ルターは、心が変えられたのに、「正しいこと」に足を救われてしまいましたね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.240の、第1パラグラフの、下から9行目途中から。
ルター自身は、法律を使う習慣のために、聖書の御言葉を、あらゆる種類のこの世的な妥協を正当化する律法にしてしまいました。他のいろんな根本法が、聖書と健全な競争をするようになり、ルターが、自分の意志や意図に反して、世俗化するのに手を貸した、ひとりびとりの様々な「人として正しいこと」を保証することになって初めて、プロテスタンティズムは、もっぱら怯えとは無縁な生き方をすることに役立ちました。でもね、こういった役に立つこともあった一方で、倫理哲学者キルケゴールのような人は、ルターを、キリストやパウロ以来の、最も真実な宗教的人物になるかもしれないと見ていたのに、ルターを許せない、ということもあり得ましたね。
ルターも、矛盾の人でしたね。それはある意味では、スケールが常人の及ぶところではないので、そう「見える」という面ももちろんあったことでしょう。しかし、やっぱり「正しいこと」に足を救われて、信頼を回復した心の在り方とは違うものに囚われてしまった一面があったことは、確かでしょうね。