永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(弦楽器・琴)

2009年07月27日 | Weblog
琴(きん)

 七絃の琴。日本では、長い胴に水平に糸を張った弦楽器を総称して「こと」といい、中国から伝来した琴に「こと」の読みを当てたが、琴(きん)という場合はこの楽器を限定して指す。左手で絃を押さえ、右手で弾く。

 平安中期までは貴族に愛用されたが、その後廃絶し、現在の雅楽では用いられない。

写真と参考:風俗博物館

源氏物語を読んできて(457)

2009年07月26日 | Weblog
09.7/26   457回

三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(11)

紫の上は、きっといずれこうなる事は道理だとお思いになりながらも、

「さればよ、とのみ安からず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐし給ふ」
――やはり、思った通りであったと穏やかならぬお気持ちがわき上がってくるのでしたが、うわべは何事もないように常のとおりお過ごしになっていらっしゃる――

「東宮の御さしつぎの女一の宮を、こなたに取り分きてかしづき奉り給ふ。その御あつかひになむ、つれづれなる御夜がれの程もなぐさめ給ひける。いづれもわかず、うつくしかなし、と思ひ聞こえ給へり」
――(紫の上は)東宮の御妹の女一宮(明石の女御がお産みになったご第一の姫宮)を、こちらにお預かりして格別大切にご養育申し上げています。そのお世話でつれづれな独り寝の時をなぐさめておいでになります。どの宮たちもみな可愛らしい、愛しいと思っていらっしゃる――

 夏の御方(花散里)は、紫の上がこのように多くの御孫のお世話をしておられますのを羨ましく思われて、

「大将の君の典侍腹の君を、切に迎へてぞかしづき給ふ。いとをかしげにて、心ばへも、程よりはざれおよずけたれば、大臣の君もらうたがり給ふ。」
――夕霧の外妻である典侍腹(惟光の娘で藤典侍・五節の舞姫であった人)の次郎君を切に望まれて、大切に育てていらっしゃる。この君は、たいそうお綺麗で、年よりも大人びていますので、源氏も大そう可愛がっていらっしゃる――

 源氏ご自身にはお子様が少ないのですが、このように末広がりで女御にも夕霧にも御子が大勢いらっしゃる。

 さて、出家された朱雀院から、

「今は無下に世近くなりぬる心地して、もの心細きを、さらにこの世のこと顧みじと思ひ棄つれど、対面なむ今一度あらまほしきを、もしうらみ残りもこそすれ、ことごとしきさまならで渡り給ふべく」
――今ではもう死期が近づいたと思われて、何となく心細いので、この世の事はすでに諦めておりますが、あなた(女三宮)にもう一度会いたいと思います。そうでないと、この世に恨みを残すことがあるかも知れない。大げさな風ではなく来てくださらないか――

 と、女三宮に申し出られましたので、源氏は、「まことにごもっとものことだ。そういうご内意がなくても進んで参上すべきでしたのに。…何かのきっかけをご用意して……」
と思いめぐらしていらっしゃいます。

◆さしつぎの(女一宮)=差し次ぎの=すぐ次の(女一宮)

◆夜がれ=夜離れ=男性が女性の許へ通うことが途絶えること。

ではまた。



源氏物語を読んできて(弦楽器と和琴)

2009年07月26日 | Weblog
◆絃楽器・「琴(こと)」

「こと」は絃楽器の総称であり、それぞれ「〜のこと」と呼ばれていました。
・和琴(わごん)、または倭琴(やまとごと)
・琴(きんのこと)
・瑟(しつのこと)
・箏(そうのこと)
・琵琶(びわのこと)
・新羅琴(しらぎごと)
・百済琴(くだらごと)
 このような種類がありましたが、新羅琴、百済琴は徐々に消えていき、「琵琶のこと」は単に「琵琶」と呼ばれるようになりました。

 古来からあった「こと」や「ふえ」などの素朴な楽器に加えて、中国大陸から雅楽とともに多くの種類の楽器が入ってくると、演奏方法も音色も豊富になった。神楽や舞楽の舞の伴奏音楽としても使われたが、貴族の遊びとして楽器だけの合奏が重視されるようになると、個々の楽器がたいせつに扱われるようになり、名器が生まれ、名前がつけられた。

◆和琴(わごん)

 和琴は、日本古来の六絃の琴で、倭琴(やまとごと)ともいう。右手に琴軋(ことさき)というへらのようなものを持ち、掻(か)き鳴らす。古くは楽曲にも用いられることがあったが、現在では神楽(かぐら)、東遊(あずまあそび)、久米歌(くめうた)などに用いられる。写真は古い形式の鴟尾琴(とびのおのこと)。抱えて弾くものもある。
 
写真と参考:男性が弾いている和琴  風俗博物館

源氏物語を読んできて(456)

2009年07月25日 | Weblog
09.7/25   456回

三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(10)

 出家されました朱雀院は、勤行に専念され内裏のことには口を挟まれないご生活ですが、女三宮の事だけは矢張りお忘れになれず、

「この院をば、なほ大方の御後見に思ひ聞こえ給ひて、うちうちの御心よせあるべく奏せさせ給ふ。」
――源氏をば、表向きのお世話役とみなされて、内々のことは、今帝にお頼みになっていらっしゃる――

「二品になり給ひて、御封などまさる。いよいよはなやかに御勢い添ふ」
――女三宮は、二品(にほん)に昇叙され、御封戸が所定どおり増されました。いよいよはなやかに、御威勢が増して行かれるのでした――

紫の上は、

「かく年月に添へて、方々にまさり給ふ御おぼえに、わが身はただ一所の御もてなしに、人には劣らねど、あまり年つもりなば、その御心ばへもつひに衰へなむ、さらむ世を見はてぬ前に、心と背きにしがな」
――このように年月の経つにつれて、女三宮などが昇進されるなど世間の信望が増して行かれますのに、自分はただ源氏お一人のお陰で、他の女方に劣るお扱いは受けてはいませんが、このまま年を経れば、源氏のご愛情も、ついには衰えてしまうことでしょう。そのような目に合わない前に、出家してしまいたい――

 と、始終思っていらっしゃいますが、源氏に、いかにも賢しらな女と思われそうで、
あれからは決してお口に出してはおっしゃらない。

「内裏の帝さへ、御心よせに聞こえ給へば、疎かに聞かれ奉らむもいとほしくて、渡り給ふこと、やうやう等しきやうになりゆく」
――(源氏は)今帝までもが、女三宮を御後援なさるので、女三宮を粗略に扱っているなどということがお耳に入っては困ると思われて、女三宮のところへお渡りになることを、紫の上と平等になさるのでした――

◆内親王の給与は、親王(男)の半分。実際はどのくらいなのかを調べたのですが、源氏物語の時代のことは、はっきりしません。資料でもバラバラでした。ただ、給与体系は整っていて、この場面では、女三宮には終生給与があり、紫の上には源氏からの分与以外何も無いので、その点でも行く末が不安であると分かります。女三宮が内親王であるかどうか諸説あるようですが、二品ですから内親王扱いでしょうか。

◆写真:女三宮  風俗博物館


源氏物語を読んできて(東遊び)

2009年07月25日 | Weblog
東遊び(あずまあそび)

 舞楽が唐、高麗の楽により宮廷における宴楽として発達し、華美な所があるのに対し神楽は奈良朝以来の唐楽等の長所をとり入れて、神聖にして格調の高き、高貴にして直截簡明な精神美を求めたもので、人長舞、久米舞、東遊などがある。
 
 この東遊は東国地方の風俗舞であり、一説には安閑天皇[6世紀]の頃、駿河国の有度浜に天女が舞い降りたさまを国人道守が作ったと言われている。
 
 宇多天皇の寛平元年11月賀茂の臨時祭の時に始めて用いられてから神事舞として諸社の祭典に奏られるようになった。
 
 曲は一歌、二歌、駿河歌、求子(もとめご)歌、大比礼(おおひれ)歌からなる一大歌舞組曲で、京都の葵祭で奏されるのが有名である。舞人六人、拍子歌方数人、和琴(わごん)、篳篥(ひちりき)、高麗笛(こまぶえ)の編成で、舞は駿河舞と求子舞の2つで、動きの少ない上品な舞と云える。

◆写真:現在も京都の葵祭で舞われる。下鴨神社での東遊び。6人で舞う。神社により衣裳が違う。


源氏物語を読んできて(455)

2009年07月24日 | Weblog
09.7/24   455回

 三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(9)

折しも季節は十月二十日頃(今の十一月半ば)で、住吉の社は、

「神の斎垣にはふ葛も色変はりて、松の下紅葉など、音にのみ秋を聞かぬ顔なり」
――「ちはやぶる神の斎垣(いかき)にはふ葛も秋にはあへずうつろひにけり」の古歌のように、社の玉垣に這う葛の葉も色づき、松の下草も紅葉して、風の音ばかりでなく、
はっきりと秋の気配です――

 「東遊びの耳慣れたるは、なつかしく面白く、波風の声に響きあひて、さる小高き松風に、吹きたてたる笛の音も、外にて聞く調べには変はりて身にしみ、(……)」
――東遊びの耳慣れた舞楽の音の、なつかしく面白く、浦波や風の音と響き合って、
小高い松風に吹き立てる笛の音は、外で聞く調べとは変わって身にしみて、(所が所だけに、優雅で物寂びてきこえます)――

源氏は、

「昔の事思し出でられ、中ごろ沈み給ひし世の有様も、目の前のやうに思さるるに、その世の事、うち乱れ語り給ふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ、恋しく思ひ聞こえ給ひける」
――昔の事を思い出され、あの須磨明石に流された折りのことも、今目の前のように思い出されますのに、その時代のことを心置きなく語り合う人もいないので、今は職を辞された太政大臣(当時は頭の中将)を恋しく思いやられるのでした。――

 紫の上はいつもご自邸にばかりおいでになり、このような都の外への外出は初めてなので、朝夕の景色を珍しくご覧になるのでした。

 明石の尼君のことを、世間の人々は万事につけて羨ましく思い、話の種となって、幸福な人のことを、「明石の尼君」と言うようになりました。

「かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つときのことばにも、『明石の尼君、明石の尼君』とぞ、賽は乞ひける」
――あの、太政大臣家の近江の君は、双六を打つ時、良い数が出るようにと祈ることばにも、「明石の尼君、明石の尼君」と賽を振っているとか――

◆写真:東遊びの装束 風俗博物館

ではまた。



源氏物語を読んできて(454)

2009年07月23日 | Weblog
09.7/23   454回

三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(8)

 明石の女御は、つぎつぎと御子に恵まれ、ご寵愛も並ぶ者のない御ありさまですし、退位されました冷泉院は、ご自由の身になられて、外出も思いのままにお過ごしです。

 新帝(朱雀院と髭黒の御妹・承香殿女御の皇子)は、御妹宮(母違い)であります女三宮について、特にお心にかけておられます。なにしろ源氏の御寵愛はやはり紫の上を置いて無く、女三宮は及ばないように見受けられますので。

 けれども、紫の上は源氏に、

「今は、かうおほぞうのすまひならで、のどやかにおこなひをもとなむ思ふ。この世はかばかりと、見はてつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべき様に思しゆるしてよ」
――今はもう、このような雑事に取り紛れて過ごすのではなく、静かに仏道の修行(出家)に勤めたいと思います。現世はこの程度のものと分かったような齢になりました。適当にお許しくださいませ――

 と、出家を真面目にお願いになることが度々ありますが、源氏は、

「あるまじく辛き御事なり。みづから深き本意ある事なれど、とまりてさうざうしく覚え給ひ、ある世にかはらむ御有様の、うしろめたさによりこそながらふれ。つひにその事とげなむ後に、ともかくも思しなれ」
――とんでもない、夢にもそんなことをおっしゃってくださるな。私自身、昔から深く出家の志はありながら、あなたが後に残ってはさぞ淋しいでしょう。私の居ない後はどのようなお暮らしをなさろうかと、それが心配で延ばし延ばしにしているのです。私がいよいよ出家した後に、あなたもお好きなようになさい――

と、おっしゃるばかりで、いつもお止めになるのでした。

さて、

源氏は、これまであちらこちらの神社に願い事をしてきましたことが、明石の女御の入内から皇子もご誕生になり、思いが叶う方向に万事が進んでおりますので、そろそろ住吉の神社に、御願解き(がんほどき)の参詣に行かねばと思われるのでした。また明石の入道が明石の御方に願懸け(がんかけ)なさったという願文の願解きも一緒にしようということになりました。この度は紫の上もご一緒にお連れになることになりました。

源氏が御参詣になるという噂はひとかたならぬ騒ぎで、何事も世間の迷惑にならぬようにとの思いも、准太上天皇という御位に対する決まりもありますので、やはりまたとないほどの盛んな行粧となったのでした。

「女御殿、対の上は、ひとつにたてまつりたり。次の御車には、明石の御方、尼君忍びて乗り給へり」
――明石の女御と紫の上はご一緒の車に、次の車には明石の御方と尼君がそっと乗られました――

◆おほぞう=いいかげんな様

◆願解き(がんほどき)=神仏に懸けた願いが叶ったとき、そのお礼まいりをすること。願懸けも願解きにも、大そうな寄進物がなされます。

ではまた。


源氏物語を読んできて(住吉大社)

2009年07月23日 | Weblog
住吉大社

 明石一族が信仰し、澪標巻と若菜下巻の2度に亘って盛大な参詣が描かれる「住吉の御社」は、海と航海の神として古来より瀬戸内海沿岸の海人部の篤い信仰を集めた大社です。当時は波打ち際に鳥居が建ち境内のすぐ傍に舟が漕ぎ寄せる様子が描かれています。
 写真は現在のもの。


源氏物語を読んできて(453)

2009年07月22日 | Weblog
09.7/22   453回

三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(7)

冷泉帝は、

「次の君とならせ給ふべき御子おはしまさず、物の栄なきに、世の中はかなく覚ゆるを、心安く、思ふ人々にも対面し、わたくし様に心をやりて、のどかに過ぎまほしくなむ」
――次の帝となるべき親王が私にはいない。譲るべき御子がいないのは張り合いがなく、命もいつまであるかわからない。心やすらかにして会いたい人に会い、公事を離れて気ままにのんびりと暮したい――

 と、この数年来お考えになり、口にもしていらっしゃったのですが、このところご病気になられて、急に御譲位なさったのでした。二十八歳でいらっしゃいます。今後は冷泉院(れいぜいいん)とお呼びします。
世の人々に惜しまれましたが、東宮(父帝は朱雀院で、御母は髭黒大将の御妹の承香殿女御)がすぐに後を継がれて無難に政治をおこなわれました。御母上の承香殿女御は、すでに亡くなれておりましたので、追贈という形で皇后の御位をいただきましたが、形ばかりになってしまわれました。
新しい東宮には、明石の女御腹の第一皇子が立たれました。そうなるものと思われていましたことが、いよいよこのように東宮におなりになりましたことは、やはり素晴らしい宿世というものです。

太政大臣は辞表を差し出して引き籠られました。
髭黒の大将は右大臣に、
右大将だった夕霧は大納言に昇進されました。

源氏は、

「おり居給ひぬる冷泉院の、御つぎおはしまさぬを、飽かず御心のうちに思す。」
――御譲位なさった冷泉院にお世継のない事を、いかにも残念なことに、お心のうちでは思っていらっしゃる――

「同じ筋なれど、思ひなやましき御事なくて過ぐし給へるばかりに、罪は隠れて、末の世までは、え伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人に宣ひ合はせぬことなれば、いぶせくなむ」
――新東宮も同じく源氏の御血統ですが、やはり冷泉院に対しての御愛情には、格別のものがおありです。この帝のご在位中は煩悶をお現わしになることもなくお過ごしになられましたお陰で、藤壺との深い罪が漏れることなく済みましたが、その代り、末代までは帝位を伝えられない御宿運を、源氏は口惜しくも物足りなくも思っていらっしゃる。けれども他人にご相談できることではないので、お心の晴れようがありません――

◆いぶせく=いぶせし=気持が晴れない。鬱陶しい。

ではまた。


源氏物語を読んできて(452)

2009年07月21日 | Weblog
09.7/21   452回

三十五帖【若菜下(わかな下)の巻】 その(6)

 蛍兵部卿の宮は、亡くなられた北の方の事を今でも恋しく思われておられ、

「ただ昔の御有様に似奉りたらむ人を見むと思しけるに、あしくはあらねど、さまかはりてぞものし給ひにける、と思すに、口惜しくやありけむ、通ひ給ふさまいともの憂げなり」
――ただただ、昔の妻に良く似ている人をと思っておられたところ、真木柱は醜くはないけれど、似てはいらっしゃらないと分かりますと、お気に入られなかったものか、お通いになるのも、もの憂そうにお見えです――

 父宮の式部卿の宮は、まことに心外なことよと歎かれ、母君も正気にかえられる時には、やはり口惜しく、ますます辛い世と歎いておられます。実の父君の髭黒の大将も、このことをお聞きになって、

「さればよ、いたく色めき給へる親王を」
――さもあろう、だから言わない事ではない。たいそう浮気な親王なのだから――

 初めから納得のいかない御縁組でしたので、まったく面白くないと髭黒の大将は思っていらっしゃる。
玉鬘も蛍兵部卿の宮の頼りないご態度を耳にされるにつけ、もしも自分があの方と結婚していたならばどうなっていただろうと、しみじみと昔を思い出しておられます。あの頃、蛍兵部卿の宮から、深い思いで求婚されたのでしたが、そのことが真木柱の耳にでも入ったなら、などと、こちらも気になっていらっしゃる。

 蛍兵部卿の宮にしましても、勢いよく求婚なさりながら、今さらに外聞も悪く、真木柱を棄てるお気持ちはないのですが、あの気の変な意地悪者の母君が、大そう立腹されて、

「親王達は、のどかに二心なくて見給はむをだにこそ、はなやかならぬなぐさめには思ふべけれ」
――宮様という立場の方は、せめて気楽にして、浮気もせずに愛してくださればこそ、華やかな宮仕えに出ないで質素を慰めとして、我慢もできるのに――

 と、文句を散々言い散らしておいでなのを、蛍兵部卿の宮がお聞きになって、「これは異なこと。昔は愛していた妻が居ても、ちょっとした浮気は絶えなかったが、こんな小言は聞かなかったものなのに、気に食わないことを言うものだ」と、ますます気に入らないのですが、こんな有様で、仕方なく、絶え絶えに真木柱の邸に通うこと二年ほどになっておられます。

「はかなく年月もかさなりて、内裏の帝、御位に即かせ給ひて十八年にならせ給ひぬ」
――まあ、こんなふうに、何という事もなく年月が重なって(源氏の年齢から数えて四年を経て)、冷泉帝の御在位も十八年になりました――

ではまた。