。私の後宴すべし」
――女の方々がこちらに集まられた機会に、何とかして女楽を催してみたいものだ。私的な後宴としようー―

と、おっしゃって、楽器を出させます。女方は楽器の塵をはらい、弛んでいる弦を調律なさったりして、ご準備をなさったようです。

◆男踏歌(おとことうか)=隔年正月十四日に行われます。四位以下の人々が催馬楽を謡いつつ貴人の邸をめぐり歩き、寿ぐ。

◆私の後宴=私的な後宴をする。後宴は踏歌の小宴のこと。宮中で二、三月頃に行われるのに対して、「私の」と言いました。

【初音(はつね)】の巻】終り。全体に六条院と二条院の女達を一通り紹介している巻きです。

ではまた。

源氏物語を読んできて(雅楽)

2008年12月15日 | Weblog
雅楽

 雅楽は、日本に律令制度(りつりょうせいど)が導入されて国家の体裁(ていさい)が整う七世紀後半以降、儀式の荘厳などを目的に大陸から輸入された音楽である。しかし、平安前期には尾張浜主(おわりのはまぬし)などの名人が出て、和風化の努力がなされ、日本固有の神楽(かぐら)をも含めて、体系化された。もともと律令では雅楽寮(ががくりょう)という役所で教習されていたが、のちに天皇に近侍する近衛の官人が舞や雅楽をもっぱら勤めるようになると、宮中に蔵人所の管轄として楽所(がくしょ)が設けられ、舞人や楽人がここに詰めて儀式や神事、饗宴などの音楽・舞に備えるようになった。

 両部制といって、すべての楽曲は対応する左右に分けられている(番舞(つがいまい))。すなわち左楽(さがく)は唐楽(からがく)といい、赤の装束を着用する。これに対して右楽(うがく)は高麗楽(こまがく)といい、緑の装束になる。唐楽と高麗楽は、それぞれ中国の音楽と朝鮮半島の音楽の意味であるが、実際は伝来した音楽の系譜をいうのではなく、日本で作曲されたものも含まれ、便宜上の感が強い。両者は、楽器編成も異なり、唐楽には笙(しょう)があるが、高麗楽には含まれない。また、唐楽の横笛は龍笛(りゅうてき)であるのに対して、高麗楽の場合は高麗笛(こまぶえ)となり、龍笛より少し小さく、音も高いのが特徴である。

 雅楽に舞が伴ったものを舞楽といい、これが本来の形式であったが、いっぽうで宮中の饗宴のために、舞のない音楽だけの形式のものが整備された。これが管絃(かんげん)である。

◆参考:風俗博物館


源氏物語を読んできて(251)

2008年12月14日 | Weblog
12/14   251回

【初音(はつね)】の巻】  その(6)

空蝉の所へもお出でになります。

「うけばりたる様にはあらず、かごやかに局住みにしなして、仏ばかりに所えさせ奉りて、行ひ勤めけるさまあはれに見えて、経、仏の飾り、はかなくしたる閼伽の具なども、をかしげになまめかしく、なほ心ばせありと見ゆる人のけはひなり。」
――空蝉は、わがもの顔に振舞ってはおらず、こじんまりと小部屋住いをして、仏をまつる所だけは十分な広さをもって、経巻や仏具飾り、何気ない閼伽の道具類も風情もあり、奥ゆかしさもあって、やはり思慮深い人だと思われるお人柄です。――

 空蝉は尼住みですので、青鈍色の味わい深い几帳に深く姿を隠して、ただ袖口のあたりに贈られたお衣装の朽葉色の見えますのも優しく好ましいので、源氏は思わず涙ぐまれて、

「松が浦島を遥かに思ひてぞ、止みぬべかりける。昔より心憂かりける御契かな。さすがにかばかりの睦びは、絶ゆまじかりけるよ」
――あなたの所へは、遠くから思いやって逢わずにおく方が良かったのかも知れませんね。思えば昔から辛い御縁でした。そうは言うものの、こうして几帳越しに対面するくらいの親しさは絶えないものですね――

空蝉も、ものあわれさに、

「かかる方に頼み聞こえさするしもなむ、浅くはあらず思ひ給へ知られ侍りける」
――こうした姿になってお頼り申し上げるのも、浅からぬ御縁と思っております――と申し上げます。

 空蝉は思慮深く奥ゆかしく、こうして独りを保っていることよと、余計見捨てがたくお思いになりますが、今さら浮気めいたことも語りかけることもお出来になれず、昔今の世間話をひとわたりなさりながら、あの末摘花も、このくらいの話し相手でもあったらと、思われるのでした。

 このような有様で、源氏のお陰で暮している女達が、他にもたくさんいるようですが、
それぞれが、身分に応じてのお情けを頂いて、年月を過ごしているようでした。


◆写真:空蝉

ではまた。



源氏物語を読んできて(250)

2008年12月13日 | Weblog
12/13   250回

【初音(はつね)】の巻】  その(6)

 しかしながら、末摘花も空蝉も、つれない源氏のお心をどうして今さらお咎めできましょうか。辛い憂き世に漂わずに、暮らしの心細さなどないことの安心さに、この上もなく有り難く思うのでした。
空蝉の尼君は仏の道に励み、末摘花は仮名文字の草子の学問に心を入れて暮らせるという、ご当人方の望みを叶えてのお住いを、源氏はさせておいでなのでした。

 源氏は、騒がしい新年の日々をお過ごしになってから、こちらの二条院の東の院にお出でになります。

 末摘花の御方には、身分が身分ゆえ、投げやりなお扱いはお気の毒と思い、人前ではたいそう丁寧に取り扱って差し上げますが、この頃の末摘花の様子をご覧になって、

「いにしへ盛りと見えし御若髪も、年ごろ衰へゆき、まして瀧の淀みはづかしげなる御かたはらめなどを、いとほしと思せば、まほにも向ひ給はず。柳は、げにこそすさまじかりけれと見ゆるも、着なし給へる人柄なるべし。」
――昔はご立派だった若々しい髪も、すっかりこの頃は衰えてきて、滝の水も負けそうな白髪混じりの横顔が、源氏はお気の毒なので、まともにも向かい合われません。源氏から贈られた柳の御衣装は、やはり思ってのとおり不似合いでしたが、それも結局は着る人の人柄によるのであろう。――

 光沢もない黒い掻練のかさかさに張った一襲に、中着もなく、例の柳の袿をじかに着ていて寒そうに、いかにもみずぼらしい。

「かさねの袿などは、いかにしなしたるにかあらむ。御鼻の色ばかり、霞にも紛るまじくはなやかなるに、御心にもあらずうち歎かれ給ひて、ことさら御几帳引き繕ひ隔て給ふ。」
――何枚も重ねて着る袿などは、どうなさったのであろう。赤い鼻の色ばかりは霞に紛れようもなくはっきりしていますので、源氏は思わず溜息をおつきになり、わざと几帳を引きよせて隔てをお作りになります。――

 末摘花は、このようなことにもさして恥ずかしがりもせず、ただただ源氏を頼みに思われているご様子で、ご容貌だけでなく生活面でも人並みでないご境遇に、せめて自分だけでも面倒をみてやらねば、と源氏はお思いになるのでした。

 源氏は向かいの院の御蔵を開けさせて、絹や綾織物などお渡しになります。

源氏は、独り言のように、(歌)
「ふるさとの春の木末にたづね来て世のつねならぬ花をみるかな」
――昔馴染みの春の木末を訪ね来て、世にまたとない花(赤鼻)を見ることよ――

末摘花はお気づきにならなかったようです。

ではまた。
 

源氏物語を読んできて(織物の歴史)

2008年12月13日 | Weblog
◆織物工房 

 平安時代には、官営の織物工房がありました。
西陣織の源流は、遠く古墳時代にまで求められます。5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が山城の国、つまり今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。

 飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれていたわけです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。

 平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰えました。律令政治のタガがゆるみ始め、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。
 
 室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。

◆参考:風俗博物館

源氏物語を読んできて(織物・西陣)

2008年12月13日 | Weblog
◆西陣の由来

 ところが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こります。乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。

 しかし、戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。
 
 大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業を代表するものと認められるようになりました。

◆参考と写真:「応仁の乱」西陣の歴史より

源氏物語を読んできて(249)

2008年12月12日 | Weblog
12/12   249回

【初音(はつね)】の巻】  その(5)

明石の御方の所にお泊りになった源氏は、まだ夜の明けぬ前に紫の上の許にお帰りになりました。明石の御方は、

「かくしもあるまじき夜深さぞかし、と思ふに、名残もただならずあはれに思ふ。」
――こんな夜の内にお帰りにならなくても、と明石の御方は、昨夜の名残り惜しさも一通りではありません。――

 源氏は、待ちうけている紫の上の、ご機嫌の悪さも察せられて、

「あやしきうたた寝をして、若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかし給はで」
――とんだ仮寝をして子供のように寝てしまったのを、そのまま起してもくださらなかったので――

とか何とか、紫の上のご機嫌をとられるご様子もおかしく見えますが、紫の上はご返事もなさらないので横を向いていらっしゃるので、これは面倒なことになったとお思いになって、空寝入りをなさり、日が高くなってから起きられました。

 正月二日は、臨時客にかこつけて、紫の上とはお顔をお合わせにならないでしまいました。上達部や親王たちが常のように残らずお出でになり、管弦のお遊びがあって、たいそうにぎやかな夕べです。
 今年は殊に、若い上達部などは、新しい姫君がいらっしゃるらしいと、玉鬘を心に掛けて、そぞろに胸をときめかせていられるのが、例年とは様子が違っております。

「かくののしる馬車の音をも、物隔てて聞き給ふ御方々は、蓮の中の世界にまだ開けざらむ心地もかくや、とこころやましげなり。」
――このように賑やかな馬や牛車の行き通う音をも、築地や築山や木立などを隔てて聞かれる女方は、まだ花の開かない蓮の中に閉じ込められた心持はこうもあろうかとおもわれる、もどかしいご気分です。――

 ましてや、二条院の東の院に住まわれている方々は、年月が経つにつれ、侘しいことばかりが多くなって行くようです。
 
 ◆臨時客=正月の二,三日の間に摂関の邸で臨時に大臣以下公卿を招いて饗応する。

ではまた。